2018年2月13日火曜日

半藤一利『昭和と日本人 失敗の本質』

仕事場が平河町にあったころ、紀尾井町あたりで半藤一利さんを何度か見かけたことがある。
このブログでは面倒くさいので敬称を略しているのだが、なんどかお見かけしているのでどうも略しにくい。半藤さんと呼ぶことにする。
お昼に紀尾井町の交差点にあるつけ麺屋か蕎麦屋に行く道すがらであったと思う。仕事場を移ってしばらくつけ麺を食べていない。
もちろん通りすがりに見かけただけであり、相手は芸能人でもプロ野球選手でもないから、まわりががやがやすることもない。たまたま僕がテレビや雑誌で氏のお顔を拝見したことがあるからわかるまでで、挨拶するわけでもなく、ましてやサインを求めることもない。
長いこと週刊文春や月刊文藝春秋の編集長だったという。その関係もあって、紀尾井町あたりに出没するのだろう。文藝春秋といえば松井清人さんも編集長だった。松井さんは実家の近所の大きな家具屋のご長男で、地元のお祭りなどでときどきいらしている。もし麹町あたりでばったり会ったなら「松井さんには母がいつもたいへんお世話になっていて…」くらいの挨拶はしなければならないだろう。鈴木某という高校の同期生も文藝春秋の編集長だったらしいが、ずっと接点がなかったので以前名前を聞いたけれど忘れた。
半藤さんが歴史、とりわけ昭和史に造詣が深いことは知っている。数多くの著書を上梓されている。残念ながらこれまで読む機会に恵まれなかった(唯一読んだのは大相撲の本だった)。ネット書店でこの本を見かけ、紀尾井町を歩いていた氏を思い出して読んでみることにした。さまざまなパーツを買い集め、削ったり、接着したり、色をつけたりして昭和のジオラマをつくっている人のように思えた。あの人の中にはこんなにたくさんの史実が詰まっているのだなと思うともういちど麹町界隈でお目にかかりたいものである。
そのときにちゃんとお声がけできるようもっと昭和史を勉強しておきたいと思う。

2018年1月30日火曜日

城山三郎『大義の末』

昔話が多い。60年近く生きてくれば、おのずとそうなるだろう。
次女に昔の話をする。終戦後日本は、みたいな話だ。娘は言う。「パパから見れば終戦は近かったかもしれないけれど、私から見ればもう何十年も昔のことだし、明治維新も戦争もみんないっしょに見える」と。正確にどう言ったかはおぼえていないが、だいたいそんなようなことを言った。
たしかにそうだ。自分が生まれる50年以上も前のできごと(しかも二十歳を過ぎて聞かされるわけだから今からだと70年以上前の話になる)となれば、それは教科書に出てくる歴史だ。伊藤博文が暗殺されたとか、夏目漱石の『三四郎』がベストセラーになって、などという話を聞かされたらやはり自分とは無縁な昔の話だと思うだろう。そう考えると娘の言いたいこともわからないでもない。
太平洋戦争、大東亜戦争、第二次世界大戦などさまざまな呼ばれ方をしている「先の大戦」が終わって今年で73年になる。戦争の話は主に終戦時国民学校の5年生だった母から召集令状、警戒警報、空襲警報、防空壕、防空頭巾、灯火管制、特攻隊、配給、そんなことばをくりかえし聞いて育った。歳のはなれた母の弟は大きくなったら兵隊さんになると言っていた。当時の人びとは皆「お国ために」生き、そして死んでいった。
子どもだった母親の話だけでは戦争の実情はわからない。本を読んだり、映画を観たりすることで補完していく。今の人はたいていそうだろう。そして直接体験者ではないけれど(間接体験者とでもいうのだろうか)、語り継いでいかなければならない。強く意識したことはないが、そうあるべきだと思う。
ほおっておくとたいせつななにかがどんどん遠ざかっていく。ついこのあいだまで目の前にあったものがいつしかなくなってしまう。この本の主人公も同じような思いを持ち続けていたのではないだろうか。
手段はどうあれ、70年を超える時間の彼方に思いをめぐらせる。だいじなことだと思う。

2018年1月27日土曜日

フィリップ・K・ディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』

昨年ようやくリドリー・スコット監督の「ブレードランナー」を観た。
映画の公開は1982年。2019年のロスアンジェルスが舞台となっている。
原作を読んでみる。
フィリップ・K・ディックははじめて読む。1968年の小説である。50年前、人類がはじめて100メートルを9秒台で走った年だ。月に降り立ったものも誰ひとりとしていなかった。日本は明治100年で、グループサウンズが流行っていた。
昔はカート・ヴォネガットをよく読んでいたが、SFと呼ばれるジャンルはあまり読まない。
映画ではクルマが空を飛んでいたが、コンピュータのモニタはブラウン管だった。液晶ディスプレイはまだ想像を超えていたのかもしれない。小説の中で‘映話’と訳語をあてられているのはおそらくテレビ電話のことだろう。これは2019年を間近にひかえた現代でほぼ実用化されている(ただしブラウン管ではない)。ネクサスもアンドロイドも人間の姿はしていないけれど商品化されている。火星はまだまだ生活圏にはほど遠い。
未来を描く小説も映画もやがて検証される。そのあたりが難しい。SFの正しい定義はくわしく知らないが、根も葉もない空想世界ではSFとはいえないのではないか。あくまで科学的でなければならないのではないか。そう思うとたいへんな仕事だ。
「ブレードランナー」で思い出したのは、なぜか日暮里である。山手線の日暮里駅から北はいくつかの路線が分岐する。常磐線が東に大きくカーブしていく。その上を京成本線がゆるやかに、同じく東にカーブして越えていく。尾久橋通りの上を走る日暮里・舎人ライナーが常磐線と京成本線を越えていく。西日暮里を過ぎると山手線と東北本線が分かれていく。見えはしないが、地下には東京メトロ千代田線が走っている。幾重にも重なった立体交差が未来都市を想起させる(勝手にそう思っている)。
話がとっちらかってしまった。慣れないジャンルの本を読んだせいかもしれない。

2018年1月24日水曜日

坂崎仁紀『ちょっとそばでも 大衆そば・立ち食いそばの系譜』

紙を仕入れて、印刷し、包装紙などに加工して販売していた父の仕事をときどき手伝うようになったのは小学生の高学年か、中学生の頃だったか。
紙を卸したり、印刷したりするのは台東区の入谷や竜泉あたり。広くいえば浅草界隈ということになる。生麺を茹でる立ち食いそば屋にはじめて行ったのはおそらくそのあたりではないかと思う(残念ながら正確に思い出すことができない)。このあいだ鶯谷や入谷を歩いて、あのとき食べた立ち食いそば屋をさがしたが、まるで見当がつかない。
立ち食いそばのそばは製麺所でつくられた茹麺を湯がいて出す店と生麺を店内で茹でる店がある(冷凍麺の店もある)が、近ごろでは店内で茹でる生麺の店が増えている。小ロットで茹でては茹でたてを提供する。普通の町のそば屋で食べるようなそばを手軽に味わえる。コシがあってうまい。
近年、チェーンで展開する立ち食いそば屋も多い。どこに行っても安定した味を楽しめるようになっている。それとは別に独立系の店も根強い人気に支えられている。立ち食いそば的には現代は素晴らしい時代であると思う。
茹でたての生麺が一般的になってきている一方で、若い頃よく食べた茹麺タイプが妙になつかしく感じられるようになった。なつかしさばかりではない。茹麺には茹麺のよさがある。たとえば生麺では太いそばにはなかなか出会えない。太ければ太いほど茹で時間がかかるので立ち食いそばというビジネスモデルにはそぐわない。コシの強さという点では生麺にはかなわないが、かき揚げなど揚げものとの相性は少しやわらかい茹麺のほうがいいような気もしている。
というわけでここのところ、時間を見つけては立ち食いそばを食べに出かける。この本は格好のガイドブックである。秋葉原や新橋には古くから続いている店が多い。もちろん入谷、竜泉、千束あたりにも人気店が多いという。
そのうち父と行ったそば屋にも再会できるのではないかと思っている。

2018年1月23日火曜日

内田百間『御馳走帖』

先月人に頼まれてイラストレーションを描いた。
小さい頃から絵を描くのは好きだったが、きちんと勉強したわけでもない。当時読んでいた連載漫画を写していただけだ。美術を専門とする大学があることは知っていたが、特別な人が進む場所だと思って見向きもしなかった。広告の仕事をするようになって絵を描くようになる。はじめのうちはうまくもないくせにうまく描こうとして下手な絵ばかり描いてきた。あるときふと気がついて、もともとうまくなんか描けっこないんだから、思い切り下手に描こうと思った。その努力の甲斐あって、今ではすっかり絵が下手くそになった。
それでも絵を描いてくれませんかなどと頼まれる。僕が長年たずさわってきた業界では絵の描ける人と描けない人がいて、圧倒的に後者が多い。絵の描ける人のうち大半が上手に描ける。絵が描けて下手な人はそれほど多くない。きっとそんなわけで需要があるのではないかとおぼろげに思っている。
イラストレーションを担当した仕事はブリックライブというレゴブロック遊び放題のイベント告知のためのものだ。昨年に続いて今年も各地で開催される。メインビジュアルを新しくしてさらなる集客をはかろうということらしい。そんなことを言われてもたくさんのお客さんを集めるような絵なんか描けるわけがない。とはいえ人に頼まれたりするのはきらいじゃないからほいほい、ちょいちょいと描いてみた。
阿呆列車以来、百間先生のファンになった。
なれなれしく先生などと呼んでいるが、できることなら先生のように列車に乗って、小鳥を飼うかは別としても、好きなものを食べて、お酒を飲んで暮らしたいと思っている。そのためならお昼はもりそば一枚でいいとも思っている。現実的にはもりそばだけではちょっとさびしいのでかき揚げをのせるとか、玉子とじにするとか、カレー南蛮にするとか自分なりに工夫したい。
小泉堯史監督の「まあだだよ」をもう一度観たくなった。

