CM制作会社でアルバイトをはじめて何度目かの撮影現場ではじめて吉永小百合を見た。
ある飲料のお中元用のテレビコマーシャルだった。
映画やテレビ番組などさほど多く出演しておらず、テレビコマーシャルも4~5社と契約していたが、それ以上は出演しないというのが事務所の方針だったと聞いた。
全盛期の吉永小百合を知らない僕たちの世代にとって彼女は圧倒的なスターだった。もちろん全盛期を知る上の世代にとってもこれは同じことだろう。シズル撮影(僕たちはグラスに注ぐ飲料のカットを撮るためにグラスを磨いたり、氷を削ったりしていたのだ)の準備のかたわら、照明機材の隙間から遠く見る吉永小百合は光彩を放っていた。
吉永小百合は何を演じても吉永小百合である。体当たりの演技や汚れ役ができない。そんな批判も一方であったという。関川夏央は吉永小百合の全盛期は1962年春(浦山桐郎監督「キューポラのある街」)から64年秋(清水邦行監督「愛と死をみつめて」)と言い切る。それ以降一本もヒット作がないにもかかわらず神話的な存在でありえたのはその全盛期に団塊の世代とその上の男たちが清純派として冒しがたい空気をまとった吉永小百合像をつくってしまったからだという。
吉永小百合が日活のトップスターになった背景には石原裕次郎が61年スキーで大けがをしたこともある。
関川夏央は吉永小百合と石原裕次郎を対比させながら、戦後激流の時代を読みとる。吉永小百合に関しては当時の社会の変化や日活という環境、そして勤労少女たらざるを得なかった彼女の家庭環境、そして生真面目な性格がキャパシティの小さな女優として早熟な運命を課してしまったのかもしれない。
もちろん作者のめざしたところは娯楽映画の歴史や俳優論ではなく「ある時代の思潮と時代そのものの持つ手ざわり」(文庫版あとがき)である。
関川夏央が愛してやまない戦後昭和の第二期(昭和35年から15年)がそこにある。
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