母の実家は千葉の千倉なのだが、白間津という集落と西隣の七浦という集落の間は、岩場が隆起したような土地なので、人家がほとんどなかった。地元の人たちはそのあたり、岩場と草むらしかないあたりを「カアシンハラ」と呼んでいた。そう記憶している。
磯と同じようなその岩場の洞窟には昔、「手長ばあさん」が住んでいた。と母親に聞いたことがある。夜になると「手長ばあさん」は洞窟から磯まで手を伸ばして「シタダメ」と地元で呼ばれる小さな巻貝を採っては食べていたという。
真偽のほどはわからない。たぶん地元に長く伝わる口承なのだろうと思う。母はおそらく、その母か祖母に聞いたのだろう。話好きの母親からはいくつかそんな昔話を聞いて育った。
夜は危険な場所なので子どもたちを近寄せないように昔の人が考えた作り話かもしれない。
ジョルジュ・サンドはフランス、ベリー地方の民間伝承を採集していたようだ。近代科学がまかり通るようになった今となっては、迷信めいた話なのだが、著者はそこにある真実を見出しているように思う。その着眼がなんとも素晴らしい。
サンドによると、妖怪やら幻覚やらその手の話は古代からあって、農民たちはそんな不思議な世界と協調して生きてきたという。で、その手の魔物が悪いものになったのはキリスト教文化とその中心的な時代であった中世なんだと。なんとなくわかる気がする。
「シタダメ」は本当はなんという名前の貝なのか、いまだに知らない。ただ茹でてマヨネーズであえたり、かき揚げにするとめちゃくちゃうまい。
2008年5月20日火曜日
2008年5月18日日曜日
池田健二『フランス・ロマネスクへの旅』
今春からはじまったNHKラジオフランス語講座応用編がいい。
いままで応用編というとテーマが設定されていて、たとえばサン・テクジュペリの『星の王子さま』を読むとか、ル・モンドを読むとか、数字にまつわるフランスを考察するとか、旅で役立つ会話レッスンとかそれなりのテーマがあって、それに即してテキストの文章があって、読んでは文法的、会話的なポイントを解説するという、どちらかといえばテーマの中心に向かって真っしぐらに進行していく、いわば求心的なプログラムだった。
今年は違う。
もちろんテーマはある。“コミュニケーションをスムースに”みたいなことだ。でもって、そのカリキュラムが絶妙なのだ。
週二回のレッスン。その一は音読。さして長くない文章を読む。音読する。自己紹介とか、家族の紹介とか、いたって簡単な文章だ。だが、その文章を読ませる、聴かせるアイデアがそこにある。
まず短い文章を読んで聴かせる前に文章にまつわる質問を聴かせる。最初から質問がわかっていれば、それに答えられるように集中して聴くことができるって寸法だ。
たとえば家族の紹介というテーマの文章があるとする。それを読む前に、彼には何人きょうだいがいますかとか、彼の兄・姉は何をしていますかみたいな質問がふられるわけだ。聴いてる側としてはそれに答えられるポイントを聴こうとするので、おのずとポジティブに耳をそばだてる。
で、週二回のレッスンの二回目。短い文のかけあいをここで学ぶのだが、まず答を聴く。そしてこの答を引き出す質問は何かを考えさせる。最初に「はい、だって東京にはおいしいレストランがたくさんありますから」という答を聴かせて、「夕飯は外で食べることが多いですか?」という質問を導き出すという手法だ。
最初のうちは、教材を読んでついていくので精一杯だったが、だんだんなれてくると、実にほどよく計算された教材だと感心してしまうのである。
ま、それはともかく。
ロマネスクとはローマ風の、という美術用語なんだそうだ。
十一、二世紀の建築と芸術の様式を示すために考案された名称なんだそうだ。
著者が訪ね歩いた中世の教会建築をロマネスク芸術という視点で丁寧にとらえた一冊。当然のことながら、『ロマネスクの歩き方』的な簡単な本ではない。新書だからといって軽い気持ちで読んではいけない。ましてや中世史もフランスの地理もキリスト教文化も教会建築も何の予備知識もなく頁を開く本でない。
いきなりあらわれるナルッテックス、タンパン、ラントー。さらに身廊、側廊、内陣、クリプト、トリビューン、ヴォールト、パンダンティフ。読んでもよくわからない巻末の用語解説を見、目次後の地図を見、豊富な写真を見て、さまざまな情報を総合して読みすすめていく。それでも難解だ。
つまり芸術とは難解なのだ。
いままで応用編というとテーマが設定されていて、たとえばサン・テクジュペリの『星の王子さま』を読むとか、ル・モンドを読むとか、数字にまつわるフランスを考察するとか、旅で役立つ会話レッスンとかそれなりのテーマがあって、それに即してテキストの文章があって、読んでは文法的、会話的なポイントを解説するという、どちらかといえばテーマの中心に向かって真っしぐらに進行していく、いわば求心的なプログラムだった。
今年は違う。
もちろんテーマはある。“コミュニケーションをスムースに”みたいなことだ。でもって、そのカリキュラムが絶妙なのだ。
週二回のレッスン。その一は音読。さして長くない文章を読む。音読する。自己紹介とか、家族の紹介とか、いたって簡単な文章だ。だが、その文章を読ませる、聴かせるアイデアがそこにある。
まず短い文章を読んで聴かせる前に文章にまつわる質問を聴かせる。最初から質問がわかっていれば、それに答えられるように集中して聴くことができるって寸法だ。
たとえば家族の紹介というテーマの文章があるとする。それを読む前に、彼には何人きょうだいがいますかとか、彼の兄・姉は何をしていますかみたいな質問がふられるわけだ。聴いてる側としてはそれに答えられるポイントを聴こうとするので、おのずとポジティブに耳をそばだてる。
で、週二回のレッスンの二回目。短い文のかけあいをここで学ぶのだが、まず答を聴く。そしてこの答を引き出す質問は何かを考えさせる。最初に「はい、だって東京にはおいしいレストランがたくさんありますから」という答を聴かせて、「夕飯は外で食べることが多いですか?」という質問を導き出すという手法だ。
最初のうちは、教材を読んでついていくので精一杯だったが、だんだんなれてくると、実にほどよく計算された教材だと感心してしまうのである。
ま、それはともかく。
ロマネスクとはローマ風の、という美術用語なんだそうだ。
十一、二世紀の建築と芸術の様式を示すために考案された名称なんだそうだ。
著者が訪ね歩いた中世の教会建築をロマネスク芸術という視点で丁寧にとらえた一冊。当然のことながら、『ロマネスクの歩き方』的な簡単な本ではない。新書だからといって軽い気持ちで読んではいけない。ましてや中世史もフランスの地理もキリスト教文化も教会建築も何の予備知識もなく頁を開く本でない。
いきなりあらわれるナルッテックス、タンパン、ラントー。さらに身廊、側廊、内陣、クリプト、トリビューン、ヴォールト、パンダンティフ。読んでもよくわからない巻末の用語解説を見、目次後の地図を見、豊富な写真を見て、さまざまな情報を総合して読みすすめていく。それでも難解だ。
つまり芸術とは難解なのだ。
2008年5月16日金曜日
永井荷風『ふらんす物語』
40年ほど昔。
大手の広告会社に勤めていた叔父が突然辞めてニューヨークに行くといいだした。親きょうだいの反対をおしきって(かどうかはわからないが)、1969年のとある冬にホノルル経由のパンナム機で羽田を発った。
しばらくして母宛に手紙が届き、わずかばかりの荷物のなかに永井荷風の本があって、なんども繰り返し読んでいると書いてあった。
正直ぼくは日本文学はさして読んでいない。じゃあ何文学をこよなく読んだのかといわれるとそれにも答えようがない。少なくとも永井荷風はいちどたりとも読んだことがない。なかった。
実はこれは大いなるミステークであって、例えば、だ。二十歳の頃御茶ノ水にあるフランス語学校に通っていた。一年ばかり。もしその頃読んでいたならば、もうちょっとちゃんとフランスに憧れただろうに。3年前に南仏を訪ねた。その前にもし読んでいたならば、もっときちんとフランスを見て帰っただろうに。昨年もやはり南仏に行った。それまでに読んでいたならば、きっとリヨンまで足をのばして、ローヌ河のほとりを歩いたであろうに。と、日本語では動詞の活用が面倒じゃないのでやたらと条件法を使っているが…。
ともかく船でふた月近く、お金だってバカにならないだろう当時としては想像を絶するエネルギーを使って、明治の時代に西欧へ出向いて見聞をひらいた著者の熱意にほとほと感心せざるを得ない。
そういえば以前叔父がいっていた。ほんとはニューヨークじゃなくてパリに行きたかったんだよねって。1969年、叔父のバッグに入っていた荷風はこの本じゃないかと思うのだ。
大手の広告会社に勤めていた叔父が突然辞めてニューヨークに行くといいだした。親きょうだいの反対をおしきって(かどうかはわからないが)、1969年のとある冬にホノルル経由のパンナム機で羽田を発った。
しばらくして母宛に手紙が届き、わずかばかりの荷物のなかに永井荷風の本があって、なんども繰り返し読んでいると書いてあった。
正直ぼくは日本文学はさして読んでいない。じゃあ何文学をこよなく読んだのかといわれるとそれにも答えようがない。少なくとも永井荷風はいちどたりとも読んだことがない。なかった。
実はこれは大いなるミステークであって、例えば、だ。二十歳の頃御茶ノ水にあるフランス語学校に通っていた。一年ばかり。もしその頃読んでいたならば、もうちょっとちゃんとフランスに憧れただろうに。3年前に南仏を訪ねた。その前にもし読んでいたならば、もっときちんとフランスを見て帰っただろうに。昨年もやはり南仏に行った。それまでに読んでいたならば、きっとリヨンまで足をのばして、ローヌ河のほとりを歩いたであろうに。と、日本語では動詞の活用が面倒じゃないのでやたらと条件法を使っているが…。
ともかく船でふた月近く、お金だってバカにならないだろう当時としては想像を絶するエネルギーを使って、明治の時代に西欧へ出向いて見聞をひらいた著者の熱意にほとほと感心せざるを得ない。
そういえば以前叔父がいっていた。ほんとはニューヨークじゃなくてパリに行きたかったんだよねって。1969年、叔父のバッグに入っていた荷風はこの本じゃないかと思うのだ。
2008年5月14日水曜日
藤谷護人・宮崎貞至監修『個人情報保護士試験公式テキスト』
5月も半ばだというのに寒い。
