「提灯の光りにうつしだされた弟のほうは(藤田小四郎、つまり後に天狗党を興して筑波の義挙を決行した)眼の大きな、ひきむすんだ口許のいかにも意志の強そうな、きかぬ気の顔つきだった」
と書かれている。この一文が妙に気になったのだ。
吉村昭の小説は旅の小説である。
『長英逃亡』、『ふおん・しいほるとの娘』、『桜田門外ノ変』など読み終わると脚に筋肉痛が残るような作品が多い。『アメリカ彦蔵』をはじめとした漂流ものも壮大な旅の記録であるし、『蜜蜂乱舞』も現代に舞台が置かれているが、これもまた気の遠くなるような旅の物語である。
『天狗争乱』は水戸藩尊王攘夷派らが挙兵した天狗勢と呼ばれる武装集団が幕府軍の追討を受けながらも京都にいる一橋慶喜のもとをめざす。またしても艱難辛苦の旅である。山道を越え、吹雪を乗り越える。谷底に駄馬が落ちていく。
学生時代、歴史の勉強不足がたたって幕末のことはあまりよくわからない。尊王攘夷といっても当時流行りの考え方くらいの認識しかない(まったく情けない)。しかしながら吉村昭を通じて尊攘派のピュアな側面がよく見えてくる。これは『桜田門外ノ変』の関鉄之介にもいえることだが、水戸藩の尊攘派は純粋で一途なところがある。武田耕雲斎らに導かれた天狗勢はストイックなまでに統率がとれ、規律に忠実に行軍していく。身の引き締まる思いが伝わってくる。読者ばかりでなく、道々の小藩の者たちや行く先々で出会う平民たち、そして最後に対峙する加賀藩士までもがその筋の通った姿勢に共感する。できることなら彼らの望みを叶えさせてやりたいと誰しも思う。
逃亡でもなく、何か物質的な豊かさを求める旅でもなく、ひたすら志を遂げるためのみに前進していく旅。そういう旅って、ちょっとかっこいい。
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