2011年1月30日日曜日

山際淳司『スローカーブを、もう一球』


選抜高校野球の出場校が決まった。
全国10地区から何校か選ばれるわけだから、だいたい昨秋の地区大会の上位校が出場する。その枠内では“選抜”は難しいことではない。議論されるのはたとえば関西地区のように6校を選ばなければならない場合のベスト8ののこり4校から2校を選りすぐるときだろう。京都成章などは僅差で準々決勝敗退だったので評価が高いというわけだ。加古川北も優勝した天理と好ゲームをした点が評価されている。同じようなことが関東にもいえて、ベスト8から前橋育英が選ばれた。
1980年頃の本を読んでみたいと思った。
『Sports Graphic Number』が創刊されたのが1980年。それまでのスポーツ紙の延長線上にあったジャーナリズムとは異質なメディアの誕生だった。スポーツはそれ自体がドラマであると同時にメディアにおいてもドラマになった。
おそらく山際淳司はその先鞭を着けたひとりだろう。
こうして30年の時をへだてて読んでみると当時からすでにスポーツを志す若者たちは“さめていた”んだなと思う。ドライで割りきりのはやい若者たち。おそらくぼくたちもそんな風に生きていたに違いない。
同時代に生きた選手たち(江夏は世代的には上であるが)は今ごろ何をしているのだろう。
1980年頃の本。そこにはなにがしか昭和の残骸が残っているような気がする。
そんなにおいに惹きつけられてやまないのである。

2011年1月25日火曜日

川本三郎『我もまた渚を枕』


このタイトルは島崎藤村作詞「椰子の実」からとったのだという。取材をほとんどせず、ぶらっと訪れ、風景の一部となる、そんな流儀の町歩き記録である。
川本三郎といえば東京町歩きの名人であり、東京のほぼ全域をカバーしているはずだ。しかも膨大な文学作品や映画作品を引き合いに出して、町という時空間を立体的に読み解く、あるいは、歩き解く。
この本は著者がほぼ歩きつくした東京から一歩外へ足を踏み出した近郊の旅の記録である。船橋、鶴見、大宮、本牧と行き先になんの気取りも気負いもない。観光スポットでもなければ名所旧跡でもない。そこがこの本の最大の魅力となっている。基本は著者の東京歩きのスタンスが活きている。遠出するからといって着飾ることもない。
川本三郎の町歩きの基本は町との同化である。「ただ、静かに「昔の町」のなかに、姿を消すこと」(『東京暮らし』)といっているし、本書のあとがきにも「旅とは、日常生活からしばし姿をくらまし、行方不明になること」と書いている。
こういう歩き方はそう簡単にできるものではない。歩いて歩いて歩き抜いてはじめて到達できる境地、というものがそこに感じられる。
ちなみに本書中で強く惹かれた場所は本牧、市川、川崎。
横浜の石川町、根岸界隈は以前から市電保存館を見て、大学の指導教授が住んでいた山元町あたりを歩きたいと思っていた。川崎の海側はかつて実家からいちばん近い野球場としてなんども通った川崎球場があるあたり。市川はいわずと知れた永井荷風の晩年の町。
鶴見線も以前全線乗りつぶしたことがあるが、町歩きという視点でもういちど訪ねてみたい。

2011年1月23日日曜日

川本三郎『東京暮らし』


今日、全日本卓球選手権を観戦に行った。会場は千駄ヶ谷東京体育館。
男子ダブルスと女子シングルスの決勝が行われた。男子シングルスは6回戦が終わり、ベスト8が出そろった。笠原、岸川、高木和卓、張、丹羽、松平賢、水谷、吉田。韓陽、松平健らがベスト16で終わった。準決勝、決勝を観ておもしろいのは当然だが、一般市民として観て楽しいのはやはりベスト32~8あたりだろう。
明日は準々決勝~決勝が行われる。
去年の暮れ、図書館に永井荷風全集の一冊を返しに行った。
永井荷風は『濹東綺譚(ぼくとうきだん)』ともう何編か読みたかったのだが、12月のあわただしさにかまけて、結局一編しか読めなかった。幸田文全集も借りたけれど、これはまったくの手付かずのまま返した。年末にむけてますます本を読む時間はなかろうと思って帰ろうとしたそのとき目の中に飛び込んできたのが、川本三郎の本だった。
川本三郎の本をさほど多くは読んでいなかったが、どことなく波長が合いそうな気がしていたし、時間がなくてもこの本は“ベツバラ”かと思い借りてしまった。
結論からいえば、借りるんじゃなかった、買えばよかったと思っている。
先に読んだ『きのふの東京、けふの東京』に比べると、町歩きや映画のことだけでなく、著者の日常なども描写されていて興味深い一冊だ。それに失われていくものに対する思いが忌憚なく語られていて好感の持てる本である。
しばらく川本ワールドにはまりそうな気がする。

2011年1月19日水曜日

幸田文『流れる』


東京の昭和をふりかえる際、必ずといっていいくらい言及されるのが幸田文の『流れる』である。
この小説は成瀬巳喜男の手によって映画化され、フィルムに焼きつけられた古きよき東京の風景とともに多くの人の記憶にとどまっている。川本三郎しかり、関川夏央しかり。
多くの論者の言を待つまでもなく舞台は東京柳橋。神田川が隅田川に流れ込むあたりでJR浅草橋駅に程近い。かつては新橋とならぶ東京の花街であった。蔦屋という置屋で働きはじめた女中の目を通してみたくろうとの世界がいわば、“家政婦は見た”的なしろうと視点で語られる。
そしてこの小説はくろうと、しろうとのヴァーサスな関係意外にも置屋の主人一家と看板借り芸者、下町と山の手、凋落と繁栄など多面的な対立的構図から成る。主人公はしろうと視点の立場でありながら、ある意味、中立的に、その存在感を強く顕示することなく生きていく。
映画の『流れる』は田中絹代、杉村春子、山田五十鈴、岡田茉莉子、栗島すみ子らそうそうたるキャストである。関川夏央は『家族の昭和』で栗島すみ子が昭和62年、85歳で、幸田文が平成2年、86歳で他界したことに言及し、次のように語る。

  彼女たちの死とともに、大正・昭和戦前という懐かしい時代は、その時代の
  家族像と花柳界の記憶を浮かべて満々たる隅田川の水のごとく、橋の下を
  流れ去った。

『流れる』、近々ぜひ観てみたいものである。

2011年1月15日土曜日

町田忍『東京ディープ散歩』


卓球の師匠Tさんが引越すという。
Tさんはうちの近所で酒屋を営んでいる。そのかたわら区の卓球連盟の役員をされている。世代的には荻村伊知朗と長谷川信彦の中間の世代でまさに卓球ニッポン全盛期の人である。全日本や国体の出場経験もある。根っから明るい人柄で初心者にも懇切丁寧に指導してくれる。
話を聞くと奥さんの実家が長野で幼稚園を経営していて、高齢のお義父さんの手伝いがてら同居を決めたのだと。もちろん大学時代の後輩が長野の連盟にいるので卓球の仕事も続けたいという。
Tさんにはじめて教わったのが一昨年の夏。月にいちどの一般開放日のアドバイザーとして練習を見てくれるだけなのでさほど多くの時間をかけて指導されたわけではないが、長年ラケットを振っているだけあって、ひと目で弱点を見抜いて、ポイントポイントを集中的に教えてくれる。昔話もまた楽しい(これが少々長いのだ)。
引越してしまうのは寂しいものだが、Tさんは今中学1年生のお孫さんがインターハイに出場するのを楽しみにしている(Tさんも、Tさんの娘さんもインターハイに出場している)。いずれ応援に足繁く東京に通ってくるんじゃないだろうか。そんな気もしている。
1500円の本を神保町で350円で売っていた。それも古書でもなさそう。たいした本ではないだろうと高をくくって開いてみると写真もいいし、この350円はいい!と思って買ってみた。
まだまだディープな東京はたくさんあるんだろうが、ディープ入門としてはなかなか結構な一冊である。

2011年1月12日水曜日

日本経済新聞社編『日本経済新聞の読み方』


日曜日、十条界隈を散策した。
昔、山手線池袋と京浜東北線赤羽を結ぶ赤羽線という路線があって、山手線の電車が黄色からうぐいす色になったあとも黄色の101系電車が走っていた。十条はそのなかの一駅である。今では埼京線と名前を変え、埼玉以北と副都心さらには湘南につながる重要な路線だ。おそらく埼玉県内の埼京線の駅はたとえば戸田公園あたりはぴかぴかの新駅という気がする。それにくらべると十条駅は古くさいローカル線の駅のままである。
駅の北には十条銀座という商店街が東西に延びていて、昔ながらの商店がならび、演芸場もある。少し裏路地に入ると、木造モルタルのアパートがまだ多く残っている。質素な町並みだ。
しばらく行くと北区中央図書館がある。ここは通称赤レンガ図書館。1919年に建てられた旧東京第一陸軍造兵廠十条工場だった建造物を利用してつくられている。王子、滝野川は明治の昔から軍関係の工場が多かった地域である。
社会科学というものに興味を持てないままおとなになってしまった。
大学の一般教養の授業で経済学、社会学、法学のどれかをとらなければならなくて、結局何を選択したのかさえ憶えていない。歴史とか地理とかに比較するととても複雑な構造物のような気がするのだ。
そういった意味ではぼくにとって、日本経済新聞はふつうに生活しているぶんには一向に無関係なメディアである。分厚く、文字数が多く(新書2冊ぶんあるという)、おそらく自らすすんで読むことはないと思うが、この本のようなガイドがあると読まなければいけないんじゃないかというに気にさせられる。
十条は埼京線より赤羽線が似合う町だ。