夕方、外苑前のスペースyuiという画廊に行く。和田誠と安西水丸の共作イラストレーションが展示されている。今年でもう四回目になるらしい。一枚の紙にまずどちらかが下手側に描く。それに答えるようにもうひとりが上手側に描く。そして最後にふたりで題名をつける。と、まあこんな楽しそうな作業をするわけだ。
題して“安西水丸・和田誠 個展「AD - LIB」”。
たとえば、和田誠がやしの木が一本生えている無人島を描く。すると反対側に安西水丸が漂流してこの島にたどりつくマンモスを描く。タイトルは“無人島に流れついたマンモス”。
それはさておき。
個人情報保護士という資格があるらしい。ためしに過去問をいくつか見てみたら、さほど難しくなさそうなので、ひととおり読んでみよう気になった。まあ学生でいうところの参考書ですな。パソコンソフトの「これで使いこなせる」みたいな本。特に感想はなし。
ちょっと気になったから書いておくが、この手の本(と決してさげすんで言ってるわけではなく)はどちらかといえば真剣に知識を得たい読者が支えているわけだから、できるだけ誤植は避けたいところだ。
夕方、外苑前のスペースyuiという画廊に行く。和田誠と安西水丸の共作イラストレーションが展示されている。今年でもう四回目になるらしい。一枚の紙にまずどちらかが下手側に描く。それに答えるようにもうひとりが上手側に描く。そして最後にふたりで題名をつける。と、まあこんな楽しそうな作業をするわけだ。
題して“安西水丸・和田誠 個展「AD - LIB」”。
たとえば、和田誠がやしの木が一本生えている無人島を描く。すると反対側に安西水丸が漂流してこの島にたどりつくマンモスを描く。タイトルは“無人島に流れついたマンモス”。
それはさておき。
個人情報保護士という資格があるらしい。ためしに過去問をいくつか見てみたら、さほど難しくなさそうなので、ひととおり読んでみよう気になった。まあ学生でいうところの参考書ですな。パソコンソフトの「これで使いこなせる」みたいな本。特に感想はなし。
ちょっと気になったから書いておくが、この手の本(と決してさげすんで言ってるわけではなく)はどちらかといえば真剣に知識を得たい読者が支えているわけだから、できるだけ誤植は避けたいところだ。
2008年5月10日土曜日
東山魁夷展
東京国立近代美術館。
1981年、やはり同じ国立近代美術館で東山魁夷を見た。当時は気にもつかなかったことが四半世紀以上の時を隔てて気になる。いずれ当時も今も芸術に関してはもちろん、ありとあらゆる世の中の万物に関して不勉強であることには変わりはないのだが。
東山魁夷のすごさは、そのシンプルさにあると思う。
絵画として、突出した個性的な作為を決して描かない。私の画風はこうだから、必ずこう描くのだ、という安っぽいこだわりがない。森の泉にたたずむ白馬でさえ、まるでそこにいたかのように描かれている。だから、東山魁夷の絵を見るということは、彼が実際に目にした風景を眺めるのと限りなく近い体験ができるということだ。そして色合いの微妙さ。これは銀写真でも印刷でもおそらくは再現不可能な光の表出だ。いかに彼がピュアな目を持っていたかの現われだろうと考える。
そういった意味では東山魁夷のとらえたヨーロッパの街並みは路地裏で売られている絵葉書より、はるかに忠実で、しかも奥ゆかしく、その乾いた空気と光をみごとに再現している。
1981年、やはり同じ国立近代美術館で東山魁夷を見た。当時は気にもつかなかったことが四半世紀以上の時を隔てて気になる。いずれ当時も今も芸術に関してはもちろん、ありとあらゆる世の中の万物に関して不勉強であることには変わりはないのだが。
東山魁夷のすごさは、そのシンプルさにあると思う。
絵画として、突出した個性的な作為を決して描かない。私の画風はこうだから、必ずこう描くのだ、という安っぽいこだわりがない。森の泉にたたずむ白馬でさえ、まるでそこにいたかのように描かれている。だから、東山魁夷の絵を見るということは、彼が実際に目にした風景を眺めるのと限りなく近い体験ができるということだ。そして色合いの微妙さ。これは銀写真でも印刷でもおそらくは再現不可能な光の表出だ。いかに彼がピュアな目を持っていたかの現われだろうと考える。
そういった意味では東山魁夷のとらえたヨーロッパの街並みは路地裏で売られている絵葉書より、はるかに忠実で、しかも奥ゆかしく、その乾いた空気と光をみごとに再現している。
2008年5月9日金曜日
第14回中国広告祭受賞作品展
汐留アドミュージアム東京。
中国広告祭の受賞作品はここ数年見ている。
アイデアがとても新鮮でピュアだ。日本でこんなにクリアなクリエーティブを見せてくれるのは広告制作者の若手や学生の登竜門である朝日広告賞や毎日デザイン賞くらいなものだと思えるほど若々しさと勢いがある。
実は毎年そう思って見ていたが、今年はちょっと違う。オリンピックイヤーという意気込みがやけに空転しているように思えるのだ。
広告表現としてちょっと頭がよすぎる広告が増えている。頭のいい広告は好感を持たれるが、よすぎる広告はいかがなものか。テレビCMでいうと余計な駄目押しが不快だ。
たとえばケンタッキーの海老フライ。ふたりの釣り人。後から来た釣り人は傍らにケンタッキー海老フライを置く。すると魚がそこをめがけて飛び込んでくる、ここまではいい。ぶらさがり的についているはじめから釣りをしていた人がそのことに気づいて今度は自分が海老フライをえさにバケツを持ってかまえるカットがある。いわば田中に株あり的ないかにも漢文的な落ちなんだが見ていてうざい。
インスタントラーメンを食べることによって小学校に寄付行為が行われ、そこからオリンピック選手が生まれるかもしれないという公共広告も、まあよくはできているんだが、だからどうしたって感じかな。日本もオリンピック選手をかっこよく映像にするだけのがんばれCMばかりで自慢はできないんだが。
ともかく今年の中国広告祭はオリンピックというちょっとしたイベントが本来とてもいきいきしている中国クリエーティブをややこしい大人にしてしまっている。
中国広告祭の受賞作品はここ数年見ている。
アイデアがとても新鮮でピュアだ。日本でこんなにクリアなクリエーティブを見せてくれるのは広告制作者の若手や学生の登竜門である朝日広告賞や毎日デザイン賞くらいなものだと思えるほど若々しさと勢いがある。
実は毎年そう思って見ていたが、今年はちょっと違う。オリンピックイヤーという意気込みがやけに空転しているように思えるのだ。
広告表現としてちょっと頭がよすぎる広告が増えている。頭のいい広告は好感を持たれるが、よすぎる広告はいかがなものか。テレビCMでいうと余計な駄目押しが不快だ。
たとえばケンタッキーの海老フライ。ふたりの釣り人。後から来た釣り人は傍らにケンタッキー海老フライを置く。すると魚がそこをめがけて飛び込んでくる、ここまではいい。ぶらさがり的についているはじめから釣りをしていた人がそのことに気づいて今度は自分が海老フライをえさにバケツを持ってかまえるカットがある。いわば田中に株あり的ないかにも漢文的な落ちなんだが見ていてうざい。
インスタントラーメンを食べることによって小学校に寄付行為が行われ、そこからオリンピック選手が生まれるかもしれないという公共広告も、まあよくはできているんだが、だからどうしたって感じかな。日本もオリンピック選手をかっこよく映像にするだけのがんばれCMばかりで自慢はできないんだが。
ともかく今年の中国広告祭はオリンピックというちょっとしたイベントが本来とてもいきいきしている中国クリエーティブをややこしい大人にしてしまっている。
2008年5月7日水曜日
野村進『調べる技術・書く技術』
たまには読むんだが、文章力が上達する的な本はあまり信じていない。
それと実はあんまりノンフィクションは読まない。文章が淡々としていて、どこで笑っていいのか、泣いていいのかときどき難しく感じるから。ちょっとした言葉遣いの綾やレトリックが豊富な創作のほうが読んでいてなじむ。
野村進というノンフィクションライターをぼくは全く知らなかった。その著作を読んだこともなく、名前すら知らなかったのだ。ただ本屋でそのタイトルを見て、手に取り、ぱらぱらっとめくってみて読んでみようと思った。
とてもよい一冊だ。文章を生業とする著者の誇りと誠実さがきちんと伝わっている。単なる経験談だけでなく、自らの仕事で培ってきた著者の人間としての“豊かさ”を垣間見ることができる。自ら孤独な長距離走者と名づけるだけあって、そのストイックで背筋を伸ばしたフォームに好感が持てるし、その姿勢と、確固たる方法論といかにも現場的なある種行き当たりばったりなところも包み隠さず語れるところがすばらしい。
ぼくはノンフィクションライターとかジャーナリストをめざす若者たちがいまどれほどいるのか実感はないし、身近なところで野球の選手をめざしたり、編集者をめざしたり、アーティストをめざしたり、医者や教師をめざしたりする友人はいたけれど、文章で身を立てようとしたものがいなかった。そういうこともあって読みはじめた最初は、この本はいい本だけどいったい誰に向けて書いているんだろうと思った。それくらい真剣勝負な本だと感じたわけだ。
でもね、いちばんこの本のすばらしいところは、漢字と仮名の使い分けが自分と似ていて、とてもしっくりしたことだったりするんだよね。
それと実はあんまりノンフィクションは読まない。文章が淡々としていて、どこで笑っていいのか、泣いていいのかときどき難しく感じるから。ちょっとした言葉遣いの綾やレトリックが豊富な創作のほうが読んでいてなじむ。
野村進というノンフィクションライターをぼくは全く知らなかった。その著作を読んだこともなく、名前すら知らなかったのだ。ただ本屋でそのタイトルを見て、手に取り、ぱらぱらっとめくってみて読んでみようと思った。
とてもよい一冊だ。文章を生業とする著者の誇りと誠実さがきちんと伝わっている。単なる経験談だけでなく、自らの仕事で培ってきた著者の人間としての“豊かさ”を垣間見ることができる。自ら孤独な長距離走者と名づけるだけあって、そのストイックで背筋を伸ばしたフォームに好感が持てるし、その姿勢と、確固たる方法論といかにも現場的なある種行き当たりばったりなところも包み隠さず語れるところがすばらしい。
ぼくはノンフィクションライターとかジャーナリストをめざす若者たちがいまどれほどいるのか実感はないし、身近なところで野球の選手をめざしたり、編集者をめざしたり、アーティストをめざしたり、医者や教師をめざしたりする友人はいたけれど、文章で身を立てようとしたものがいなかった。そういうこともあって読みはじめた最初は、この本はいい本だけどいったい誰に向けて書いているんだろうと思った。それくらい真剣勝負な本だと感じたわけだ。
