2015年7月23日木曜日

吉村昭『天狗争乱』

山本周五郎の『新潮記』を読んで、俄然興味をおぼえたのが藤田東湖とその四男小四郎だ。
「提灯の光りにうつしだされた弟のほうは(藤田小四郎、つまり後に天狗党を興して筑波の義挙を決行した)眼の大きな、ひきむすんだ口許のいかにも意志の強そうな、きかぬ気の顔つきだった」
と書かれている。この一文が妙に気になったのだ。
吉村昭の小説は旅の小説である。
『長英逃亡』、『ふおん・しいほるとの娘』、『桜田門外ノ変』など読み終わると脚に筋肉痛が残るような作品が多い。『アメリカ彦蔵』をはじめとした漂流ものも壮大な旅の記録であるし、『蜜蜂乱舞』も現代に舞台が置かれているが、これもまた気の遠くなるような旅の物語である。
『天狗争乱』は水戸藩尊王攘夷派らが挙兵した天狗勢と呼ばれる武装集団が幕府軍の追討を受けながらも京都にいる一橋慶喜のもとをめざす。またしても艱難辛苦の旅である。山道を越え、吹雪を乗り越える。谷底に駄馬が落ちていく。
学生時代、歴史の勉強不足がたたって幕末のことはあまりよくわからない。尊王攘夷といっても当時流行りの考え方くらいの認識しかない(まったく情けない)。しかしながら吉村昭を通じて尊攘派のピュアな側面がよく見えてくる。これは『桜田門外ノ変』の関鉄之介にもいえることだが、水戸藩の尊攘派は純粋で一途なところがある。武田耕雲斎らに導かれた天狗勢はストイックなまでに統率がとれ、規律に忠実に行軍していく。身の引き締まる思いが伝わってくる。読者ばかりでなく、道々の小藩の者たちや行く先々で出会う平民たち、そして最後に対峙する加賀藩士までもがその筋の通った姿勢に共感する。できることなら彼らの望みを叶えさせてやりたいと誰しも思う。
逃亡でもなく、何か物質的な豊かさを求める旅でもなく、ひたすら志を遂げるためのみに前進していく旅。そういう旅って、ちょっとかっこいい。

2015年7月21日火曜日

山本周五郎『新潮記』

今月は父の三回忌、高校の同期会、バレーボール部のOB会と日曜ごとにイベントが組まれ、のんびりする間もなくはや下旬にさしかかっている。
父の実家は千葉県の南房総市にある。ついこのあいだまで安房郡といった。
非常に不便な場所である。一方的に不便と言い切ってしまうのもよくないと思うのだが、徒歩圏にコンビニエンスストアはない。かろうじて酒屋、魚屋、八百屋、雑貨店はあるものの、まとまって買い出しをするとなると1時間に1本なるかないかの路線バスに乗って、少し繁華な(その昔町役場があった)ところまで出かけなければならない。そこまで行けばスーパーがある。歩けば4~50分はかかるだろう。
こういう場所に住んでいる人は不便だと思わないのかといえば、たいていの家庭に軽自動車くらいはあるし、別段なんとも思わないのかもしれない。人は住む環境によって暮し方は変わるし、むしろいちいち歩いてコンビニに行くなんて方が不便だという考え方も成り立つ。
昨年までは近所に酒屋が一軒あって、そこでたいていのものは手に入った。店番をしていたおばあちゃんが父と同級生だったこともあり、よくおまけもしてくれた。この店ももう閉まっている(おばあちゃんは元気だと聞いているのであんしんしているが)。今年も8月のお盆には墓参りに行って、4~5日滞在する。今年はどんな不便に出会えるか、今から楽しみである。
山本周五郎『新潮記』、その舞台は幕末、尊王攘夷派が暗躍する時代。高松藩と水戸藩の親密な関係、高松藩尊攘派藩士の庶子が主人公というちょっと複雑なもつれ方。全体として緊張感の走る内容でありながら、物語がどことなくのどかに流れていく印象が強い。これも山本周五郎の持ち味と見るべきか。
その昔、南房総の防波堤に寝そべってフォークナーの『八月の光』を読んでいた。殺人事件の話だったとうっすら記憶していてるが、内容はまったくおぼえていない。ただ読んでいてのどかさを感じたという点で、この本は『八月の光』に似ている(かなり無理はあるが、勝手にそう思っている)。

2015年5月25日月曜日

京井良彦『つなげる広告』

ソーシャルネットワークの時代、広告はどう変わっていくのか。
ずいぶん以前からこの議論はなされてきて、その成果がすぐれた書籍となって世に出ている。
佐藤尚之の『明日の広告』、『明日のコミュニケーション』、須田和博『使ってもらえる広告』、佐々木紀彦『5年後メディアは稼げるか』、ロブ・フュジェッタ『アンバサダー・マーケティング』など。いずれもたいへん勉強になる。
この本もそうしたソーシャル時代の広告のあり方をさぐった本で効果的な実例が紹介されていてわかりやすい。
SNSは人間が本来的に持つ社会性を可視化したしくみで企業と生活者のフラットな関係を構築する。ソーシャルメディアはコミュニケーションという社会性の拡張であるという。衣服が皮膚の拡張、テレビ、ラジオが視聴覚の拡張であるのと同様に。
広告の役割は企業と生活者、あるいはブランドのファンをつなげること。ベストエクスペリエンス(従来のマス主体の広告は都合のいい面だけを見せるベストショットだった)が生み出す共感をコンテンツとしてそのつながりの上を自走させることがたいせつになる。
そして関係を維持継続する内発的動機を働かせるゲーミフィケーション。
どうやらテレビコマーシャルや新聞広告、ポスターの絵柄を考えるだけではなくなったのだ、広告の仕事は。次々にデジタルが生み出すテクノロジーやプラットフォームを活用して人と人、人と企業をつなげていく。もちろんCMやポスターのビジュアルもだいじなのだが、それを考えるだけではだめだということだ。
この本にも書いてあったが、昔の商売は顧客の顔が見えた。だからその関係をたいせつにしていた。いつしか大量生産、大量消費の時代になり、顔の見えない見知らぬ顧客を相手に商売をするようになった。それが今、企業と生活者、生活者同士がコミュニティをつくってつながっている。奇しくもテクノロジーによって商売の本来の姿が戻ってきた。
広告コミュニケーションは間違った方向には進んでいないと思う。

2015年5月22日金曜日

アンナ・カヴァン『氷』

ツイッターでちくま文庫をフォローしている。
売れている本があると次から次へとリツイートされる。タイムラインはその本の話題一色になる。その展開に引きこまれていくだとかわくわくするだとか一気に読んでしまったなどといった個人の感想だ。これらのツイートを読んでいるだけでこれは読まないといけないかも、という気にさせられる。
その一冊がアンナ・カヴァンの『氷』だった。
SNSで流行っているから読むというのも動機が薄弱だが、本との出会いなんてそんなものだろうとも思う。もちろん著者に関する知識はまったくなく、まるっきり無防備の状態で読了した。
その後ネットなどで調べてみるとアンナ・カヴァンはイギリスの小説家で幻想文学またはSF小説と分類される作品を残しているらしい。生涯にわたって精神を病み、薬物などの依存もあったという。またフランツ・カフカの強い影響を指摘する記述も見られる。
生まれは1901年フランスのカンヌ。20世紀初頭のカンヌがどのような町だったか想像もできないが、映画祭がはじまったのが1946年。世界的なリゾートになる前の海辺の小さな集落だったのではないだろうか。カンヌには行ったことがあるのでカンヌ生まれという点に関しては妙に反応が鋭くなってしまうのだ。
さて本の中身なんだが、読んでみてもさっぱりわからない。どういう時間軸で展開されているのか場所はどこなのか(具体的な地名はまったく出てこない)。数少ない登場人物である少女も長官もどんなキャラクターなのか雲をつかむようである。氷というのは何もメタファーなのか。読みすすめているうちに何かわかってくるかと思うとそういうわけでもない。どきどきわくわくしながら読んだ読者も多いようだが、どこをどう解釈すればこの世界に引き込まれるのか、ちょっと理解に苦しむ。もちろん誰かに説明してもらおうとも思わない。わからないものはわからない。これでいい。
これもあくまで個人の感想である。

2015年5月21日木曜日

山本周五郎『樅の木は残った』

このブログのフォントがあるときから大きくなってしまってどうも気に入らない。なんとか元に戻せないかと暇を見てはあれこれ調べているんだけど。
今ごろになって山本周五郎を読みはじめた。
どの本を読んでもたいていの人がもう読んでいる。
読書メーターという読書記録のSNSをFacebookと連携させているのだが、上巻を読み終え、中巻を読んでいるときに高校時代の友人から原田甲斐が惨殺されるという結末をおしえてもらった。当人は「上巻を読み終えた」ではなく「樅の木は残ったを読み終えた」と勘違いしたらしく、子どもの頃視た大河ドラマの話などをまじえてコメントしてくれたんだが、なんとか書房で編集の仕事にたずさわっていながら(職業はあまり関係ないか)、ネタバレするかおまえって笑ってしまった。
歴史の方はまったく詳しくないが、史実に残る原田甲斐は悪役で兵部宗勝の太鼓持ちとされている。味方を欺くまで悪役に徹し、藩の危機を命をかけて救った男として壮大なフィクションに仕上げたのがこの物語で山本周五郎独自の視点がここにある。
NHK大河ドラマの「樅の木は残った」では原田甲斐を平幹二郎が演じている。まったく記憶にない。おそらく当時日曜の夜は青春とはなんだみたいなドラマを視ていたように思う。はじめて通しで視た大河ドラマは「新・平家物語」で後にも先にも視聴をコンプリートしたのはこれだけだ。ちなみに現在放映されている「花燃ゆ」もどうしたわけかずっと欠かさず視ている。視聴率は相当低迷しているらしいが、投票率の低い選挙に出かける気分だ。原作はなくオリジナルの脚本だそうだが、やはり骨太な原作があったほうがいいんじゃないかな。
『青べか物語』を皮切りに、『五辦の椿』、『赤ひげ診療譚』、『さぶ』、『ながい坂』と周五郎の長編を読んできた。どちらかというとにわか周五郎ファンなのでおすすめの一冊があればぜひおしえてもらいたいと思う。