2011年1月8日土曜日

山本直人『電通とリクルート』


春高バレーが東京体育館で開催されている。
昨年までは、野球でいえば選抜高校野球のような、3年生引退後の新人チームによる大会だったが、今年から3年生の最後の試合として位置付けられた。いってみれば、高校サッカー、高校ラグビー的な大会だ。
昔はバレーボールをしていたこともあって、よく観戦に行った。
30数年前、東京で強かったのは東洋、駒大高、早実、明大中野あたりで、それ以前は中大付の全盛時代もあった。中大付から全日本入りした選手が多かったことを憶えている。また東洋は学校も近かったせいもあるが、当時日体大OBの監督が赴任して突如として強くなったチームで印象深い。
久しぶりに東京体育館に足を運ぶのも悪くないなと思っていたが、年明け早々仕事が少したて込んできた。今年の東京代表は駿台学園と東亜学園だそうだが(東洋は前年度優勝校で出場)、どうなったのだろう(やはり昔ほど関心は高くない)。
タイトルからして電通とリクルートのビジネスモデル比較を論じた本だと思っていたが、期待はいいほうに裏切られた。
今日的な広告ビジネスの根源を安定成長期以降の1980年代に求め、インターネット広告時代の先鞭をつけたリクルートと既存のビジネスモデルを堅持しながら、変化に対応していく電通とを対比しながら、20世紀末広告史を興味深く展開する力作だ。歴史が近現代史ほどおもしろいのと同様、広告史も最近の話のほうが圧倒的におもしろい。
この本はぼくにとって妙にリアルでなつかしい、70~80年代を起源とする広告現代史といっていい。

2011年1月4日火曜日

川本三郎『きのふの東京、けふの東京』


正月の朝、餅を焼くのが子どもたちの仕事だった。
当時うちには練炭火鉢があって、そこに金網をのせて雑煮の餅を焼く。姉とふたりで。餅のふくらむのがなぜだかうれしいのは今も昔も変わらない。焼いた餅は小鍋に新聞紙をしいて、そのなかに入れておく。
父は雑煮のつゆのなかで餅を煮込んでどろどろにして食べる。ぼくと母親は硬めの餅が好きで、椀に餅を入れてつゆをかける。物心ついてはじめて千葉の父の実家で正月を迎えたとき、祖母がやはりどろどろの雑煮を食べていた。親子は煮る、ではなく、似るものだと思った。
鶏肉の入ったしょうゆだしの雑煮。実はぼくがあまり鶏肉を得意としていないので最近ではさといも、大根、小松菜など野菜だけのつゆである。それはそれでうまいが、物足りなくもある。
姉が京都に嫁いで、白味噌仕立ての丸餅の雑煮をはじめて見たとき、絶句したという。その何年かのち、実家で正月を迎えたとき、わが家の雑煮をうれしそうにほおばっていた。
川本三郎はもとは記者だったっというが、こなれた文章を読むとそのことがわかる。
また記者出身ということがどう影響しているかわからないが、少なくとも足で記事を書くタイプの人であろう。もちろん町歩きに特化した作家であるわけではない。川本三郎を最初に読んだのは『映画のランニングキャッチ』という本だった。映画評論も明快でおもしろい。まるで映画を歩いたみたいに。
近頃下町歩きに興味を持っている。今のような歩き方ではいけない。居酒屋だけをチェックするような歩き方はよくない。生半可な姿勢で歩いてはいけない。そう思った。

2011年1月1日土曜日

国木田独歩『武蔵野』


謹賀新年。

小学校の校歌が“みやこのまみなみ むさしのの”という歌い出しだったのを憶えている。
ぼくが生まれ育った品川はいわゆる東京ではなく、郊外の武蔵野だったのだろう。渋谷あたりもかつては武蔵野だったという。昔の区部はほぼJR山手線の内側と考えていい。
そう考えてみると武蔵野は広かった。なんとなくイメージしていた武蔵野は西荻から先、調布、府中、小平あたりまでで、そこから西南は多摩ではないかと思っていた。JR武蔵野線は西国分寺から新座、浦和、越谷、三郷、松戸を経て船橋の方までつながっている。この沿線を武蔵野、つまり旧東京の周縁部を武蔵野と呼ぶならば、それは相当広い範囲と言える。東北や北海道が土地として広いのと同様、未知なる土地は大きくくくられるのであろう。東京は自然豊かな未知なる田園に囲まれていたわけで、ぼくもその“むさしの”の出身なのだ。
国木田独歩といえば『武蔵野』が代表作であり、叙情豊かに武蔵野の自然とそれを愛する独歩の思いが綴られているが、むしろそれ以外の珠玉の短編に出会えたことのほうが、この本を読んだ意義としては大きい。「わかれ」、「置土産」、「源叔父」、「河霧」など泣かせる秀作がそろった短編集である。

というわけで今年も本読みブログはじめます。本年も引き続きよろしくお願いいたします。

2010年12月28日火曜日

今年の3冊2010


先週、川崎という町を訪ねた。
川崎は「街」というより「町」な感じがする。その熱狂振りはカワーニョさんのブログに紹介されているのでそちらを参考にしてほしい。丸大ホールで熱燗をのんで、つまむ、というより、ガッツリ食べた。草食系でもなく、肉食系でもなく、定食系の忘年会だった。
さて、世にある評論家のごとく今年の3冊などと生意気なことを許していただくとして、心に残った本を別記事で記しておこうと思う。

安岡章太郎『僕の昭和史』
大正末に生まれ、昭和とともに歩いてきたぐーたら作家の代表格による独自の昭和史。戦争を庶民の目線でとらえた貴重な資料だと思う。すでに新潮文庫のリストからはずされているが、神保町の三省堂書店で手に入ったのも幸運だった。

高村薫『レディ・ジョーカー』
ビール会社に限らず大企業、それも出世をめざす人、警察官をめざす人、そしてジャーナリストをめざす人は絶対読むべき本だ。大森山王から海岸側の産業通り、さらには糀谷、萩中、羽田あたりの風情を味わう散策ガイドとしてもすぐれている。

関川夏央『家族の昭和』
ぼくの関川体験は『砂のように眠る』からである。ここのところ昭和探索を続けているが、その原点はこの本にあるといえる。その関川夏央がまた新たな切り口で昭和を見せてくれた。向田邦子、幸田文などここからインスパイアされる本は数知れず。

そんなわけで2010年のブログはこれでおしまい。
一年間立ち寄ってくださった皆さんに感謝します。
よいお年をお迎えください。

2010年12月24日金曜日

永井荷風『濹東綺譚(ぼくとうきだん)』


このあいだの日曜日、卓球仲間の忘年会があった。
いつしか体育館で知り合い、毎週日曜日(場合によっては祝祭日、土曜日)に集まっては練習をするようになった。中学・高校時代に部活経験のある人もいるので、毎回ただ漠然と打ち合うのではなく、それなりにシステマティックな練習も採り入れている。そんな仲間たちと酒をのんだというわけだ。
のんで話し出せばきりがない。卓球の話はもちろんのこと、他のスポーツの話、各自の出身のこととか、食べ物の話などなど。年齢的にも40~60台だから共通する話題もあれば、かみあわない話もある。で、話は結局、卓球のことに戻るわけだ。
生ビールをのんで、焼酎をのんで。それから後のことはあまり憶えていない。翌日は立派な二日酔いになっていた。
永井荷風は『ふらんす物語』以来だ。
一般にこの小説は東京向島の往時を偲ぶ名作と評されている。ごたぶんにもれず、ぼくもそのような視点から読んでいる。グーグルマップで東向島駅周辺を表示し、あ、これはこの界隈だな、などとひとりごちながら読んだのである。
青梅街道の荻窪辺りに天沼陸橋というJR中央線をまたぐ橋がある。天気のいい日にはここから遠くスカイツリーを見渡せる。ふむふむ、あの辺が向島だな、などと思いながら、休日に散歩する。スカイツリーができあがってしまえば、おそらく街の風景はもちろん、その空気みたいなものも変わってしまうだろう。浅草から曳舟、千住。さらに荒川を渡って立石。いったいこの辺りはどうなってしまうのだろう。
大きな変貌をとげる前に東向島(当時の名前でいえば玉の井)を散歩してみたいものだ。