でもね、いちばんこの本のすばらしいところは、漢字と仮名の使い分けが自分と似ていて、とてもしっくりしたことだったりするんだよね。
2008年5月5日月曜日
中島孝志『インテリジェンス読書術』
学生野球もはじまり、まさに球春だ。
東京都の高校野球は帝京が優勝、準優勝の日大三とともに関東大会に駒を進めた。夏はこの二校が東西東京の第一シードとなるわけだ。久しぶりにベスト4まで進出した日大二の健闘が光った。
東都大学野球や東京六大学野球では昨年甲子園をわかせた垣ヶ原(帝京)や野村(広陵)が早くも神宮のマウンドに上がっている。
インテリジェンスという言葉には昔から弱く、それは自分に大きく欠如していることのあらわれなのだろうと思っている。著者は年間3,000冊を読破するということらしいが、年間3,000冊購入しているのか、完全に読破しているのかはちょっと不明。税理士の報告から逆算しての数字らしい。実際に読むのは2,400冊と書いてあるし、「年3000冊を読破する私の方法」というサブタイトルからしていったいこの人は何冊読んでるのってついついディティールにこだわってしまう。いずれにしてもぼくは年間どころか半世紀近く生きていてもそんなにたくさんは読んでいないと思う。
それでもできればもっとたくさんの本は読みたいとは思うが、如何せんぼくは読むのが遅い。速く読もうと意識しながら読むのも身体に悪そうで未だに5キロを45分くらいのペースで読んでいる。
それでもってこの本に書いてあるのは、本をたくさん読んで、その中からこれだってものをつかみとりなさいよってことだ。
東京都の高校野球は帝京が優勝、準優勝の日大三とともに関東大会に駒を進めた。夏はこの二校が東西東京の第一シードとなるわけだ。久しぶりにベスト4まで進出した日大二の健闘が光った。
東都大学野球や東京六大学野球では昨年甲子園をわかせた垣ヶ原(帝京)や野村(広陵)が早くも神宮のマウンドに上がっている。
インテリジェンスという言葉には昔から弱く、それは自分に大きく欠如していることのあらわれなのだろうと思っている。著者は年間3,000冊を読破するということらしいが、年間3,000冊購入しているのか、完全に読破しているのかはちょっと不明。税理士の報告から逆算しての数字らしい。実際に読むのは2,400冊と書いてあるし、「年3000冊を読破する私の方法」というサブタイトルからしていったいこの人は何冊読んでるのってついついディティールにこだわってしまう。いずれにしてもぼくは年間どころか半世紀近く生きていてもそんなにたくさんは読んでいないと思う。
それでもできればもっとたくさんの本は読みたいとは思うが、如何せんぼくは読むのが遅い。速く読もうと意識しながら読むのも身体に悪そうで未だに5キロを45分くらいのペースで読んでいる。
それでもってこの本に書いてあるのは、本をたくさん読んで、その中からこれだってものをつかみとりなさいよってことだ。
2008年5月1日木曜日
ミュリエル・ジョリヴェ『移民と現代フランス』
南仏には中華料理屋が多いように思う。
とはいっても目について、わかりやすいのが中華料理だからそう思っているだけかもしれないけど。カンヌにもあるし、アンティーブにもニースにもある。っていうかそれしか行ったことがない。
どこも共通しているのはフランス人とかアラブ人とかアフリカの人がやってるんではなく、中国かベトナムか、どう見てもアジア人らしき人が経営している(少なくともそう見える)。
フランスは毎年数多くの移民を受け容れているという。とてもオープンな国なのだ。とりわけ旧植民地であるアルジェリア、モロッコ、チュニジアからが多いそうだ。でもってマグレブ人と呼ばれる彼らは正式な滞在許可証を得て、安定した職業に就くまでたいへん苦労するらしい。生活習慣の違いも大きい。なんとも身につまされる本である。
どのくらい身につまされるかっていうと、スタインベックの『怒りのぶどう』、藤原ていの『流れる星は生きている』くらい身につまされる話だ。
この本は各関係者、識者、当事者にインタビューを試みている。その見解をまとめているのであるが、社会学などでよくある手法なのかもしれないが、海外のドキュメンタリーやルポルタージュをテレビで視ているように読める。現代フランスの移民問題を(というか移民をテーマにフランスの社会や制度を問い直すのが主眼だと思うが)するっと巧妙にまとめているなって感じだ。
アンティーブのちょっと気のよさそうな主人もニースの無口なおやじさんもかつては移民だったんだろうか。アジア人は比較的同化しやすいとはいうが、それなりに苦労があったんじゃないかなあと遠く南仏の中華料理屋に思いを馳せるのである。
とはいっても目について、わかりやすいのが中華料理だからそう思っているだけかもしれないけど。カンヌにもあるし、アンティーブにもニースにもある。っていうかそれしか行ったことがない。
どこも共通しているのはフランス人とかアラブ人とかアフリカの人がやってるんではなく、中国かベトナムか、どう見てもアジア人らしき人が経営している(少なくともそう見える)。
フランスは毎年数多くの移民を受け容れているという。とてもオープンな国なのだ。とりわけ旧植民地であるアルジェリア、モロッコ、チュニジアからが多いそうだ。でもってマグレブ人と呼ばれる彼らは正式な滞在許可証を得て、安定した職業に就くまでたいへん苦労するらしい。生活習慣の違いも大きい。なんとも身につまされる本である。
どのくらい身につまされるかっていうと、スタインベックの『怒りのぶどう』、藤原ていの『流れる星は生きている』くらい身につまされる話だ。
この本は各関係者、識者、当事者にインタビューを試みている。その見解をまとめているのであるが、社会学などでよくある手法なのかもしれないが、海外のドキュメンタリーやルポルタージュをテレビで視ているように読める。現代フランスの移民問題を(というか移民をテーマにフランスの社会や制度を問い直すのが主眼だと思うが)するっと巧妙にまとめているなって感じだ。
アンティーブのちょっと気のよさそうな主人もニースの無口なおやじさんもかつては移民だったんだろうか。アジア人は比較的同化しやすいとはいうが、それなりに苦労があったんじゃないかなあと遠く南仏の中華料理屋に思いを馳せるのである。
2008年4月29日火曜日
シドニー・ガブリエル・コレット『青い麦』
NHKラジオの語学講座がこの春から大幅にリニューアルされた。
ひとつは曜日。従来月~木が入門編、金土が応用編だったのが、月~水入門、木土応用とゆとり教育に様変わりした。ゆとり教育いかがなものよと騒がれている昨今にあって、さらにゆとりをかましているのがその時間だ。これまでの20分から15分になった。
2年前からフランス語の入門編を中心に聴いているのだが、この5分は案外大きい。しかも1日少ない。ちゃんと勉強した気になれないのだ(それに今年の番組はちょいと冗長ですべり気味)。先週あたりから入門編は止して、応用編を聴いている。応用編の15分は逆にコンパクトでわかりやすいのだ。トークマスターというタイマー録音できるラジオで繰り返し聴くこともあるのだが、15分というのはちょっとした空き時間とか通勤途中の徒歩の間に聴くのにちょうどいい。
これまでラジオ講座は入門編の場合、前期4~9月新番組、後期10~3月再放送となっていたが、番組枠が大幅に変わったので過去のすぐれた講座を聴くことができなくなってしまった。と、思ってたら、アンコール版も放送されているらしい。フランス語の場合月~土の昼前の20分間オンエアしているそうだ。月~木は入門編、金土は応用編。昔ながらのきちんとした講座をお望みの方はこちらの方がおすすめだ。先日、本屋でアンコール版のテキストをぱらぱらとめくってみた。NHKのたくましい商魂がしっかり読みとれるテキストだった。
さて、コレットの『青い麦』だが、たまたま家にあったので読んでみた。思春期の少年少女を描いたもので『青い~』などというタイトルのつくものはたいがい高が知れている。堀口大學という詩人の訳なのだが、ところどころ散文的な流れるような訳もあるが、やたら読点でつないでまだるっこしいところもある。それにしても、おそらく《tu》だとは思うのだが(原書を見てないのでなんともいえないが)、《あんた》はないだろう《あんた》はって思った。
ひとつは曜日。従来月~木が入門編、金土が応用編だったのが、月~水入門、木土応用とゆとり教育に様変わりした。ゆとり教育いかがなものよと騒がれている昨今にあって、さらにゆとりをかましているのがその時間だ。これまでの20分から15分になった。
2年前からフランス語の入門編を中心に聴いているのだが、この5分は案外大きい。しかも1日少ない。ちゃんと勉強した気になれないのだ(それに今年の番組はちょいと冗長ですべり気味)。先週あたりから入門編は止して、応用編を聴いている。応用編の15分は逆にコンパクトでわかりやすいのだ。トークマスターというタイマー録音できるラジオで繰り返し聴くこともあるのだが、15分というのはちょっとした空き時間とか通勤途中の徒歩の間に聴くのにちょうどいい。
これまでラジオ講座は入門編の場合、前期4~9月新番組、後期10~3月再放送となっていたが、番組枠が大幅に変わったので過去のすぐれた講座を聴くことができなくなってしまった。と、思ってたら、アンコール版も放送されているらしい。フランス語の場合月~土の昼前の20分間オンエアしているそうだ。月~木は入門編、金土は応用編。昔ながらのきちんとした講座をお望みの方はこちらの方がおすすめだ。先日、本屋でアンコール版のテキストをぱらぱらとめくってみた。NHKのたくましい商魂がしっかり読みとれるテキストだった。
さて、コレットの『青い麦』だが、たまたま家にあったので読んでみた。思春期の少年少女を描いたもので『青い~』などというタイトルのつくものはたいがい高が知れている。堀口大學という詩人の訳なのだが、ところどころ散文的な流れるような訳もあるが、やたら読点でつないでまだるっこしいところもある。それにしても、おそらく《tu》だとは思うのだが(原書を見てないのでなんともいえないが)、《あんた》はないだろう《あんた》はって思った。
2008年4月27日日曜日
アルフォンス・ドーデ『風車小屋だより』