※2021年8月22日追記。フォント問題は書式をクリアすることで解決した。

2015年3月24日火曜日

芝山幹郎『映画一日一本―DVDで楽しむ見逃し映画365』

昨年の彼岸は甲子園で選抜高校野球を観て、南房総に墓参りに行く予定だった。
そんな矢先に叔父の訃報が届き、あわただしく通夜葬儀が執り行われ、連休は終わった。今年は春分の日が土曜。早起きして南房総に行ってきた。
墓参りが天気のいい日ののどかな休日であればそれに越したことはないのだが、墓参りは基本、墓そうじである。とりわけ千葉の墓は草刈りだったりするわけだ。腰が痛くなる。汗が流れる。墓参りの現実がそこにある。
翌日曜日は義父の墓参りに小平へ。こちらは東京の霊園なので多少は楽だ。急にあたたかくなったからといって、秋の彼岸にくらべると作業量は少ない。とはいえ二日続けての墓そうじはこたえる。
今月はここまで5本の映画を観ている。といってもレンタルしたDVDやBSで録画したものだ。映画が好きで好きでたまらないというタイプではないのでだいたい月4本くらい観られればいいと思っている。
この作者は筋金入りの映画ファンで一日一本、年間365本とそのタイトルで謳っているが、おそらくもっとたくさん観ているのではないか。ここで紹介されている映画を実際に何本観ているだろうかと数えたところわずか38本。かろうじて1割という成績だった。
映画といえば、昔のアートディレクターやイラストレーターで造詣の深い方が多い。また彼らは音楽に関してもくわしい。今よりはるかに情報が少なかった時代、海外の文化やデザインに接することができる場は映画とレコードジャケットくらいしかなかったからではないだろうか。きっとだいじにだいじに慈しむように見られていたにちがいない。
今、映画やCDジャケットはたいせつにされているだろうか。
春の彼岸を終えると次はお盆。その前に5月の連休がある。ここのところ毎年家(父の実家)のそうじに出かけているのだ。
5月の南房総はたぶんさわやかだ。

2015年3月20日金曜日

桐原健真『吉田松陰--「日本」を発見した思想家』

昨年の今ごろは都立小山台高校が21世紀枠でのセンバツ出場を果たし、東京は盛り上がっていた。
残念ながら大会初日の第三試合、大阪履正社高校と対戦し、完膚なきまでに打ちのめされたのは記憶に新しいところだ。
今年も野球の季節がやってきた。
昨秋明治神宮野球大会の結果をベースに考えれば、優勝した仙台育英と準優勝の浦和学院が中心となるだろうが、秋の地区大会を征した学校が必ずしも春強いとは限らない。それが野球だ。
昨年の地区大会優勝校10校のうち半数が初戦で姿を消し、残る5校、駒大苫小牧、沖縄尚学、白鴎大足利、関東一、龍谷大平安のうち2回戦を突破したのは沖縄尚学、龍谷大平安の2校のみ。結果的には龍谷大平安が優勝を果たし、明治神宮大会組の面目躍如とはなったが、注目すべきは昨秋苦杯をなめ、ひと冬かけて伸びてきたチームだろう。
近畿大会で優勝した天理に惜敗したものの夏春連覇の夢がかかる大阪桐蔭、浦和学院と打ち合いを演じた健大高崎、左右のエースを擁する木更津総合、九州大会を粘り強く戦った糸満あたりか。東京の二松学舎を含め、やはり昨夏のメンバーが残っているチームは有利なのだろうか。
地区ごとの力関係はどうだろうか。
明治神宮大会で東海大四にコールド負けした宇部鴻城の中国地区、4強のうち3校が公立校だった東海地区あたりのレベルはどうなのだろう。
NHKの大河ドラマがおもしろく、久しぶりに欠かさず視ている。佐藤純彌監督「桜田門外ノ変」で水戸藩主徳川斉昭役立った北大路欣也が毛利敬親だったり、関鉄之助の大沢たかおが小田村伊之助だったり、井伊直弼が伊武雅刀ではなく、高橋英樹だったり、なかなか混乱しながらではあるけれど。
歴史はきらいじゃないが、幕末から明治にかけてはあまり勉強もしていなかった。ドラマついでに吉田松陰について学ぼうと思った。この本はおそらく著者の博士論文あたりをベースにしているのだろう。けっこう本格的な論考だ。
もっとやさしい本から入ればよかったかも。

2015年3月18日水曜日

木村浩『情報デザイン入門』

美術系の大学には油絵や日本画など芸術性に富んだ学部とグラフィックデザインや建築、テキスタイルなど実用性を重視した学部とに二分できたのではないかと記憶している。最近では映像やwebなどのデザインを中心に学ぶ学部も増えているらしい。
「情報デザイン」という言葉の響きにつられてこの本を読んでみた。
著者はおそらくしっかりした研究者・学者なのではないだろうか。いわゆるデザインという柔軟なニュアンスが文章からは伝わってこない。だからといって学術論文的かといえばそうでもなく、繰りかえしが多く、誤字も目立つ。「本は表示から始まり目次がある」とある。このくらいなら読んでいてすぐにわかる。気づかず本にした出版社の良識を疑うだけだ。
「ホームページとはWWWブラウザを立ち上げたときに表示する最初のページを指す」なんて3回も書かれている。主語の抜けた文章もところどころにあって読みづらい。この人は書いた文章を読みなおしたりしないのか。
電子版が出たのは昨年のことであるが、新書の一冊として世に出たのは2002年。内容的にも古い。たとえば情報デザインといえばコミュニケーションデザインであるといっているが、今やコミュニケーションデザインといえば電波や紙媒体、ソーシャルネットワークをどう駆使して効果的なコミュニケーションを生むかという意味で使われることが多い。メディアやコミュニケーションの歴史にも触れているが、長い。せっかく電子版で出すのなら、もういちど編集者を含めて内容を吟味すべきではなかったのか。誤字脱字はもちろんのこと、当時と大幅に変わったであろうインターネットをめぐる情報デザインに関しても再考するべきではなかったのか。
とはいえ、実のところ楽しみながら読んでいたところも少なくない。ツッコミどころがこれほどあるとついつい先へ先へと読みすすめてしまうのである。
旅先で食べてしまったすごくまずい蕎麦の思い出、みたいな。
興味があれば読んでみてもいいかもしれないが、お金を払って読む本ではない。絶対におすすめしない。

2015年3月16日月曜日

三谷宏治『戦略思考ワークブック【ビジネス篇】』

イングレス(Ingress)というゲームにはまっている。
はまっているというほどのことでもないのだが、よくできたゲームだと思う。要は歩きまわって、ポータルと呼ばれる地点をハックする。FoursquareやFacebookでいうチェックインだ。ユーザ、つまりゲーム参加者は位置情報を提供する。位置情報はいわゆるビッグデータとなって個人の行動パターン解析に役立つ。
たとえば参加者のIDがGoogleのメールアドレスにひもづけられていれば、その住所、勤務場所などはおおむね特定できる。その日いちばん最初にハック(チェックイン)した場所はそらく自宅近辺である可能性が高い。日中ハックした場所はおそらく勤務先に近いだろう。利用している最寄駅もほぼ特定できるだろうから、どの路線で通勤しているかもわかるはずだ。休日定期的に移動する人はその地域を特定することであるいは趣味などもわかるかもしれない。こうやってその人の行動パターンや行動範囲を活かして広告活動につなげていくわけだ。
なんとよくできたゲームだろう。
これまで位置情報を収集するSNSはあった。Foursquareはメイヤーとかバッジを付与することで参加者のモチベーションを支えてきた。けれどもここまでのめりこませて収集する仕組みはおそらくIngrerssがはじめてではないだろうか。頭のいい人ってやっぱりすごい。
この本では「なにがだいじか」をきちんと見極めようとする「重要思考」がビジネスに欠かせない「戦略思考」を鍛えていくと説かれている。事例も豊富だ。題名にあるとおりワークブックの形式をとっている。読者参加型の戦略思考演習本といっていい。しかしながらその課題はかなり難解だ。
この本を読みながら自分で考えていくには相当なスキルが必要だと思う。今回はとりあえず読みすすめて、なるほどなるほどと感心するにとどめた。
頭のいい人ってやっぱりすごいなと思いながら。

2015年2月22日日曜日

大岡昇平『少年--ある自伝の試み』


三軒目の床屋は案外すんなり決まった。
実家を出てひとり暮らしをはじめた20代の終わり、住んでいるところからほど近いところに「小泉」という床屋はあった。前を通りかかると休みの日などはたいてい客が待っている。その町には床屋や美容室が多かったにもかかわらずだ。メンズサロンとか近未来的なおしゃれさのかけらもない古びた店がまえも気に入った。腕のよさそうなにおいがする。店主は赤ら顔の職人風の男だった。
小泉は僕がはじめて行った直後に改装されて、今風の洗髪台などが完備されたが、最初に行ったときは店の片隅にある流しまで歩いてシャンプーを落とした。そういう風情の店だった。「お客さんみたいに髪にくせがある人は短くした方がいいんですよ」といっては丹念に時間をかけて刈り込んでくれた。娘さんが修業中だったのか、店の手伝いをしていた。赤ら顔をさらに赤くした父親に、聞こえないような飲みこんだ声で怒鳴られているのを鏡越しに見ていた。
「お嬢さんが跡継いでくれるなんてうらやましいね」などと客に言われようものなら、また顔を赤らめて「こんなもんにまかせるほどもうろくしちゃいませんよ」などという。少しうれしそうでもある。そしてすぐに「チッ!何度言ったらわかるんだ、そこはそうじゃないっていつも言ってるだろ…」と聞こえないような声で娘を怒鳴る。
この本は大岡昇平の自伝『幼年』の続編にあたる。その舞台がほぼ渋谷だったのに対し、『少年』では学校のあった青山や従兄の住んでいた麻布市兵衛町あたりが中心になる。中学生になって行動半径がひろがっている。渋谷青山間で乗る市電も楽しそうに描かれている。
中学生ともなると記憶も鮮明なのではないかと思うが、案外そうでもないようだ。憶え間違いを何度も友人たちに正されている。人の記憶も思い出もはかないものだ。
何年かたって、僕はこの町を去った。それでもしばらくは電車に乗って、「小泉」に通っていた。店主は元気でいるだろうか。

