今月の8日。都心でも雪が降った日に衆議院の選挙が行われた。結果は自民党の圧勝だった。
選挙戦。野党は当然のことながら、与党を批判する。衆院解散の大義は何なのかと。争点は与野党ともに物価高対策だから境目は見えにくい。若い人たちからすれば、人気の高い首相を批判するというのは悪口を言っていると映るらしい。現政権の問題点を指摘すればするほどポジティブな演説を繰り広げる与党が後押しされる結果になる。自民党が票を増やしたというより、野党が悪口を続けることで自滅し、大敗北を喫した形になった。
鷹匠裕の長編は『帝王の誤算』『ハヤブサの血統』『聖火の熱源』に続いて4冊目になる。
著者がSNSで和歌山県の新聞「紀伊民報」に小説の連載をはじめたことは知っていた。それが昨年本になって出版されたのである。そしてようやく読み終えた。
これまで読んだ作品は波乱万丈のドキドキひやひやするストーリーだったが、今回は史実に基づく落ち着いた一冊。それも取り上げたテーマが片山哲という政治家だったこともある。
片山哲は日本社会党の初代委員長であり、日本国憲法制定後初の首相となった人物である。が、こちらの不勉強もあるが、その名前以外はほとんど知らない(多くの人がそうなのではないかと思うが、僕だけか)。
GHQによる占領時代に日本は大きく民主化に舵を切った。左翼中道に寛大な時代背景が社会党を比較第一党に押し上げた。ただそんな時代は長続きはしない。終戦後の混乱した世の中に加え、連立内閣の閣内も混乱を来す。政権は8カ月で瓦解する。
選挙に勝って、首班指名を受け、政権を握り、矢継ぎ早に紛糾し、総辞職せざるを得なくなる。前三作のような波乱万丈が起こる間もなく、あっという間に時代が変わっていった。
昔から野党は右だ左だで対立して自滅する。保守合同後の自民党は異なる意見を駆け引きしながらまとめていく。結局、政治っていうのは大人の仕事なんだな。
2026年2月21日土曜日
2026年2月17日火曜日
瀬尾まいこ『そして、バトンは渡された』
里親という制度がある。ある事情で親、あるいは保護者と暮らせない子どもが4万人以上いるという。そのほとんどが児童養護施設で生活する(もう少し小規模で家族的なグループホームもある)が、子どもを預かって育てていいという人がいる。いわゆる里親である。里親になるにはいろいろと(年齢など)条件はあるが、希望するなら児童相談所に問い合せて、研修を受ければたいていの人がなれる。自身、子どもに恵まれなかった人もいれば実子とともに里子を育てている人もいる。
特別養子縁組という制度もある。里親里子の関係ではなく、法的にも親子になる制度だ。ユーチューブやこども家庭庁のサイトでこうした事例が紹介されている。動画で見るこれらの親子はいたって明るい。僕みたいに実親でのほほんと育った輩にはちょっと信じ難いところがあるが、自分の知らない世界で自分の知らない家族のカタチがある。いずれにしても多数派である施設の子どもたちは18歳以降、自活しなければならない。大学進学はおろか、アパートを借りるのも困難なことがあるという。新しい家族のカタチがもっと定着してほしいと願ってやまない。
ひょんなことからこの本に出会った。主人公森宮優子には実父水戸を含め、3人の父親がいる。実母は優子が生まれてすぐに亡くなったが、実父の再婚相手梨花がポジティブに主人公を育てる。二度目の父、泉ヶ原は優子をピアノの世界に導く(直接的ではないにせよ)。複雑で何度も苗字を変えた主人公は「新しい家族のカタチ」のなかで、少しは挫折があるものの、のびのびと生きていく。
ネットのレビューには本作品の主人公は優子ではなく、三度目の父である森宮さんではないかとか、優子が育つ道標を用意した二度目の母ではないかという投稿が多くある。まあ、それほど登場人物皆が活躍した物語だ。そして皆が幸せになっていく。本屋大賞に相応しい作品だった。というか、本屋大賞受賞作にはずれはない。