2010年12月21日火曜日

吉野源三郎『君たちはどう生きるか』

Ticket
今月のはじめにACC(全日本シーエム放送連盟)の主催するコマーシャル博覧会というイベントに行ってきた。
コンテンツは著名なクリエーターによる講演や今年のCMフェスティバルの入選作品、日本の名作CM選、海外クリエーターのドキュメントフィルムなどの上映である。
ぼくはそのなかで「杉山登志作品集」と「もう一度みたい日本のCM50年」、そして映画「Art&Copy」を観た。杉山登志はかつて資生堂のCMなどでコマーシャルの世界を席巻した天才CMディレクターであり、今の時代からみればその映像の見た目はそれなりに古びてきてはいるが、随所に当時としては大胆な手法を取り入れてきたその手腕に感心させられる。「Art&Copy」はここ何年かで世界的に注目を浴びたCMの制作者にスポットをあてたドキュメンタリー。すぐれたクリエーターというものはすぐれた言葉を吐くものだ。
で、実はいちばん楽しみにしていたのが「もう一度みたい日本のCM50年」だった。
結論からいうとこれはぼくの期待に応えていなかった。それはかつてACCで表彰された秀作のリールであり、この業界にいるものなら誰も知っている、見たことのあるお手本集だった。そうじゃないんだ、ぼくが観たかったのはぼくが子どもの頃なんども視て、記憶にとどめていた昭和の普段着のCMなのだ。「ほほいのほいでもう一杯ワタナベのジュースの素ですもう一杯」とか「ハヤシもあるでよ」とか「うれしいとめがねが落ちるんですよ」なのだ。
『君たちはどう生きるか』、これも関川夏央からインスパイアされた一冊。
もともと健全な青少年を育成するタイプの本だけに今さら読むのはどうだかなあと思っていたんだが、これはむしろうす汚れてしまった大人こそが読むべき本であろう。デジタル化されて、斜に構えた今どきの子どもたちになんか読んでほしくない。
世の中に、人生にくたびれ果てたおじさんたちにさわやかな一陣の風を送り込む、そんな本である。


2010年12月17日金曜日

小林信彦『昭和の東京、平成の東京』


12月になって、暖かい日があり、寒い日もある。寒いといっても今のところ超一級の寒波の到来はなく、気圧配置が冬型になると北西風が強くなり、空気が乾くが、それも一時のことで気温は平年並みだったりする。
ついこのあいだまで暑くて暑くてどうしようもなかったのが信じられないくらいだ。特に休日の体育館でそのことを痛感する。少しラリーをするだけでじゅうぶん汗をかけた夏場と違って、この時期はなかなか身体があたたまらない。準備運動も夏場より入念に行う必要がある。休憩するにしても上着を着るとか、トレーニングパンツをはくなどしないとあっという間に冷え切ってしまう。
ここのところ3球目攻撃、5球目攻撃、7球目攻撃といったパターン練習を繰り返している。基本練習であり、実戦的な練習でもある。もっと新しいパターンを試してみてもいいと思うのだが、新しいことより、今やっている基本練習の精度を上げていくほうが大切な気がしている。一応、それなりに緊張感を保ちながら、反復しようと心がけてはいる。
筆者小林信彦の生まれた現在でいう東日本橋あたりはかつて両国と呼ばれていたそうだ。
両国というとぼくのように両親が房総半島の出身だったりすると両国駅をすぐに連想する。かつて房総の玄関であった両国駅である。そんなわけで隅田川の西側が両国というのは少々違和感があるのだが、隅田川をはさむ地名、ゆえに両国なのだという。その後、川の向こう側だけが両国と呼ばれるようになったらしい。
浅草橋駅の近く、神田川が隅田川に合流するところに柳橋という緑色に塗られた小さな橋がかかっているが、それを渡ると住所は東日本橋となる。大きな通りに出ると左手に両国橋が見える。
昭和から平成へ。下町に生まれた筆者の思慕を随所に読みとれるすぐれた随想である。

2010年12月15日水曜日

朝倉かすみ『田村はまだか』


このブログに対して、いろいろアドバイスをいただくことが少なからずある。
たとえば、もっと写真とか画像を入れてみたらどうかとか、文章量を減らしたり、行間をあけたりして読みやすくしてはどうかとか、著者名、書名だけでなく出版社とか発行年とかも入れてくださいとか。ぼくも映画評論をするイラストレーターよろしく、名場面を絵にしたらどうかと考えたこともある。絵を描くことはある意味ぼくの職業でもあるのだが、絵を描くだけが仕事ではないのでちょっと負荷がかかりすぎる。まあたまにならいいかもしれないけど。
まことにありがたいサジェスチョンの数々ではあります。そのうちにいくつかは実現していきたいと思っています。
あと、もっと本のことを書いてください、なんて方もいるんですけど、まあこのブログはぼくの個人的な備忘録的な意味合いもあり(それがほぼすべて?)、もちろん読みやすく、読む人すべてにわかりやすく、ためになることをめざしたいとは思うのですが、今は自分のことだけで精一杯なのです。
それでもこのブログを読んで、同じ本を読みました、なんて言われるとちょっとうれしかったりする。
この本はイラストレーター井筒啓之の装丁が気に入って読んでみた。最近文庫化されたようだが、ぼくはたまたま図書館で単行本を見かけたのでそちらのほうを読んだ(たぶん内容的に異なるところはないはずだ)。
後半にやってくる事件がちょっと劇的すぎると思うが、こんなストーリーを映画化したらそこそこヒットするんじゃないかな。アラフォーには受けるかも。
キャストを考えるだけでもちょっと楽しい。

2010年12月12日日曜日

佐藤達郎『教えて!カンヌ国際広告祭』

先日久しぶりに高田馬場から早稲田界隈を散策した。
ツイッターで知り合った下町探険隊に加わったのだ。探険隊のメンバーはすでに立石だの向島だの三ノ輪だの方々を歩いているつわものばかり。たまたまぼくが以前、20台の最後の歳から5年近く早稲田に住んでいたということで仲間入りしたわけだ。
夕刻高田馬場ビッグボックス前で待ち合わせして、早稲田松竹や今は廃屋となっている名曲喫茶らんぶるを見て、古書店街を歩き、早稲田大学構内へ。大隈講堂前で後発のメンバーと合流。隊長Kさんの母校であるなつかしの文学部校舎へ。Kさんは卒業以来だとしみじみした様子。
お腹も空いたので馬場下町のキッチンオトボケで思い思いの夕食。やはり一番人気はじゃんじゃん焼き定食。K隊長の説明によれば、ジンジャー焼き、要は生姜焼きがなまったものだろうとのこと。ビールを飲みながら時間をかけて完食した。とにかくみんなお腹がいっぱいなのでとりあえずどこかでお茶でも飲もうと喫茶店に入る。
ここからがまるで学生ノリ。尽きない話で盛り上がり気がつけば夜の10時。じゃ、そろそろってことで解散となった。学生街に迷い込んだ大人がすっかり学生気分になってしまったわけだ。K隊長いわく、「学生に戻りたいな。学生に戻れたら、こんどはちゃんと勉強するぞ」
佐藤達郎は2004年のカンヌ国際広告祭フィルム部門の日本代表審査員である。よくよく考えればこの年、ぼくはこの広告祭に参加しているのである。著者が審査会場で浴びるようにフィルムを観て、とめどない議論を積み重ねているとき、ぼくは会場をあちこちはしごしながらエントリー作品を観ていたのだ。
そういうこともあって妙になつかしい気分になった。筆者の思いは広告制作者たちに向けた新しい時代の広告の模索であるはずなのに。もちろんそれはそれで勉強になる一冊だ。
その一方でぼくはなつかしいものが好きなのだ。

2010年12月8日水曜日

小林信彦『怪物がめざめる夜』

先週また野毛に行ってしまった。
ぼくが十数年前に辞めた会社の後輩だったKに会ったのだ。Kはしばらく仙台にいて(ぼくがいた頃はまだ会社は小さく、その後合併して支社ができた)、今年になって横浜支社勤務を命ぜられた。
四日市出身で中学の頃上京。それ以降しばらく東京に落ち着いていた。もともと野球はドランゴンズ、ラグビーは明治、競馬は藤田伸二と一度決めたら応援し倒すタイプであるが、仙台時代は楽天も応援するようになり、東北の祭という祭も見てまわったという。頑固一徹ではない人なつっこさも持っている。
声の大きいやつに悪いやつはいないというらしいが、まさにそんなキャラクターだ。行った先、行った先でしっかり根を生やし、地元に親身に溶け込んできたことが話の端々にうかがえる。横浜はまだまだ初心者だと謙遜しているが、なかなかどうして、野毛や山手あたりのいい店にはかなり精通している感がある。
そんなわけで先週はたいへん混み合う焼鳥屋から都橋の風情のあるスナックをめぐり、最後は地元で人気の中華へ。サンマー麺、餃子、紹興酒が締めの3点セット!と高らかに声をあげるKはすっかりハマっ子のようである。
伊集院光が深夜ラジオで言及していたのがこの本。
ありえそうでありえない話より、ありえなさそうだけどありえるかもしれない話のほうが物語としては断然面白い。
この本はもちろん後者だ。20年近く昔に書かれた小説なのにきわめてありえそうな予感のする恐怖小説だ。もちろん10~20代の若者を虜にするカリスマというキャラクターが現代的かどうかというのは別として。