手もとにある岩波文庫。
1982年1月25日第55刷発行とある。で、その下に読了の日が840215とある。はじめて読んだのが今から14年前。読んでいたことすら忘れていた一冊が書棚から見つかった。
昨年南仏を訪れた際、アルルから足をのばしてドーデの住んでいた風車小屋を見に行った。プロヴァンスの風光明媚な丘の上にぽつんとたたずむ赤い屋根。もともとは粉ひきのための風車だったそうだが、それは丘の上から見渡す穀倉地帯を思えば、うなずける話だ。蒸気機関の発達で風車による粉ひき商売は衰退し、風車の数は減っていったらしい(「コルニーユ親方の秘密」)。
風車のあるフォンヴィエイユという街はアルルからバスで2~30分ほど。まさに何もないフランスの田舎町だ。が、こうしてドーデの見聞きし、紡いだ話を読むとそれなりの歴史や生活が感じられて、目の当たりにした風景がまた魅力的に思い出されてくるのだ。
1982年1月25日第55刷発行とある。で、その下に読了の日が840215とある。はじめて読んだのが今から14年前。読んでいたことすら忘れていた一冊が書棚から見つかった。
昨年南仏を訪れた際、アルルから足をのばしてドーデの住んでいた風車小屋を見に行った。プロヴァンスの風光明媚な丘の上にぽつんとたたずむ赤い屋根。もともとは粉ひきのための風車だったそうだが、それは丘の上から見渡す穀倉地帯を思えば、うなずける話だ。蒸気機関の発達で風車による粉ひき商売は衰退し、風車の数は減っていったらしい(「コルニーユ親方の秘密」)。
風車のあるフォンヴィエイユという街はアルルからバスで2~30分ほど。まさに何もないフランスの田舎町だ。が、こうしてドーデの見聞きし、紡いだ話を読むとそれなりの歴史や生活が感じられて、目の当たりにした風景がまた魅力的に思い出されてくるのだ。
2008年4月22日火曜日
浅井建爾『知らなかった!驚いた!日本全国「県境」の謎』
上野の国立科学博物館でダーウィン展を見る。
ビーグル号に乗って世界を旅した見聞が彼の進化論に活かされているのだが、5年の及ぶ船旅はなんとも苦労の絶えなかったことだろう。アンリ・ベルクソンが進化についてなにか書いていたと思うが、もう思い出せない。ただ進化論の考え方に微妙な違いがあって、進化論も進化しているのだと思ったことだけ憶えている。
でもって、この本なんだが、題名がちょっとちょっとって感じだったがつい読んでしまった。まあ『知らなかった!驚いた!』はないだろう。それと『「県境」の謎』もどうだかなあ。もっとミステリーハンターな本かと思った。
著者は市井の地理学者のようであり、歴史的行政的な観点から県境について記述しているのだが、いまひとつその不思議な県境に立っている感触に欠けるんだな。
東京葛飾区の水元公園の周辺を歩いていると、橋を渡ると千葉県松戸市、戻って土手沿いに行くと埼玉県三郷市。公園の北側は三郷市で、その東側は埼玉県八潮市と歩いているだけでめまぐるしく地名が変わる。まあ欲を言えばの話だが、こうしたタモリ倶楽部的なネタを集めた本を期待してたんだけどね。
でも廃藩置県以降の史実に忠実でちゃんとした読み物にはなっているとは思います。
ビーグル号に乗って世界を旅した見聞が彼の進化論に活かされているのだが、5年の及ぶ船旅はなんとも苦労の絶えなかったことだろう。アンリ・ベルクソンが進化についてなにか書いていたと思うが、もう思い出せない。ただ進化論の考え方に微妙な違いがあって、進化論も進化しているのだと思ったことだけ憶えている。
でもって、この本なんだが、題名がちょっとちょっとって感じだったがつい読んでしまった。まあ『知らなかった!驚いた!』はないだろう。それと『「県境」の謎』もどうだかなあ。もっとミステリーハンターな本かと思った。
著者は市井の地理学者のようであり、歴史的行政的な観点から県境について記述しているのだが、いまひとつその不思議な県境に立っている感触に欠けるんだな。
東京葛飾区の水元公園の周辺を歩いていると、橋を渡ると千葉県松戸市、戻って土手沿いに行くと埼玉県三郷市。公園の北側は三郷市で、その東側は埼玉県八潮市と歩いているだけでめまぐるしく地名が変わる。まあ欲を言えばの話だが、こうしたタモリ倶楽部的なネタを集めた本を期待してたんだけどね。
でも廃藩置県以降の史実に忠実でちゃんとした読み物にはなっているとは思います。
2008年4月18日金曜日
安岡章太郎「サアカスの馬」
先日、去年大学を卒業したばかりの新入社員と荻窪界隈の話をしていて、その際、井伏鱒二の家って荻窪にあるんだよと言ったら、どうもそいつ、井伏鱒二を知らないらしい。太宰治も三鷹に引越す前は荻窪に住んでいたそうだというとさすが太宰治は知っているという(そりゃそうだろう)。
それで思ったんだが、ぼくらは中学の国語の教科書に「山椒魚」が載っていたから井伏鱒二を知っているんであって、もしそうでなかったら、やはりその若者同様、え?誰それ?となったかもしれない。
中学の頃、教科書に載っていて印象深い小説として安岡章太郎の「サアカスの馬」があげられる。こんな書き出しだ。
ぼくの行っていた中学校は九段の靖国神社のとなりにある。
鉄筋コンクリート三階建の校舎は、その頃モダンで明るく健康的と
いわれていたが、僕にとってはそれは、いつも暗く、重苦しく、陰気な
感じのする建物であった。
ここ第一東京市立中学校で劣等生だった安岡章太郎が靖国神社のお祭りで思いのほか脚光を浴びる老いさらばえたサーカスの馬に感情移入するという短編である。
たまたま今日午前中時間ができたので、授業をさぼった学生よろしく、日比谷図書館に立ち寄って久しぶりに読みかえしてみた。第一東京市立中学は後に東京都立九段高校となり、現在では千代田区立九段中等教育学校という6年間一貫校となっている。ぼくも九段高校の出身で、まさに安岡章太郎が通っていたモダンで明るく健康的な鉄筋コンクリート三階建ての校舎で3年間を過ごした。この校舎は後に改築され、すっかり様変わりした。キャベツを食い散らかした地下の食堂や安岡少年が立たされた廊下など、この校舎の面影はわずかにこの短編に記されているだけだ。
それで思ったんだが、ぼくらは中学の国語の教科書に「山椒魚」が載っていたから井伏鱒二を知っているんであって、もしそうでなかったら、やはりその若者同様、え?誰それ?となったかもしれない。
中学の頃、教科書に載っていて印象深い小説として安岡章太郎の「サアカスの馬」があげられる。こんな書き出しだ。
ぼくの行っていた中学校は九段の靖国神社のとなりにある。
鉄筋コンクリート三階建の校舎は、その頃モダンで明るく健康的と
いわれていたが、僕にとってはそれは、いつも暗く、重苦しく、陰気な
感じのする建物であった。
ここ第一東京市立中学校で劣等生だった安岡章太郎が靖国神社のお祭りで思いのほか脚光を浴びる老いさらばえたサーカスの馬に感情移入するという短編である。
たまたま今日午前中時間ができたので、授業をさぼった学生よろしく、日比谷図書館に立ち寄って久しぶりに読みかえしてみた。第一東京市立中学は後に東京都立九段高校となり、現在では千代田区立九段中等教育学校という6年間一貫校となっている。ぼくも九段高校の出身で、まさに安岡章太郎が通っていたモダンで明るく健康的な鉄筋コンクリート三階建ての校舎で3年間を過ごした。この校舎は後に改築され、すっかり様変わりした。キャベツを食い散らかした地下の食堂や安岡少年が立たされた廊下など、この校舎の面影はわずかにこの短編に記されているだけだ。
2008年4月16日水曜日
清水義範『早わかり世界の文学』
選抜高校野球が始まって、終わったと思ったら、プロ野球が始まって、学生野球も始まった。4連覇のかかる東京六大学の早稲田は東大相手とはいえ、好発進。注目は新主将になった上本、松本、細山田の4年生だ。東京都の高校野球も始まっている。秋優勝の関東一が初戦敗退。関東大会へ行けないどころか、夏の予選はノーシードだ。
プロ野球はどうかといえば、じゅうぶんに補強したジャイアンツがスタートダッシュするかと思ってたら、そうでもなく、もののみごとにマスコミの餌食となっている。ジャイアンツといえば、以前から大型補強をするたびに各方面から批判を浴びていたが、ぼくは案外そうとは思わないのだ。子どもの頃、よく新聞(もちろん読売新聞だ)の集金に来る販売店の人が外野席の招待券をくれたのだが、ただで観戦できる外野席のチケットに期待するものとしたらやはりホームランだろう。ジャイアンツはこうした小さな野球ファンの卵たちのために各球団から4番打者を集めなければならない宿命なのだ。そりゃあもちろん自前でホームランバッターを育てるのが理想には違いなのだが、手っ取り早く東京ドームの外野席にホームランボールを大量に打ち込むために5年も6年も若手を育成している場合ではないのだ。よく野球は役割分担だとか、大砲役とつなぎ役がいて…みたいなことをしたり顔でいう素人評論家がいるが、まずは野球ってスケールの大きなスポーツだろってことを直感的に知らしめないと、ますます衰退していくような気がする。野球がチームプレーで、作戦があって、緻密な競技であるなんてことは高校生になって学べばいいことだ、なんて思うんだけどね(とはいえジャイアンツにはもう少し勝つ野球をしてほしいなあとも思うけど)。
ちょっと野球の話が長くなってしまった。
清水義範の『早わかり世界の文学』は著者の作家としての立ち位置を改めて明確にしながら、読書体験を語っている平易な本である。清水義範はパスティーシュ作家だといわれており、ぼくもパスティーシュという言葉を清水作品を通じて知ったのであるが、正直いって、本人がパスティーシュ作家ですとあからさまに自負しているとどうも鼻につくというか、いやな感じがする。私は反体制ですと胸をはっていわれたみたいな。そういうことって作品を通じて訴えてくれればいいと思うのだが。それとなんでもかんでもパスティーシュとくくるのもどうかなと。文体を模倣するのと小説の主題を模倣するのとでは違うような気もするのだ。だから文学はパロディでつながっているといわれてもちょっと無理があるような気がするのである。