2018年1月5日金曜日

獅子文六『ちんちん電車』

あけましておめでとうございます。

正月、テレビ番組を視ながらテツandトモは鉄板だと思う。
おもしろくはないが、つまらくもない。場を賑わせてくれるし、お年寄りも子どもも楽しめる。「なんでだろう〜」という歌は耳に馴染み、共感を呼ぶ。小難しい漫才や品のないコントではないストレートな娯楽がある。「笑点」の大喜利と似た温度を感じる。ある種の健全さを感じる。NHK的なお笑いだ。
獅子文六の鉄道ものでは『七時間半』が知られているが、都電をモチーフにしたエッセーもあった。電車そのものというよりはその沿線にまつわる思い出話が主役だ。1966年に出版されている。都電撤去が本格的にはじまったのが1967年。去りゆく都電への愛惜がこめられている。
獅子文六は慶應義塾幼稚舎の時代、横浜に帰省するにあたり、札の辻から品川駅前まで1系統(品川駅前と上野駅前を結ぶ)によく乗っていたという。時代は明治。東京市電になる以前の東京電車鉄道の時代か。
少年期から慣れ親しんだ路線に乗り、高輪、芝、新橋、銀座、日本橋、神田と北上していく。なつかしい店や風景が綴られる。当時随一といっていい盛り場だった浅草の思い出も克明に語られる。『自由学校』執筆の際、東京じゅうを取材してまわったらしいが、このエッセイでは品川〜上野、浅草にフォーカスされている。逆に言えば、ブレがない。
都電が廃止されて40数年(荒川線が現存するが)、都電の思い出を語る人も少なくなってきた。戦争も震災もそうだが、路面電車も語り継がれていかなきゃいけないと思う。
話は戻るけれど、テツandトモは正月番組にはうってつけの存在になっている。
これは傘の上で升や鞠をまわさない海老一染之助染太郎だ。そう思っていたら、最近ではテツ(染太郎役に相当する)がスタンドマイクやらなにやらを顎の上に乗せる。おそるべしテツandトモ。こちらの思いが見透かされてしまったみたいだ。
なんでだろう。

2017年12月30日土曜日

今年の3冊 2017

クリスマスコンサートを聴きに吉祥寺の明星学園に出かける。
中学生のアンサンブルや、アマチュアオーケストラ、ムジカプロムナードの演奏を楽しむ。ピアニストとしてゲスト出演した三好タケルは長女の高校時代の同級生で、なんどかライブに行ったり、焼鳥屋で飲んだりしている。
今回の演目はガーシュインの「Rhapsody in Blue」、実はここ2〜3週間仕事中になんども聴いていた曲だった。まるでリクエストして、それに応えてくれたかのような選曲だった。
今年読んだ本の中で印象の強かった3冊をピックアップしようという試みは久しぶりである。今年は簡単であるといえば簡単だが、難しいといえば難しい。

森田誠吾『魚河岸ものがたり』
四方田犬彦『月島物語』
出久根達郎『佃島ふたり書房』

上記3冊で決まりだ。
でもあまりにも偏りすぎちゃいはしまいか。築地、月島、佃。この一年の読書が隅田川の河口にひとまとめにされてしまうのもいかがなものか。他に読んだ本を見てみよう。

今年読みはじめた作家としては城山三郎。広田弘毅の生き方はそのまま作者の生き方に投影されているようだった。平松洋子も今年から。軽妙なエッセイがなんともいえない。昨年から引き続き読んでいる獅子文六。娯楽映画を観ているようなテンポ感がすばらしい。
常連組としては山本周五郎、吉村昭。今年も心に沁みる名作に出会えた。久しぶりに読んだのが関川夏央。昭和を見つめるまなざしがたまらなく共感を呼ぶ。
忘れた頃に読む海外の小説。今年はモーム、ディケンズ、フィッツジェラルドと数は少なかったが内容的には充実していた(と勝手に決めている)。

とはいうものの今年は「築地、月島、佃」の一年だったかな。とりわけ佃、月島は個人的に結びつきの強い土地だけに読書を通じて受ける印象が強すぎる。
来年はどんな本に出会え、どのような一年になるのか。
今年もご愛顧ありがとうございました。
来年もよろしくお願い申し上げます。

2017年12月25日月曜日

平松洋子『あじフライを有楽町で』

佃にお昼を食べに行く。
築地市場橋(仕事場がその近くにある)から佃まで歩けば30分近くかかる。散歩するには楽しい距離だが、平日昼食を摂りに行くにはちょっとぜいたくな距離だ。
ふたつのルートがある。
佃大橋を渡るか、勝鬨橋経由で西仲通りを歩くか。
佃大橋はかつてぽんぽん蒸気のたどった航路に沿って架けられている。東京に出てきて新佃に住んでいた若き日の母の記憶をたどりながら歩くコースだ。いっぽうの勝鬨橋は少年時代に月島のおじちゃん、おばちゃんの家に遊びに行くときバスで通ったルート。いずれも吹く風がなつかしい。
12月の暖かい日、勝鬨ルートで佃に向かった。
佃で何か特別なものを食べるわけではない。ごく普通の町の蕎麦屋に入って、もりそばと小ぶりな丼もののセットを注文する。店の名は相馬屋という。おそらくは古くからこの地にある蕎麦屋だ。客観的に評価すればとびきりうまい蕎麦屋というわけでもなかろう。うまい蕎麦はうまい蕎麦屋に行けば食べることができるが、佃に根づいた蕎麦屋の味は佃までたどり着かなければありつけない。
その日はあさり丼ともりそばのセットを食べる。
ラフな服装の男性がふたり。なにかしらの丼ともりそばを慣れた手つきで食べている。近所で働く若者の遅い昼休みか。そのうち老夫婦らしき男女が来店する。今日は何にしようかなとお品書きを開く。
佃のお昼の風景が見たくて築地から歩いてきた。佃の人になって、佃の人が食べるお昼をいっしょに食べたくて。
平松洋子の『○〇は(を)○○で』シリーズを読むのは、『ひさしぶりの海苔』も含めると4冊目になる。
毎度毎度おいしいお店や食材、食べ方を指南してくれる。そそられる記録である。世代もほぼ同じなのでなつかしい景色にも出会える。
強いて言えば文章がうますぎる。シズル感があり過ぎる。読んだ時点で食べた気になってしまう。残念といえば残念だが、うらやましいといえばうらやましい。

2017年12月22日金曜日

柘植光彦『村上春樹の秘密 ゼロからわかる作品と人生』

築地に仕事場が移転して一年が過ぎた。
それまでの千代田区平河町はいわゆる山の手で、大名屋敷が多くあった。坂道も多かった。青山に出るには赤坂見附の深い谷を越える必要がある。九段に行くには永井坂を下って南法眼坂を上り、行人坂を下って、東郷坂を上る(他にもルートはあるが、どのみち上り下りをくり返す)。麹町や番町の、そんな起伏が案外きらいではなかった。
築地には坂道がない。
坂道というのは人生や青春のメタファーとしてよく登場する。坂がないということは町としての深みに欠けるきらいがある。歩いていても表情を感じない。のっぺりしている。傘がないなら歌にもなるが、坂がないのは味気ない。
その代わりといってはなんだが、築地には川がある。かつて大川と呼ばれただけあって大きな川である。橋が架かっている。大きな橋の上から川面ながめると滔々と水をたたえている。少しだけ豊かな気持ちになる(その昔、銀座や築地がたくさんの川にかこまれていた時代を思うともっと気持ちが昂ってくる)。
坂道がないぶん、下町に住む人たちは川の流れに人生や青春の思いを込めたのかもしれない。そういった意味からすると世界は平等にできている。
村上春樹の小説が初期のものを中心に電子書籍化されている。『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』『羊をめぐる冒険』の初期三部作を電子ブックリーダーで読む。『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』も読みたいがまだ電子化されていないようだ。
村上春樹の解説本や研究本にはあまり興味がない。誰かが書いた村上春樹より、村上春樹が書いた文章の方が圧倒的におもしろいからだ。
でもこの本はちょっとよかった。村上春樹の人生は上京して早稲田大学入学とともにはじまったように思えるけど、ちゃんと両親がいて、小学生時代があったこともわかったから(Wikipediaには書かれているそうだが)。
たまにはこういう本も読んでみるものだ。

2017年12月21日木曜日

出久根達郎 『逢わばや見ばや完結編』

高円寺というと庶民的な町という印象が強い。
東京の中央線沿線は吉祥寺など住んでみたい町の上位にランクされる駅が多い。その中では意外と思われる町だ。今売れている芸能人らが売れない時代に高円寺に住んでいたというエピソードがテレビ番組で紹介される。商店街に古い店が並んでいる。精肉店の店頭から揚げたてのコロッケの匂いがする。商店主とタレントが気軽に声を掛け合わせる。駅前はそんな商店街を保護するかのように高い建物が少ない。
よしだたくろうが作詩作曲した「高円寺」という歌がある。地方から出てきた若者たちにも住みやすい土地柄だったのかもしれない。
どのようなわけで中央線沿線に高円寺のような町が生まれ育っていったのか。くわしいことはわからない。沿線には軍人が多く住んでいたという。高級将校は荻窪に居を構え、下級軍人の多くは高円寺に住んでいたという話を聞いたことがある。関東大震災後、西東京の郊外へ移住する人が増えた。山の手の住人は荻窪や阿佐ヶ谷に移り、下町の人びとは高円寺に移り住んだともいわれている(らしい)。貧しい人たちがどこからともなく集まって、おたがいに助け合いながら、貧しいながらも美しい風土と気質を築き上げたのかもしれない。
月島の古書店に長く奉公した出久根達郎は1973年に独立し、高円寺に古書店を開く。高円寺という町に月島や佃島と同じ匂いを嗅ぎとったのだろうか。それはレバーカツやもんじゃ焼きにふりかけるソースの匂いだったのかもしれない。そして文筆家の道を徐々に歩みはじめていく。
高円寺に移り住んで開業したのは正しい選択だったように思う。月島時代に培われた出久根達郎の生活感覚や洞察力、養われた体質みたいな目に見えないなにがしかの力が変質されることなく、彼の精神的な資産として引き継がれたであろうから。
高円寺という町をよく知らないけれど、だとすれば高円寺というのはいい町なような気がする。