2010年12月5日日曜日

千尋『赤羽キャバレー物語』

キャバレーと呼ばれるところに行ったことがない。
以前勤めていた会社の近くに「白いばら」というキャバレーがあり、社長はよく通っていたという。行ったことがないので勝手なことしか言えないけれどホステスさんが大勢いて、ショウがあって、ダンスをしたりする昭和の社交場というイメージが浮かぶ。先の社長もダンスが大好きな人だった。
ぼくは近ごろ(今にはじまった話ではないのだが)、“昭和”に凝っている。古い居酒屋や情緒のあるスナック、さらにはこれらのお店が息づいている風情ある街を歩いてみたいと思っている。
毎日新聞の夕刊、たしか毎週土曜日だと思うが、東京すみずみ歩きという川本三郎のコラムがあり、古き良き東京に独自の視点を投げかけている。そこで紹介された赤羽の町がこの本を読むきっかけになった。記事では司修の『赤羽モンマルトル』とこの『赤羽キャバレー物語』が紹介されている。『赤羽モンマルトル』は現在捜索中である。
著者の千尋は紆余曲折の人生を経て(おそらくこの本に書かれている以上に紆余曲折があったんじゃないかと思う)、川口、赤羽でホステスとして生きる。この本は彼女のホステスの日々を率直に綴ったもので読みすすめればすすめるほどに味が出る。ホステスという職業が主役なのでなく、つまり接客業という狭義のエピソードではなく、人間対人間の、思いやりだとかコミュニケーションのあり方が語られているのだ。
ひとりの人間がひとつの職業を、生涯を通じて全うするためには単に資質だけではなく、日々努力研鑽する姿勢がなによりも大切なのだと大げさではなくそう思った。

2010年12月2日木曜日

村松友視『黒い花びら』

水原弘といえば、昭和40年代少年の世代には「ハイアース」のホーロー看板である。アクの強い視線を街中に投げかけながら、商品を手にうっすら笑っている和装の水原弘(にっこり笑っているバージョンもあったっけ)。今でもぼくの両親の実家がある千葉の白浜や千倉では目にすることができる。
新進気鋭の永六輔、中村八大と組んだデビュー曲「黒い花びら」は第一回の日本レコード大賞受賞曲。まさに一瞬にしてスターダムにのし上がった男だ。その後大ヒットから遠ざかり、酒におぼれ、借金をかかえ、博打に手を染め、破滅の道を歩んでいく。そして再起をかけ、川内康範、猪俣公章コンビによる「君こそわが命」で劇的なカムバックを遂げる。おそらくぼくらの世代がリアルに見た水原弘はこの曲からだろう。が、水原弘は多くの協力者たちを尻目にさらなる破滅の道を選んでいく。
それにしても村松友視という人はおかしなところに目を向ける作家である。トニー谷しかり、力道山しかり、大井町の骨董屋しかり。アウトローを追いかけているのではなく、一般人とアウトローの境界あたりにいる人を描くのが巧みだ。水原弘は世間一般の価値観である“昼の論理”で見てはいけないと筆者はいう。天文学的数字にまでふくれあがった借金をかかえ、破滅に向かって血を吐くまでステージに立ち続ける“夜の論理”に生きた男である。それでいて家族に向ける、不思議にやさしいまなざし。
フランス映画にあるような、貧困の時代からスターダムへのし上がり、そして放蕩から破滅に向かうヒロインが奇跡的なカムバックをとげたにもかかわらず、その後世間から敵視され、不遇な晩年、そして悲惨な死を遂げる、そんなドラマティックな生涯がぼくたちが少年時代に親しんだホーロー看板の向こう側にあったなんて。
なかなかの力作である。

2010年11月28日日曜日

向田邦子『父の詫び状』

週末卓球を練習しに行くとき、かつての向田家の近くを通る。
向田邦子の家は荻窪駅から徒歩20分くらいの杉並区本天沼にあった。当時向田邦子は港区のマンション住まいだったから住んでいたのは向田家の人々ということになる。
荻窪とか阿佐ヶ谷あたりは作家が多く住んでいた地域で井伏鱒二、太宰治、青柳瑞穂などなど枚挙に暇なしってところだ。井伏鱒二の家はいまでも文学者然とした風貌で残っている。
先日杉並区立郷土資料館分室で『田河水泡の杉並時代』という展示を見た。
田河水泡は本名高見澤仲太郎というらしい。ペンネームの田河水泡はたがわすいほうと読むんじゃなくて、“たがわみずあわ”と読ませたかったそうだ。タガワミズアワ、転じてタカミザワ。創作する人はおもしろいことを考えるものだ。義兄が小林秀雄だったというのも知らなかった。世の中は知らなかったことに満ち満ちている。
向田家の人々を描いた『父の詫び状』は関川夏央にインスパイアされた一冊。昭和の家族像を綴った秀逸のエッセーである。語り手の向田邦子もさることながら、父母、きょうだいが幾度となく登場するなかでひときわ輝いているキャラクターは癇性の強さは父親譲りだと向田邦子も語っている父だろう。まさに寺内貫太郎のような人だ。
ぼくの父より年下で母より年上の向田邦子であるが、「おみおつけ」をはじめとしてボキャブラリーが昭和なのもうれしかった。
そしていつしかぼくは向田邦子が亡くなった歳を越えていた。





2010年11月24日水曜日

孫正義vs.佐々木俊尚『決闘ネット「光の道」革命』

音楽プロデューサーM君夫妻と卓球をした。
M君は中学高校と卓球部で鍛えたつわものであり、その奥さんもPTAなどの大会で華々しい成績をおさめている。先日飲みながら、久しぶりに打ちますかってことになって、昨日午後、荻窪のクニヒロ卓球で練習とゲームを行った。
ぼくのラケットは中国式ペンホルダーグリップで、ふだん練習している仲間たちもペンホルダーが多い。シェークハンドグリップの人もその中にいるにはいるが、まだまだ発展途上の人ばかりである。そういった点からするとシェークの上級者と練習できたのは大きな収穫だ。
ペンホルダーは一般にバックハンドが難しい。ラケットのフォア面を右利きの人ならば自分の左側にまわして打たなければならないからだ。その点シェークハンドはバック面にもラバーが貼ってあり、ラケットを裏返すだけでバック側の打球に対応できる。日頃、ペン相手に練習をしていると強打しにくい難しいボールは相手のバック側に返すことが多い。相手もつないでくることが多いのでチャンスボールの生まれる可能性が高くなる。ところが相手がシェークだとよほどコントロールよく返球しないと、振り抜きやすいバックハンドから痛打をくらう。ドライブに精度が求められるのだ。
孫正義の「光の道」構想がマスコミを賑わせている。天下国家日本の未来を憂い、熱いビジョンを語れる数少ない実業家だ。
この本はユーストリームなどで配信された5時間にわたる激論をまとめたもので読みごたえじゅうぶん。対決図式で興味を煽っているが、実は両者がそれぞれの主張を補完し合っていて、書物として言いたいことが明快だ。
ところでゲームは週5回の練習量をほこるM君夫人には完敗。今まで手も足も出なかったM君とは互角にわたりあえるようになった。日頃の練習の成果と認識し、今後も精進していきたい。

2010年11月21日日曜日

関川夏央『家族の昭和』

明治神宮野球大会が終わった。
野球が終わると秋も終わりだ。いよいよウィンタースポーツの季節がはじまる(とはいっても中国広州ではアジア競技大会で連日盛り上がっているが)。
明治神宮大会は高校の新チームによる最初の全国大会である。今年は東京の日大三が投打のかみ合った試合で優勝した。この大会に出場する10チームと地区予選で準優勝した10チームは間違いなく春の選抜に出場する。さらにこの大会の優勝校の地区からは“神宮枠”というもうひと枠が与えられる。都大会準決勝で日大三に大敗した都立昭和にも選抜のチャンスが生まれたということだ。
大学の部は斎藤、大石、福井のドラフト1位指名の3投手を擁する早稲田が初優勝。これが初というのが意外な感じがした。決勝の東海大戦は中盤逆転し、最少得点差を福井-大石-斎藤のリーグ戦では見られない豪華リレーで守りきった。それにしても打てない早稲田。来季からどう戦うのだろうか。土生、市丸、松本ら3年生と杉山、地引ら2年生は残るとして経験のない投手陣に不安が残る。春の主役は伊藤、竹内大らが残る慶應、野村、森田、難波ら投手王国となる明治、三嶋が加賀美の抜けた穴を埋めるであろう法政ではあるまいか。
関川夏央の読み解く昭和が好きだ。
この本では文芸作品(小説、随筆だけでなく映画、ドラマも含めて)をベースに昭和的家族の成り立ちから崩壊までをドラマティックに紡いでいる。戦後のいわゆる昭和的家族像はすで戦前、戦中に成立していた。ただ戦後という時代が戦前、戦中の否定から成り立っていたため見過ごされてきたというのだ。筆者以上の昭和の語り部はそう多くはいないだろう。