プロ野球はどうかといえば、じゅうぶんに補強したジャイアンツがスタートダッシュするかと思ってたら、そうでもなく、もののみごとにマスコミの餌食となっている。ジャイアンツといえば、以前から大型補強をするたびに各方面から批判を浴びていたが、ぼくは案外そうとは思わないのだ。子どもの頃、よく新聞(もちろん読売新聞だ)の集金に来る販売店の人が外野席の招待券をくれたのだが、ただで観戦できる外野席のチケットに期待するものとしたらやはりホームランだろう。ジャイアンツはこうした小さな野球ファンの卵たちのために各球団から4番打者を集めなければならない宿命なのだ。そりゃあもちろん自前でホームランバッターを育てるのが理想には違いなのだが、手っ取り早く東京ドームの外野席にホームランボールを大量に打ち込むために5年も6年も若手を育成している場合ではないのだ。よく野球は役割分担だとか、大砲役とつなぎ役がいて…みたいなことをしたり顔でいう素人評論家がいるが、まずは野球ってスケールの大きなスポーツだろってことを直感的に知らしめないと、ますます衰退していくような気がする。野球がチームプレーで、作戦があって、緻密な競技であるなんてことは高校生になって学べばいいことだ、なんて思うんだけどね(とはいえジャイアンツにはもう少し勝つ野球をしてほしいなあとも思うけど)。
ちょっと野球の話が長くなってしまった。
清水義範の『早わかり世界の文学』は著者の作家としての立ち位置を改めて明確にしながら、読書体験を語っている平易な本である。清水義範はパスティーシュ作家だといわれており、ぼくもパスティーシュという言葉を清水作品を通じて知ったのであるが、正直いって、本人がパスティーシュ作家ですとあからさまに自負しているとどうも鼻につくというか、いやな感じがする。私は反体制ですと胸をはっていわれたみたいな。そういうことって作品を通じて訴えてくれればいいと思うのだが。それとなんでもかんでもパスティーシュとくくるのもどうかなと。文体を模倣するのと小説の主題を模倣するのとでは違うような気もするのだ。だから文学はパロディでつながっているといわれてもちょっと無理があるような気がするのである。
2008年4月15日火曜日
チャールズ・ディケンズ『デイヴィッド・コパフィールド』
もう何年前になるだろうか。四谷四丁目にある小さなCM制作会社で働くようになった頃だから、かれこれ20年以上だ。どういう訳か、その仕事場の近くの本屋で新潮文庫の『デイヴィッド・コパフィールド』を4冊まとめて買ったのだ。今ぼんやりと当時のことを思い出そうとしているのだが、たしか村上春樹の小説の中で『デイヴィッド・コパフィールド』という書名を目に留め、それで読んでみようと思ったのかもしれない。はたまた古い映画で『大いなる遺産』だか『二都物語』だかを観て、それで咄嗟に読みたくなったかもしれない。それで、だ。ちょうどその当時、これもとても曖昧な記憶にすがっているのだけれど、『デイヴィッド・コパフィールド』は絶版になっていたようにも思えるのだ。文庫本で絶版になると神保町あたりでは途端に値がつりあがる。もし街の本屋で在庫があれば、そいつに飛びつかないことにはとんだ散財になる。とかなんとか思って買ったのかもしれない。
それにしてもぼくと『デイヴィッド・コパフィールド』の結びつきというのがなんともはっきりしない。先述したような接点があったのかもしれないし、なかったかもしれない。どのみちディケンズといえば『クリスマス・キャロル』くらいしか読んだことはなかったし、そもそもあまりイギリス文学にも親しんでいたわけではなかった。せいぜい子どもの頃、『ロビンソン・クルーソー』とか『ガリバー旅行記』を読んだくらい。後はモームとかジョイスくらいかな。
いずれにしても昔から本棚には『デイヴィッド・コパフィールド』が4冊、ずっと長いこと置かれていて、いつか読むのだろうとその背中だけをながめていた。
ここ何ヶ月か、仕事がスムースにいかなくて、たまの休みの日もくよくよ思い悩むような日が続いていた。なにかで気分転換しなくちゃと思っていた矢先、またしても古い文庫本の背が目に飛び込んできた。そんなわけで何の予備知識もないままこの本を読み始めたわけだ。
少し読みすすめて、どうやら『デイヴィッド・コパフィールド』っていうのは主人公の名前でそのデイヴィッドが成長していく物語だということがわかってきた。言ってみれば『ジャン・クリストフ』と同じだ。『魔の山』とか『罪と罰』みたいなテーマ的な題名ではない。だから主人公が渡辺一男だったら『渡辺一男』という題名になる小説ってことだ。
まあ、それはともかく、幼少期の不遇な家庭環境から脱却し、幾多の出会いと努力を積み重ね、作家として、人間として成長していく自伝的な小説だ。やたらと長い物語ではあるが、主人公と彼をとりまく人物が再三あらわれ進展していく展開は読んでいて飽きさせない。
学生の頃は『ジャン・クリストフ』とか『新エロイーズ』とか『エデンの東』とか長い小説をよく読んでいたが、この歳になって読む大河小説も悪くはないなと思った。
それにしてもぼくと『デイヴィッド・コパフィールド』の結びつきというのがなんともはっきりしない。先述したような接点があったのかもしれないし、なかったかもしれない。どのみちディケンズといえば『クリスマス・キャロル』くらいしか読んだことはなかったし、そもそもあまりイギリス文学にも親しんでいたわけではなかった。せいぜい子どもの頃、『ロビンソン・クルーソー』とか『ガリバー旅行記』を読んだくらい。後はモームとかジョイスくらいかな。
いずれにしても昔から本棚には『デイヴィッド・コパフィールド』が4冊、ずっと長いこと置かれていて、いつか読むのだろうとその背中だけをながめていた。
ここ何ヶ月か、仕事がスムースにいかなくて、たまの休みの日もくよくよ思い悩むような日が続いていた。なにかで気分転換しなくちゃと思っていた矢先、またしても古い文庫本の背が目に飛び込んできた。そんなわけで何の予備知識もないままこの本を読み始めたわけだ。
少し読みすすめて、どうやら『デイヴィッド・コパフィールド』っていうのは主人公の名前でそのデイヴィッドが成長していく物語だということがわかってきた。言ってみれば『ジャン・クリストフ』と同じだ。『魔の山』とか『罪と罰』みたいなテーマ的な題名ではない。だから主人公が渡辺一男だったら『渡辺一男』という題名になる小説ってことだ。
まあ、それはともかく、幼少期の不遇な家庭環境から脱却し、幾多の出会いと努力を積み重ね、作家として、人間として成長していく自伝的な小説だ。やたらと長い物語ではあるが、主人公と彼をとりまく人物が再三あらわれ進展していく展開は読んでいて飽きさせない。
学生の頃は『ジャン・クリストフ』とか『新エロイーズ』とか『エデンの東』とか長い小説をよく読んでいたが、この歳になって読む大河小説も悪くはないなと思った。
2008年3月30日日曜日
金川欣二『脳がほぐれる言語学』
桜が咲いて、街は賑わっている。
選抜高校野球は横浜、常葉菊川と相次いで破れ、優勝争いは混沌としてきた。心底応援していた安房高はほんのちょっと打合せをしているあいだにサヨナラ負けで消えていた。夏がんばってほしいが、常葉菊川を破った千葉経大付属もなかなか強そうだ。
いつだったか毎日新聞に引用されていたこの本が気になっていて、読んでみた。ちょっとした辛口箴言集のような読み物でなかなかおもしろい。現代言語学の基礎を築いたのはソシュールであるとなんとなく思っていはいたが、実はそうでもないらしい。ややもすればソシュールやレヴィ=ストロース、ミシェル・フーコーあたりを読んでないとわかりにくいところもあるのかもしれないが、それでも引き合いに出される書物が多岐にわたっていて著者の読書と発想の幅広さが感じられる。まさしく脱中心、周縁、リゾームなどといった言葉が板についた現代的な学者なんだろう。脳がほぐれることはたしかだ。
選抜高校野球は横浜、常葉菊川と相次いで破れ、優勝争いは混沌としてきた。心底応援していた安房高はほんのちょっと打合せをしているあいだにサヨナラ負けで消えていた。夏がんばってほしいが、常葉菊川を破った千葉経大付属もなかなか強そうだ。
いつだったか毎日新聞に引用されていたこの本が気になっていて、読んでみた。ちょっとした辛口箴言集のような読み物でなかなかおもしろい。現代言語学の基礎を築いたのはソシュールであるとなんとなく思っていはいたが、実はそうでもないらしい。ややもすればソシュールやレヴィ=ストロース、ミシェル・フーコーあたりを読んでないとわかりにくいところもあるのかもしれないが、それでも引き合いに出される書物が多岐にわたっていて著者の読書と発想の幅広さが感じられる。まさしく脱中心、周縁、リゾームなどといった言葉が板についた現代的な学者なんだろう。脳がほぐれることはたしかだ。
2008年3月23日日曜日
佐藤尚之『明日の広告』
選抜高校野球が始まった。昨秋の実績で常葉菊川、横浜が優勝候補らしい。初日の今日、昨秋ベスト4の東北が破れる波乱があった。
第三試合には21世紀枠で初の甲子園出場となった千葉県立安房高校が登場した。父も母も南房総の出身なので、叔父やらいとこやら安房高出身者が多く、テレビにかじりついて応援してしまった。9回表の連打での得点、その裏のピンチをしのいでの勝利に熱いものがこみあげてきた。甲子園初出場初勝利。歴史を刻んだ瞬間だ。
その昔、ぼくのいとこが安房高野球部にいたのだが、そのとき夏の千葉県大会の決勝に進出し、強豪の銚子商業に破れ、甲子園初出場の夢を断たれたことがあった。当時の銚子商業には宇野勝、尾上旭らがいて、たぶん甲子園でもベスト8くらいはいったんじゃないかな。
で、うどんの話。
7年ほど前に仕事で高松に行った。同行したお得意さんと空港でうどんを食べて、すごくうまいと思った。こんなことを言っちゃ失礼かもしれないが、駅とか空港で食べるものってたいていの場合、通りいっぺんなおいしさでしかなかったりする(もちろんそれ以前のものも圧倒的に多い)。空港でこんなうまいんだったら、街に行ったら、もっとうまいんだろうなと想像力がふくらんだ。
どちらかといえば、蕎麦のほうが好きで、うどんなんてものは病気したとき食べるもの、くらいにしか思ってなかったのがこの日を契機に認識を改めた。
で、東京でもうまい讃岐うどんが食えるのか、ネットでさがすことにした。うまい蕎麦屋はいくらか知ってはいるが、うどん屋に関してはまったくの無知蒙昧だったから。そこで出会ったのが「さとなお」なる人物である。氏の「おいしい店リスト」で銀座さか田、板橋すみた、新橋さぬきやなどを知ることとなった。
最近では立ち食い蕎麦屋のように讃岐うどんの店が増えてきている。まあそこそこ本場の雰囲気を手軽に味わえるようになった。なによりである。