2017年12月18日月曜日

出久根達郎『二十歳のあとさき』

月島のおじちゃんの家には風呂がなかった。もちろんその頃月島で内風呂のある家なんてアフリカのサバンナでペンギンを飼う家より少なかったと思う。
おじちゃんと銭湯に行ったことがある。
この本の前編である『逢わばや見ばや』で月島の銭湯では当たり前のように見知らぬどうしが背中を流し合っていたと出久根達郎は書いている。もちろんそんなことは知らない。
誰におそわったわけでもなく、おじちゃんの背中を洗ってあげた。
その日は泊まることになっていた。風呂から戻って、夕飯。おじちゃんは一杯やりながら、「よしゆきはちっちゃっけえのに気が利くんだ。俺は背中を流してもらったんだ」と何度もおばちゃんにくりかえしていた。
おじちゃんとおばちゃんには子どもがなかった。昭和20年代の終わり頃、母はふたりを頼って東京に出てきた。おじちゃんの家はその頃新佃にあり、母はその家からぽんぽん蒸気で隅田川を渡り、明石町の洋裁学校に通った。おそらくふたりとも自分の娘のように接してくれたにちがいない。その息子である僕をかわいがってくれたのも然もありなんという気がする。
夕食後、西仲通りを歩いた。
ほろ酔い加減のおじちゃんは「よしゆき、欲しいものがあったら言ってみろ、好きなものを買ってやる」という。さっきおばちゃんに本を買ってもらったばかりだし、欲しいものはなかった。でもそう言うとおじちゃんがかなしそうな顔をすると思ったので、思い切ってキャッチャーミットが欲しいと言ってみた。
スポーツ用品店が当時の西仲商店街にあった。
ぴかぴかのミットを手にとり、右手でこぶしをつくってパンパンとたたいてみる。革のにおいがする。不思議と自分の左手になじむ気がする。
「でもやっぱり要らない、まだ下手くそだから」
いくらなんでもそんな高価なものを買ってもらうことに臆したのだろう。
そしておじちゃんのほっとしたような、さびしいような顔を見上げた。
昭和40年代の月島。
二十歳を過ぎた出久根達郎がいた。

2017年12月10日日曜日

出久根達郎『逢わばや見ばや』

佃大橋から勝鬨橋を撮影していた。
西方に聖路加タワーが見える。その向こうに夕日が落ちていく。東京タワーのシルエット。その背後の空が(運がよければ)赤く染まる。
2秒に1回シャッターを切るようにカメラを設定した。やがて勝鬨橋は薄暮から夕闇のなかで照明が灯された。
「いい写真撮れました?」
カメラと三脚を片付けていたら、通りがかりの女性に声をかけられた。70歳は越えていると思われるが、背筋が伸びてシャキシャキしている。
月島に親戚がいてよく遊びに来たこと、何度も勝鬨橋を都電やバスで渡ったことなどをつい話してしまう。彼女は生まれてからずっと月島だという。どんどんタワーが建っちゃってねと町の変貌を嘆く。西仲にまた新しくタワーが建設されるという。
「電気屋さんのところですね」
「そうそう、つきしまテレビのあの一角。よく知ってるわね」
仕事場が築地に移転して、ときどき佃や月島を歩く。ずいぶん西仲通り商店街も変わってしまった。変化はまだ終わらない。
明治時代に埋め立てられた月島はそれほど歴史のある町ではない。工場の町、河岸勤めの人の町、もんじゃ焼きの町、そして都心に至近なタワーマンションの町とその変化が凝縮されている。
昭和30年代。
僕が生まれた頃は中学校を卒業して働く若者たちが多かった。「キューポラのある街」のジュンも夜学に通いたいと言っていた時代。
著者は昭和34年に茨城から上京。月島の古本屋の丁稚となる。両国から都電で月島にやってくる。房総や水郷方面の玄関口は両国駅だった。
誰もが高校や大学に進学する時代ではなかった。学校だけが勉強する場ではなかった。
大半は経済的な理由だっただろう。時代が貧しかったのだといえばそれまでだが、人が学んだり、かえって人が育っていくための選択肢は豊かな時代だったといえるかも知れない。
この物語は出久根達郎が世の中という学び舎で額に汗して成長していった学生時代といっていい。

2017年12月8日金曜日

岡崎武志『ここが私の東京』

見知らぬ町が好きであてもなく歩く。
東京23区内で知らない町も少なくなった、というのはちょっと大げさでまだまだ未踏の地が圧倒的だ。
クリエーティブディレクターのKさんとは年に一二度カメラをぶら下げていっしょに歩く。浅草、浦安、千住、根岸、四谷の谷底…これまで方々踏査した。
僕は生まれてこの方東京を離れたことがない。芝に生まれて神田で育ったというような江戸っ子ではもちろんない。旧東京15区の外側(山手線の外側の郡だった地域)の出だから東京の地方人だ。
ふりかえると都内の方々に父方母方を問わず親戚が住んでいた。落合、金町、駒込西方町、赤坂丹後町、高輪二本榎、月島…。そうした地名の記憶がどこか深いところに潜んでいる。そのせいかもしれない、見知らぬ町を歩いていてもどことなく既視感をおぼえる。
Kさんは兵庫県西宮市の出身である。大学進学時に上京。以来勤めも東京である。幼少期の東京体験がない。このことは思いのほか僕にとって新鮮だ。
Kさんが青春時代に出会った東京はどんな風景だったのだろうか。興味深い。東京にずっといたことがなんだか損をしたような気になってくる。
著者の本は以前読んだことがある。『昭和三十年代の匂い』(ちくま文庫)だ。どうやらこのブログでは紹介していないようだ。2014年の4月に読み終えている。読書メーターに記録が残されている(便利な世の中になったものだ)。
地方(八王子も含めて)から上京してきた作家、詩人、漫画家そしてミュージシャンらと東京との接点がテーマである。月島、石神井、赤羽、杉並などなど。興味深い町が次から次へと登場する。残念ながらここで登場する著作は、司修の『赤羽モンマルトル』くらいしか読んでいない。とりあえず出久根達郎の自伝的小説でも読んでみようか。
著者自身も大阪からやってきた上京者だった。意外な気がした。東京をよく歩かなければ、書けない本だと思ったからだ。

2017年12月5日火曜日

本田創、高山英男、吉村生、三土たつお『はじめての暗渠散歩:水のない水辺をあるく』

区境に興味があった。
たとえば東京メトロ千代田線の根津駅で下車する。不忍池に注ぐ藍染川が暗渠となっている。台東区と文京区の区境だ。さらに北へ、日暮里方面に向かう。文京区は荒川区と接する。谷中のあたりでは荒川区と台東区の区境がある。田端の方に歩いていくと文京区は北区とも接する。近隣には谷中銀座なる商店街があるが、かつて藍染川が流れていた暗渠の道は区境銀座だ。
豊島区と板橋区を分けるのは谷端川。これも暗渠になっている。東京23区を区切る川や水路がいかに多かったか、歩いてみるとわかる。そもそもが東京は川だらけの町だった。
銀座などはその典型的な町だ。人工的な川が多かったとはいえ、四方を川に囲まれていた。橋のつく地名が多い。銀座と有楽町、新橋、築地、京橋はいずれも川で隔てられた町である。
今、仕事場は築地にある。采女橋あたりで南東方面に枝分かれする築地川(今では首都高速道路)の支流沿いだ。目の前が川だったと思うとちょっとわくわくしてくる。築地川の支流は交差点にだけその名をとどめる市場橋を越え、築地市場の中を流れる(いや、もう流れてなんかいない)。
築地川はもう少し上流、新富町の三吉橋のところでも支流に分かれる。こちらの支流は築地本願寺の裏手を流れ、晴海通り沿いにわずかに痕跡を遺す門跡橋、小田原橋をくぐって、築地市場で先の支流と合流する。そしてアーチ型の海幸橋(残念ながらもう撤去されている)の先で東京湾に注ぐ(だから注いじゃいないって)。
築地市場にお昼を食べに出かけたついでこの辺りを歩く。まるでそこに川が流れているかのように想像しながら。
実に楽しい。
水のなくなった水辺に惹かれる人が多いというが(本当か?)、僕はどちらかというと行政区分への興味から暗渠に関心を持つようになった。
かつて川が流れていた流路の写真を撮り、Facebookのアルバムに整理した。
「川はどこに行った」というタイトルを付けた。



2017年11月29日水曜日

吉村昭『海の史劇』

イングレスでついにレベル16に到達した。
このゲームをはじめたのが2015年1月だったから、2年と10ヶ月を費やしたことになる。実をいうと11月20日あたりからポイント2倍キャンペーンがはじまったのだ(どこかのスーパーマーケットみたいだけど)。イングレスというゲームはAPと呼ばれる経験値とさまざまなミッションをクリアすることで得られるメダルによってレベルアップする。目標とするレベル16まで逆算すると年内いっぱいかかるだろうと思っていた。そんな矢先の2倍キャンペーンだったのだ。
具体的にいうとレベル16までに必要なAPは40,000,000。レベル15だと24,000,000。次のレベルまであとひとつなのにもかかわらず、実際にはレベル15までが60%、あと半分弱のAPが必要なのである。実際のところレベル1から15まで1年7ヶ月弱、15から16まで1年3ヶ月かかっている。
キャンペーン期間は10日ほどだとSNSなどでアナウンスされていた。というわけで朝晩仕事の行き帰り、お昼どきにちょっと集中して取り組んでいたらあれよあれよと予定よりもひと月はやく達成することができた。
おかげですっかり読書量が減った。
司馬遼太郎の『坂の上の雲』を読み終えたとき、友人から吉村昭のこの本もぜひ読んでみるといいとすすめられた。それから一年半、ようやく読み終えることができた。
司馬遼太郎のようなエンターテインメント性はない。史実に基づいた小説と思われる。主役はロジェストヴェンスキー率いるロシア第二太平洋艦隊だ。
そして吉村昭は(この作品に限ったことではないが)最後まで書く。戦闘終了後、つづきは『ポーツマスの旗で』で!なんてことはしない(もちろん講話交渉の襞までは描かれていない)。主要登場人物の消息まで追う。これがまたすばらしい。
ずいぶん時間をかけて読んだ。椅子の裏に牡蠣がこびり付いていなければいいが。