2015年2月21日土曜日

伊藤真訳『現代語訳日本国憲法』

高校生になって髪を短くすることにした。
島倉千代子のように髪を短くして強く小指を噛んだりはしなかったが、部活動を続けるうえで頭髪は短い方が都合がよかったのだ。ところが中学校の3年間、僕は床屋なしの生活をしていたので、さてどこの床屋に行けばいいだろうと考えてしまった。何となく気持ちの上では小学校時代に通った「富士」に行くのも「なんだよ、ずいぶん御無沙汰しやがったじゃねえか」的な冷たい視線を浴びそうでいやだった。かといって新しい床屋を開拓するのもそれなりのエネルギーが必要だ。
結果的にいうとよく行く銭湯の道すがらにある「やひこ」という床屋に通うようになった。きっかけは思い出せない。誰かしらからいい評判を聞いたせいかもしれないし、風呂の行き帰りにのぞいてみた店内に悪い印象を持たなかったせいかもしれない。細面の長身の理容師が感じのいい人だったことは否めない。
僕は癖っ毛でいわゆる天然パーマである。普通の人のスポーツ刈り(今もそう言うのかどうかわからないが、昔は慎太郎刈りとも呼ばれていた)程度の長さでも髪が寝てしまうのであまり短髪のイメージにはならなかった。でも頭髪に癖があるというのは床屋さんに申し訳ない気持ちをいつも持ってしまうものである。そういうわけでいちど決めた床屋には通いつづける。「冨士」から「やひこ」へ。標高は低くなったが、毎度のように肩身を狭くして敷居を跨いだのであった。
憲法論議がさかんである。
護憲派は日本国憲法は世界に誇れる宝物のように言うし、改憲派は日本を安全な国家にする必要性を説く。また日本の憲法がGHQ主導でつくられた傀儡憲法であるという言い方もされる。いずれにせよ、護憲派も改憲派も、あるいは憲法に興味がないという人も日本国憲法の「そもそも」を知る必要があるんじゃないだろうか。
大学を出て、就職し、ひとり暮らしをはじめた20代の終わり頃まで僕は「やひこ」に通いつづけた。

2015年2月18日水曜日

苅谷剛彦『知的複眼思考法』

最初の床屋は「富士」だったと思う。
実家から子どもの足でも2~3分の距離だった。もちろん子どもの頃の記憶だからまったく正確ではない。どのくらい子どもだったかというとおそらく母に連れられて、預けられて髪を刈られて、天花粉(ベビーパウダーとかおしゃれな呼び方ではなかったと思う)を塗りたくられて、帰りにお菓子をもらって帰った。そのくらいの子どもの頃だ。小学生の頃まではそこに通っていた。
中学生になって、床屋に行かなくなった。もちろん学校の規則はあったけれど、他の中学のように刈上げなければいけないとか細かいことは言われなかったせいもある。多少長めでも問題はなかった。ちょっと伸びると少しだけ剃刀で削ぐ程度にした。母の知合いで近所に元美容師がいて、母がその人の自宅でカットしてもらうついでに行って、切ってもらった。以後3年間、そういうわけで床屋には行かなかった。
姉の同級生で美容院の娘がいた。いちどその店でカットしてもらった。姉がカットしてもらうとき、やはりついでのように付いて行ったのだと思う。
短絡的な思考をする者がいる。若いものに多い。僕ももう若くはないが、ものの考え方は短絡的だなと思うことがしばしばある。
この本は「複眼的な思考」を促している。ものごとを一面的に見るのではなく、多面的にとらえる。空間的にも時間的にも。おそらく想定している読者は若い世代、とりわけ大学生あたりか。ああ、こうやって問題をとらえなおして、ひとつひとつ丁寧に解明していけばきちんとした意見になるのだなと読んでみてよくわかる。
ただ、自分が学生時代にこんなに懇切丁寧な本を熟読したかどうかはわからない。何を大人が偉そうに、と思ったかもしれない。何かするのに最適なタイミングというのが人生にはある。しかしながら自分自身でそれを見きわめるのは難しい。
そういえば冨士のお兄さんは三原綱木に似ていた。ジャッキー吉川とブルー・コメッツでギターを弾きながら踊っていた三原綱木に。もちろん当時の記憶だからまったくあてにならない。

2015年2月6日金曜日

吉村昭『事物はじまりの物語』

先日のつづき、塩浜のスタジオ三日めの話。
午後には仕事が片づいた。夕方までかかるかもしれないと思っていたので時間が空いた。その日は寄り道をしなかったので、帰りに道草を食うことにした。
木場から洲崎に向かう。
途中、成瀬巳喜男監督「稲妻」で高峰秀子がわたった新田橋を見る。当時は木橋だったが、今は赤く塗られた鉄の橋だ。空橋ではない。その下を大横川が流れている。
洲崎大門通りをまっすぐ進む。映画「洲崎パラダイス赤信号」で夢の島埋め立てのため砂利運搬トラックが何台も走っていく大きな通りだ。大門通りの突き当りには運河が残されている。橋をわたると住所はやはり塩浜で東京メトロ東西線の検車場があり、その向こうにJR東日本資材センターがある。かつての越中島貨物駅。小名木駅を経て、新小岩駅、金町駅方面に主にレールを供給しているそうだ。
塩浜から運河をひとつ越すと枝川(ここに架かるしおかぜ橋というのがなかなか気持ちいい)、もうひとつ越えると潮見、さらに越えると辰巳ともうどこまでが深川なのかわからない。このあたりは倉庫があって、できたばかりの公園や集合住宅、学校があって匂いとしては品川区の八潮とか大田区の平和島に近い(直線距離も近い)。辰巳は深川のさいはて(辰巳を深川と呼んでいいとすればの話だが)で、その先に今のところ地面はなく、東に新木場、西に東雲がひかえている。東雲といったらもうお台場だ。
吉村昭は作品も見事だけれど、そこにいたるまでの調査がすばらしいといつも思っている。丹念に資料と向き合い、多くの人に会い耳を傾けている。そして新たな発見に出会い、想像力という細い糸で紡いでいく。うらやましい仕事だと思う反面、自分にはとうていできまいというあきらめの気持ちにも包まれる。
ということで洲崎から東京メトロ有楽町線辰巳駅までずいぶんとたくさんの道草を食ってしまった。昼食がサンドイッチと軽かったのでちょうどよかった。

2015年2月5日木曜日

芝木好子『春の散歩』


江東区の塩浜にスタジオがある。
撮影から編集、録音までひととおりの設備をそろえているので使い勝手がよく、ときどき利用する。とはいうものの塩浜という地は交通の便がよくない。そのスタジオは東京メトロ有楽町線豊洲駅、同東西線門前仲町駅、木場駅、JR京葉線越中島駅と4駅利用可なのだが、どこから行っても10分以上歩く。歩くことは今のところ苦にならない。むしろ駅から遠いのをいいことに寄り道したり、帰りに道草を食うことを楽しんでいる感がある。
先日も三日続けてスタジオに入った。昼までに来ればいいということだったので、最初の日は新富町駅で降りて、佃大橋をわたり、佃島から石川島を散策。相生橋をわたって越中島に出た。ここからがいわゆる深川である。かつての東京商船大学(今は東京水産大学と統合して東京海洋大学というらしい)の構内をぶらぶら歩きながら浜園橋をわたればそこは塩浜だ。
翌日も午前中時間が空いたのでこんどは木場駅で降りたあと洲崎をまわった。洲崎という地名はもう残っていない。かつての洲崎遊郭のあった島は四方をほぼ埋め立てられて、東陽一丁目となっている。
洲崎は何年か前にも訪れたことがあるが、その頃まだあった特飲街の名残のような建物はもうなかった。川島雄三監督「洲崎パラダイス赤信号」に出てくる千草という飲み屋のあとを見、洲崎神社(映画では弁天様と呼ばれていた)をまわってスタジオに向かった。
洲崎に行って、以前読んだ芝木好子のエッセーを思い出した。
貝紫の話、四季折々の風景、旅の思い出などが軽妙につづられていた。
おそらく絶版になっているであろうこの文庫本を荻窪の古書店で見つけた。ラッキーだった。この古書店ではときどき芝木好子の文庫が見つかる。
芝木好子は浅草生まれだが、戦後はずっと高円寺に住んでいたという。そんな地の利もあったのかもしれない。
スタジオ三日めは朝早かったので寄り道はしなかった。

2015年1月24日土曜日

高橋雅延『記憶力の正体--人はなぜ忘れるのか?』

以前、下町探検隊のK隊長と飲んだとき、たしか僕がKさんはどうやって煙草を止めたのですかと質問したときのことだと思う。
「忘れちゃえばいいんですよ」
という思いもかけない答が返ってきて驚いた憶えがある。
Kさんは何を言いたかったかというと、人間はついつい憶えていようとする、思い出そうとする。記憶しておくことが美徳で忘れてしまうことが罪悪のように思われがちである。果たしてそうだろうか。憶えておくことがたいせつなように忘れることもだいじなんじゃないだろうか。たとえば嫌なことがあったら積極的に忘れてしまえばいいじゃないかというわけである。
たしかにこの本を読むと記憶力がよすぎるというのも不幸だということがわかる。「記憶力」という言葉に憧れを持つのはたいてい受験生時代に苦労した人たちだ。
記憶力がよすぎると日々刻々を反芻しながら生きていかざるを得ず(超記憶症候群というのだそうだ)、過去の記憶に翻弄されてしまう。事例が紹介されているが、そのひとりは絶え間なくフラッシュバックされる記憶のせいで授業に集中できず、学校の暗記ものは苦手だったという。
記憶というとつい頭で憶えているものと思われがちだが、必ずしもそんなことはなく、記憶を喪失した女性の身元を割り出すためにそばに電話器を置いたらなんと自分の家に電話をかけたという。頭の記憶に対する身体の記憶というわけだ。
Kさんは煙草を吸っていたことを忘れてしまえばいいという。ただでさえもの忘れが激しくなったのだから何も要らない習慣を憶えておく必要なんてない。
「多くの忘却なくしては人生を暮していけない」という「フランスの作家オル・ド・バルザック」のことばが引用されている。忘却力がなければいつまでも過去の暗い記憶にとらわれ、人生を前に進められないという。「オル・ド」ではない。バルザックは「オノレ・ド」だ。
そんなことを憶えているからいつまでたっても煙草をやめられないのだ。