で、そのさとなおなる人物は広告会社のクリエーティブディレクターで、この本はその本業を書いている。20年前とは消費者が変化しているのに、旧態依然たる広告でよいのかという疑問にポジティブに応えてくれて、メディア・ミックスからメディア・ニュートラル、クロス・メディアへとネット時代のコミュニケーションのあり方を平易に語ってくれている。
シンプルだけど噛みごたえのある讃岐うどんのような一冊である。
第三試合には21世紀枠で初の甲子園出場となった千葉県立安房高校が登場した。父も母も南房総の出身なので、叔父やらいとこやら安房高出身者が多く、テレビにかじりついて応援してしまった。9回表の連打での得点、その裏のピンチをしのいでの勝利に熱いものがこみあげてきた。甲子園初出場初勝利。歴史を刻んだ瞬間だ。
その昔、ぼくのいとこが安房高野球部にいたのだが、そのとき夏の千葉県大会の決勝に進出し、強豪の銚子商業に破れ、甲子園初出場の夢を断たれたことがあった。当時の銚子商業には宇野勝、尾上旭らがいて、たぶん甲子園でもベスト8くらいはいったんじゃないかな。
で、うどんの話。
7年ほど前に仕事で高松に行った。同行したお得意さんと空港でうどんを食べて、すごくうまいと思った。こんなことを言っちゃ失礼かもしれないが、駅とか空港で食べるものってたいていの場合、通りいっぺんなおいしさでしかなかったりする(もちろんそれ以前のものも圧倒的に多い)。空港でこんなうまいんだったら、街に行ったら、もっとうまいんだろうなと想像力がふくらんだ。
どちらかといえば、蕎麦のほうが好きで、うどんなんてものは病気したとき食べるもの、くらいにしか思ってなかったのがこの日を契機に認識を改めた。
で、東京でもうまい讃岐うどんが食えるのか、ネットでさがすことにした。うまい蕎麦屋はいくらか知ってはいるが、うどん屋に関してはまったくの無知蒙昧だったから。そこで出会ったのが「さとなお」なる人物である。氏の「おいしい店リスト」で銀座さか田、板橋すみた、新橋さぬきやなどを知ることとなった。
最近では立ち食い蕎麦屋のように讃岐うどんの店が増えてきている。まあそこそこ本場の雰囲気を手軽に味わえるようになった。なによりである。
で、そのさとなおなる人物は広告会社のクリエーティブディレクターで、この本はその本業を書いている。20年前とは消費者が変化しているのに、旧態依然たる広告でよいのかという疑問にポジティブに応えてくれて、メディア・ミックスからメディア・ニュートラル、クロス・メディアへとネット時代のコミュニケーションのあり方を平易に語ってくれている。
シンプルだけど噛みごたえのある讃岐うどんのような一冊である。
2008年3月21日金曜日
トルーマン・カポーティ『ティファニーで朝食を』
ここのところ忙しくて、まっとうな時間に帰れない。さりとて額に汗して深夜までコツコツ働いているわけでもなく、コンピュータを使った作業をチェックしては待ち、修正点を指示して、また待ち…、の繰り返しである。その待ち時間につらつら本を読んでいる。
瀧口直太郎はアーネスト・ヘミングウェイやウィリアム・サマセット・モームの翻訳でも知られているが、正直いったところ『ティファニー』だけは読みにくかった。するっとストーリーが進んでいかないのだ。最初に読んだのが20代前半でぼくも未熟な青年だったせいもあるけれど。
もう一度読み直してみようと思ったのが、7、8年前かな。仕事でテキサス州サンアントニオに向かう機内で読んだ。するっと読めない感じは相変わらずだった。アメリカの南部に行くのでなんとなくカポーティが読みたくなり、リュックのポケットに突っ込んで旅立ったわけだ。
そういえばフィリップ・シーモア・ホフマン主演の映画『カポーティ』、見そびれちゃったなあ。こんどDVDで観よう。
この映画は『冷血』を書いている頃を中心とした伝記らしいが、彼の代表作ともいえるこの大作の端緒となったのが村上春樹の解説によると『ティファニー』なんだそうだ。いわゆるそれまでの若手天才作家の文体から新たなステージを模索して、大人の作家への移行をとげた作品であるらしい。ぼくは『冷血』は大作であると評価はするものの、やはり好きか嫌いかでいえば初期の作品のほうが圧倒的に好きなわけで、ぼくの中のカポーティは『草の竪琴』や『誕生日の子どもたち』だ。
話は『ティファニー』に戻るが、20代に読んで、ホリーのような女性はよくわからないと思った。もしぼくが階上の住人だったら困ってしまうだろうと思った。20年以上の歳月をへだてて読み直したとき(しかも新訳で)、やはりホリー・ゴライトリーってよくわからない女性だと感じた。こういう痛快な性格づけを登場人物にできることがカポーティの天才たるゆえんなのだろう。
瀧口直太郎はアーネスト・ヘミングウェイやウィリアム・サマセット・モームの翻訳でも知られているが、正直いったところ『ティファニー』だけは読みにくかった。するっとストーリーが進んでいかないのだ。最初に読んだのが20代前半でぼくも未熟な青年だったせいもあるけれど。
もう一度読み直してみようと思ったのが、7、8年前かな。仕事でテキサス州サンアントニオに向かう機内で読んだ。するっと読めない感じは相変わらずだった。アメリカの南部に行くのでなんとなくカポーティが読みたくなり、リュックのポケットに突っ込んで旅立ったわけだ。
そういえばフィリップ・シーモア・ホフマン主演の映画『カポーティ』、見そびれちゃったなあ。こんどDVDで観よう。
この映画は『冷血』を書いている頃を中心とした伝記らしいが、彼の代表作ともいえるこの大作の端緒となったのが村上春樹の解説によると『ティファニー』なんだそうだ。いわゆるそれまでの若手天才作家の文体から新たなステージを模索して、大人の作家への移行をとげた作品であるらしい。ぼくは『冷血』は大作であると評価はするものの、やはり好きか嫌いかでいえば初期の作品のほうが圧倒的に好きなわけで、ぼくの中のカポーティは『草の竪琴』や『誕生日の子どもたち』だ。
話は『ティファニー』に戻るが、20代に読んで、ホリーのような女性はよくわからないと思った。もしぼくが階上の住人だったら困ってしまうだろうと思った。20年以上の歳月をへだてて読み直したとき(しかも新訳で)、やはりホリー・ゴライトリーってよくわからない女性だと感じた。こういう痛快な性格づけを登場人物にできることがカポーティの天才たるゆえんなのだろう。
2008年3月18日火曜日
村上春樹『中国行きのスロウ・ボート』
ぼくの生まれは東京の品川区で、子どもの頃からその界隈で過ごしてきた。親戚も佃島とか赤坂に住んでいたこともあって、大井町から有楽町くらいまでは字を読むより先に駅名を憶えた。山手線でいえば、東南側。
高校生になって、中央線の飯田橋まで通うようになって、少しは地理は開けてきたが、それでも山手線の北側は苦手な地域だった。
要は何をいいたいかというと、実は、高田馬場が昔から苦手だったのだ。どう苦手かというと、方向感覚がなくなるのだ。プラットホームに立つとどちらが山手線の内側でどちらが外側かわからなくなる。早稲田通りの小滝橋方面が早稲田側に思えてしまうのだ。そんなわけでなにかの用事で高田馬場に行くとよく反対方面の山手線に乗ってしまう。池袋あたりで気づくのだが、面倒なのでそのまま駒込、田端、日暮里、上野を通って、帰ったものだ。
ぼくが「中国行きのスロウ・ボート」をはじめて読んだときの印象は、そんな高田馬場の光景だった。実際は新宿駅で中国人の女の子を反対方面の山手線に乗せてしまうくだりがあるが、ホームが内回り外回りで分かれている新宿駅でそんなことはないだろう、などとつっこみを入れつつ読んだものだが。
昔話をもうひとつ。大学に通っていた頃、中国からの留学生がいて、彼の身の回りの世話をしたり、相談相手になるという役を学校から言われて引き受けることになった。それで1年間でいくらかの報酬ももらえた。そのころはほとんど学校には行かず、アルバイトばかりしていたから、彼とはほとんど会うことはなく、とはいうものの後ろめたい部分もあったので一度だけ喫茶店で昼食をおごってあげ、通りいっぺんの会話をした。
『中国行きのスロウ・ボート』は村上春樹の最初の短編集で、世の評価としては『羊をめぐる冒険』以前に書かれた荒削りで未完成な前半4編とその後に書かれ、完成度が高く、洗練された後半4編が好対照をなすと苦言を呈されているようだが、ぼくはこのときはじめてコンビを組んだ安西水丸の装丁もあいまって、村上作品のなかでももっとも好きな一冊で、なかでも冒頭の表題作「中国行きのスロウ・ボート」は、そんなわけで忘れられない短編だ。
先日何年ぶりかで読んで、苦い昔を思い出してしまった。。
高校生になって、中央線の飯田橋まで通うようになって、少しは地理は開けてきたが、それでも山手線の北側は苦手な地域だった。
要は何をいいたいかというと、実は、高田馬場が昔から苦手だったのだ。どう苦手かというと、方向感覚がなくなるのだ。プラットホームに立つとどちらが山手線の内側でどちらが外側かわからなくなる。早稲田通りの小滝橋方面が早稲田側に思えてしまうのだ。そんなわけでなにかの用事で高田馬場に行くとよく反対方面の山手線に乗ってしまう。池袋あたりで気づくのだが、面倒なのでそのまま駒込、田端、日暮里、上野を通って、帰ったものだ。
ぼくが「中国行きのスロウ・ボート」をはじめて読んだときの印象は、そんな高田馬場の光景だった。実際は新宿駅で中国人の女の子を反対方面の山手線に乗せてしまうくだりがあるが、ホームが内回り外回りで分かれている新宿駅でそんなことはないだろう、などとつっこみを入れつつ読んだものだが。
昔話をもうひとつ。大学に通っていた頃、中国からの留学生がいて、彼の身の回りの世話をしたり、相談相手になるという役を学校から言われて引き受けることになった。それで1年間でいくらかの報酬ももらえた。そのころはほとんど学校には行かず、アルバイトばかりしていたから、彼とはほとんど会うことはなく、とはいうものの後ろめたい部分もあったので一度だけ喫茶店で昼食をおごってあげ、通りいっぺんの会話をした。
『中国行きのスロウ・ボート』は村上春樹の最初の短編集で、世の評価としては『羊をめぐる冒険』以前に書かれた荒削りで未完成な前半4編とその後に書かれ、完成度が高く、洗練された後半4編が好対照をなすと苦言を呈されているようだが、ぼくはこのときはじめてコンビを組んだ安西水丸の装丁もあいまって、村上作品のなかでももっとも好きな一冊で、なかでも冒頭の表題作「中国行きのスロウ・ボート」は、そんなわけで忘れられない短編だ。
先日何年ぶりかで読んで、苦い昔を思い出してしまった。。