2017年11月22日水曜日

吉村昭『赤い人』

ふらりと立ち寄った秋葉原。
中学生の頃はトランジスタやら、抵抗、コンデンサー、コイルなど電子部品を買いに行ったものだ。JRのガード下や総武線ガード沿いのラジオデパートではまだ取り扱っている店もある。アニメーションの自主制作として電子部品を活用できないかと思って何軒か回ってみる。すでに製造中止となった東芝のトランジスタ2SC1815が20本入で200円で売られていた。
電子部品の店に組立キットがあった。デジタル時計や電光掲示板、それにモーターで動く車やロボットアームなど。聞いてみるとそれらは小さなコンピュータで制御できるという。コンピュータは名刺ほどのサイズである。オープンソースのOSをインストールすれば普通にパソコンとして使えるという。面白半分に買ってみた。
ネットで調べてみると数年前から流行っているRaspberry Pi(ラズベリーパイ)というシングルボードコンピュータとわかる。電源ソケット、USBソケット×4、LANポート、HDMIソケットにマイクロSDカードのスロットが付いている。
さっそくWindowsのノートPCでダウンロードしたOSをあり合わせのSDカードにコピーして、システムをインストールする。モニタとマウス、キーボードをつないで電源を入れる。あれよあれよと起ち上がる。ブラウザを開くとネットにつながっている。日本語入力のソフトをインストールする。これでブラウザからSNSもメールもできるようになった。
仕事場のデスクトップPCが古い機種のせいか起動に時間がかかっていたので代替機としては助かる。
不思議なめぐり合わせだった。
吉村昭『赤い人』を読む。
北海道に送られ、開拓に従事した囚人たちの話だ。北海道の町も、道も、広大な農地も彼ら開拓に従事した者たちが命がけでつくりあげてきた。
子どもたちが小さいころ、北海道を旅行した。こんな歴史の上にこの大地はあるのだと語り聞かせてやるべきだった。

2017年11月17日金曜日

寺山修司『ポケットに名言を』

明治神宮野球大会が終わった。
秋は社会人、大学、高校の全国大会が行われ、野球の一年を締めくくる。とりわけ高校野球の全国大会は春と夏に甲子園球場で開催されるため、明治神宮大会は東京で行われる唯一の全国大会だ。
今年は一回戦の日本航空石川(北信越)対日大三(東京)、準決勝の創成館(九州)対大阪桐蔭(近畿)、明徳義塾(四国)対静岡(東海)の三試合を観る。出場10チームのうちただひとつの公立校である静岡を応援していたが、優勝した明徳義塾に惜敗。春センバツに期待したい。
大学の部が4年生にとって最後の大会であるのに対し、高校の部は夏の選手権大会後に始動した新チーム最初の全国大会。各地区を勝ち抜いてきた精鋭とは言うものの、まだまだ完成度は低く、荒削りなプレーも多い。試合経験を積みかさねていくことで課題や強化すべき弱点を見出していくのだろう。今はまだそんな段階だ。
その点大学生の野球は完成度が高い。高校生の試合を観たあとだと子どもと大人ほど違う印象を受ける。投手は慎重に球種を選ぶ。丁寧にコントロールされたボールがコーナーを突く。ピンチのときも動ずることなく目の前の打者に集中して打ちとる。優勝した日体大の試合を観てそう感じた。
大学野球というと東京六大学、東都大学にいい選手が集まって高いレベルを維持していそうに思われるが、春の大学野球選手権も含めトーナメント方式の全国大会を見ると思いのほかそんなこともなく、地方の名の知れていない大学やマスコミにあまり取りあげられないリーグにも好投手、好打者がいる。野球の裾野は広く、奥は深い。
寺山修司はアウトロー、アングラの印象が強い。根強い人気があるのも彼がそうした雰囲気を持っているからかもしれない。表現する人としての寺山修司を支えていたのは広くて深い読書体験だったのではないか。そう思い知らされる一冊だ。
それはともかく慶應や東洋が決勝に残らないと大学野球は少し寂しい。

2017年11月16日木曜日

野口悠紀雄『知の進化論』

ゴッドフリー・レッジョ監督「コヤニスカッティ」を観たのは20代だった。
82年公開のこの映画がテレビで放映され、βマックスのビデオテープに録画した。たたみかける衝撃的な映像にフィリップ・グラスの音楽が印象的だった。こうした撮影手法を微速度撮影というんだと教えてくれたのは当時働きはじめたテレビコマーシャル制作会社の先輩だった。
たとえば1秒刻みに撮影した画像をつなげて動画にする。昔のムービーは1秒24コマだから24秒ぶんの動きが1秒に凝縮される。人はちょこまか歩く。夜のハイウェイでは光が走り、飛行場の上空に光が飛ぶ。
1枚1枚の写真をつなげて動画にするという点で微速度撮影はアニメーションといえる。動いていないものを動かすか、動いているものをさらに動かすかが異なるだけだ。1秒間に24コマのフィルムをまわすムービーに比べるとフィルムにかける予算を大幅に省くことができる。そもそもアニメーションはそうした経済観念にも支えられていた。フィルムは高価なものだし、現像して、プリントして、編集して。まわせばまわすほどお金がかかるのだ。
とはいえこの手法もなかなか素人にできるものではなかった。カメラを固定する。露出をはかり、できあがる映像にイマジネーションをはたらかせてインターバル間隔を決める。撮影した一コマ一コマの画像現像してつないでいく。けっして一般的ではない。
ところがデジタルカメラが普及して誰にでも簡単にできるようになった。カメラの機能にインターバル撮影というモードが加えられた。また動画編集ソフトやインターバル撮影した画像を動画にするアプリケーションも増えてきた。こうした背景もあって、ネット上では微速度撮影した動画を頻繁に見るようになった。今では微速度撮影などとはいわない。タイムラプス動画と呼ばれている。デジタルはカタカナなのだ。
知識をオープンにすることで新たな可能性が切りひらかれる。要するにそんな内容の本だ。

2017年11月14日火曜日

スコット・フィッツジェラルド『若者はみな悲しい』

築地市場場外に気に入った蕎麦屋がある。
細打ちの麺がうまい。かき揚げそば、カレーそば、納豆そばなどを好んで食す。
人気店である。
昼どきは店の外でお客さんが席が空くのを待っている。場所がら観光客も多い。もちろん築地の店だけあって、築地色豊かな日替りメニューをお目当てに来るのだろう。とりわけしらす丼や海鮮丼と蕎麦のセットメニューは人気が高い。
蕎麦屋だから昼から酒を飲んでいる人もいる。それなりのネタがあるんだから、つまみにだって事欠かないだろう。夜は夜で居酒屋としても人気店であると聞いた。
蕎麦屋で飲むのはきらいじゃない(というか大好きだ)。わさびかまぼこやたまご焼き、やきとり、とりわさ、海苔なんかをつまみにちびちび飲んで、もりそばとかけそばを食べて帰る。そんな酒が好きだ。
さて築地の人気店。気に入ってはいるものの、どうも気に入らない。ランチメニューも夜の天然まぐろの中トロも。蕎麦屋のつまみは蕎麦のたねになっている材料の流用であるべきだという固定観念があるせいだろうか。せっかくうまい蕎麦を供する店なのに、蕎麦を脇に追いやっている感じが好きになれないのか。うまい刺身を食べたければ寿司屋にでも行けばいい。蕎麦屋に行ったら蕎麦屋のものを食べる。
今はそういう時代じゃないのかもしれない。刺身のうまいピザ屋や餃子がおいし鰻屋などというものがあって、それはそれでいいじゃないかと人々は寛容に心を開いているのかもしれない。たとえそれが現実だとしても海鮮丼がおいしい蕎麦屋は気に入らない(もちろん誰かが誘ってくれたらほいほいと付いていって、中トロなんかをほおばるかもしれないが)。
フィッツジェラルドを読む。村上春樹訳の『グレート・ギャツビー』以来だと思う。
光文社の古典新訳シリーズで08年に刊行されている。村上訳ギャツビーの2年後だ。すっかり見落としていた。
フィッツジェラルドは悲しい。短編はとくに悲しい。絶望的に悲しくなる。

2017年11月12日日曜日

加藤典洋『村上春樹は、むずかしい』

最近持ち歩いているペンタックスQであるが、電源を入れるたびに日付がリセットされる。
写真は撮れるし、時計として持ち歩いているわけではないので不便とは思わない。ただ最近は撮った写真がいつ撮影されたものであるか(さらに言えば使ったレンズ、ISO感度や絞り、シャッタースピードもわかる)が記録として残っていると便利は便利だ。しかもSDカード内に日付ごとのフォルダをつくってくれるので後々助かることが多い。
律儀な人なら電源をオンにするたびに117に電話をかけて秒数まで合わせるにちがいない。あいにくそう生まれついていないのでそのままにしている(そのままでも写真は撮れる)。
ネットで調べてみると日時を保持するバッテリーだかコンデンサーだかが弱くて同じ症状のユーザは多いようだ。そして律儀な方は12,000円ほどお支払して修理してもらっているらしい(中古でボディを買っておつりがくるお値段である)。ペンタックスは他の機種でも同様の症状があるようで、ある意味伝統芸なのかもしれない。
何か妙案はないものかと思っている。けっして律儀な人間ではないが、がめついところは否定できないのである。
村上春樹の作品がむずかしいかむずかしくないか。
そういう尺度で読んだことがないので何とも言えない。おもしろいから読む。一読者としてそんな姿勢を貫いてきた(ちょっとおおげさだけど)。
高度経済成長期まで支えてきた「否定性」という概念を覆した「否定性の否定」というキーワードが取り上げられている。たしかに肯定性の時代に村上春樹はあらわれた。その真っただ中にいたせいか、あまり意識したこともなかったが。
著者は村上作品群を初期・前期・中期・後期・2011年以降と分類している。思い返してみるとたしかにそうだなと思えはするものの、そういったこともあまり考えることなく読んできた。
おもしろいから読む。
この立ち位置はかわらないと思う。