2010年11月18日木曜日

村松友視『時代屋の女房』

このあいだ免許の更新に都庁まで出向いたのだが、昔は鮫洲か府中でしか更新ができなかった時代に比べるとなんと便利になったものか。便利の裏側にはなにかが犠牲になっている。品川の大井町に生まれ育ったぼくにとっては鮫洲という街との接点を失ったのがなんとしても大きい。
鮫洲から南へ行くと立会川という京急の駅があり、大井競馬場の最寄り駅になっている。さらに南下すると鈴ヶ森の刑場跡がある。小学校の区内見学では品川火力発電所から鈴ヶ森というのは定番ルートだった。もっと南に行くと第一京浜国道が産業道路と分岐する。その扇の要には大森警察署があり、『レディジョーカー』でおなじみだ。「時代屋の女房」とともに収められている「泪橋」はこの立会川界隈が舞台となっている。
立会川から京浜東北線のガードをくぐり、池上通りを右折すると三叉(みつまた)商店街という、大井町では東急大井町線沿いに連なる権現町と並ぶ商店街があった。最近はとんと歩いていないので今はどうなっているのか。昔の町名でいうと倉田町だったと思う。
この小説に出てくるクリーニング屋の今井さんは横須賀線の踏切近くに店をかまえていたようだが、時代屋からはかなりの距離がある。横須賀線は以前貨物線で品鶴(ひんかく)線と呼ばれ、ぼくの通った小学校のどの教室からも眺めることができた。EH10という重量級の電気機関車が大量の貨物を引いて走っていた。踏切をわたると伊藤博文の公墓がある。さすがこれは昔のままだろう。
「時代屋の女房」も「泪橋」もアウトローになりきれなかった半端な男たちが主人公である。そういった意味ではリアルで哀しい物語である。
時代屋のあった場所は今は駐車場になっているらしい。

2010年11月14日日曜日

フョードル・ドストエフスキー『地下室の手記』

フォアハンドが苦手だった。
と書いてみると、バックハンドが得意なのか、これまで苦手だったフォアハンドを克服して今では得意なのかと誤解をまねく表現ではあるが、要は卓球の基本技術であるフォア打ちが弱かった、あるいは多少の改善のきざしはあるが、弱い。と、まあそういう意味である。卓球をなさらない方にはフォアが弱いといってもイメージしにくいかも知れない。野球でいうとキャッチボールが弱いとか、サッカーでいえばパスが下手、みたいなことかも知れない。
これは自覚症状もあり、また多くの人から指摘されていた課題であった。とはいえ、いちばんベースとなる技術だけにどう克服していけばいいのかが難しい課題でもあった。
夏の終わりから秋にかけて(といっても今年はしばらくずっと暑かったのでどこに線をひけばいいのかわかりにくいが)中級から上級クラスの方とスマッシュ練習に取り組んでみた。スマッシュ、ロビング、スマッシュ、ロビングとつながる限り相手コートに強いボールを叩き込むのだ。5分もやれば、汗びっしょり、大腿筋は痛くなるし、三角筋やら広背筋やらくわしいことは知らないがとにかく筋肉が痛くなる。そんな練習をなんどか繰り返しているうちにいつしか強い打球が打てるようになっていた。もちろんまだまだ不安定ではあるに違いないが、今までより格段といいボールが出るようになった。
また野球のティーバッティングのように目の前でボールをワンバウンドさせそれを強打する練習もやってみた。できるだけ強く、スイングは小さく速く、打球の方向を安定させるようにターゲット(ペットボトルなど)を置いて。そうこうするうちにフォアが強くなった。
案外頭で悩んでいるより、やってみたほうがはやい、ということがスポーツには往々にしてあるものだ。
さて、この本は自意識過剰の青年の独白である。哲学的というか病的というか、特に第一部は抽象的で難解。主人公の“俺”はどことなくサリンジャーの『ライ麦』の主人公みたいだと思った。ホールデン・コールフィールド、だっけ。
この作品には後に続く大作のプロトタイプ的なエピソードや登場人物が見てとれるという。それはなんとなくわかるような気がする。

2010年11月9日火曜日

須田和博『使ってもらえる広告』

先週、横浜の野毛で飲んだ。
昭和さがしの旅をテーマに東京下町をはじめ、散策しては酒を飲んでいるクリエーティブディレクターKさんとツイッター上で意気投合。横浜なら野毛だろうと話がまとまり、野毛ツアーが実施されたというわけだ。
一軒めは野毛といったらこの店といっていいであろう武蔵屋。運よく席を確保でき、お酒3杯限定でありながら、酢漬けのたまねぎ、おから、たら豆腐、納豆を堪能。酒飲みに生まれてよかったと思えるひとときだった。
二軒めは中華三陽。ここはチンチン麺と独自のキャッチフレーズ戦略で知られた店。実は萬里の餃子にも心引かれたところはあったのだが、Kさんがまだチャレンジしていないということでこちらを選択。餃子がうまかった。紹興酒もあっという間に空いた。
三軒めはいよいよ野毛の本丸、都橋商店街。地元で支社長をしている友人から教えてもらったスナック浜へ。ここでKさんの、いかにもものを書く人だなあと思わせる少年のような歌声を拝聴。そして4軒めは橋を渡って吉田町のスナック。もうこのあたりになると店の場所も名前も憶えていない。拙い韓国語であいさつをし、百歳酒(ペクセジュ)とマッコリを飲んで後ろ髪をひかれながら、終電せまる桜木町駅まで早足で歩いた、憶えているのはわずかにそこまでである。
広告が効かなくなっているとお嘆きの貴兄が多い中、新しい広告を模索する試みがそこかしこで行われている。とりわけ主戦場はネットの世界で、テレビCMさえおもしろければ、すべて牛耳れるってほど世の中は甘くなくなっている。
そんななかこの本は筆者の実践記である。須田和博は美大でグラフィックデザインを学んだだけでなく、さまざまなビジュアルと接してきたなかでコミュニケーションの基本をよく把握されている人だと思う。あるいは博報堂という、広告表現に真摯な姿勢を貫いている土壌が彼をそう育てたのかもしれない。
広告はメディアの似姿だという。新聞なら“読ませる”広告、テレビなら“楽しませる”広告。だったらwebは“役に立つ”広告でしょうという。なんともわかりやすい話ではないか。
久しぶりに隣に座っているCMディレクターのI君に“おまえも読んでみろよ”と手渡した一冊である。


2010年11月6日土曜日

馬場マコト『戦争と広告』

ITの技術革新というのかな。ここのところ携帯電話の進化がめざましく、なかなかついていけない。
先日ソフトバンクがアンドロイド2.2搭載のスマートフォンを発表した。つい先ごろAUが2.1搭載の新製品を発表したばかりなのに。記者発表時の映像を見ていると今ぼくが使っている1.6などかなり時代遅れな感じがする。
新しくなるものを追いかけていくのはなかなか疲れる。歳をとるとはそういった疲労の蓄積が顕在化することなのかとも思う。
新しいものばかりでなく時には古きをたずねるのもいい。そう思って昭和戦中時代の広告シーンに思いを馳せたこの本を手にとった。
新井静一郎さんが亡くなったのはたしか1990年。当時銀座の小さな広告会社にいたぼくは、上司でありコピーライターであったOさんから銀座の酒場で「惜しい人がいなくなっちゃったんだよ」と思い出話を聞かされた。ぼくと新井静一郎さんに接点があるとすれば、わずかにここだけ、Oさんから聞いたOさんの上司の思い出話だけである。
著者の立ち位置はクリエーティブディレクターであるが、小説なども書く表現の人である。徹底的にドキュメントにする方法もあっただろうし、一方でフィクション化することも可能だったと思う。馬場マコトはあえて忠実に昭和を追いかけた。それは彼の戦争に対する思いがそうさせたのだろうけれども、ぼくはこの史実を物語として、ドラマとして著者が描いたらどうなるだろうと考えた。著者の強い思いをもうひとつ下位の深層レイヤーに配置しなおすことで、昭和戦争広告史はさらにドラマティックな読みものに、うまいたとえが見つからないのけれど、嵐山光三郎の『口笛の歌が聴こえる』みたいな実話的フィクションに変貌したにちがいない。