2008年3月13日木曜日
J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』
はじめてニューヨークに行ったのは1992年の秋。義妹が57丁目あたりに住んでいて、そこを拠点にマンハッタンを歩きまわった。ニューヨークに行ったらぜひとも見てみたかったものがふたつあって、ひとつは1970年ごろ、大手の広告会社を辞めて単身渡米した叔父の住んでいたアパート。もうひとつはホールデン・コールフィールドが妹のフィービーと行ったセントラルパークの回転木馬だった。
後日、グランドセントラルやストロベリーフィールズを訪れもせず、よくもそんな小さな目的でニューヨークまで行ったものだ人から揶揄されたが、とりわけ回転木馬はひと目見てみたいと思っていたわけだ。本書の中で回転木馬の小屋の中で流れていたのは「煙が目にしみる」だったが、ぼくがその場で聴いたのは「シング」だった。
この本を読むのは3度目で、最初は野崎孝訳の『ライ麦畑でつかまえて』、2度目はペーパーバックの“The Catcher In The Rye”、そして今回の村上春樹訳。野崎訳は何度か読みかえしているので、村上訳は新鮮にうつると同時にちょっとした違和感もおぼえた。現代語っぽすぎると感じたのかもしれない。週刊誌に連載されているビートたけしのなんとか放談みたいな。まあ、翻訳の話は大きな問題じゃない。むしろ村上春樹フリークが大勢いる時代に彼がこの名作の新訳を世に送り出したことのほうが重要だ。昨今の新訳ブームの発端となったのではあるまいか。
サリンジャーはこの作品を執筆後、隠遁生活をおくるなど、なかなかの偏屈者だと聞く。偏屈な作家が描いた偏屈な高校生が世界中の青少年のハートをとらえているあたりがなんともおもしろい。きっと時代を超えて、若者の心の中には少なからずホールデンが生きているということなのだろう。
後日、グランドセントラルやストロベリーフィールズを訪れもせず、よくもそんな小さな目的でニューヨークまで行ったものだ人から揶揄されたが、とりわけ回転木馬はひと目見てみたいと思っていたわけだ。本書の中で回転木馬の小屋の中で流れていたのは「煙が目にしみる」だったが、ぼくがその場で聴いたのは「シング」だった。
この本を読むのは3度目で、最初は野崎孝訳の『ライ麦畑でつかまえて』、2度目はペーパーバックの“The Catcher In The Rye”、そして今回の村上春樹訳。野崎訳は何度か読みかえしているので、村上訳は新鮮にうつると同時にちょっとした違和感もおぼえた。現代語っぽすぎると感じたのかもしれない。週刊誌に連載されているビートたけしのなんとか放談みたいな。まあ、翻訳の話は大きな問題じゃない。むしろ村上春樹フリークが大勢いる時代に彼がこの名作の新訳を世に送り出したことのほうが重要だ。昨今の新訳ブームの発端となったのではあるまいか。
サリンジャーはこの作品を執筆後、隠遁生活をおくるなど、なかなかの偏屈者だと聞く。偏屈な作家が描いた偏屈な高校生が世界中の青少年のハートをとらえているあたりがなんともおもしろい。きっと時代を超えて、若者の心の中には少なからずホールデンが生きているということなのだろう。
2008年3月8日土曜日
太宰治『津軽』
先週は月曜、木曜と徹夜、今週も日曜、火曜、木曜と朝帰り。忙しいのがなによりという見方もあるが、この土日はゆっくり休みたい。今日は昼から寝転がってテレビでラグビー観戦している。
そういえば今年は太宰治没後60年らしい。太宰の命日は桜桃忌と呼ばれ、毎年三鷹の寺に多くの愛好家が訪れるそうであるが、別段太宰ファンでもないぼくはそういったことを新聞の片隅で知る程度である。
太宰の小説はひととおり読んではいたが、先日も没後60年云々という新聞記事を見て、もういちど読んでみよう気になった。迷わず『津軽』を選んだ。
生まれ故郷の津軽地方を訪ねる紀行文というのがこの本の体裁だが、その真意は生まれ育ったふるさとを旅して記述することではなく、自らの心のふるさと、太宰治という人間のよりどころを訪ねる旅であったことに間違いあるまい。
太宰はこの旅の終わりに育ての母ともいえるたけという女性に30年ぶりに会う。ここがこの本のクライマックスで、ぼくも30年ぶりに読んで、30年前と同じように泣いてしまった。
本の前半は津軽の歴史、風土などを見聞きしたものに加え、むしろそれより史料の引用が多く、これはいかにも紙数かせぎといえなくもない。旅とはいえ、太宰の見聞はわずかな思い出話と感想だけで後は酒を飲んでいるばかりだ。これはたけとめぐりあう感動のラストシーンに向けて計算された冗長さなのか、はたまた太宰自身が再会を前にした緊張と不安と、あるいは照れ隠しのあらわれなのか。
今回読み直してみて、むかし読んだだけではわからなかった太宰の心が少しだけ見えてきたように思う。
2008年2月26日火曜日
井伏鱒二『荻窪風土記』
はじめて荻窪に来たのは高校受験のときだったと思う。公立に進学するつもりだったので私立校にはさほど興味はなかった。たまたま姉が通っていた学校が荻窪だったのでためしに受けたわけだ。
当時の荻窪駅前は商業ビルがまだ建てられていなくて、駅ビルができる前の新橋駅前に似ていると思った。ちょっとした市場、みたいな感じがした。
結局、予定通り公立校に通うことにしたので、その後しばらく荻窪駅に降り立つことはなかった。
それから4年後。中央線沿線の大学に通うことになった。そこで知り合ったUさんが荻窪にアパートを借りていて、入り浸るようになる。当時、実家が品川だったので大学までは1時間半ほどかかる。Uさんのアパートからだとものの30分だ。彼にしてみればいい迷惑だったろうが、学期末のレポートなんかを小器用にまとめてやったりすることで多少なりとも下宿代は払ったつもりだ。
Uさんのアパートは天沼2丁目。この本に出てくる寿通り商店街を抜けて八幡通りを阿佐ヶ谷方面に横切ったあたりにあった。6畳と4畳半のふた間でトイレはタンクが木箱に入った古い水洗式だった。風呂はなかったが、すぐ近くに銭湯があったので不便は感じなかった。ちなみにその銭湯は今もある。
Uさんはその前まで南口から15分ほど歩いたところにある3畳ひと間のアパートに住んでいて、そこから高円寺の予備校に通っていた。出身は新潟で、東京に出て荻窪に住みたかったと言っていた。もしかすると文学青年だったのかもしれない。もちろん文学談義なんていちどもしたことはない。
荻窪の街を散策するということもなかった。駅前の喫茶店でありあまる時間をつぶし、インベーダーゲームに興じ、夜になると当時駅前にあったスーパーで叩き売られる弁当を買うか、カップ麺を買うかするくらい。昔入り浸った喫茶店を見かけるとどことなくうれしくなる。
この本を読みながら30年前の記憶がゆるりとよみがえってきた。荻窪界隈に住むようになって15年。まだまだ根が張っていないなって感じだ。
当時の荻窪駅前は商業ビルがまだ建てられていなくて、駅ビルができる前の新橋駅前に似ていると思った。ちょっとした市場、みたいな感じがした。
結局、予定通り公立校に通うことにしたので、その後しばらく荻窪駅に降り立つことはなかった。
それから4年後。中央線沿線の大学に通うことになった。そこで知り合ったUさんが荻窪にアパートを借りていて、入り浸るようになる。当時、実家が品川だったので大学までは1時間半ほどかかる。Uさんのアパートからだとものの30分だ。彼にしてみればいい迷惑だったろうが、学期末のレポートなんかを小器用にまとめてやったりすることで多少なりとも下宿代は払ったつもりだ。
Uさんのアパートは天沼2丁目。この本に出てくる寿通り商店街を抜けて八幡通りを阿佐ヶ谷方面に横切ったあたりにあった。6畳と4畳半のふた間でトイレはタンクが木箱に入った古い水洗式だった。風呂はなかったが、すぐ近くに銭湯があったので不便は感じなかった。ちなみにその銭湯は今もある。
Uさんはその前まで南口から15分ほど歩いたところにある3畳ひと間のアパートに住んでいて、そこから高円寺の予備校に通っていた。出身は新潟で、東京に出て荻窪に住みたかったと言っていた。もしかすると文学青年だったのかもしれない。もちろん文学談義なんていちどもしたことはない。
荻窪の街を散策するということもなかった。駅前の喫茶店でありあまる時間をつぶし、インベーダーゲームに興じ、夜になると当時駅前にあったスーパーで叩き売られる弁当を買うか、カップ麺を買うかするくらい。昔入り浸った喫茶店を見かけるとどことなくうれしくなる。
この本を読みながら30年前の記憶がゆるりとよみがえってきた。荻窪界隈に住むようになって15年。まだまだ根が張っていないなって感じだ。
2007年12月10日月曜日
福岡伸一『生物と無生物のあいだ』
高校に入って最初の試験で生物はマイナス14点だった。変な先生で正解するとプラスになるだけの問題と間違えるとマイナスされる問題があって、そもそも授業なんて難解すぎてただでさえ聴いていないものだから、そういうしくみのテストだということさえ知らずに受けた。いきなりのマイナスにショックは受けたが、後で方々から聞いてみるとマイナス28点のやつがいて、少しほっとした思い出がある。
その先生は教科書はいっさい使わず、やれ光合成のメカニズムはどうだこうだとか細胞の中を物質はどう行き来するかということだけ毎週話していた(とはいえ、こちらもあまり聴いていなかったから正確なところはわからない)。翌年、郊外にできた新設の都立高に転勤したが、赴任先でもおなじような授業をやっていたらしい。十数年後、その学校の卒業生と知り合いになって、そんな話題になった。
この本がおもしろいと思ったのは文章や構成のうまさのせいだろうと思う。野口英世は忘れられた存在であるとか、次節への持っていきかたなど絶えず読み手との距離を保っている。もちろんタンパク質がどうのこうのしてというのはぼくなんぞには難しくてわからないことも多いが、多少突き放されても、また文章に引き込んでくれるので苦になる本ではない。テストをされてもマイナスにはならない自信はある。
その先生は教科書はいっさい使わず、やれ光合成のメカニズムはどうだこうだとか細胞の中を物質はどう行き来するかということだけ毎週話していた(とはいえ、こちらもあまり聴いていなかったから正確なところはわからない)。翌年、郊外にできた新設の都立高に転勤したが、赴任先でもおなじような授業をやっていたらしい。十数年後、その学校の卒業生と知り合いになって、そんな話題になった。