2017年11月7日火曜日

吉村昭『海も暮れきる』

来年の甲子園をめざして各地で新チームが始動した。
11月上旬は全国10地区の地区大会が終わる。今週末から最初の全国大会である明治神宮野球大会が開催される。新しい勢力地図が描かれる。
昨年は近畿地区優勝の履正社が東京地区代表の早稲田実業に勝って優勝した。この大会で勝ったチームは来春のセンバツで優勝候補筆頭になる。もちろんその後、センバツ、夏の選手権と勝ち続けることは難しい。
明治神宮野球大会はセンバツや選手権にくらべると歴史は浅いが、過去に秋春夏と連覇した学校は1校しかない。97~98年の横浜高校がそれだ。エース松坂大輔を擁した横浜は春の関東大会も含め、新チームになってから1年間公式戦無敗を誇った(横浜は秋の国体でも優勝している)。
秋春を連覇した高校も横浜に加え、83~84年の岩倉(センバツ決勝で清原、桑田のPL学園に完封勝ち!)、01~02年の報徳学園(後に早大~トヨタ自動車~ロッテの大谷智久がエースだった)の3校しかない。トップレベルのチーム力を維持向上させながら冬を越すのがいかに難しいかがわかる。
今年の東京代表は日大三。決勝の対佼成学園戦では9回表連打で逆転し優勝した。関東地区代表は千葉の中央学院。準決勝で東海大相模を破って勢いに乗った。その他、大阪桐蔭、明徳義塾、聖光学院など名門校が出場する。東京で開催される唯一の全国大会。楽しみだ。
ここのところあまり本を読んでいない。
以前読んだ本を思い出しながら、こうしてブログを書いている。というかそもそも本の内容に関して書いているわけではないからどうでもいいことなんだけれど。
尾崎放哉についてはまったく知らなかったし、自由律俳句のことも同様。定型にとらわれない俳句というものが今でもよくわからない。たしかに「咳をしても一人」という句は詩情にあふれていると思う。心に残る。だけどこれが俳句だといわれてもどうもぴんと来ない。
尾崎放哉。ひどい生涯を送った人だ。

2017年11月6日月曜日

吉田凞生編『中原中也詩集』

出かけるときはカメラを持ち歩く。
町歩きのメインのカメラはパナソニックのLUMIX GX-1というちょっと古いマイクロフォーサーズ。このボディにニコンの20mmやフォクトレンダーの17.5mmか25mmを付けて出かける。野球を観るときはカール・ツァイスの85mm。マイクロフォーサーズだと160mm(35mm換算)の望遠になる。
荷物を多くしたくない旅行や外出用にペンタックスQという小さなミラーレスカメラも持っている。小さいだけのカメラで飛び抜けて素晴らしい写真が撮れるわけではない(もちろん撮影者の技術にも問題があろう)。ペンタックスQシリーズはQ7とかQ10など新しい機種が次々に登場したが、マグネシウム合金でその筐体を仕上げた初代Qは格別に持ち味がいい。
ペンタックスQには標準ズームレンズを付けて出かけることが多い。他の選択肢が少ないからだ。Dマウントレンズという昔の8mmカメラで使われていたレンズをマウントアダプターを介して使うこともある。中古カメラのショップで5.5mmというオールドレンズを手に入れた。35mm換算にして30mm。イメージサークルの関係で四隅はケラれるけれどまずますのワイドレンズである。
読んだけれどブログに残さなかった本が幾冊もある。
読み終わって何年も経つとなんでこれを読んだのか、そのとき何を考えていたのかなど思い出せない。この詩集もそのひとつ。少しだけ思い出せるのはその頃の通勤途中、耳さびしくなり、何か聴きたいと思って、図書館で借りたCDを(もちろん個人で楽しむために)録音し、仕事の行き帰りにゆわーんゆわーんと聴いていたことだ。
言葉を耳で聴くというのはいいものだ。言葉が「ことば」になる。そのうちもの足りなくなって詩集を読むことにした。
どの詩を読んでも切ない気持ちになるのはどうしてだろう。
まるでオールドレンズで撮ったみたいな風景が眼前にひろがるのだ。

2017年10月30日月曜日

宮下紘『ビッグデータの支配とプライバシーの危機』

イングレスというゲームがある。
以前も紹介したかもしれない。ポータルという拠点を占拠し、リンクでつないで陣地をひろげていく。そんなゲームだ。敵の陣地を破壊するための武器があり、ポータルにレゾネーターというパーツを挿すことで自陣にする。さらに防御用のアイテムもある。
エージェントと呼ばれるプレイヤーが参加している。レベルは1から16まで。一応レベル16が目標なのだが、それを過ぎても楽しんでいるユーザも多い。このゲームの奥深さを感じる(FoursquareというGPSを利用したSNSにゲームの要素を加えたアプリと考えていい)。
イングレスには(当然のことながら)膨大な数のエージェントが参加している。いわゆるビッグデータ処理技術の上に成り立っているゲームである。それぞれのエージェントがどれほどの個人情報と紐づいているかはわからないが(グーグルアカウントと連繋している人も多い)、多数のエージェントの動きを処理するとともにひとりひとりの活動履歴も残している。
毎日朝晩活動している場所ならそのエージェントが住んでいる地域であろうし、日中であれば勤務先がそのあたりである公算は高い。毎週決まった日に特定の場所でゲームをしているとすれば、その付近で習いごとでもしているかもしれない。こうしてイングレスを楽しんでいる人たちは着実に行動履歴を残していく。
その人の生活圏や移動のパターンがわかればマーケティングに活用できる(もちろんメールやSNSのアカウントと紐づいてればだが)。スーパーマーケットや地元商店のお買い得情報や勤務先近くのランチ情報の提供など。個人情報の利活用とはそういうことだ。これはイングレスに限った話ではない。大型店舗のポイントカードだって同じこと。
個人情報は今後さらに利活用され、個人も企業も自治体もその恩恵にあずかることだろう。そのぶんじゅうぶんな管理がなされなければならない。要するにそういうことだ。

2017年8月27日日曜日

佐々木俊尚『ネットがあれば履歴書はいらない-ウェブ時代のセルフブランディング術』

甲子園が終わると、来年の甲子園に向けて2年生中心の新チームが始動する。
当面の目標は北海道、東北、関東、東京、東海、北信越、近畿、中国、四国、九州の10地区の代表を決める地区大会だ。北海道と東京をのぞけば、地区大会の優勝・準優勝チームが来春のセンバツに出場できると思って間違いない。
東京都も来月から地区大会の一次予選がはじまる。24の会場で勝ち進んだ64チームが本大会に進出。新チームによる最初の公式戦なのでシード校はない。ガラガラポンの抽選で組み合わせが決まる。
組み合わせが決まった翌日の新聞で記事になっていたのはこの夏ともに甲子園まで駒を進めた東海大菅生と二松学舎が初戦で対戦する。もちろんここで負ければ夏春連続出場はなくなる。
この一次予選は江戸川球場などをのぞけば指定された当番校のグランドで行われる。当番校というのはシード校みたいなもので、当番校同士は本大会まで対戦しない。当番校でない学校は自校にグランドを持っていても他校で試合をする。強豪チームのグランドへ出向いて、組み合わせ抽選によっては初戦で強豪校とぶつかる。今回の二松学舎はそうした例だ。
二松学舎だって千葉県柏に人工芝の野球場を持っている。ただ会場校に指定されないだけである。立地の問題もあるだろう。遠方の学校が早朝柏まで遠征するのは容易ではない。東東京の学校は千葉、埼玉などにグランドを持っていることが多い。都外で会場になっているのは埼玉県八潮市の修徳くらいのものだ。
ということで24の会場のうち19までが西東京で行われる。二松学舎や安田学園、東海大高輪台など東東京の強豪は遠征を余儀なくされるわけだ。
だからどうということでもないが、有力校が早々と姿を消していくのは残念でならない。
4年ほど前に読んだ本。
ネット時代は自己PRや本書の題名にもなっているセルフブランディングが容易にできるという。裏返せば個人情報がだだ洩れになるということでもある。

2017年8月22日火曜日

チャールズ・ディケンズ『二都物語』

今夏全国高校野球選手権大会は花咲徳栄高校が優勝した。
埼玉県勢初だそうだ。
とにかく今年は打撃の大会だった。昨秋の明治神宮大会決勝は履正社が11得点、センバツ決勝は大阪桐蔭が14得点、そしてこの夏の決勝も花咲徳栄が14得点である。この夏の大会は本塁打も68本飛び出した。広陵の捕手中村奨成は清原を上回る大会新の6本塁打を打った。ここしばらく高校野球は攻撃力主体になるのだろうか。
何年かにいちど、長い小説を読みたくなる。それがディケンズだったりする。英文学が好きだというわけではない。ディケンズも『デイヴィッド・コパフィールド』『オリバー・ツイスト』くらいしか読んだことはない。
『二都物語』はずいぶん昔のことだがテレビで放映された映画をビデオテープに録画して(それもベータマックスだったからたしかに昔のことだ)、何度も観ようと思った。テレビに映し出されるモノクロの画面。馬車がやってくる。と同時に眠気もやってくる。そういうわけで結局最後まで観ることもないまま世の中からベータ方式のビデオデッキはなくなってしまったのだ。
ということで今回手にしたこの本は中学生がはじめて文庫本を買ったときと同じくらいまっさらな状態といえる。最後どうなっちゃうんだろうという予備知識も何もなく読み進めるって楽しい。もちろん過去に読んだディケンズから多少なりとも学習はしているので、どのみちハッピーな結末が待っているのさ~なんて予想を自分なりに立ててはいた。
期待は、いい意味で裏切られた。こんな結末だったのかと。もちろんここで詳細を書くつもりはない。要するにこれまで読んだディケンズ的な終わり方じゃなかったっていうことだ。つくづく映画をちゃんと観ておかなくてよかったと思った。
東京ではもうすぐ秋季大会のブロック予選がはじまる。来夏に向けて、その前にセンバツに向けて、さらには明治神宮大会に向けて野球の新しい季節が今年もはじまる。