2010年11月3日水曜日

NHK放送文化研究所日本語プロジェクト『国語力アップ400問』

東京六大学野球は早稲田、慶應が勝ち点、勝率で並び、優勝決定戦にもつれこんだ。決定戦は20年ぶり。早慶による決定戦は50年ぶりであるという。
そもそもここまで順調に勝ち点を積み上げてきた早稲田がなぜ慶應に連敗したのか。しかもドラフト1位指名された投手がそろいもそろって慶應打線に本塁打を打たれて、である。早稲田打線が打てないのは今季に限った話ではなく、1年時から出場経験がある今の4年生の守備位置、打順を不動にできなかったところに一因はあるのではないだろうか。
一方で慶應は江藤監督のベンチ内のインサイドワークが素晴らしい。ねらい球を絞り、思い切って振らせる。その結果が早慶戦の3本塁打だと思う。このままでは3日の決定戦も早稲田の看板投手陣は打ち崩されること必至だ。
ところで人間というのは放っておくと退化する生き物である。
日々少量の努力を積み重ねていかないとだめになってしまうのである。たとえば、今日はちょっとめんどくさいからビール飲むのやめとこうかな、なんてすぐ寝てしまったりすると、翌日がつらい。寅さんのようにつらい。
うーん。比喩が適切でないかもしれない。
要はたまには人間の、というか日本人の基本にたちかえることも時には必要なのではないかと思うのである。老齢になってもクラス会やら同期会をやるのもきっとこうした深い人間論が根底にあるためだろう。
そういった意味では自らの国語力をときどき試してみることはたいせつだ。

2010年10月30日土曜日

落合信彦『無知との遭遇』

ドラフト会議って、アマチュア野球の日程終了後に開催されるものとばかり思っていたけど、いつしかシーズン中に行われるようになっていた。
今年は斎藤、大石、福井の早稲田の3投手に、中央の沢村あたりが注目されていたようだが、斎藤は日本ハム、大石が西武、福井が広島、そして沢村は読売にそれぞれ1位指名された。早稲田の3投手、というけれど、横浜に指名されたJEF東日本の須田幸太も早稲田だから、今年は4投手をプロに送り込んだってわけだ。
ぼくは学生野球が好きでときどき神宮球場などに出向いているせいもあって、斎藤ってどうなの、とか大石って速いの、とかよく人に訊かれるのだけれど、斎藤は先輩で同じ日ハムの宮本賢やロッテに行った大谷智久よりクラスは上じゃないだろうか。順調に行けば、藤井秀吾や和田毅くらいは活躍するんじゃないかと思っている。野手に転向するはずだった大石は身体能力が高い上に野球センスもありそうだ。今度転向するなら先発投手だろう。
野球の話をし出すときりがない。
書店でぱっと見たその一瞬、落合信彦ってどんな人だっけと“思い出し回路”がめまぐるしく動き出し、オヨヨの人?いいやそれは小林信彦、じゃあ、オレ流の人、違う違うそれは落合博満、と脳細胞のあいだをある種の化学物質が逡巡した結果、ようやく、ああ、“ASAHI Super DRY!”の人だとようやくたどり着いた。
著者は国際ジャーナリストとして現在もご活躍のようだが、グローバルな行動半径のなかから培ったユーモアと日本の現状への憂いをシャープな口調で切った一冊。笑えるけれど笑えない本である。


2010年10月28日木曜日

アベ・プレヴォ『マノン・レスコー』

月に一冊はフランス文学に親しみたいと思っている。
とはいえ、月に一冊司馬遼太郎を読もうとか、村上春樹を読もうとか、IT関連の本とかビジネス書とか、あまり“しばり”をきつくしていくと読書本来の楽しみが失われるのであまり堅苦しいことはやめようとは思っている。
『マノン・レスコー』は正式な題名を『騎士デ・グリューとマノン・レスコーの物語』といい、著者のアベ・プレヴォも本名はアントワーヌ・フランソワ・プレヴォ・デグジルという。聖職者だったので、みんなから僧プレヴォ(日本的にいうならプレヴォ坊さんみたいなことか)と呼ばれていて、その名前が定着したのだそうだ。なんでそんなことを知っているかというと9月頃NHKラジオフランス語講座でこの『マノン・レスコー』の一部を読む回があり、その際講師の澤田直さんがそう紹介していたからだ。要は受け売りということだ。
ぼくはこの本をたしか20代の、学生時代にいちど読んでいる。いかにも青年たちに受け容れられそうな恋愛小説であるが、その倍ほど年齢を重ねてあらためて読んでみるといまひとつ感動的でない。昔はシュヴァリエ・デ・グリューに感情移入して読んでいたのに対し、今ではむしろその父親の立場で読んでいるからかもしれない。
マノンに溺れるどうしようもない息子に対し、今となっては怒りをおぼえざるを得ないのである。
まあ、ただ歳はとってみるもので、当時はアメリカのヌーヴェルオルレアンという地名が何のことだかさっぱりわからなかったが、今読み返してみるとニューオーリンズだなということが苦もなくわかる。微妙にではあるが、ぼくも成長しているのである。

2010年10月23日土曜日

鈴木健一『風流 江戸の蕎麦』

ソフトバンクホークスがパ・リーグ3位のロッテに敗れ、日本シリーズ進出ならず。最終戦はじっとしていられず、羽田から福岡に急遽飛んだというファンも多かったと聞く。セ・リーグは3位のジャイアンツが中日ドラゴンズに挑んだが、果たして結果は如何に。
強さと勝敗は必ずしも一致しないと思っているが、中日に強さは感じないものの(強いとか弱いとかって結局感じるものであって、ある一定の尺度を持った事実ではないということだろう)、勝負ということに関しては彼らはプロの集団である。それだけはいえると思う。
昼にそばを食することが多い。おそらくそば好きという点に関していえば、ぼくは日本人の平均値を上回っていると思う。時間のあるときはゆっくりつまみをとって、忙しいときは立ち食いでさっとすます。
立ち食いというとなんとなく粗末なイメージがないこともないが、それなりにうまい店は多い。もともとそばが江戸時代のファーストフード的な位置づけだったことや屋台で商売されていたことを考えれば、今ある立ち食いそば屋もトラディショナルなそば屋のあり方ではある。とはいうものの、あまり威勢のいい立ち食いそば屋はいかがなものか。妙に愛想よく「まいどどうも!」とか、親しみをこめて「いつもありがとうございます!」などと声をかけられるとちょっと恥ずかしい気がしないでもない。
蕎麦本は多々あるが、さすがは中公新書だとうならせる一冊だ。著者の専門は江戸時代の詩歌を中心としたものだそうだが、江戸時代にうどんを凌駕して、食文化の華になる蕎麦を巧みに発掘している。一味深い蕎麦の薀蓄といったところか。
野球の季節もそろそろ終わる。日本シリーズ、そして明治神宮野球大会。寒空の下で野球を観るのも案外悪くない。


2010年10月20日水曜日

村上春樹『やがて哀しき外国語』

読んだ本の中で、あ、これおもしろいなっと思ったところをなるべく抜書きしておこうとしている。昔、論文を書く学生がB6サイズくらいの紙に抜書きしていたように(今ではワープロで打つだろうから作業的にも楽だし、検索など簡単にできるし、さぞ重宝していることだろう)。
そんな学生みたいなことをはじめて20年近くたった。たいして勤勉でもなく、そうした抜書きを何かに役立てようという具体的な目的もないので、長いこと続けているわりにはテキストファイルで200キロバイト程度のものである。ときどき思い出したように読んでみてもあっという間に読み終えることができる。まあ言ってみれば、切手やフィギュアの人形をコレクションしてときどき眺めてみる、みたいな趣味の域を出ないものには違いない。
それでも読んだものを読みっぱなしにしないで、なんらかの形で自分自身につなぎとめておくには「書く」(あるいは打つとでもいえばいいか)という行為は無駄ではないような気がしている。
たとえば今回はこんなところを抜いてみた。

>僕自身だって、二十歳の頃はやはり不安だった。いや、不安なんて
>いうようなものじゃなかった。今ここに神様が出てきて、もう一度お前
>を二十歳に戻してあげようと言ったら、たぶん僕は「ありがとうござい
>ます。でも、べつに今のままでいいです」と言って断ると思う。こう言っ
>ちゃなんだけど、あんなもの一度で沢山だ。

