清水義範の短編に「いわゆるひとつのトータル的な長嶋節」という名作があり、それによると長嶋は野球の天才であり、解説者としての彼は「本能的にわかっている非常に高度なことを、なんとか説明しようと最大の努力をする」のだそうだ。それがいわゆるひとつの長嶋節になってしまう。それは長嶋の「言語能力が低いのではなく、伝えたい内容が高すぎる」からであるという。アインシュタインが子どもに相対性理論を教えるようなものらしい。
本書は野球に関する雑話と著者自身述べているように系統的でなかったり、思いつきであったり、いかにも長嶋茂雄らしい一冊だと思う。
長嶋茂雄は現役時代を知るぼくにはスタープレーヤーであったし、自らの引退後低迷する巨人軍の監督でもあった。その後浪人時代は文化人的な活動をしていたが、やはりこの人はユニフォームを着てなんぼの人なのだろう、第2期監督時代が(現役時代を除けば)いちばん輝いていたのではないだろうか。
なによりも長嶋の素晴らしいところは過剰を超えてあふれ出る自意識だ。ゴロのさばき方、ヘルメットの飛ばし方、エラーの演出、胴上げのされ方まできちんと計算しているスターなのである。そして彼の資質の中でさらにすごいのがグラブのように、バットのように、ピッチャー新浦やバッター淡口のように巧みにあやつる“言葉”ではなかろうか。“メークドラマ”、“メークミラクル”、“勝利の方程式”など長嶋茂雄の造語は多い。これらの言葉は意味をもつというより、意図を感じさせる役割を果たしている。天才の思いを共有するためのコミュニケーションツールになっている。
そういった意味からすれば長嶋の“言葉”に接することができたぼくらはなんて幸せなんだろうといわざるを得ない。
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