2015年1月19日月曜日

川本三郎『成瀬巳喜男映画の面影』

下町に限らず、知らない町を歩くのは楽しいものだ。 
町歩きを重ねていくうちに川本三郎の本にめぐり合った。そこで林芙美子に出会い、成瀬巳喜男の映画にたどり着いた。 
成瀬巳喜男の映画に映し出される昭和の町並みが好きになった。 
成瀬の映画は「貧乏くさい」という。登場人物は会社重役ではなく商店主だったり、山手の婦人でなく未亡人だったり、どこか哀しさとともに生きている。具体的で細かいお金のやりとりがある。これまで何本か観てきて気づかなかったことをこの本は気づかせてくれる。 
頼りない男が出てくるのも成瀬映画の特徴だという。「浮雲」「娘・妻・母」の森雅之や「めし」の上原謙。あるときは(というかたいていの場合)もてない男、またあるときは結婚詐欺師の加東大介。戦争中肩で風を切っていた男たちは萎縮しはじめ、エコノミックアニマルへの道を歩みはじめる。そんな戦後日本の男たちを等身大で描いている。 
とかく小津安二郎と成瀬巳喜男は対比的にとらえられる。同じように小市民を描いてきたからだと考えられるが、鎌倉が舞台だったり、会社重役だったり、品のいいつくりで芸術性の高い小津映画とつましい庶民の生活を念入りに演出した成瀬映画とは同一軸に置くことはできない気がする。そもそも同時代の映画ということ以外、共通点はほとんどないといってもいい。同じ素材を使ったまったく異国の料理を比べているみたいな。 
実をいえば、僕は若い頃映画とはほぼ無縁の生活をしてきた。映像関係の仕事に就くようになってからもさほど熱心な映画ファンではなかった(以前在籍していた会社の社長からもっと映画を観てこいとお小遣いをもらったこともある)。だがここ何年か成瀬巳喜男を通じて昭和の映画に惹かれるようになった。 
成瀬巳喜男が携わった映画は40数本。そのうち僕が観たのは数本に満たない。川本三郎のこの本はこのような成瀬初級者にとってやさしい道しるべなのである。 

2015年1月16日金曜日

山本周五郎『町奉行日記』

伯父は建築設計士で飲食店などの内装が主な仕事だったように記憶している。赤坂や六本木の高級な料理店やナイトクラブなどの設計にたずさわったという。
以前伯父家族と母と僕とで六本木の交差点に程近い中華料理店を訪ねた。店舗設計を担当した伯父はその店の支配人のような男の人から「先生」と呼ばれていたと思う。何が原因かわからなかったが、注文した料理がなかなか出てこなかった。ふだんは温厚で紳士的な伯父が(もともとは非常に短気な人であるらしい)怒った。何をやってるんだ、まだできないのか、子どもたちがお腹を空かせているんだ、みたいなことばを支配人に浴びせかけ、別の店に行こうと僕たちを促して、店から出てしまった。そのあとどこで何を食べたか全く記憶がない。ただこの日のできごとはその後大人になってとり煮込みそばを食べるたびに思い出す。
伯父はその頃赤坂丹後町から六本木に引越していたと思う。六本木の家は六本木通りのすぐ裏手、高速道路の下にあり、赤坂の家のまわりのような子どもたちが路上で遊ぶような環境ではなかった。それにふたつ上とひとつ下の従兄弟たちとも中学生や小学校の高学年になるにつれていっしょに遊ぶようなことも少なくなっていた。従兄弟たちとタクシーに乗って麻布本村町の釣り堀に行った記憶だけがのこっている。
山本周五郎『町奉行日記』を読む。
市川崑監督「どら平太」の原作。ワル奉行である望月小平太が単身で悪いやつらをやっつける話なのだが、映画の小平太、役所広司がなんとなくいい人に見えてしまってちょっと物足りなかった印象がある。おそらく50年前につくられていたら三船敏郎だったにちがいない。
先日、西麻布で打合せがあり、はやく終わったので有栖川公園あたりを散策してみた。釣り堀はまだあるんじゃないかと人から聞いていたが、道がまったく思い出せない。まさかこんなところにはないだろうと思える本村小学校の脇の細い道をたどると昔遊んだ釣り堀がそのまま残されていた。

2015年1月14日水曜日

山田敏弘『その一言が余計です--日本語の正しさを問う』

母は佃に住む叔父夫婦を頼って南房総千倉町から東京に出てきた。
中学校を卒業して高校に進みたかったそうだが、父親が病に臥し、あきらめざるを得なかったという。佃島の渡し船で対岸の明石町にある洋裁学校に通い、その後銀座のデパートの社員募集に応募して採用された。高卒といつわり、年齢もひとつ上にして書類を送ったという。そう助言したのは母の兄、僕の伯父である。戦後の一時期、洋裁がブームになったとどこかで読んだおぼえがある。
伯父は建築事務所に勤めながら、夜間の大学を卒業し、赤坂丹後町に家を買った。その後母も佃の叔父夫婦の家を出て、兄と暮らすようになる。銀座への通勤は赤坂表町という停留所から都電に乗ったという。たしかに地下鉄の赤坂見附駅より近い。
母が結婚すると伯父の家には母の妹が移り住んで、伯父の結婚後は中学校を卒業した母の弟が住むようになり、そこから高校大学へ通った。
伯父はずいぶん前に他界しているが、赤坂丹後町の後は六本木(麻布今井町)に引越した。
週末、実家の母親に会いに行くとこんな話に花が咲く。昭和20年代後半から30年くらいの東京にタイムスリップするのである。
日本語に(おそらく)限らないだろうが、ことばというのは難しいものだ。
ことばが乱れるなどという。本来の意味が失われ、誤解されたまま流通することも多い。文法的に正しい言い回しが省略されたりするなどして間違った語法のまま若者たちに定着していく。それが最近のことに限ったわけではなく、いつの時代も問題視される。
ことばは生きものだともいう。Aという言葉があらわす意味がBになったとしても、それが多数派であるならば、AはBを意味することになる。ことばはある意味、民主的なのである。
自分が使っている言葉(やことば)が間違っていないだろうか、おかしくないだろうか。そんなことがときどき気になってこういう本に目を通してしまうのである。
この本は言葉の変容を正しく知りつつも、上手に付き合っていきましょうという主旨で書かれている。

2015年1月3日土曜日

井上靖『猟銃・闘牛』

あけましておめでとうございます。
今でこそ月に何冊かの本を読むことを習慣にしているが、子どもの頃はほとんどといっていいくらい本を読まなかった。それでも小学校の頃はまだ偉人伝とか、アルセーヌ・ルパンとか宝島とか人並み程度に本は読んでいたと思う。中学高校と進むにつれ、活字離れははなはだしくなり、夏休みに宿題にされた課題図書すら読まずに感想文を書いていた(たぶん読んでも読まなくてもろくな感想は書けなかっただろうと今になって思う)。
その頃、例外的に読んだのが井上靖だった。
どういうきっかけだったが憶えていないが、たしか『天平の甍』、『額田王』、『楊貴妃伝』、『蒼き狼』あたり。古代の日本や中国の物語に関心を持ったのだろう。『しろばんば』も読んだ記憶がある。続編ともいえる『夏草冬涛』をいつか読もうと思ったまま今に至っている。
「電通報」という大手広告会社の発行する広告業界のニュースや情報を掲載する広報紙があって、最近ではオンライン化されているのだが、そのなかに「電通を創った男たち」というすぐれた連載がある。そこで取り上げられたプロデューサー小谷正一が井上靖の芥川賞受賞作「闘牛」の主人公であることを知った。こういうことがわかってしまうとどうしても読みたくなってしまうのだ。
歴史ものや自伝的作品しか知らなかったせいもあって、ずいぶん新鮮な印象を受けた。久しぶりに読んだせいもある。詩的な文章がスムースに飲み込めなくて、ちょっと難儀した。
井上靖はのちに『黒い蝶』、「貧血と花と爆弾」でも「闘牛」のモデルとなった小谷正一の仕事を小説化しているという。よほど小谷の仕事が気に入ったのだろう(小谷正一は伝説的な人物で多くの著作が残されているという)。
さて2015年はどんな物語に出会えるのか。あせらず、ゆっくりと読んでいきたいと思っている。
本年もよろしくお願いいたします。

2014年12月30日火曜日

吉村昭『桜田門外ノ変』

コピーライター岩崎俊一氏が亡くなった。
僕の所属する会社でかつて車や住宅など多くのCMにコピーを書いてくれた方である。何度も打合せに同席した。米国テキサスで撮影とC.G.制作を行う仕事があって、そのときはいっしょにステーキを食べた。
広告の世界ではすぐれたコピーライターやアートディレクターが次から次へと生まれてくるが、コンスタントに日本の広告界を代表するコピーが書ける人間はそう多くはない。岩崎氏は永年にわたって日本代表のコピーライターだった。
多くのスタープレイヤーが華々しい経歴を持っている。野球でいえば甲子園常連校からドラフト上位でプロ入りしたり、学生野球、社会人野球でさらに技術を磨いてプロ入りするものもいる。広告の世界でも大手の広告会社や古くから特徴ある制作会社で鍛えられてスターになったものが多い。ところが岩崎俊一氏はそうではない。同志社を出て、地元関西の広告会社に所属し、その後もっと大きな舞台を夢見て上京してきた(この頃のことを以前飲みながら本人から聞いた気もするがあまり覚えていない)。そして努力に努力を重ねて(たぶんそうだろうと思う)、言葉をさがしまわって、ようやく今の地位を築いたのではないだろうか。そんな気がする。
今年最後に読む長編として吉村昭の『桜田門外ノ変』を選んだ。
根回しに、逃亡に水戸藩士たちが全国を駆けめぐる。幕末期の日本が広い国だったことは『ふぉん・しいほるとの娘』『長英逃亡』を読んでもわかる。
高野長英もしかりだが、江戸時代末期はタイミングが重要だった。事変を起こすのはもっとはやかったほうがよかったかもしれない。もちろんこのあたりの彦根藩側とのかけひきは微妙な問題を多くはらんでいるのだが。
通夜を終え、仕事の納会に遅れて参加した。帰りの電車の中でようやく下巻を読み終えた。
岩崎俊一氏はどこか遠い場所に言葉をさがしに旅立ったのだろう。
そんな気がしている。