こういう、なにかおもしろい言い回しとか、ものの見方をさがして本を読むのも案外悪くない。それにしても村上春樹からの抜書きが圧倒的に多い。

2010年10月16日土曜日

岸博幸『ネット帝国主義と日本の敗北』

先日、とある消費者金融の会社が更正法を申請したというニュースに出くわし、昔お世話になった広告会社のKさん(苗字だとSさんだが、ぼくたちは名前の方でKさんと呼んでいた)を思い出した。
Kさんはぼくが学生の頃通っていたコピー講座の先生で、主にラジオCMの手ほどきを受けた。独特の説教口調で今どきなら“うざい”おじさんなのだろうが、その後ぼくが就職した制作会社で家庭用品や台所製品のテレビコマーシャルの企画をお手伝いさせていただいたこともあり、またKさんがぼくの叔父と大学、就職先(大手広告会社)の同期であったということもあって、たいへんあたたかく、そしてきびしく接してくれた。
そのKさんももう70近くになるだろうか。定年でご退職されて以来お会いしていない。先ほどもいったように、いっしょにした仕事の大半は洗剤とか、芳香剤とか、冷蔵庫用のバッグなどで、主婦層を的確につかむコピーワークが要求される作業だったのだが、いちどだけ、消費者金融のCMを手伝った。Kさんとごいっしょした仕事の中でそれはとても異色なものだっただけに妙に記憶に残ってる。
無料コンテンツがネット上では幅を利かせている。タダならなんでもいいかというとけっしてそうではないだろうけれど、いちどタダを味わってしまうと、それはそれでかなり居心地がよくなってしまうのも否めない。そもそも無料コンテンツのビジネスモデルの元祖は民間放送だったのではないか。それが今ではネット広告は収入面でラジオを凌駕し、テレビにも迫る勢いであるという。
筆者によれば、無料のままだとジャーナリズムと文化の衰退をもたらす。旧来の、コンテンツ制作から流通までまるめ込んだ垂直型ビジネスモデルを無料ビジネスモデルが崩壊したのだ。
では、ジャーナリズムと文化の衰退をどう食い止めるか。まあ、その辺に関してはいまひとつって印象かな。

2010年10月11日月曜日

吉良俊彦『1日2400時間吉良式発想法』

比較的読まないジャンルの本が時代小説、ビジネス書、自己啓発書である。
最近はなるべく幅広く読んでそういったアレルギーを克服しようとしている。それでも自己啓発系は正直、気乗りしない分野ではある。
著者の吉良俊彦はさほど歳の離れていない、高校の先輩であり、大手広告会社でコピーライターの経験もあって、それだけでなんとなくリスペクトしてしまう人だ。もちろん面識はない。
以前、『情報ゼロ円。』という本を出したときも飛びつくように読んだ。今回の著作もこの本と同様、氏の大学等での講義をベースにまとめられたものである。
僕のようなすでに齢50を過ぎた者が今さら発想法もあったもんじゃないが、将来のある若者たちと同じ教室、同じ席に腰掛けて、学生のような気持ちでその講義を拝聴するというのも悪くない。とりわけ、吉良俊彦のようにクールで柔軟な発想術を熱く語っていただける先生であればなおさらである(全体に著者の強いパッションを感じる本でありながら、装丁の帯やいきなり村上龍の出版に寄せる文章が載せられているのはいささか熱すぎではないかと思いつつも)。
前半に基本的な発想法としてチャネル変換型発想という、◆◆といえば○○、と視点を変えて想起されるものを列挙するメソッドが紹介される。後半、再度チャネル変換型発想法が登場する。その手法がアイデアを生み出すのに有効であるとともに、分析(マーケティング)にも役立つということを紹介している。
そこで「自動車産業といったら○○」という課題が出されているのだが、その一覧(解答例)のなかに“免許”とあった。
実に絶妙なタイミングだった。来月更新であることを思い出させてくれたのである。

2010年10月6日水曜日

司馬遼太郎『殉死』

ツイッターで何百人もフォローしている人がいるけれど、その都度目を通していく、さらには返信したり、リツィートしたりするっていうのはなかなかたいへんだ。
でも人はそれぞれにいろんなことを考え、いろんな行動を起こし、いろんな感想を抱いているものだなあと思う。自分の嗜好にあった人ばかりでなく、さまざまなジャンルの人、キャラクターの人などなどをフォローすることである種、脳内に混沌をかたちづくり、さまざまな色の絵の具をぶちまけたみたいな状況から、新鮮なものの見方、考え方に出会う瞬間はふだん漫然と生きているだけではなかなか得がたく、心地いい経験になる。
なかにはしばらく疎遠にしていた方々を見つけてはフォローしてみると、相変わらずで何よりとも思うし、ずいぶん成長したんだなこいつとか思ったり、それはそれでまた楽しい。果たしてぼくはどう見られているんだろう(まあ今のところフォローしてくれているのがごく少数なのであまり気にもとめていないけどね)。
月に一冊は司馬遼太郎を読もうプロジェクト第二弾。
乃木希典は、ふうん、そういう人だったのか。ずっと思い描いていた人とは違うものなんだなあ。
平和な高度経済成長期に育ったぼくたちにとって乃木大将というのは、母親からの口伝えに聞く伝説的なエピソードであったり、彼を讃えた歌でイメージしていた。そういうわけでどうも軍事的才覚に長けた武勲華やかなる人物を思い描いていたのでことのほかその違和感は大きく、これがあの乃木希典のリアルなかのかと咀嚼するまで時間がかかった。ただ軍人的である以上に、古典的忠臣的な人であり、美的感覚に長じた明治時代の異物だったのだろう。もちろんいい意味で、である。


2010年10月1日金曜日

根岸智幸『Twitter使いこなし術』

はやいものでもう10月だ。
東京都の高校野球新人戦(正しくは秋季東京都高等学校野球大会というらしい)は2日からブロック予選を勝ち抜いた48校で争われる。
組合せを見るとうまい具合に強豪校が振り分けられている印象だ。Aブロックでは(まあ仮に横書きのやぐらの左上、左下、右上、右下の順にA~Dを割り振るとして)日大二、八王子、二松学舎、創価、法政大とやや小粒ではあるが有力校がひしめいた。Bブロックは下半分に東海大菅生、修徳、国学院久我山、安田、桜美林とそうそうたる顔ぶれ。迎え撃つのは早大学院か。Cブロックは比較的都立高が多いなか、なんといっても注目は初戦に激突する国士舘と帝京だろう。Dブロックは日大三が強そうだが、関東一、世田谷、日大豊山、東亜と侮れない強豪が名を連ねた。
ともかく3年生が引退し、1・2年生による新チーム。何が起こるかわからないというのが正直言ったところだろう。24日に予定されている決勝戦がまことにもって楽しみである。
ツイッターが世の中をどう変えていくのか、みたいな話には興味がなくはないのだが、如何せん、ツイッターのことを知らなさ過ぎるので、まずは入門してみることにする。新書であることがまずはうれしい一冊だ。大判の、CDやDVDが付録についていたり、けばけばしいデザインで太いゴシックで“できる”なんて表紙に書かれていたら、そうやすやすと電車の中では読めないもの。

2010年9月29日水曜日

カーマイン・ガロ『スティーブ・ジョブズ驚異のプレゼン』

“驚異のプレゼン”とはなんともいい響きである。それに引き換え、以前よく仕事であったのが“驚異のオリエン”だ。なんの商品情報もなく、市場動向や消費者インサイトもなく、コミュニケーション課題もなく、ホワイトボードに、A・B・Cとだけ書いて、「まあ、3方向くらいでプレゼンしたいんだよねぇ、よろしく!」で終わる驚異のオリエン。というか脅威のオリエン…。まあいい時代だった。
アップルは製品そのものがプレゼンターだと長いこと思っていた。Macintoshしかり、iPhone、iPod、iPadしかり。だが、そんな具合に技術がすべてを語ってくれる的な発想自体がきわめて日本人的なのかもしれない。ソニーもホンダも世の中にたったひとつしかない製品をその高い技術力でカタチにしてきた。技術力は雄弁に語ることより、寡黙に役立つことを美徳とする。日本的な技術立国とはそうした背景のもと育まれてきたのではないだろうか。
もちろん経済土壌の違いはある(あったというべきか)。独自性を極力黙殺し、横並びの無個性製品を広告やイメージで差別化し、あるいは流通のコネクションで市場をコントロールする旧日本式経済とプロテスタントの自由主義経済とは根本的な差異があって当然である。そのなかで生き残る術として“プレゼン”は存在する。
ジョブズのプレゼンテーションがアップルを支えているのか、アップルのプロダクツの数々がジョブズのプレゼンテーションを支えているのか。その判断は難しいところであるが、アップルという総合エンターテインメント商社の両輪として現在、両者(両車?)はうまく稼動している。
今回、この本を読むにあたって、ユーチューブに投稿されているジョブズのキーノートの数々を見せてもらった。いずれも魅力的なプレゼンテーションだったと思う。英語の勉強にもなった(かもしれない)。
漢字トーク6の時代からはじまってOS8.1までぼくはMacintoshユーザだった。そろそろぼくというMacユーザを再発明してもいいかなと思っている。