特別養子縁組という制度もある。里親里子の関係ではなく、法的にも親子になる制度だ。ユーチューブやこども家庭庁のサイトでこうした事例が紹介されている。動画で見るこれらの親子はいたって明るい。僕みたいに実親でのほほんと育った輩にはちょっと信じ難いところがあるが、自分の知らない世界で自分の知らない家族のカタチがある。いずれにしても多数派である施設の子どもたちは18歳以降、自活しなければならない。大学進学はおろか、アパートを借りるのも困難なことがあるという。新しい家族のカタチがもっと定着してほしいと願ってやまない。
ひょんなことからこの本に出会った。主人公森宮優子には実父水戸を含め、3人の父親がいる。実母は優子が生まれてすぐに亡くなったが、実父の再婚相手梨花がポジティブに主人公を育てる。二度目の父、泉ヶ原は優子をピアノの世界に導く(直接的ではないにせよ)。複雑で何度も苗字を変えた主人公は「新しい家族のカタチ」のなかで、少しは挫折があるものの、のびのびと生きていく。
ネットのレビューには本作品の主人公は優子ではなく、三度目の父である森宮さんではないかとか、優子が育つ道標を用意した二度目の母ではないかという投稿が多くある。まあ、それほど登場人物皆が活躍した物語だ。そして皆が幸せになっていく。本屋大賞に相応しい作品だった。というか、本屋大賞受賞作にはずれはない。
2026年2月14日土曜日
島崎藤村『若菜集』
ミラノ・コルティナ冬季オリンピックが開催されている。コルティナは以前にも開催地となっている。そのときはコルチナダンペッツォという表記だったと記憶している。記憶といえばオリンピックの最初の記憶はメキシコ大会であるが、さほど印象に残っていない。道徳の授業でいつも視聴する番組の代わりにメキシコ大会の中継が放映された。
オリンピックの競技をテレビにかじりついて見たのは小学校六年生のときの札幌大会だ。当時のアルペン女王のアンネマリー・モザー=プレルがスイスの伏兵マリー
テレーズ・ナディヒに滑降、大回転の金メダルを奪われ、無冠に終わったこと、三冠をかけた回転でアメリカのコクランが勝ったことなどを憶えている。もちろんジャンプ七十メートル級の金銀銅独占は感動した。
今回の冬季オリンピックを見て思うのは競技数の多さだ。冬の大会といえばスキー。アルペンとノルディック。スケートならフィギュアとスピード、ホッケー。後はボブスレーとリュージュ。そんなものだった。
今はすごいね。以前から競技は増えてきてはいるが、スキーのモーグル、スノーボード、スケートのショートトラックなど。さらに団体戦なども設けられている。カーリングもいつしか人気の話題になっている。目のやり場に困る。どこを見ていいかわからない。
スピードスケートのショートトラックは格闘技のようで偶然性に大きく支配されている。これがスポーツかと思う。モーグルやスノーボードはどこが難しい技なのか、どうやって得点をつけているのかがわからないでいる。
で、結局トラディショナルなノルディック、アルペン、スピードスケート、フィギュアスケートばかりを見ている。
詩集はほとんど読まないが、以前、中原中也を読んだ記憶がある。図書館で朗読のCDを借りて、聴きながら読んだ記憶がある。今回もユーチューブで朗読をさがして音でも楽しみながら読んだ。今更ながら島崎藤村はすぐれた詩人だ。
オリンピックの競技をテレビにかじりついて見たのは小学校六年生のときの札幌大会だ。当時のアルペン女王のアンネマリー・モザー=プレルがスイスの伏兵マリー
テレーズ・ナディヒに滑降、大回転の金メダルを奪われ、無冠に終わったこと、三冠をかけた回転でアメリカのコクランが勝ったことなどを憶えている。もちろんジャンプ七十メートル級の金銀銅独占は感動した。
今回の冬季オリンピックを見て思うのは競技数の多さだ。冬の大会といえばスキー。アルペンとノルディック。スケートならフィギュアとスピード、ホッケー。後はボブスレーとリュージュ。そんなものだった。