2014年12月18日木曜日

吉村昭『長英逃亡』

高野長英がいかなる人物であったかなんてまったく興味も抱かずに生きてきた。
吉村昭の小説を読んでいるとときどき姿をあらわすのが高野長英である。いよいよ気になり出したので、『長英逃亡』を読んでみる。
『遠い日の戦争』を読んだときも感じたのだが、逃亡ものは読んでいてハラハラドキドキしてしまう。夜道を歩いていてもつい誰かに尾行されてはいまいかと気になったりもする。テレビ番組のバラエティでテーマパークなどのなかを一定時間逃げ切ると賞金がもらえるという企画をたまに見るが、長英の逃亡劇は全国を股にかけた壮大なドラマである。
もちろん江戸時代の話だから鉄道も車もなく、電話もパソコンも当然ない(むしろコミュニケーション手段があったほうが逃げづらいだろうけど)。ひたすら歩いていくのである。牢破りをした当初は仙台の親分とその子分米吉に助けられ、奥州水沢で母との再会も果たす。このあたりは息詰まる逃亡劇の中で心ふるわせる感動的なシーンだ。この時代から社会には表と裏があった。裏の道をたどることで張りめぐらされた追手たちの網を避けて通ることができたのだ(それでもハラハラドキドキはするんだけど)。
とにかく捕まったら極刑が待っている。逃亡に加担したものたちも重罪だ。長英の逃亡直後に彼を獄に送り込んだ鳥居耀蔵が失脚する。それまで釈放の望みは皆無だったが、情勢が一変する。何も死罪の危険を犯してまで破獄する必要があったのか。こうした運不運も逃亡の精神的環境に微妙に影響を与えているだろう。
名を変え、先進的な藩主伊達宗城の庇護を受けながら逃げ続けた長英であるが、時の経過とともに追跡者の手は緩んでくるように見える(米吉の工作により、長英は蝦夷に向かい、そこからロシアに逃げたとまことしやかにささやかれていたのだという)。大胆にも長英は江戸に戻る。薬品で顔を焼き、人相を変える。青山で生活のため医者をはじめる。
江戸で待っていたのは遠山金四郎だった。

2014年12月14日日曜日

並河進『Communication shift「モノを売る」から「社会をよくする」コミュニケーションへ』

池袋の東京芸術劇場でテトラクロマット第二回公演「花の下にて」(脚本坂下理子、演出福島敏明)という芝居を観に行った。
演劇にはほとんど関心なく生きてきた。東京芸術劇場で芝居を観るのもずいぶんと久しぶりである。以前ここで観たのは木内宏昌演出の芝居だったと記憶している。
この「花の下にて」は幕末の江戸を舞台に、魂のない木偶の人斬りが事件を引き起こす。芝居を観るのはほぼ素人なので、話の筋を追いかけるのが精一杯でどこがどうおもしろかったかなどという整理もできないまま終わってしまったのだが、いたってシンプルな舞台構成でテンポもよく、観ているものを飽きさせない。
幕末の、世の中の流れを大きく変えるうねりのようなものも随所に描かれている。時代の変化が人々の心に動揺を与えている。この芝居は古い時代を終わらせ、新たな世界を呼び起こす時代の区切りを描いていたのかもしれない。
あっという間の2時間だった。
「いつか心の森で迷ったら言葉の小石を目印にして…」でおなじみの並河進『Communication shift「モノを売る」から「社会をよくする」コミュニケーションへ』を読む。
並河進は模索している。あるいは迷走を続けている。広告はもっと社会にとって価値あるものになれるはずだ。そう信じて、広告の今に疑問を投げかけた。永井一史との対談を通じて、これからの広告会社がめざすべき方向性を見出す。

>企業を出発点にしたときの広告のありかた。
>NPO、個人、コミュニティを出発点としたときの広告のありかた。
>社会課題を出発点としたときの広告のありかた。

そして社会貢献と広告の融合という森をさらに奥深くさまよい歩く。森のなかで多くのクリエイターに出会い言葉を交わす。出口はまだ見つからない。しかし手ごたえはたしかに感じられる。

2014年12月2日火曜日

吉村昭『ふぉん・しいほるとの娘』

はじめて間近で見た外国人の記憶がない。
小学校にも中学校にも外国人はいなかった。高校生になって毎日のように都心に出るようになると(学校はほぼ東京の中央に位置していた)町や電車の中で見かけることも多くなったがその頃は外国人を見かけることに新鮮な感覚を持てなくなっていた。
うっすらではあるが、幼少の頃、うちに外国人の子どもが遊びに来たという記憶がある。母が結婚する前に銀座のデパートに勤めていて、その同僚がアメリカ人と結婚して子どもを連れて遊びに来た、たぶんそんなことではなかったか。うっすら記憶しているというのはこの話を後日聞いたことで憶えているのか、自分自身の記憶として憶えているのか定かではないということだ。そんな気もするし、そうでない気もする。
その後アメリカに旅立つ叔父を見送りに羽田空港に行ったとき大柄な赤い顔をした外国人を見かけたり、はじめて観に行ったプロ野球の試合で外野手が黒人だったとかその手の記憶はあるが、それもさほど印象強く残っていない。
鎖国政策をとっていた江戸時代に二世(この言葉もずいぶん古めかしいが、当時は「あいのこ」と呼ばれていたに違いない)がいたとしたら、それは相当のインパクトがあったのではないか。それも東洋人ではなく西洋人とのあいだに生まれたハーフである。
吉村昭の『ふぉん・しいほるとの娘』を読む。
当時の長崎ではシーボルトの娘いねだけでなく、多くの混血児が生まれていたようである。残念ながらそのほとんどが早逝したり、子孫を残すようなこともなかったそうだが、いねは娘を産んだ。いねは明治半ばに亡くなるが、靖国神社を見下ろしている大村益次郎にオランダ語を学んだり、福沢諭吉の口添えで宮内庁御用掛になるなど思っているほど遠い昔の人とも思えない。その娘ただは昭和13年まで生きたという。
多くの日本人にとっての「はじめて間近に見た外国人」とはシーボルトの娘なのではないだろうか。

2014年11月30日日曜日

谷川彰英『地名に隠された「東京津波」』

向島界隈は下町でありながら、戦災を免れた地域がある。
東武、京成の曳舟駅に近い東向島、京島あたりがそうらしい。古い写真で一面焦土と化した墨田区のようすを見る限り、これは奇跡的といってもいいのではないだろうか。
先日DVDを借りて、山田洋次監督「下町の太陽」を観た。倍賞千恵子が荒川土手を歌いながら歩いていた。おそらく八広、四つ木あたりだろう。八広駅はつい最近まで荒川という名の駅だった。映画の中で京成電車の荒川駅や曳舟駅が登場する。当時の駅は地上にあった。今では高架化がすすんでいて、東武線の曳舟駅下りホームだけが取り残されたように地上に置かれている。
荒川土手下にはそのあたりが海抜0メートル以下であることが表示されている。今の地図で見るとずいぶん内陸のように思えるが、隅田川、荒川にはさまれたこの地域はまさに下町である。
先日読んだおもしろい本を思い出した。
もし東京に巨大津波が押し寄せたら、という被害想定をシミュレーションし、地名に表出されるその地形に答があるという話である。
日比谷は標高2~3メートルで津波が東京湾を北上してくると真っ先にやられるだの、有楽町は堀端で海面水位と同じだから高潮が来たら容易に水に浸かるだの、新橋は全滅するだのと断定的に語られる。
10メートルの津波が東京を襲った場合、危険な町はどこかという防災的なテーマと、その危険性は地名にすでにあらわれているという歴史的なテーマとがごちゃごちゃに紹介されていてる。そりゃあ誰だって安全な町に住みたいとは思うが、ここは「やられる」、ここは「水の恐怖はまったくない」といった評定だけでは人は住まないという気もする。とにかく思い入れが先行する書き手なのだろう。そういうところがたまらなくおもしろい。
いざとなったら契約したビルに逃げ込むとか、スーパー堤防をつくるという対策案を提示している。10メートルの津波の実験かなんかをどこかで見ちゃったのかもしれない。
防災の本と地形地名の本の高度に融合された一冊であった。

2014年11月27日木曜日

小川明子『文化のための追及権』

師走に向かう実感は大相撲九州場所の千秋楽とともに訪れる。 
このあと、ラグビーの早慶戦、早明戦と福岡国際マラソンが拍車をかける。 
白鵬が大鵬の優勝回数の記録32に今場所ついに並んだ。大相撲を見るようになったのは昭和45年くらいから。大鵬の最後の優勝も記憶に残っている。当時は北の富士と玉乃海が横綱に同時昇進して、北玉時代の到来などとマスコミが騒いでいた。栃若、柏鵬に続く新たな時代の幕開けだった。この新勢力の台頭で無敵の大鵬の力に陰りが見えはじめていた、そんな時代だ。 
子どもの頃、強烈な記憶に残っているのは大鵬の引退と玉の海の急死だ。新進気鋭の人気力士貴ノ花に敗れた大鵬が突然引退を表明した。巨人大鵬卵焼きではないけれど、横綱大鵬の時代は“永久に不滅”だと信じていた。大関時代何度か綱とりを惜しいところで逃していた玉の海(大関時代は玉乃嶋)は横綱になって強くなった。精進を重ねた結果だろうと子ども心に感心して見ていた。ある日急性盲腸炎で急死というニュースが流れた。それからしばらくライバルであった北の富士が低迷したような記憶がある。 
大相撲も一時期にくらべて人気を取り戻しているようである。遠藤、逸ノ城など経験は少ないがこれからを期待できる力士があらわれたことが大きい。アマチュア相撲で実績を上げてきたこの両者はさすがに幕内クラスの力を持っている。問題はこれからだ。やはり幕内に定着し、大関、横綱をめざすにはこれからの努力が不可欠だろう。これまでも鳴り物入りで角界入りしたアマチュアのホープは多数いたけれど大成した力士は思いのほか少ない。 
著作物に関して「追及権」という権利があることはまったく知らなかった。著作物(主に美術作品)が転売され、販売額が上がっても、そのうちの何%かを制作者が受け取ることができる権利であるらしい。ヨーロッパや米国では明文化されているんだそうだ。 
知らなかったことが多いなあと思う11月なのであった。 