2017年8月20日日曜日

吉村昭『闇を裂く道』

丹那トンネルが開通するまで東海道本線は国府津から箱根の山を迂回して沼津に出ていた。
旧東海道本線は御殿場線という名のローカル線になっている。古い幹線の名残りを見に国府津まで出かけたことがある。もともと東海道本線なだけあって、かつて複線だった跡やトンネルの跡を見ることができた。
富士山を間近で眺めることのできるのどかなローカル線ではあるが、東海道本線時代には輸送量の多さと勾配のきつい難所越えがネックだった。国府津や沼津での機関車交換に時間をとられた。急坂を登りきれずレールの上を車輪が滑るため、機関車前部から砂を巻きながら走ったともいう。
SLの時代でなくなってからも国府津駅にはしばらく機関庫と転車台が遺されていた(ように記憶している)。雄大な富士をバックに蒸気機関車全盛期に思いを馳せる。
丹那トンネルは熱海(来宮)と函南を結ぶ。完成当時清水トンネルに次ぐ日本で二番目に長いトンネルだった。その上は丹那盆地があり、湧き水の豊かな水田地帯だったという。わさびが名産だったというからそれはきれいで豊かな水だっただろう。
吉村昭のトンネル作品には黒部ダム建設用のトンネルを掘るノンフィクション『高熱隧道』がある。火山帯の高熱地下を掘り続ける話だった。こんどのトンネルは水攻めである。トンネル内に流れ出る水は工事を難航させただけではない。丹那盆地の住民の生活をも変えてしまった。出水で枯れたこの地はその後酪農と畑作を主とするようになった。
なにしろ15年もの歳月をかけて開通したトンネルだ。この本だけでは語り尽くせぬ物語があったにちがいない。崩落事故や崩壊事故で多くの犠牲者を出した。崩落事故にまきこまれた17名の作業員が一週間後救出される。闇の中でじっと救助を待つ。読んでいるだけで酸素が薄く感じられてくる。
こんど熱海に行く機会があったら、温泉なんてどうでもいいから、トンネルの入り口を見てみたい。

2017年8月9日水曜日

吉村昭『高熱隧道』

トンネルを掘ったこともなければ、トンネル工事を想像したこともなかった。
黒部川発電所建設のインフラ整備のひとつとして谷深い秘境にトンネルを掘る話がこの『高熱隧道』だ。
広告の仕事を続けていてよかったと思うのは、自分では経験できなかった職業の人と出会えたことだ。銀行や証券会社、食品会社などの担当者からそれぞれの業界の苦労話を聴くことは楽しいことだ。空調設備の設計や船舶の船級審査など、一生知りえなかった仕事だったかもしれない。製靴会社の工場で見せてもらった職人の技術も忘れられない。
ひとりの人生でふれることのできる職業の数なんてたかが知れている。そういう意味では吉村昭は興味深い作家である。日本全国を駆けまわって蜂蜜を採取する養蜂家、青森県大間でマグロを釣る人、戦闘機や戦艦をつくる人。読書ならではの出会いだ。
東京の葛西に地下鉄博物館という施設がある。トンネルはシールドマシンという円筒形の巨大な掘削機で掘り進むと紹介されていた。さほど難しい作業ではないと思っていた。ところが読んでみると黒部峡谷に穿ったトンネルの工法はそうではない。穴を開け、ダイナマイトを入れ、爆破する。土砂を運び出してはまた穴を開けてはダイナマイト。この作業を延々繰りかえす。トンネルの両端から掘り進み、中心点はほとんどずれないというから驚きだ。技術者の設計がそれだけ正確であるということらしい。
大手ゼネコンである大成建設は「地図に残る仕事」というキャッチフレーズでずいぶん長く企業広告を展開している。魅力を感じる素敵なコピーだ。しかし建設土木というと危険をともなう仕事である。ましてや相手が“自然”ならなおさらだ。命がけの仕事だ。
黒部峡谷のトンネルの場合、現場にたどり着くだけでも命がけの現場であり、自然の脅威にさらされながらの作業が続く。手に汗握るシーンが続く。もちろん手に汗をかくだけでは済まない。なにせ“高熱”なのだから。

2017年7月28日金曜日

根来龍之『プラットフォームの教科書』

道を訊ねられることが少なからずある。
銀座の三原橋の交差点で新橋演舞場はどこですか、みたいに。晴海通りを指差してこの先に万年橋という信号がありますからそこを右に。ルノアールの看板が目印です。少し行くと采女橋という信号があるので直進してください。左手に見えてきますよ、などとおしえる。
不思議なことにほとんどの人は僕の知っている場所を訊いてくる。昔、京都の大丸の前で烏丸駅はどこですかと話しかけられたこともある。
それはいいとして、もしもあるとき見知らぬ人からプラットフォームってどういうものなんですかと訊ねられたら、おそらく答に窮するだろう。しかし人生というものは何が起きるかわからない。その矢先書店で目にとまったのがこの本だった。
読めばわかるけどそれを人に伝えることが難しいことってあるよね。とりわけICT関連で多い。ひととおり読んで、そうかそういうことだったんだと理解したものの(それを理解と呼んでいいなら)、やはり道を訊ねるみたいに訊かれたら答えられるかどうか、自信がない。
休日お昼にラーメンが食べたくなったとする。その際の選択肢としては少し歩いて駅前のラーメン店に行くか、スーパー、コンビニで購入してうちでつくるかが考えられる。これはプラットフォームではない(僕の勝手な解釈だけど)。玉子やほうれん草を茹でたり、ねぎをきざんだり、場合によっては豚肉のかたまりを買ってきてチャーシューからつくることだってある。人によってはメンマだって炒めるにちがいない。もちろんお店で食べるとしてもこうしたプロセスは当然必要だ。
ではプラットフォームとはなにか?
それはカップラーメンではないだろうか。ラーメンを食するという欲求を満たすあらゆる工程がレイヤー化されている。誰もがそこに参加できる。お湯を沸かし、注ぐだけで均質な利便性を得られる。
ちょっと違うかもしれないけど、こんど道で訊ねられたらそう答えるようにしよう。

2017年7月26日水曜日

小霜和也『急いでデジタルクリエイティブの本当の話をします。』

1980年頃、すなわち僕が大学生だった当時、デジタルと名の付くものといえば時計くらいしかなかった。
今ではあらゆるものにデジタルという言葉が付く。カメラはデジタルカメラになった。デジタル家電なる製品も一般的なものとなった。有形物でなくてもデジタルマーケティングなる方法論も生まれた。
デジタルクリエイティブは少し違うような気がしている。それは方法論としてデジタル化された手法を意味するのではなく、デジタル化のすすんだ世の中でどういったコミュニケーションが有効かを模索する考え方なのではないかと思っている。
そもそもクリエイティブという仕事は課題解決のための方法のひとつで視聴覚=感性を刺激する高速で平易なコミュニケーションであり、そのためのアイデアの集積回路みたいなことかなとずっと思っていた。
方法論としてのデジタルクリエイティブの端緒はコンピュータ上であらゆるデザインや動画の加工・編集ができるようになったことではないだろうか。センスのある職人の手からセンスのある人の手にクリエイティブは譲渡された。手仕事のデジタル化だ。写植文字を切り刻んで素敵なボディコピーをレイアウトする仕事がなくなり、フイルムをひとコマずつ切ってつなぐ職人技が意味をなさなくなった。
あくまで方法論の話であるが。
デジタルクリエイティブとはデジタルな環境下でより効果的な広告表現ということか。それは(ある程度まで)計測可能で、PDCAがまわせるシステムであり、まさに「運用する」クリエイティブである。そのためには総合系エージェンシーとデジタル系エージェンシーとの融合が欠かせないという。
もちろん筆者の出自はデジタルでなく、クリエイティブだからクリエイティブ寄りの見解が多い。「デジタル系エージェンシーはこれまでクリエイターを育ててこなかった」と一刀両断されているもともとデジタル系の方はこの本にどういった反応を示すだろうか、興味深い。

2017年7月25日火曜日

吉村昭『陸奥爆沈』

何ヵ月か前のこと、会社のネットワークがつながらなくなってしまった。
インターネットにもつながらないし、プリンタで出力もできない。LANのケーブルもWi-Fiもまったく用をなさなくなってしまった。
配線とメンテナンスをお願いしている会社の人に来てもらったが、原因がわからない。ルータをリスタートしても復旧の兆しがない。応急処置として以前使っていた予備のルータに入れ替えたところようやくつながった。
その翌日同じ人が来て、もとのルータに接続しなおした。普通につながる。昨夜の不通は何だったのか。
管理部門から原因がわかり次第お知らせしますというメールが届いたけれど、もう何ヵ月か音沙汰なしだ。こうして世の中に数多ある通り雨のような不具合は忘れ去られていく。
最後に船に乗ったのはいつだろう。
3年ほど前だったか、南房総の館山市を訪れた帰りに浜金谷からフェリーに乗り、久里浜に渡った。わずかな航海だったが、東京湾をわたる風が気持ちよかった。お昼に食べたアジフライもうまかった。
とある仕事で「ちきゅう」という船に乗ったことを思い出した。
「ちきゅう」は地球深部探査船といって海底深く穴を掘ってその堆積物などを採取する特殊な船だ。内部を取材させてもらう仕事だったので海に出たわけではない。清水港で停泊中に乗せてもらった。
人にもよるけれど何か特別な事情でもないかぎり、人はそう頻繁に船には乗らないのではないかと思う。ましてや軍艦に乗るなんてことも、たぶんない。
その身近でない軍艦を間近で見せてくれたのは、吉村昭の『戦艦武蔵』だった。その製造過程を読むかぎり、軍艦が爆沈するなど想像にもおよばないのだが、さすがに火薬庫に火が着けば沈んでしまうものなのだね。しかも軍艦爆発事件のほとんどが人為的な原因だったという。人間が恐れるのはやはり人間ということだろうか。
さて、先のネットワークの不具合だが、原因はいまだに究明されていない。