今はすごいね。以前から競技は増えてきてはいるが、スキーのモーグル、スノーボード、スケートのショートトラックなど。さらに団体戦なども設けられている。カーリングもいつしか人気の話題になっている。目のやり場に困る。どこを見ていいかわからない。
スピードスケートのショートトラックは格闘技のようで偶然性に大きく支配されている。これがスポーツかと思う。モーグルやスノーボードはどこが難しい技なのか、どうやって得点をつけているのかがわからないでいる。
で、結局トラディショナルなノルディック、アルペン、スピードスケート、フィギュアスケートばかりを見ている。
詩集はほとんど読まないが、以前、中原中也を読んだ記憶がある。図書館で朗読のCDを借りて、聴きながら読んだ記憶がある。今回もユーチューブで朗読をさがして音でも楽しみながら読んだ。今更ながら島崎藤村はすぐれた詩人だ。
2026年1月30日金曜日
浅田次郎『壬生義士伝』
幕末を舞台にした本を何冊か読んではいるが、新選組に関してはたいした興味を持てないままだった。どんな隊士がいたかと訊ねられても近藤勇、土方歳三、沖田総司、永倉新八くらいしか答えられない。一応、司馬遼太郎の『燃えよ剣』だって読んでいるのに。ここに登場する吉村貫一郎などは創作上の人物かとはじめ思っていたくらいだ。
武士というものは学問と剣術に励み、身に付けることで権力を持つのだと単純に考えてしまうが、武士は武士で階層社会に生きている。吉村貫一郎は盛岡藩の足軽だった。武家社会では最下層であり、薄給の身分だ。食うや食わずの生活を送っていたが、妻子を養うために脱藩し、新選組に加わる。攘夷派志士らを惨殺することで金銭を得て、郷里に仕送りする。なんとも貧乏くさい侍である。
ところが読みすすめるうちに吉村貫一郎という人物が魅力的に見えてくる。この小説で吉村貫一郎は主人公には違いないのだが、物語の真ん中でストーリーをぐいぐい動かしていくわけではない。彼を取り巻く人々に語らせることで徐々にその人物像が明らかになっていく。先日読んだ『木挽町のあだ討ち』もそんなつくりの小説だった。あだ討ちの目撃者や関わった人物の証言によって少しずつ事件の全貌が見えてくる。取材・証言形式の小説とでもいおうか。もしかしたら著者の永井紗耶子は浅田次郎のこの小説をヒントにしたのかもしれない。あるいは時代物の小説ではよくあるパターンなのか(このジャンルを多く読んでいないのでわからないが)。
浅田次郎を読むのは一連の『蒼穹の昴』シリーズを読んで以来久々である。僕は常々、浅田次郎という作家は大人のおとぎ話を綴ることができる人物という認識を持っている。今回も「家族」と「友情」という普遍的なテーマについてずいぶん考えさせられた。侍らしい侍とは単に剣術だけでなく、こうした普遍性を心根に持ち続ける人ではないだろうかとも思った。
武士というものは学問と剣術に励み、身に付けることで権力を持つのだと単純に考えてしまうが、武士は武士で階層社会に生きている。吉村貫一郎は盛岡藩の足軽だった。武家社会では最下層であり、薄給の身分だ。食うや食わずの生活を送っていたが、妻子を養うために脱藩し、新選組に加わる。攘夷派志士らを惨殺することで金銭を得て、郷里に仕送りする。なんとも貧乏くさい侍である。
ところが読みすすめるうちに吉村貫一郎という人物が魅力的に見えてくる。この小説で吉村貫一郎は主人公には違いないのだが、物語の真ん中でストーリーをぐいぐい動かしていくわけではない。彼を取り巻く人々に語らせることで徐々にその人物像が明らかになっていく。先日読んだ『木挽町のあだ討ち』もそんなつくりの小説だった。あだ討ちの目撃者や関わった人物の証言によって少しずつ事件の全貌が見えてくる。取材・証言形式の小説とでもいおうか。もしかしたら著者の永井紗耶子は浅田次郎のこの小説をヒントにしたのかもしれない。あるいは時代物の小説ではよくあるパターンなのか(このジャンルを多く読んでいないのでわからないが)。