2014年11月25日火曜日

山本周五郎『ながい坂』

下町探検隊という仲間で集まって、ときどき歩く。
先日は浦安青べか探検と称して、浦安を歩いてきた。
東京メトロ東西線の浦安駅で集合し、旧江戸川に浮かぶ23区内唯一の島といわれる妙見島に上陸。旧江戸川沿いに釣り宿を見て、境川沿いを進む。七五三でにぎわう清瀧神社、旧宇田川家、旧大塚家を見学して、浦安市郷土博物館へ。思い思いに写真を撮ったり、せんべいを買い食いしたりしながら日が暮れるまで散策。
実は以前、『青べか物語』読了後、ひとりでふらっと浦安を歩いたことがある。その話を聞いた探検隊のKさんがぜひ行ってみたいということで再び訪れることになったのである。『青べか』に出会わなければ、浦安を歩いてみようなんてきっと思わなかったし、それが気に入らなかったら再訪することもなかったにちがいない。
不思議なことにはじめて訪ねた際に気がつかなかったことが二度目になると気がつくということがある。こんなところに銭湯があったっけ、みたいなことだ。最初の訪問より、二度目の方が精神的に町に入りこんでいるということか。
都内には戦災で被害を受けなかったとか再開発の波にのみ込まれなかったという稀有な町並みがいくつか残っている。浦安は、ところどころに古い町の面影がわずかに残されているものの、やはり都心に近くて便利な住宅地に変貌している。こうした失われていった町の記憶をとどめてくれたのは山本周五郎の業績としか言いようがない。
まだまだ山本周五郎を読みつくしたわけではなく、周五郎ファンだと自認するには若輩者であるが、少しづつ読み重ねていきたいと思っている。そのステップとして『ながい坂』を読んでみる。主人公の小三郎があるきっかけから学問や武芸に励み、立身出世を果たしていく物語である。紆余曲折はあるが、ひとりの武士としてまっすぐに生き抜いていく姿はおもしろいといえばおもしろいし、ありきたりだといえばありきたりだ。ただ悪役も含めて脇がいい。まだまだ読み切れていないのはこれが一回目だからだろう。町歩きのように重ねて読みたい周五郎の一冊だ。
読み終わったときの印象はディケンズの『デイヴィッド・コパフィールド』に近かった。

2014年11月23日日曜日

ジュール・ヴェルヌ『八十日間世界一周』

とりとりじゃんというじゃんけんがあった。
小学校の頃、たとえば野球(それは後にハンドベースと呼ばれるようになった手打ち野球やゴムボールとテニスのラケットを使ったラケット打ち野球が主だったが)のチーム分けをする。クラスのなかでもうまい者がふたり自然発生的に選ばれ、ふたりでじゃんけんをする。勝った者がそれ以外の者を指名し、チームに引き入れる。プロ野球でいうドラフト会議の子ども版みたいなものだ。当然のことながら実力的に上位の者が順番に選ばれる。その際、人格的にすぐれているとか、金持ちの息子であるとかはまったく考慮されない。
ひどいときは奇数人いるときだ。残ったひとりをめぐって最後のじゃんけんをする。そいつが足手まといになるようなら、勝った方は容赦なく「いらない」という。子どもって残酷な生き物だったんだなと、当時を回想するが、子どもだから許される世界でもある。もちろん当時、僕らの少年時代にだって平等が善で差別が悪みたいな教育思潮はあったにもかかわらず、である。
当時よく読んでいたのは伝記ものが多かったが、小学校の高学年頃からは冒険ものが多くなった。スティーヴンソンの『宝島』、スウィフトの『ガリバー旅行記』、そしてヴェルヌの『十五少年漂流記』など。子どもの頃だったから「荒城の月」の土井晩翠がスティーヴンソンを捩って付けられた名前だったとか、ガリバーが社会風刺の本だなんてことはぜんぜん知らなかった。
ヴェルヌの『十五少年』は何度も読みかえした一冊で他にも『海底二万哩』など空想科学的な作品も読んだと思う。ドストエフスキーの新訳で話題になった光文社の古典新訳シリーズに『八十日間世界一周』が出版されているのを知って、もう大人なのに手にとってみた。
期待通りに奇想天外な物語だが、よくぞこれだけの世界事情を調べ上げたものだと感心した。子どもの頃読んだとしても、きっとそんなことまで気がつかなかっただろう。
沢木耕太郎『深夜特急』と続けて読んで時代を超えた世界一周半も悪くないと思った。

2014年11月22日土曜日

吉村昭『生麦事件』

秋、学生野球最後の公式戦、明治神宮野球大会も無事終了。
去年まで決勝は高校の部と大学の部が同日で第2試合である大学の部はたいてい点灯試合となり、極寒の神宮球場での観戦となる。まさに寒戦である。それでも熱心な野球ファンがネット裏で試合終了まで見届け、それぞれのファンがよいお年をとか、来年もよろしくとか、選抜で会いましょうなどと挨拶をかわして帰途につく。
今年は最終日が大学の部決勝一試合のみ。その前日に高校の部決勝と大学の部準決勝という日程だった。寒さはある程度しのげたのではないだろうか。
高校の部は仙台育英が浦和学院をやぶって2年ぶり2度目の優勝。大学の部は13年ぶりに駒沢が明治を倒して優勝。明治の高山が昨年に続いて、高校大学通じての明治神宮大会制覇に挑んだが、残念な結果に終わった。夏の甲子園も優勝している当時の日大三は法政の畔上、慶應の横尾、早稲田の吉永、立教の鈴木と主力を多く東京六大学野球リーグに送り込んでいるので快挙のチャンスはまだ来年も残されている。
ここのところ吉村昭を読んでいる。吉村昭の作品を自分なりに、事件ドキュメンタリー、第一次産業もの、近現代もの、時代ものと分類しているが時代ものはさして興味はなかった。そもそもが時代小説はまったくといっていいほど読んでいなかった。
『アメリカ彦蔵』を読んで海に囲まれた日本には漂流民が多くいた現実、そしてその時代背景としての江戸時代後半から明治時代に興味を持った、遅ればせながら。薩摩藩士によるイギリス人殺傷事件に端を発する生麦事件に関してもこうした興味から読んでみた。
名前は忘れたが、中学校のときナマムギに引越した同級生がいた。卒業まで通っていたかは覚えていないが、しばらく京浜急行の生麦から東急大井町線の戸越公園まで通学していた。どういう経路をたどって来ていたのだろう。
生麦という地名はそのときはじめて知った。

2014年11月9日日曜日

吉村昭『零式戦闘機』

イラストレーターだった叔父が亡くなって、あっという間に半年が過ぎ去った。先月から銀座で回顧展が開催されている。
銀座といっても新橋駅からほど近いところが会場なので母にも億劫がっていないで見に行ってきたらどうかと勧めているのだが、まだ行っていないようだ。億劫がっているのは母だけでなく、実は僕も同じで先週新橋に行く用事があってようやく見てきたばかりである。
叔父と母は8つ歳が違う。母のすぐ下の妹とも6つ違う。歳のはなれた末っ子だったのだ。これだけ歳がはなれればいろいろなこと、ものの見方や考え方も違うだろうし、共有できる記憶もそう多くもないだろう。たとえば叔父の記憶では父親(僕の祖父)は昭和21年に他界している。母の記憶では自分は中学生で弟は小学校に入ったばかりだったという(父を亡くして高校進学を諦めたという話を僕は母から何度となく聞いている)。おそらく昭和24、5年ではないか。
展示物のなかにある雑誌に連載された絵と文があり、祖母、母と5人の姉にかこまれて育った少年時代といった内容だった。7人の女性の似顔絵があり、祖母何年生まれ、母何年生まれとルビがふられている。姉たちは1~5と番号がふられ、やはり生年が記されている。よくよく見ると4(これは母だ)は昭和8年生まれとなっている。5(これは叔母)は昭和10年となっている。正しくは昭和9年と11年である。もう80になる老女が昭和何年生まれかなんて世の中的にはどうでもいいことであろうが、やはり6つも8つも歳がはなれると実のきょうだいとはいえ、そんなことはどうでもよくなってしまうのだろう。
『戦艦武蔵』を読んだ後、次に読むのは『零式戦闘機』だと決めていた。
名古屋の三菱重工業の工場から試験飛行のために牛車で岐阜各務原まで引いて行く。宮崎駿監督「風立ちぬ」でもおなじみのシーンだ。
この画期的な技術を発展的に継承できなかったことが誠に残念である。

2014年11月5日水曜日

高崎卓馬『表現の技術―グッとくる映像にはルールがある』

今季の東京六大学野球リーグは残り2週をのこして、立教、明治、早稲田、慶応が勝ち点3で並ぶ混戦だった。
まず有利だったのが立教で、最終の明治戦に連勝すれば優勝だった。初戦、エース澤田圭の好投で王手をかけたが、ここから明治が持ち前のねばりを発揮。2戦目を引き分けると3、4戦を連勝し、立教30季ぶりの夢を打ち砕く。明治は勝ち点を4として、早慶戦の結果に望みをつなぐ。どちらかが連勝すれば優勝は早慶いずれか。1勝1敗になった時点で明治の優勝。
結果的には早稲田が先勝し、翌2戦目に優勝をかけたが、慶應の反撃にあえなく敗戦。この時点で明治の44回目の優勝が決まった。
早慶戦前の時点で打率トップ争いは早稲田の小野田、重信とつづく。第2戦終了時でふたりが同率で並んでどうなるかと思っていたら、規定打席に満たなかったやはり早稲田の茂木が4打数4安打と大当たり。一気に首位打者賞を獲得した。最優秀防御率賞は明治の上原。こちらも規定投球回数ぎりぎりでの受賞だった。
ベストナインは立教の澤田圭らが選ばれたが、混戦だったのは三塁手の横尾(慶應)でおそらく茂木と票を分けあったのではあるまいか。外野手の重信も法政の畔上と接戦だったのではと思う。畔上が選ばれていたら、甲子園優勝当時の日大三のレギュラー3人が選出されたことになる。あと1年あるので早稲田吉永、立教鈴木らと5人まとめて選ばれてほしいものだ。
昔から仕事がらみの本はたまにしか読まなかった。後輩が、読み終わったので読んでみませんかとすすめてくれた。
ひとりよがりの方法論や経験談を披歴するだけの本が多いなかでこの本は真剣に読む人の立場になってくれている。きびしさもあり、やさしさもあり、こういう一冊に出会えた広告クリエーティブ志望の若者たちはどれほど勇気づけられることだろう。30年前に読みたかったよ。
さて、11月。野球シーズンのしめくくり、明治神宮野球大会ももうすぐだ。