2017年7月24日月曜日

吉村昭『七十五度目の長崎行き』

ちょうど昨年の4月と7月に仕事で長崎を訪れた。
波佐見という町にある小さな社がある。水神宮という。土の神様と水の神様が祀られている。その社殿に奉納される天井画を取材した。はじめての長崎だった。というかはじめての九州だった。
仕事で行く旅は味気ない。効率が最優先されるからだ。
早朝の飛行機、レンタカーでの移動、宿の近くで夕食。翌早朝から取材・撮影して、最終の飛行機で帰京する。仕事だからといえばそれまでだけど、それでも長崎に行ってきたというと眼鏡橋は見てきたか、グラバー園には行ったのか、ちゃんぽんは食べたのかと訊ねられる。行ったところは波佐見という焼きものの町で長崎市街にいたのはほんの2時間ほどだ。三菱重工長崎造船所もシーボルトや坂本龍馬ゆかりの地もまったく訪ねていない。
負け惜しみではなく、多くの人が想像するのと少しちがった旅ができるのはそれはそれでうれしいこともある。
長崎空港から波佐見町に行くにはJR大村線に沿った国道を北上する。川棚という小さな駅(これがなかなか風情のある駅なのだ)を目印に川棚川沿いを上流に行ったあたりが波佐見町だ。このあたりは穀倉地帯で麦畑がどこまでもひろがっている。仕事の合間や移動中にレンタカーの窓から見た風景こそ何ものに代えがたかったりするものだ。
ちなみに朝9時過ぎに東京駅を出発すると川棚駅に16時半に着く。乗換はわずか2回である。いまどき陸路で長崎に行くのもどうかと思うが、思いのほか遠くない(波佐見町のもうひとつの入口JR佐世保線の有田駅なら乗換1回で16時前に着く)。いつかそんな旅をしてみたい。
吉村昭は長崎を舞台にした作品をいくつも書き上げている。その訪問回数は100を超えるという。そのほとんどが資料収集や取材などの仕事だったわけだからやはりあわただしい移動のくりかえしだったのではないだろうか。
移動の車窓から吉村昭はどんな風景を目にしただろうか。

2017年7月10日月曜日

中尾孝年『その企画、もっと面白くできますよ。』

ときどき思い出したように広告クリエイティブの本を読む。
お目にかかったことのある人、いっしょに仕事をしたことのある人より、最近ではほとんど面識のない方の書いた本が増えてきた。時代を引っ張ってきた先達が少しづつ世代交代をくりかえし、業界内での新陳代謝がすすんでいるせいだろう。
中尾孝年は電通入社当初、中部支社クリエーティブ局に配属されたという。21世紀になる少し前のことだ。僕は当時、中部支社のCM企画を年に何本か手伝っていた。エネルギー関連の仕事やコンビニエンスストアのキャンペーンなど。
新幹線で名古屋に行って、夜遅くまで打合せをして、ぎりぎり最終ののぞみ号で帰るか、クリエーティブ局の方々とお酒を飲んで一泊し、翌朝帰京した。いっしょにチームを組んでいるCMプランナーに同世代が多く、仕事が片付いても話は尽きなかった。
当時は(今もそうだけど)仕事をするうえであまり余裕がなく、自分のアイデアを絵コンテに描いて、さらにその案をプレゼンテーションの舞台にのせるだけで精いっぱいだった。誰かが考えたアイデアに自分のアイデアを盛り込んで、ブラッシュアップしたりもした。そうして一年に何本かテレビコマーシャルになってオンエアされた(名古屋地区だけ放映されてできあがりを視ていない仕事も多かった)。
自分なりに「面白い」広告を考えよう、つくろうと努力してきたつもりだけど、今になってみるとさほど面白くはなかった気がする。もっと面白くしようという熱意みたいなものがなかったような気もする。とりあえず面白そうなカタチになればそれでいい。そうしてお酒を飲みに出かけた。
著者の中尾孝年はおそらくその頃の新入社員だったのだろう。
おじさんたちがとっとと仕事を片付けて、栄の街に繰りだしていく頃、クリエーティブ局のフロアでひとり「面白い」企画を追求していたのだろう。そして当時彼を指導した上司にも勝るすぐれた上司になっているにちがいない。

2017年7月4日火曜日

星野博美『戸越銀座でつかまえて』

その昔、高輪あたりが江戸のはずれだった頃、さらに南へ進んだ江戸越えの集落が戸越だという。
明治になって戸越村は周辺のいくつかの村と統合して、平塚村になり、昭和になって東京市に編入され荏原区となる。戦後荏原区は旧品川区と合併し、現在の品川区になった。
僕が生まれ育った町は旧品川区と荏原区の区界に近い。立会川という川が流れていて、橋を渡れば旧品川区だった。三菱重工や日本光学(現ニコン)の工場があり、さらに下流には国鉄大井工場があった。現在ではJR東日本総合車両センターとなっている。旧品川区の大崎地区も工業地帯だった。現在のように再開発がすすめられる以前、大崎駅周辺は武骨な工場が林立していた。
旧品川区にくらべると荏原区は商業がさかんだったイメージが強い。もともと農村地帯だったからさほど歴史は古くはないだろうが、武蔵小山や戸越銀座、中延に大きな商店街を持っているのが特徴的だ。
戸越銀座は関東大震災後の復興にあたり銀座からレンガをもらい受けたことがきかっけで命名された日本初のなんとか銀座であるという。品川区内の商店街としては圧倒的な知名度を持っている。
それでいて個人的に少々距離を感じるのは(たしかになにか買い物をしたという記憶がまったくない)先述したように荏原区のはずれで育ったせいかもしれない。買い物をするにもどこかに出かけるにしても大井町駅を起点としていた。東急大井町線高架下の商店街や阪急百貨店に幼少の記憶が集中している。戸越銀座には無縁だったが、武蔵小山や中延の商店街(当時アーケードが付いているだけでモダンな商店街だった)には思い出がある。中学校の制服を扱う洋品店があったからだ。
というわけでこれまで疎遠にしていた戸越銀座とお近づきになりたく、ときどき散策したり、本書のようなタイトルの本を読んでみたりしているのである。
そういえば僕が通っていた幼稚園は戸越銀座商店街のすぐそばにある。

2017年6月30日金曜日

山本周五郎『つゆのひぬまに』

日本には季節が四つあるが、野球には春夏秋と三つの季節がある。
これは個人的に季節分けをしているだけで世の定めでも自然の摂理でもなんでもない。3月から5月が春、6月から8月が夏、9月から11月が秋。
春。高校野球でいえば、甲子園球場で選抜大会が開催され、春季地区大会の予選がはじまる。大学野球の春季リーグ戦、社会人野球もJABA(日本野球連盟)主催の大会が各地でスタートする。もちろんプロ野球もだ。
高校野球の地区大会が終わり、都市対抗野球の代表が決まって春野球は終わる。
夏野球は大学選手権から。高校野球も選手権大会の予選がはじまる。7月になれば毎日のように甲子園をめざすチームが熱戦を繰りひろげ、社会人は東京ドームで日本一を競う。そして8月には甲子園。
大学選手権は35季ぶり東京六大学春季リーグ戦優勝の立教大が59年ぶり4度目の優勝を飾った。立教は長嶋茂雄がいた昭和32年と翌33年に連覇している。それ以来の優勝ということで決勝戦は多くのOBが神宮球場に集まったという。もちろん長嶋さんも。
主将の熊谷敬宥は仙台育英時代に上林誠知(ソフトバンク)らとともに明治神宮大会で日本一を経験しているが、長嶋茂雄の目の前でインタビューを受け、チームメートに胴上げされるなんて一生の宝物だろう。
山本周五郎の珠玉の短編集を読む。冒頭の「武家草鞋」からすばらしい。「おしゃべり物語」も「妹の縁談」もいい。なんといっても表題作「つゆのひぬま」がいい。この原作をベースに黒澤明が脚本化した「海は見ていた」はその後遺志を継いだ熊井啓が映画化した。遺作「まあだだよ」の後作品化された「海は見ていた」と「雨あがる」の二編は黒澤最晩年期の仕事である。「海は見ていた」はぜひ観てみたい。
6月ももう終わる。来月は都市対抗野球に高校野球選手権大会。大阪や西東京など有力校がそろった地方大会からも目がはなせない。
この夏はどんな野球にお目にかかれることか。

2017年6月27日火曜日

ウィリアム・サマセット・モーム『月と六ペンス』

2009年、国立近代美術館でゴーギャン展を観た。
「我々はどこから来たのか我々は何者か我々はどこへ行くのか」が日本ではじめて公開された。1897~98年に描かれたこの作品は世界的に高く評価されている。ボストン美術館まで出向かずに観ることができたのはラッキーだった。
ポール・ゴーギャン(ゴーガン)のタヒチでの日々は自伝的回想『ノアノア』に描かれている。
モームの『月と六ペンス』をはじめて読んだのはいつ頃だろうか。新潮文庫で読んだ記憶がある。装幀に特徴があったからだ。いつしか光文社の古典新訳文庫シリーズの一冊として上梓されていた。ゴーギャンをモデルにした小説だったことは憶えてはいたものの、あらためて読み直してみると人の記憶なんてこんなものかと思う。
ゴーギャン(もちろんチャールズ・ストリックランドのことだ)がこの世のものとは思えないくらい最低な人間として描かれている。突如として迸り出た主人公の天才、その深さ奥行を際立たせる演出かも知れないが、あんまりだ。モームが本当に描きたかったのは実はストリックランドと対比される凡庸な人びと(妻を寝とられた友人ストルーヴや突如裕福な生活が舞い込んできた夫人)だったのだろうか。
僕の記憶の中のストリックランドはある日才能にめざめ、タヒチにわたって開花した天才画家というストーリーでしかなかった(世界的に認められたのはその死後であるけれど)。おそらく年月とともに読んだ当時の記憶が薄れ、その後作品を観たり、別の本を読んでいくうちにいやな人ではなくなってしまった。『月と六ペンス』もゴーギャンの伝記的小説でしかなくなってしまった。
それでしばらくぶりに読み直してみたら「あれ、こんなひどい人間だったっけ」となってしまったわけだ。
そういえば昔タヒチを訪れたことがある。ゆるやかな時間が流れていた。
ゴーギャンの時代はマルセイユから2か月かかったという。
きっと心が洗われる旅だったにちがいない。