浅田次郎を読むのは一連の『蒼穹の昴』シリーズを読んで以来久々である。僕は常々、浅田次郎という作家は大人のおとぎ話を綴ることができる人物という認識を持っている。今回も「家族」と「友情」という普遍的なテーマについてずいぶん考えさせられた。侍らしい侍とは単に剣術だけでなく、こうした普遍性を心根に持ち続ける人ではないだろうかとも思った。
2026年1月24日土曜日
高橋源一郎『「書く」って、どんなこと?』
小学生の頃、読書ノートを書いていた。本を読み終えたら、そのあらすじや感想などを書きとめる。そんな面倒くさいことって子どもだったからできたのだろうと思う。そもそもが読書感想文は苦手だった。思ったことを書くというのはちょっと恥ずかしい気がした。
このブログをはじめて20年になる。大人になって読後メモを書くようになったのは30歳を過ぎた頃だった。かれこれ30数年、たいして役に立たないメモを書き続けている。
こういう書き方をすれば長く続けられるかもと思ったのはキネマ旬報の連載「安西水丸のシネマストリート」を読んでからだ。この連載は和田誠による「お楽しみはこれからだ」の後を受けてはじまった連載である。安西も和田に勝るとも劣らない映画フリークだったがまともな映画談議になれば和田のシリーズを越える連載はハードルが高すぎる。安西は作品にまつわる自身の思い出やその映画を見た日のことなどを綴り、「お楽しみは」にはない肩の力の抜けたゆるい連載に仕立て上げた。
先ほども書いたように読書感想文は苦手だ。不得手なものを無理矢理書きとめるよりかはその本を読んで思い出したこと、読んだときの状況なんかを記しておいた方がよほど後々役に立つのではないか。そんな思いではじめた読後ノートがこのブログである。
ところで「書く」って何なんだろう。
以前読んだ『言葉からの自由』で三島邦彦は「書くことは思い出すことに似ている」と述べている。この本はコピーライティングの本である。自らの人生の記憶なかの言葉を拾い集めることで広告コピーは書かれるというわけだ。
高橋源一郎は考えながら書くことがすべてではないという。考えずに書くという行為も存在するらしい。夏目漱石の『坊っちゃん』は考えずに書かれたという(本当か?)。登場人物になり切る書き方とでも言おうか。
僕は今、この文章を考えながら書いている、考えないで書いても同じかもしれないが。
このブログをはじめて20年になる。大人になって読後メモを書くようになったのは30歳を過ぎた頃だった。かれこれ30数年、たいして役に立たないメモを書き続けている。
こういう書き方をすれば長く続けられるかもと思ったのはキネマ旬報の連載「安西水丸のシネマストリート」を読んでからだ。この連載は和田誠による「お楽しみはこれからだ」の後を受けてはじまった連載である。安西も和田に勝るとも劣らない映画フリークだったがまともな映画談議になれば和田のシリーズを越える連載はハードルが高すぎる。安西は作品にまつわる自身の思い出やその映画を見た日のことなどを綴り、「お楽しみは」にはない肩の力の抜けたゆるい連載に仕立て上げた。
先ほども書いたように読書感想文は苦手だ。不得手なものを無理矢理書きとめるよりかはその本を読んで思い出したこと、読んだときの状況なんかを記しておいた方がよほど後々役に立つのではないか。そんな思いではじめた読後ノートがこのブログである。
ところで「書く」って何なんだろう。
以前読んだ『言葉からの自由』で三島邦彦は「書くことは思い出すことに似ている」と述べている。この本はコピーライティングの本である。自らの人生の記憶なかの言葉を拾い集めることで広告コピーは書かれるというわけだ。
高橋源一郎は考えながら書くことがすべてではないという。考えずに書くという行為も存在するらしい。夏目漱石の『坊っちゃん』は考えずに書かれたという(本当か?)。登場人物になり切る書き方とでも言おうか。