2010年9月26日日曜日

ジョルジュ・バタイユ『マダム・エドワルダ/目玉の話』

ラバーを表ソフトに替えた。
といっても卓球をご存じない諸兄にはなんのことやらわかるまい。卓球のラバーは大きく分けて2種類あって、それが表ソフトラバーと裏ソフトラバーである。人間同様、卓球のラバーも表と裏がある。
表ソフトラバーはイボイボというかツブツブが表面に出ているラバーで(さらにいえばそのツブの高さによってまた性質の異なるラバーのカテゴリーもあるのだがここでは面倒なので割愛する)、裏ソフトラバーは表面がつるんと平らなラバーのこと。小学生の頃は表ソフトラバーを使っていたが、昨今の主流は裏ソフトラバーであるらしく、卓球を再開したここ1年半、すっと裏ソフトを使ってきた。
が、ついこのあいだ、ひょんなことから表ソフトのラケットを借りて打ってみたら、思いのほかしっくりきたので貼り替えてしまったわけだ。
基本的なことをいうと表ソフトはスピードは出るが、スピンがかかりにくい。裏ソフトはスピンがかかりやすく、スピードが出ないということなのだが、昨今はスピンが重視される時代であり、技術的な進歩とともにスピードが出て、スピンのかかる裏ソフトが各メーカーから多数出てきた。世界ランカー、日本ランカーのほとんどが裏ソフトラバーを使用している。
表ソフトの存在価値は相手ボールの回転に影響されにくいということだが、ぼくにとっては今より身長が30センチも低く、軽快に動けた頃の自分を思い出せるというのがいちばんの効果だ。
ジョルジュ・バタイユの名前はある種の思想書に登場するだけでそれ以外に接点はなかったが、光文社の古典新訳シリーズでようやく読むことができた。
ともかくびっくりした。ある意味では赤塚不二夫の漫画よりもすごい。
もちろん、ラバーを替えて、軽快に動けているわけではない。

2010年9月19日日曜日

岩崎夏海『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』

高校野球の新人戦がはじまっている。
他道府県はどうかわからないが、東京の場合、新人戦はまったくのガラガラポン。シードなしの抽選による組合せと何十年も昔に聞いたことがある。もちろん秋の大会は会場を提供する当番校があり、その24校は確実に振り分けられるわけだから本大会まで対戦はない。つまり当番校は暫定シード校ということになる。それ以外は純粋に抽選なのだろうが、毎年まずまずうまく振り分けられている。とりわけ昨年から本大会枠を24から48にしたことで強豪同士が予選で激突する確率は減ったといえる。
それでもくじの世界ならではのいたずらが当然ある。たとえば第3ブロックBなどはいきなり一回戦が早実対東亜学園。これで春選抜への道が閉ざされるわけだから、両校にとってはいきなりきびしい戦いになったが、東亜が接戦を制した(これを番狂わせ的な見出しで報道していた新聞もあったが、いかがなものか)。
この対戦に限らず、強豪同士が潰しあうブロックはいくつかあって、12Aの修徳・雪谷、24Bの国士舘・日大鶴ヶ丘あたりは予選ブロック戦のなかでも好カードとなるだろう。
この小説はさすがにドラッカーを扱っているだけに、戦略戦術に長けた一冊だ。かつてスポ根ドラマにはヒーローとライバルと友情が欠かせなかったが、現代に必要なのはマネジメントだぜっていう骨組と青春ドラマのお決まりディテールを巧みにマッチングさせたマーケティング小説といえそうだ。売れるべくして売れたと筆者とそのスタッフたちは思っているに違いない。


2010年9月16日木曜日

オノレ・ドゥ・バルザック『グランド・ブルテーシュ奇譚』

雑誌の表紙をつくる、という課題が出たそうだ。
美術大学に通う娘の話なんだが、そのデータを送るので仕事場のプリンタで出力してほしいとのこと。はいはい、と黙ってプリントしてくればいい父親なのだろうが、つい余計なことをいう。
どれだけのサンプルを見たのか、どんな雑誌にしようと思ってデザインを考えたのか、と。作曲家がどこかで聴いたことのある曲をつくってはいけないように、デザインするものは何かに似たデザインをしないほうがよい。そのためにはできるだけたくさんの雑誌に触れてみる必要がある。
今はインターネットですぐに検索できるから、短時間に膨大なサンプルを眺めることができる。だからといってそこからすぐれたデザインが生まれてくるだろうか。たいせつなのは“たくさん触れてみる”ことではないかと思う。手にとる、ページをめくる、目を通す。外国の雑誌でもなんとなくそのジャンルやテーマはわかる。勘がよければ、若者や初心者をターゲットしているか、そうではない専門性を持ったものかというのもわかる。そうした中身・内容をその表紙のデザインは期待させてくれるだろうか、きちんと語りかけてくれるだろうか。
雑誌の表紙はもちろん、ポスターだって、レコード(CD)ジャケットだって、おそらくこうした想像力のもとにデザインは成り立つものなのではないかと思う。
バルザックといえば、骨太な長編小説を思い浮かべるが、短編もなかなかのものだ。きらりと光るものがある。
で、娘には上記のようなことを言ったつもりだが、酔っ払ってたし、“いつも言ってるみたいなこと”にしか聞こえなかったと思うが、それはそれでいいんじゃないかな。

2010年9月13日月曜日

司馬遼太郎『最後の将軍』

先週の台風通過後、しばらくは「あ、これって大陸の風」と思える空気が日本列島に流れ込んだような気がしたが、また暑くなってきた。とはいえ朝晩はいくらかしのぎやすくなってきてやれやれであるが、考えてもみれば9月の中旬だ。そろそろなんとかしてほしい(誰に何をどうお願いすればいいのか皆目わからぬのだが)。
歴史小説、時代小説のファンがこれほど身のまわりにいるんだと知ったのはつい最近のことで、たまに幕末の話題になったりすると100%ついていけない。山川出版の日本史くらいなら読んではいるが(憶えているかいないかは別にして)、どこまでが徳川幕府の時代でどこからか明治時代なのかすらよくわからないでいる。そんなときはたいてい「サアカスの馬」の主人公のするバスケットボールのように飛んでくるボールをよけながら、ドンマイ、ドンマイと言うがごとくお茶を濁している。世の中のたいていのことは「なるほど」か「ですよね」と応えておけばうまくいく。ただし相手が謙遜しているときは要注意で、ときに「そんなことないでしょう」くらい言えないと気まずくなることがある。
仕事場の後輩の(大学の後輩でもあるのだが)Yが時代物をよく読むと聞いて、取り急ぎ司馬遼太郎にエントリーするなら何を読めばいいのかと訊ねたら、『最後の将軍』っすよ、という。どうやら徳川慶喜の話であるらしい。先日『羆嵐』を紹介してくれたHさんは自他ともに認める“幕末通”であり、そうした諸先輩方と熱く、楽しいひとときを過ごすためにもこれは必読の書であると思った。
正直申し上げると、自分で思っている以上にぼくは日本史の知識がない。漢字が読めない。登場人物の名前が憶えられない。特に苦しんだのが“永井尚志(なおむね)”。ルビのあるページに戻ること数知れず。ようやく記憶にとどまったところで読み終わった。
幕末通への道は遠く険しい。

2010年9月8日水曜日

長嶋茂雄『野球へのラブレター』

清水義範の短編に「いわゆるひとつのトータル的な長嶋節」という名作があり、それによると長嶋は野球の天才であり、解説者としての彼は「本能的にわかっている非常に高度なことを、なんとか説明しようと最大の努力をする」のだそうだ。それがいわゆるひとつの長嶋節になってしまう。それは長嶋の「言語能力が低いのではなく、伝えたい内容が高すぎる」からであるという。アインシュタインが子どもに相対性理論を教えるようなものらしい。
本書は野球に関する雑話と著者自身述べているように系統的でなかったり、思いつきであったり、いかにも長嶋茂雄らしい一冊だと思う。
長嶋茂雄は現役時代を知るぼくにはスタープレーヤーであったし、自らの引退後低迷する巨人軍の監督でもあった。その後浪人時代は文化人的な活動をしていたが、やはりこの人はユニフォームを着てなんぼの人なのだろう、第2期監督時代が(現役時代を除けば)いちばん輝いていたのではないだろうか。
なによりも長嶋の素晴らしいところは過剰を超えてあふれ出る自意識だ。ゴロのさばき方、ヘルメットの飛ばし方、エラーの演出、胴上げのされ方まできちんと計算しているスターなのである。そして彼の資質の中でさらにすごいのがグラブのように、バットのように、ピッチャー新浦やバッター淡口のように巧みにあやつる“言葉”ではなかろうか。“メークドラマ”、“メークミラクル”、“勝利の方程式”など長嶋茂雄の造語は多い。これらの言葉は意味をもつというより、意図を感じさせる役割を果たしている。天才の思いを共有するためのコミュニケーションツールになっている。
そういった意味からすれば長嶋の“言葉”に接することができたぼくらはなんて幸せなんだろうといわざるを得ない。