2017年6月20日火曜日

関川夏央『昭和が明るかった頃』

CM制作会社でアルバイトをはじめて何度目かの撮影現場ではじめて吉永小百合を見た。
ある飲料のお中元用のテレビコマーシャルだった。
映画やテレビ番組などさほど多く出演しておらず、テレビコマーシャルも4~5社と契約していたが、それ以上は出演しないというのが事務所の方針だったと聞いた。
全盛期の吉永小百合を知らない僕たちの世代にとって彼女は圧倒的なスターだった。もちろん全盛期を知る上の世代にとってもこれは同じことだろう。シズル撮影(僕たちはグラスに注ぐ飲料のカットを撮るためにグラスを磨いたり、氷を削ったりしていたのだ)の準備のかたわら、照明機材の隙間から遠く見る吉永小百合は光彩を放っていた。
吉永小百合は何を演じても吉永小百合である。体当たりの演技や汚れ役ができない。そんな批判も一方であったという。関川夏央は吉永小百合の全盛期は1962年春(浦山桐郎監督「キューポラのある街」)から64年秋(清水邦行監督「愛と死をみつめて」)と言い切る。それ以降一本もヒット作がないにもかかわらず神話的な存在でありえたのはその全盛期に団塊の世代とその上の男たちが清純派として冒しがたい空気をまとった吉永小百合像をつくってしまったからだという。
吉永小百合が日活のトップスターになった背景には石原裕次郎が61年スキーで大けがをしたこともある。
関川夏央は吉永小百合と石原裕次郎を対比させながら、戦後激流の時代を読みとる。吉永小百合に関しては当時の社会の変化や日活という環境、そして勤労少女たらざるを得なかった彼女の家庭環境、そして生真面目な性格がキャパシティの小さな女優として早熟な運命を課してしまったのかもしれない。
もちろん作者のめざしたところは娯楽映画の歴史や俳優論ではなく「ある時代の思潮と時代そのものの持つ手ざわり」(文庫版あとがき)である。
関川夏央が愛してやまない戦後昭和の第二期(昭和35年から15年)がそこにある。

2017年6月13日火曜日

安西水丸『神が創った楽園』

1992年9月から10月にかけてニューヨークに遊びに行った。
当時のメモにはセントラルパークの回転木馬(『キャッチャー・イン・ザ・ライ』に出てくるあの回転木馬だ)を見ること、安西水丸がニューヨーク滞在中住んでいた家をさがすこと、トイザらスでおもちゃを買うこと、TYMNETという中継サービスを利用してパソコン通信をすることといったささやかな目標が記されている。
安西水丸は1969年3月羽田空港を立ち、ハワイ経由のパンナム機で渡米した。はじめはハドソン川のほとり、リバーサイドドライブにあるアパートに住み、その後アッパーイーストの閑静なアパート(たしか83st.だったと思う)に引っ越している。
1990年、僕はタヒチを訪れている。新婚旅行でだ。
特にどうしても行きたい場所が思いつかなかった。当時は毎日忙しかったから、日常から逃避できる南の島がいいんじゃないかと思った。できればフランス語圏がいい。選択肢は狭まってきて、行き先はタヒチに決まった。予備知識はなにもなかった。パペーテからプロペラ機に乗り換え、海の上の空港に着き、船でボラボラ島へ。ポール・ゴーギャンやサマセット・モームの『月と六ペンス』を思い出したのは到着してしばらくたってからのこと。
安西水丸は2004年にタヒチ・ビバオア島を訪れている。
彼の訪ねた町や通ったバーなど、僕はいつも後を追いかけるように訪問していたが、めずらしいことにタヒチに関しては僕の方が先輩である。とはいえやはり絵を描く人だけあって、ゴーギャンの足跡を追っている。ぼんやり海をながめながらヒナノビールを飲んでばかりいた輩とはちょっとちがう。
そもそも僕は「何もしない」をしに行く旅だったのでパペーテとボラボラ島以外は訪ねていない。複製だらけのゴーギャン美術館に行った気もするが記憶にない。
ちなみに僕はニューヨークに行ったのにストロベリーフィールズを訪ねていない。

2017年6月12日月曜日

一坂太郎『幕末歴史散歩東京篇』

表記といえばやはり外来語の表記は難しい。
以前にも書いたけれど本来日本語ではない言葉を日本語に置き換えるわけだから誤差が生じるのは致し方ない。最近ツイッターやインスタグラムに投稿する際のハッシュタグで迷うことが多い。
たとえば#ラーメンと#らーめん。これはカタカナ表記するかひらがな表記するかだけの違いだからまあどちらでもよい。汁物のラーメンは日本で生まれた文化だかららーめんと書くのも一理ある。もちろん拉麺と表記することもあるだろう。漢字にしておくことで翻訳というワンクッションを避けるねらいもあろう。Babyと書いておけばベイビーでもベイビィでもベイベでもそのニュアンスは読み手にゆだねてしまえる。
焼売はどうだろう。これもシューマイかシュウマイで迷う。携帯電話をケイタイとするかケータイにするかに近い感触をおぼえる。シューマイはどうも軽薄な気がする(実にどうでもいいことであるが)。インスタグラムのハッシュタグで多数派は#シュウマイである。僕もカタカナで書くならシュウマイの方がいいと思っている。ただし、炒飯はチャアハンではなくてチャーハンだろうというご批判もあるだろう。それもよくわかる(わかったところでどうしようもないのだが)。
中公新書の『幕末歴史散歩東京篇』を読む。著者はもともと山口県の学芸員だったそうだ。仕事の合間や出張のついでに訪ね歩いたのだろう。膨大な史跡コレクションには感服する。
落語「居残り佐平治」、川島雄三監督の映画「幕末太陽傳」の舞台となった品川宿の土蔵相模の復刻模型が品川歴史館にあることを知る。東京到る処史跡ありだ。
ところで外来語ではないのだが、冷やし中華は冷し中華か、冷やし中華で悩むことがある。初夏の訪れを告げるいわゆる「はじめました」の貼り紙には冷し中華が多い気がしているが、インスタグラムのハッシュタグでは#冷やし中華の方が多数派である。
ほんとうにどうでもいいことではあるが。

2017年6月6日火曜日

関川夏央『昭和時代回想』

先日ある動画を編集していたときのこと。
何か気になるところはありますかと意見を求められたので、インタビューシーンのテロップ「良かった」は「よかった」の方がいいんじゃないかと言ってみた。ディレクター氏がここのインタビューではひらがなが続くのでここは漢字にしておきたいというのでじゃあそうすればと答えた。ひらがなが線路のようにどこまでも続こうが「良い」は「よい」もしくは「いい」であると個人的には思っている。もちろんこれはあくまで個人的な話なので他人様に強要することではない。
個人的な話を続けると「何々するとき」「なになにしたこと」は「する時」「した事」と表記しない。ひとつに文章が古くさく感じられるせいだが、もちろん個人的な話だ。
長いこと広告制作の仕事にたずさわっていると印刷媒体にくらべると映像媒体の制作者の方が漢字を使いたがる。テレビという限られたスペースで文字数を節約しようとの配慮だったかもしれない。僕が個人的にあまり漢字を多用しないのは漢字をあまり多用した文章を読む機会が極端に少ないからだ。
わざとらしい漢字表記もいかがなものかと思う。「おいしい」を「美味しい」と書くのはちょっと恥ずかしい。「はやり」を「流行り」とするのは何となく気が利いていると思う。
関川夏央がふりかえる昭和が好きだ。昭和をいとおしむ姿勢と視線が好きだ。
これまで読んできた筆者の本にはほとんど言及されていなかった彼自身の昭和も描かれている。僕が生まれ育った時代、その10年前に思いを馳せてみる。昭和は案外いいやつな顔をしてそこにたたずんでいる。
関川によれば戦後昭和は15年刻みでその相を変えているという。終戦から昭和35年までの混乱と復興の時代。35年から50年までの高度経済成長とその挫折の時代。さらに昭和の終焉とバブル景気の時代。非常にわかりやすい分類だ。
あっという間に過ぎ去っていった昭和。今にして思えばなんてもったいないことをしたか。

2017年6月2日金曜日

内田百閒『阿呆の鳥飼』

黒沼真由美というアーティストがいる。
学生時代は油画を専攻していた。大学院修了後テレビCMの制作会社で企画にたずさわりながら、どちらかといえば立体の造形に関心が移っていったようだ。正直に言ってひと目見ただけではよくわからないオブジェをつくっていた。
あるとき目黒寄生虫館を訪れた際、何か閃いたのだろう、レース編みでサナダムシを編み上げた。以後レース編みを駆使してミジンコやらセミやらクラゲなどをつくっている。
もともと生き物が好きだったのだろう。隻眼の猫を飼い、競馬中継を丹念に視聴し、セミの抜け殻を集めていた。疾駆する競走馬の筋肉の動きをスケッチしたりしていた。
普通の人には見えないものが見えている。それが芸術家の芸術家たる所以ともいえるが、そういった資質を彼女は持っていた。動きから構造が見えてくる。その逆もある。しくみから動きが見えてくる。もちろんそんなことは凡人には見えてこない。長いこと同じ職場で仕事をしていたが、幸か不幸かさして影響を受けることもなった。ただひとつ黒沼真由美の影響をあげるとすれば内田百閒を読みはじめたことかもしれない。
『阿房列車』を皮切りに内田百閒との旅がはじまった。
鉄道や列車はもともと好きだったので思いのほか苦も無くこのとっつきにくい先生と親しくなることができた。用もないのに列車に乗りに行くことが正当性のある行為であるということもおしえてもらった。百閒先生は黒澤明監督「まあだだよ」でかつての教え子たちに「せんせい!せんせい!」と呼ばれている。僕もおそらくそのなかのひとりだと思っている。そして先生は鉄道だけでなく、猫だけでなく、小鳥に関しても阿呆だとこの本におそわる。そういえば映画の中で先生は鳥かごをだいじそうに運んでいたっけ。
この本には小鳥に限らず、小動物を愛でる百閒先生の気持ちが随所に描かれている。思わず涙が浮かぶ。笑みがこぼれる。まるで黒沼真由美の毎日を見ているようである。