僕は今、この文章を考えながら書いている、考えないで書いても同じかもしれないが。
2026年1月16日金曜日
杉並第五小学校創立七十周年記念事業実行委員会『新杉五物がたり 付荻窪物語』
杉並区に住むようになって30数年。
西武新宿線沿線の井草に10数年、天沼に移り住んで10数年になる。井草に住んでいた頃、近隣には桃井第五小学校があり、天沼には杉並第五小学校があった。井草と天沼はさほど離れていないのにどこからが杉並でどこからが桃井なのかわからないでいた。荻窪駅の北側には杉並第五小学校があり、南側には桃井第二小学校がある。それで杉並区の行政区分はどうなっているのか疑問に思った。
杉並区は現在、区内を通る鉄道に沿って、井草(西武新宿線)、荻窪(JR中央線、東京メトロ丸の内線)、西荻、阿佐谷、高円寺(JR中央線)、方南和泉(東京メトロ丸の内線、京王線)、高井戸(京王井の頭線)の七つの地域に区分されている。しかしこの区分は鉄道が整備されて以降のもので歴史的な側面は度外視されている。もともと杉並区は杉並町、和田堀町、井荻町、高井戸町が合併して誕生した。上荻窪村、下荻窪村、上井草村、下井草の合併で生まれたのが井荻村(町)である。桃井第一小学校はかつての井荻村役場に隣接する薬王院の薬師堂を最初の校舎にしたそうだが、井荻町の小学校が桃井第〇小学校で杉並町の小学校が杉並第〇小学校である(他にも高井戸第〇小学校もある)。現在の小学校の所在地に昔の地図を重ね合わせるとよくわかる。
この本は創立70周年を迎えたときに杉並第五小学校の教職員、卒業生や地元民の協力で生まれた貴重な史料である。小学校の歴史もさることながら、天沼という集落とその歴史を読み解くうえで大いに参考になった。巻末には「荻窪物語」が付されている。鉄道開設後の荻窪の発展が丁寧に記されている。著者は松葉襄。1965年から2020年まで発行された杉並のタウン誌『荻窪百点』の編集長である。
杉並第五小学校は2006年に創立80周年を迎えたが、2008年若杉小学校と合併して天沼小学校として生まれ変わり、新たな歴史を刻んでいる。
西武新宿線沿線の井草に10数年、天沼に移り住んで10数年になる。井草に住んでいた頃、近隣には桃井第五小学校があり、天沼には杉並第五小学校があった。井草と天沼はさほど離れていないのにどこからが杉並でどこからが桃井なのかわからないでいた。荻窪駅の北側には杉並第五小学校があり、南側には桃井第二小学校がある。それで杉並区の行政区分はどうなっているのか疑問に思った。
杉並区は現在、区内を通る鉄道に沿って、井草(西武新宿線)、荻窪(JR中央線、東京メトロ丸の内線)、西荻、阿佐谷、高円寺(JR中央線)、方南和泉(東京メトロ丸の内線、京王線)、高井戸(京王井の頭線)の七つの地域に区分されている。しかしこの区分は鉄道が整備されて以降のもので歴史的な側面は度外視されている。もともと杉並区は杉並町、和田堀町、井荻町、高井戸町が合併して誕生した。上荻窪村、下荻窪村、上井草村、下井草の合併で生まれたのが井荻村(町)である。桃井第一小学校はかつての井荻村役場に隣接する薬王院の薬師堂を最初の校舎にしたそうだが、井荻町の小学校が桃井第〇小学校で杉並町の小学校が杉並第〇小学校である(他にも高井戸第〇小学校もある)。現在の小学校の所在地に昔の地図を重ね合わせるとよくわかる。
この本は創立70周年を迎えたときに杉並第五小学校の教職員、卒業生や地元民の協力で生まれた貴重な史料である。小学校の歴史もさることながら、天沼という集落とその歴史を読み解くうえで大いに参考になった。巻末には「荻窪物語」が付されている。鉄道開設後の荻窪の発展が丁寧に記されている。著者は松葉襄。1965年から2020年まで発行された杉並のタウン誌『荻窪百点』の編集長である。
杉並第五小学校は2006年に創立80周年を迎えたが、2008年若杉小学校と合併して天沼小学校として生まれ変わり、新たな歴史を刻んでいる。