2014年10月13日月曜日

博報堂ブランドデザイン『ビジネスを蝕む思考停止ワード44』

星野仙一は好きになれない野球人のひとりだ。
闘将などと呼ばれているが、それはアンパイヤーに食ってかかったり、ベンチでなにかを蹴飛ばす程度のことであり、それは闘でもなければ将でもない。
昨年日本シリーズ進出をかけたゲームで田中将大を酷使した。日本シリーズも同様だ。連投すればファンがよろこぶ。そこで登板させる。こんな理屈もへったくれもない起用を平気でやってしまうのだ。素人野球ファンに迎合する采配(それを采配と呼べればの話だが)なのだ。もしこの場面で田中が打たれたら、明日はどう戦うのか。ふつう指揮官が考える当然の思考がまったく欠如している。情に流されているだけだ。勝負師だなんでとんでもない話である。
北京オリンピックのときもそうだ。コーチに山本浩二、田淵幸一といった“おともだち”を選んでいる。観光旅行じゃあるまいし、友だち連れてってどうするんだ。彼らが日の丸をかけた戦いにどれほど貢献できると思っていたのだろうか。
今季は腰痛で戦列をはなれた。このとき辞めておけばよかった。星野仙一が尊敬してやまない“御大”島岡吉郎は車椅子でグラウンドに出てきた。星野仙一が真の闘将であるならば、這ってでもベンチにやってきたにちがいない。
ただこうしたセオリーを度外視した温情指揮官が不要かといえばけっしてそうとは言い切れまい。中央の球団では通用しないやり方も案外地方都市では歓迎される。長嶋茂雄や王貞治が日本野球の真ん中の人であるならば、星野仙一はその周縁で輝く甘いおっさんなのである。
博報堂ブランドデザインの本は好きで新刊が出るのを楽しみにしている。この本は少し前に出版されていたが、電子版が出るのを待っていた。
ずいぶん長きにわたって思考停止ワードを使ってきたなと感慨深く反省しながら読み終えた。

2014年9月30日火曜日

山本周五郎『赤ひげ診療譚』

加山雄三が好きになれなかった。
かつての若大将も77歳。喜寿を迎えたという。好き嫌いというのはあくまで個人の印象なので、好きじゃないから悪口をここに書こうなどという気はさらさらない。ただ好きになれないのはたぶん好きになれない理由があるにちがいない。そのあたりを少し冷静に分析してみよう。
多くの歌手と共演するステージに立つと加山雄三はいつもその真ん中にいる。オムニバス的なステージであってもあくまで主役は俺だという態度で、当然のことのようにテレビカメラの中央に映るところが好きになれない。紅白歌合戦にもここのところ出場していないのはいつまでたってもオオトリを務めさせてくれないからではないか。こうした自分中心主義的な態度が好きになれないひとつのような気がしている。
それにこの人はあまりに恵まれ過ぎている。歌はつくる、絵は上手い、スポーツは万能、船は持っている、慶應を出ている。恵まれ過ぎているということはなんとつまらないことだろうか。もちろんこれにはひがみもある。やっかみもある。歌は地声をはり叫ぶだけでけっして上手いとは思わないが、岩谷時子をはじめとしてすばらしい詞に恵まれた。このいいところだらけな人生が好きになれないのかもしれない。
山本周五郎の『赤ひげ診療譚』が黒澤明の手によって映画化されたとき、保本登役は加山雄三だった。やはり育ちのいい青年だった。そんな身勝手な若者が新出(三船敏郎)から人間を学んでいく。何となくではあるが、加山雄三を応援したくなるストーリーだった。
先日、BSの番組で加山雄三のコンサートを放映していた。会場はやはりそれなりのお年を召した方たちでうめ尽くされていた。77歳になる加山雄三は80歳になったら光進丸で旅に出たいと語っていた。彼のポジティブな姿勢は彼の生きてきた時代に欠かせないものだった。そして多くの人々が勇気づけられ、前を向いて生きていこうと促されたのだと思う。
僕も少し前向きになった。

2014年9月29日月曜日

山本周五郎『季節のない街』

高校野球の秋は新チームの春である。
夏の選手権大会が終わって、大阪桐蔭が全国の頂点に立ち、最上級生はこれで引退。2年生と1年生による新チームがスタートする。各都道府県で地区予選がはじまり、11月には各地区の優勝チームが神宮球場に集まる。明治神宮野球大会だ。
東京では48のブロックにわかれて予選を行い、勝ち上がったチーム同士でトーナメントを行う。昨秋予選を勝ち上がった小山台が堀越、早実、日大豊山と強豪私立を破って8強に進出し、21世紀枠でセンバツ出場を果たした。記憶に新しいところだ。絶対エースのいた昨年のチームにくらべると投手力に難はあるものの、今年の小山台もいいチームだ。初戦で春季都大会優勝の成立学園に逆転勝ち、幸先のいいスタートを切った。惜しくもブロック決勝で関東一にコールド負けしたが、春に向けてさらに力をつけてくれるといい。
今年も10数校の都立校が本大会進出を決めた。今夏東東京8強の雪谷、昨夏8強の江戸川、西東京準優勝の日野など都立校の中にも名門校が生まれつつある。強豪私立と比べれば、練習量や環境など大きな差があるかもしれない。連戦になったときや僅差の試合になったときにその差を痛感することもあるが、手薄なメンバーで重厚長大な強豪校に挑んでいく姿は見ていてすがすがしい。
山本周五郎の『季節のない街』は黒澤明が映画化している。「どですかでん」である。貧民窟のような長屋で夢も希望も抱きようのない最底辺の生活を余儀なくされる人びと。だからといってドラマがないわけではない。もちろん小説だからドラマがないと話にならないんだけど。
周五郎の小説で一貫しているのは善の中にも悪がはびこり、かっこよさの中にもかっこ悪さがしみついているといった確固たる人間観だ。ひっくり返していえば、悪の中にも善があり、かっこ悪さの中にかっこよさがあるということで多くの読者がその登場人物に惹きつけられていく秘密がわかる気がする。
強豪私立校の圧倒的な勝ち方も好きだし、公立校の食い下がるような勝ち方も好きなのだ。

2014年9月28日日曜日

小林雅一『クラウドからAIへ』

お彼岸というので南房総まで行ってきた。
距離もあるので彼岸に墓参りをする習慣はなかったのだが、昨年父が亡くなってからお盆だけではさみしかろうと出向くようになった。それまで、つまり一昨年のことはわからないが、今年は墓へ行く道々にこれでもかというくらい彼岸花が咲いている。大量発生している。あちこちで真っ赤に咲き誇っている。地元に住む叔母の話でもこんなに彼岸花が咲いた年は覚えがないという。
人工知能というと膨大な知識や情報を組み込んだ巨大なコンピュータを連想してしまう。
ところが今はクラウドだのビッグデータだのといった技術革新が人工知能の飛躍的な進化に貢献している。つまり人工知能というハードウェアそのものに膨大な知識や情報を取り込んでおかなくてもいい。ネットワークにアクセスできる手段さえあればハードウェアはPCでいうシンクライアント状態でいいということだ。頭脳を持ち運ぶ必要はなく、必要なときにどこかから手に入れればよい。
それと人工知能というと人間の脳のような記憶の蓄積であると考えること自体が間違えだった。
すでにGoogleの検索や翻訳で使われている確率論的な処理が人工知能の主流の考え方になっている。膨大な辞書データを保有し、逐一訳語をさがすというのが僕が思い描いていた翻訳ロボットのイメージだった。そうではない。英語と日本語の、大量の文章をコンピュータに流し込む。ある文章のなかで、そのひとつひとつの単語や句、あるいは文章そのものがどのように訳される確率が高いか。その確率の高い訳語が提供される。
無人自動車でもこの原理は同じだという。センサーが読み取った情報のうち、どのような動きを選択すればぶつからないかという計算が働くのだという。これも確率の問題。いちばん確率の高い行動を選択する。もちろん事故を起こす可能性がゼロとはいえないが、すべてが確率論的に優位な選択をするので、データが蓄積されればされるほど精度が上がる。翻訳だってありとあらゆる事例がビッグデータ処理されれば、誤訳の確率は減っていく。
AIの未来は空恐ろしいのである。

2014年9月8日月曜日

吉村昭『アメリカ彦蔵』

8月の終わりころからいくらかしのぎやすい日が増えた。
それでもやはり季節の変わり目のせいだろうか、“天候不順”という言葉がよく似合う空模様が続いている。局地的な豪雨、土砂災害などというキーワードが新聞、テレビのニュースやネット上を駆けめぐっている。各地に雨が降っているのはメディアを流通しているこれらキーワードが原因となって大気の状態を不安定にしているからではないだろうか。
8月の終わりに名古屋に行ってきた。2010年4月以来である。
以前からいっしょに仕事をさせていただいた(シニア)クリエーティブディレクターOさんの大送別会に出席するためである。一次会は2時間という制約の中で訪れた200人近くがひとことずつあいさつをするという強引な企画あり、加えて動画やスライドの上映があり、プレゼントの贈呈ありの盛りだくさん。日頃からてきぱきと打合せを仕切るOさんの送別会に相応しい進行だった。しばらくぶりに会う人も多く、会は二次会、三次会と深まっていき、ホテルに戻ったのは3時過ぎだった。
翌日名古屋駅ではやめの昼食を摂った。高校時代の友人がすすめる(というか彼が社長だ)ひさだ家という店でおばんざい弁当をいただく。
品川で新幹線を降り、ふと京浜急行に乗りたくなった。先日読み終えた吉村昭の『アメリカ彦蔵』を思い出したのだ。
横浜のひとつ手前の神奈川駅で下車すると第二京浜国道沿いの小高い丘の上に本覚寺という曹洞宗の寺がある。播磨の水主彦太郎が漂流の後、アメリカにわたり、その後祖国に戻って公使ハリスとともに赴いた場所である。開国当時この寺はアメリカ領事館となっていた。
この寺に領事館が置かれたのは神奈川宿と横浜村を結ぶ渡船場が近いことと、海を見渡せる高台にあったからだと言われている。もちろん今となっては海などビルの向こうにわずかにのぞく程度である。
新幹線のなかで『生麦事件』を読みはじめた。こんどは生麦を歩いてみよう。