2026年1月8日木曜日
原真『音と光の世紀』
2026年を迎えた。
寒い日が続く。ついこないだまで最高気温40度に近い毎日を送っていたことが俄かに信じられない。猛暑の日々のなかでやはり地球は温暖化しているのだ思い込み、なあに冬だってたいしたことはないだろう、今年は暖冬に違いないと身体に勝手な思い込みが染みついてしまっているのかもしれない。
いつだったか、北海道北見の予想最低気温が-40度だった。去年の7月、最高気温39度を記録した場所だ。年間の気温差が80度。どこか地球ではない惑星の話ではないかと思う。
正月三が日はいつも通りテレビを見て過ごした。とりわけ箱根駅伝と大学ラグビーは毎年欠かさず見るようになっている。それにしても今年の青山学院は強かった。一区の選手が出遅れたようにも見えたが、所詮は一区だ。その差は1分ちょっと。二区も三区も低迷したわけではない。差を詰めている。往路は後半四区五区勝負と見ていたのだろう。競馬でいえば最後の直線で一気に差し切ったカタチだ。
3日はラジオも聴いた。毎週土曜日に聴いている伊東四朗の番組とさだまさしの番組の放送が通常通りあった。
去年はラジオ放送がはじまって100年の年。放送100年ということで昭和100年と相俟って特番などが多数組まれた。ちなみにテレビは1953年開始だから去年は72年ということになる。テレビで放送100年を特集するのは少し無理があるかと思った。
ラジオもテレビもその黎明期にはさまざまなドラマがあったはず。その初期のねらいは軍事利用だったのではないかとも思うがどうだろう。
この本は放送の技術、制度、ビジネスなど総合的な視点で放送の歴史を追っている。その点評価できる。丁寧に取材し、資料を読み解いている。それでも読んでいて何か物足りなさを感じる。それは贅沢なことなのかもしれないが、もっとドラマチックでスリリングな放送の舞台裏も(もしあればのことだが)覗いてみたかった。
寒い日が続く。ついこないだまで最高気温40度に近い毎日を送っていたことが俄かに信じられない。猛暑の日々のなかでやはり地球は温暖化しているのだ思い込み、なあに冬だってたいしたことはないだろう、今年は暖冬に違いないと身体に勝手な思い込みが染みついてしまっているのかもしれない。
いつだったか、北海道北見の予想最低気温が-40度だった。去年の7月、最高気温39度を記録した場所だ。年間の気温差が80度。どこか地球ではない惑星の話ではないかと思う。
正月三が日はいつも通りテレビを見て過ごした。とりわけ箱根駅伝と大学ラグビーは毎年欠かさず見るようになっている。それにしても今年の青山学院は強かった。一区の選手が出遅れたようにも見えたが、所詮は一区だ。その差は1分ちょっと。二区も三区も低迷したわけではない。差を詰めている。往路は後半四区五区勝負と見ていたのだろう。競馬でいえば最後の直線で一気に差し切ったカタチだ。
3日はラジオも聴いた。毎週土曜日に聴いている伊東四朗の番組とさだまさしの番組の放送が通常通りあった。
去年はラジオ放送がはじまって100年の年。放送100年ということで昭和100年と相俟って特番などが多数組まれた。ちなみにテレビは1953年開始だから去年は72年ということになる。テレビで放送100年を特集するのは少し無理があるかと思った。
ラジオもテレビもその黎明期にはさまざまなドラマがあったはず。その初期のねらいは軍事利用だったのではないかとも思うがどうだろう。
この本は放送の技術、制度、ビジネスなど総合的な視点で放送の歴史を追っている。その点評価できる。丁寧に取材し、資料を読み解いている。それでも読んでいて何か物足りなさを感じる。それは贅沢なことなのかもしれないが、もっとドラマチックでスリリングな放送の舞台裏も(もしあればのことだが)覗いてみたかった。
登録:
コメント (Atom)