2014年8月25日月曜日

河尻定『東京ふしぎ地図「幻の計画」を探る』

甲子園の決勝は三重対大阪桐蔭。
壮絶な打ち合いになるかと思っていたら、僅差のゲームになり、観ていておもしろかった。大阪桐蔭が4-3。
大阪桐蔭は今大会優勝候補の一角だったが、昨秋の大阪大会で履正社に敗れ、近畿大会にも出場できなかった。地区大会に進出できなかったということはセンバツにも出場できなかったということだ。そのチームが春になって力をつけて、春大阪大会、近畿大会、夏予選を連覇し、ついに全国制覇したというわけだ。
三重は昨秋から好調で、明治神宮大会やセンバツでこそ初戦敗退しているが、秋春夏の県予選と秋春の東海大会すべてに優勝していた今大会のエリート校。大阪桐蔭に挑む三重、というより、三重に挑む大阪桐蔭という図式の方がしっくり来る。
昨秋神宮で日本文理と沖縄尚学の“打ち合い”を観ていたので、今年も7~8点をひっくり返すような試合を期待していた。期待通りの試合が何試合かあった(テレビのないところに出かけていたのでラジオでしか聴けなかったけど)。正直いって、日本文理と沖尚の再戦は観たかったね。
これで夏も終わり。
東京では月末の30日に秋季大会の組合せ抽選が行われ、ブロック予選は9月6日から。勝ち進んだ24校によるトーナメントは10月11日にスタートして11月9日決勝。あっという間に秋が来て、明治神宮大会はまた寒空の下で行われる。
『東京ふしぎ地図』は前にも読んだことがある。今回の『「幻の計画」をさぐる』では、奥多摩を第二の箱根にする計画や丸の内~新宿弾丸道路計画、仮駅のまま定着した西武新宿駅などかつてあった「計画」がおもしろい。子ども時代の夏休みの目標のようにおもしろい。
1951年に1年だけ稼働した三鷹の東京スタディアムについても紹介されている。ここは小関順二『野球を歩く』で武蔵野グリーンパークとして紹介されている国鉄スワローズのホームグラウンドだ。
まあそんなこんなで秋以降もおもしろい野球の試合を観たいものだ。

2014年8月21日木曜日

佐々木紀彦『5年後、メディアは稼げるか』

8月のお盆は南房総で過ごす。
今年は新盆ということでいつもよりはやめに出て、いつもより長く滞在した。
南房総の父の実家は就学前から夏を過ごす場所だった。7月も末になると祖父が上京してきて、姉と三人で両国駅発の列車で千倉に向かう。冷凍みかんを食べながら、何時間もかけて旅をした記憶がある。たいてい漫画雑誌を一冊持っていく。2週間もするともう読むところがなくなる。
砂浜までは歩いて5分ほど。子どもの頃はもっとずっと遠かった。浜で泳いだり、磯で貝を採って日を過ごした。この地方で「しただめ」と呼ぶ小さな巻貝である。茹でて針などでくるくるっと巻きとって食べる。美味だ。
よく東京より涼しいんじゃないかと訊かれる。昨今の猛暑の日はどこにいたって暑いが、朝晩心地いい風が吹く。ただ、風は塩を含んでいるためか重たい。東京に戻ると風に質量がなくなるのを感じる。
新聞や雑誌、テレビなどのメディアがデジタルにのみ込まれると言われ、もう10年近くなるだろうか。かろうじて紙媒体の新聞も雑誌も存在してはいるけれど、それ以上にウェブメディアの進展がめざましい。著者は「東洋経済オンライン」の編集長としてPVを飛躍的に伸ばしてきた。新聞や雑誌のデジタル化、ウェブ化はあちこちですすめられているが、思いのほかうまくいかないことが多い。この本にはデジタルメディアに必要なものを従来メディアと対比させながら、丁寧に説き明かしている。
この本の中で「ナナロク世代」という1976年前後に生まれた世代が紹介されている。ネットと紙の世界、固定電話と携帯電話の世界、昭和と平成の世界の双方を体で知っている世代だという。その10歳くらい下までが「両生類」、さらにその下、26歳以下が「ニューメディア世代」、38歳以上は「オールドメディア世代」と著者は分類している。
オールドメディア世代の僕がこの本のよさを伝えてもなかなかうまく伝えきれない。松岡正剛の千夜千冊でも参照していただく方がいいだろう。

2014年8月11日月曜日

小関順二『野球を歩く』

台風の影響で開会式を含め二日間順延された夏の甲子園が今日からはじまった。
開幕試合の龍谷大平安対春日部共栄は1対5。マスコミで有力校と騒がれていた春センバツの優勝校が大会初日に姿を消した。ピッチャーは立ち上がりがだいじだとよく言われるが、まさにその立ち上がりを果敢に攻めた結果だろう。
高校野球を予選から観ているといろいろな球場に足を運ぶ。秋季、春季のブロック予選などは当番校のグラウンドを使用する。昨年は岩倉高校のグラウンドで観戦した。当番校の部員たちが丁寧に慈しみながら整備する姿は気持ちのいいものだ。
夏の大会は神宮球場だけでなく、多くの球場が使用される。西東京の球場はあまり行くことはないが、東東京の試合も府中市民や明大球場で行われることがある。東東京の会場となる神宮、神宮第二、江戸川、大田は人工芝で、たまに駒沢球場のような土のグランドで野球を観ると少しなつかしい。
東京だけでもずいぶんたくさんの球場があるが、これを全国的、歴史的に見てみると実に多くの球場が生まれ、そしてなくなっていった。武蔵野市の武蔵野グリーンパーク球場はわずか一年、深川の洲崎球場はわずか三年稼働したに過ぎない。球場めぐりを通じて日本野球の歴史を旅するというこの本のねらいはたいへん興味深い。
思い返せば、子どもの頃にあって、今はない球場がいくつもある。川崎球場や東京球場、日生球場、西宮球場、平和台球場がなくなった。大阪スタヂアム、後楽園球場、ナゴヤ球場はドーム化された(ナゴヤ球場は中日2軍の本拠地となっている)。学生時代にはまだ早稲田に安部球場もあった。そう考えるとアメリカのフェンウェイ・パークやヤンキー・スタジアムのように地域に根差した古い球場は日本にはさほど多くなく、歴史の浅い国だと言わざるを得ないだろう。
それでもこの本を通じて、野球を日本に根付かせようと努力した足跡を知ることができる。ちょっとした野球の旅を味わえる。『野球を歩く』というタイトルはまさに言い得て妙である。

2014年8月5日火曜日

新井静一郎『広告のなかの自伝』

Oさんはある広告会社のCMプランナーである。
いっしょに仕事をするようになったのはここ2~3年のこと。僕みたいに50半ばのCMプランナーとちがって、彼女のアイデアは新鮮で幅広い。九州の芸術系の学部で学んだという。その豊かな才能は東京の美術系大学出身者に勝るとも劣らない。
僕は最初の打合せでOさんの出す案に何度も感服した。彼女は自分なりに有効と思われるメッセージをまず提示し、その表現を模索する。しかも多角的に。
広告クリエーティブに携わるものとしてはこれは別段難しいことではない。ただ彼女の場合、思いつきとか、思い浮かびというレベルではなく、広告制作者がひととおりトライして検証しておかなければいけない方向性を確実にカバーしてくるのだ。
アイデアメーカーとしてのOさんの力が優れているのは言うまでもないが、それ以上に彼女は優れたクリエイティブディレクターに鍛えられてきたことがわかる。才能に恵まれ、しかもそれを鍛錬する場に恵まれた。彼女も素晴らしいが、彼女の周囲で支えてきた先輩たちも素晴らしい。
以前「電通報」の「電通を創った男たち」という連載記事で取り上げられたのが、広告クリエーティブの「水先案内人」新井静一郎だ。
僕たちは生まれたときから広告があって、テレビコマーシャルも流れていたから、別段不思議に思うこともなく広告制作の仕事をしているけれども、広告というものが世の中でさほど必要とされるものではなかった時代があった。広告を経済活動にとって重要な行為として認めさせ、それをビジネスにまで高めていったのは吉田秀雄をはじめとした先駆者たちのおかげである。そして広告宣伝の技術をより高度にしていった技術者がいる。『広告のなかの自伝』は新井静一郎自身の戦前から戦後にいたる広告クリエーティブの発展に貢献してきたその足跡が紹介されている。
Oさんは今いる広告会社を辞め、アニメーションのキャラクター開発にチャレンジするという。
新たなフィールドでどんな自伝を描いていくのだろうか。たのしみである。

2014年7月28日月曜日

大岡昇平『ながい旅』

先日カエルの話をした。その続き。
梅雨時だったから仕方のないことだが、雨が続いてカエルが頻繁に姿をあらわすようになった。長女は誰かが迎えに行かないかぎり、玄関まで近寄ろうともしない。家の前に着くと電話をかけてよこす。次女はどちらかといえばカエルがいようがいまいが見ないようにすれば平気だといって普通に帰ってきていたが、再三見かけるようになって何とかならないかと言ってきた。
というわけで捕獲作戦司令官にして直接処理班班長に押しだされるように拝命された次第である。
子どもの頃ならいざ知らず、もうかれこれ50年近くカエルに触れていない。直接捕獲するのは避けたい。ビニールの手袋をすればいいかというとそれも直接触るのとなんら変わりはない。少なくとも精神的には同じだ。カエルに触れることなく捕獲し、安全な場所に逃がすというのが司令官が自らに課した課題である。
実際のところ捕獲はさほど難しくなかった。傘の先で地面を叩いてカエルをおびき出し、バケツに誘い込む。そしてバケツを下げて、近所の池のある公園に放しに行く。任務はあっけなく終了した。
カエルはバケツに捕獲されると最初だけ前脚を伸ばして逃亡をはかろうとする。何も処刑しようというつもりは毛頭ないのだが、なんて潔くないやつなんだという印象を受けた。B29の(またその話になるが)搭乗員処刑に関して上官として全責任を追うと法廷で戦った元第十三方面軍司令官兼東海軍司令官岡田資中将のようになぜ堂々としていられないのだカエルよと思わず声をかけてしまいそうになった。
吉村昭の『遠い日の戦争』が逃亡する戦争犯罪人なら、大岡昇平の『ながい旅』は終戦後法廷でも戦い続けた戦争犯罪人の記録である。その後「雨あがる」の小泉尭史が「明日への遺言」というタイトルで映画化していることも恥ずかしながら最近知った。
カエルを捕獲した翌日、もう一匹、そしてその二日後もう一匹を捕獲、釈放した。三匹もいたのだ。