この本がおもしろいと思ったのは文章や構成のうまさのせいだろうと思う。野口英世は忘れられた存在であるとか、次節への持っていきかたなど絶えず読み手との距離を保っている。もちろんタンパク質がどうのこうのしてというのはぼくなんぞには難しくてわからないことも多いが、多少突き放されても、また文章に引き込んでくれるので苦になる本ではない。テストをされてもマイナスにはならない自信はある。
2007年8月20日月曜日
辻啓一『フランスの「美しい村」を訪ねて』
NHKのラジオフランス語講座のテキストの巻頭に続・「フランスのちょっと気になる町・寄ってみたい村」というカラーページが連載されている。旅行ガイドではなかなか取り上げられないような「渋い」地方の集落が毎号紹介されているのだが、これがなんとも旅情をそそる。たいていは旅行者にとって不便なところにあって、ぼくみたいに車で25メートルも走れない者にはどうやってたどり着いたらいいのか皆目見当の着かない町や村なのだ。前回南仏を訪れたときもそれなりに小さな町をまわったつもりだが、著者の紹介する美しい村は、その比じゃないように思える。
著者は一橋を出て、日本企業の駐在員として渡仏し、そのまま居着いてしまったようだが、「ぼく」を「ボク」と表記するのはいかがなものかとは思うものの、文章も簡潔にして流麗で、美しい村のシズルを巧みに伝えている。
もともとは『マリ・クレール・ジャポン』に連載されたもので、ラ・ロッシュ・ギヨン、ジェルブロワ、リヨンス・ラ・フォレ、リックヴィール、ミッテルベルカイム、サン・キラン、ノワイエール・シュル・スラン、ヴェズレー、シャトーヌフ、ペム、シャルー、ゴルド、ラ・ガルド・アデマール、ペルージュ、モンブラン・レ・バン、セギュレ、ミルマンド、コロンジュ・ラ・ルージュ、カレンナック、ラカペル・マリヴァル、モンパジエ、モンフランカン、オーヴィラー、ソーヴテール・ドゥ・ルエルグ、コンク、サレールの計26の村が紹介されている。そしてこれらの村は『フランスの最も美しい村々 Les Plus Beaux Villages de France 』というアソシエーションの厳しい条件をクリアしているという。どこかの美しい国とは全然違うわけだ。
この美しい村々は2003年時点で144あるそうだ。中には鉄道とバスで行けるところもあるに違いない。
著者は一橋を出て、日本企業の駐在員として渡仏し、そのまま居着いてしまったようだが、「ぼく」を「ボク」と表記するのはいかがなものかとは思うものの、文章も簡潔にして流麗で、美しい村のシズルを巧みに伝えている。
もともとは『マリ・クレール・ジャポン』に連載されたもので、ラ・ロッシュ・ギヨン、ジェルブロワ、リヨンス・ラ・フォレ、リックヴィール、ミッテルベルカイム、サン・キラン、ノワイエール・シュル・スラン、ヴェズレー、シャトーヌフ、ペム、シャルー、ゴルド、ラ・ガルド・アデマール、ペルージュ、モンブラン・レ・バン、セギュレ、ミルマンド、コロンジュ・ラ・ルージュ、カレンナック、ラカペル・マリヴァル、モンパジエ、モンフランカン、オーヴィラー、ソーヴテール・ドゥ・ルエルグ、コンク、サレールの計26の村が紹介されている。そしてこれらの村は『フランスの最も美しい村々 Les Plus Beaux Villages de France 』というアソシエーションの厳しい条件をクリアしているという。どこかの美しい国とは全然違うわけだ。
この美しい村々は2003年時点で144あるそうだ。中には鉄道とバスで行けるところもあるに違いない。
2007年8月18日土曜日
昭和の広告展
アド・ミュージアム東京で開催されている昭和の広告展を見る。
一連の構造改革で格差社会の到来といわれ、その是正が政治的なテーマになっている。そんな目線で昭和初期の広告をながめていると広告は、消費を刺激し、商業を活発化するだけではなく、都市文化を地方に伝えていく、拡げていくという貴重な役割を負っていたことが実によくわかる。やがて戦争を迎え、広告も冬の時代を迎えるのだが、その復興とともに、新たな表現技術を身につけていく広告コミュニケーションの生命力をも俯瞰して見ることができるのがこの企画展の素晴らしいところだ。
よく広告は時代を映す鏡だといわれるが、たしかにその通り。昭和モダンの時代には豊かさと繁栄を誇示し、戦時体制では時の権力にひれ伏し、復興期には希望を与える。広告はリモコンで動くロボットのようなもので、その作り手、受け手に応じて変幻自在に姿かたちを変える。
実はそれが広告制作の難しいところでぼくたちは日頃どうやって今という時代を、あるいはほんの少しだけ先の生活を描いていこうかと四苦八苦しているわけだ。そういった意味からすれば、昭和の広告も平成の広告もその生まれいずるエネルギーは同一のものなのであり、歴史を振り返って見るとき、そこには何がしかの原点ともいうべき基礎を垣間見ることができるのだと考える。
一連の構造改革で格差社会の到来といわれ、その是正が政治的なテーマになっている。そんな目線で昭和初期の広告をながめていると広告は、消費を刺激し、商業を活発化するだけではなく、都市文化を地方に伝えていく、拡げていくという貴重な役割を負っていたことが実によくわかる。やがて戦争を迎え、広告も冬の時代を迎えるのだが、その復興とともに、新たな表現技術を身につけていく広告コミュニケーションの生命力をも俯瞰して見ることができるのがこの企画展の素晴らしいところだ。
よく広告は時代を映す鏡だといわれるが、たしかにその通り。昭和モダンの時代には豊かさと繁栄を誇示し、戦時体制では時の権力にひれ伏し、復興期には希望を与える。広告はリモコンで動くロボットのようなもので、その作り手、受け手に応じて変幻自在に姿かたちを変える。
実はそれが広告制作の難しいところでぼくたちは日頃どうやって今という時代を、あるいはほんの少しだけ先の生活を描いていこうかと四苦八苦しているわけだ。そういった意味からすれば、昭和の広告も平成の広告もその生まれいずるエネルギーは同一のものなのであり、歴史を振り返って見るとき、そこには何がしかの原点ともいうべき基礎を垣間見ることができるのだと考える。
2007年8月10日金曜日
関根眞一『となりのクレーマー』
梅雨明けとともに猛暑がやってきた。
先週は日本情報処理開発協会主催の個人情報保護のための管理者養成研修に行った。まる二日間講義を聴き、最後にテストがある。75点以上とらないと修了証がもらえないということで少なからず緊張した。
関根眞一著『となりのクレーマー』を読む。某新聞で売れてる新書として取り上げられていたのと、その記事中に横手拓治編集長という高校の同級生の名前を見つけたのが読因である。
まあ、なんてことない実務時代の経験まとめました本というところで、それが苦情ではなくクレームで切り取ったところにおもしろさがあるんだろう。著者自ら冒頭で「クレームは宝の山」と称しているように接客業に携わってきた者にとってクレームは自分たちだけでは気づかない世界を気づかせてくれる貴重な意見なのだ。
それでもちょっと実例が多すぎ。実例は多いほうがいいんだけど、第2章の「苦情社会がやってきた」というところでもっと「苦情学」と呼べるくらいの深い洞察が欲しかったなと思う。で、結局最後はクレーム対応のテクニックだもんね。クレームから見た現代、クレームから見た戦後史、クレームから見た人類史と今後さらにクレームと人間社会との接点をえぐって欲しいものだ。
でもって、研修の修了証は昨日無事届いた。
先週は日本情報処理開発協会主催の個人情報保護のための管理者養成研修に行った。まる二日間講義を聴き、最後にテストがある。75点以上とらないと修了証がもらえないということで少なからず緊張した。
関根眞一著『となりのクレーマー』を読む。某新聞で売れてる新書として取り上げられていたのと、その記事中に横手拓治編集長という高校の同級生の名前を見つけたのが読因である。
まあ、なんてことない実務時代の経験まとめました本というところで、それが苦情ではなくクレームで切り取ったところにおもしろさがあるんだろう。著者自ら冒頭で「クレームは宝の山」と称しているように接客業に携わってきた者にとってクレームは自分たちだけでは気づかない世界を気づかせてくれる貴重な意見なのだ。
それでもちょっと実例が多すぎ。実例は多いほうがいいんだけど、第2章の「苦情社会がやってきた」というところでもっと「苦情学」と呼べるくらいの深い洞察が欲しかったなと思う。で、結局最後はクレーム対応のテクニックだもんね。クレームから見た現代、クレームから見た戦後史、クレームから見た人類史と今後さらにクレームと人間社会との接点をえぐって欲しいものだ。
でもって、研修の修了証は昨日無事届いた。
2007年7月19日木曜日
第60回広告電通賞展
汐留アドミュージアム東京。
アド・ミュージアム東京で開催されている第60回広告電通賞展に行く。
今年の総合広告電通賞は角瓶の新聞広告、響のポスターで広告電通賞、オールドのラジオCM、TVCMで最優秀賞を獲得したサントリー。優秀賞にも名を連ねた缶コーヒーBOSSや黒烏龍茶も含め、トータルで資生堂や松下電器産業を上回った形だ。
電通賞は古い歴史を持つだけでなく、新聞、雑誌、ラジオ、テレビ、セールスプロモーションはもちろんのことインターネット部門や公共広告部門、地域部門と広告表現のあらゆる側面からこの1年を見渡せる貴重な賞である。広告制作に携わる人が審査にあたる広告賞とちがって、表現技術だけにかたよらない姿勢が思わぬ発見をさせてくれることもある。
たとえばテレビ部門の広告電通賞はリクルートのリクナビ、山田悠子の就職活動篇で、これはTCC賞にも選ばれているCMであるのだが、他の、エステWAMやコナミのウィンイングイレブン、高橋酒造白岳のような国際的にも評価を受けたCMを凌いで受賞している。もちろんややもすればサントリー、資生堂、松下など大広告主に高い評価を与える傾向は否めないものの、広告表現や企画力だけでなく、表現の送り手である媒体関係者や受け手である消費者の視点、さらには広告の社会的な役割などについて総合的に評価を下しているのがこの広告賞の素晴らしい点で、広告の可能性、広告表現の可能性をきわめて良心的に評価していく場なのだと思う。
去年も天候に恵まれ、いい広告がたくさんできました、みんなでひとつひとつ見て、明日のぼくたちの糧としましょうというメッセージが会場から伝わってくる日本で唯一の広告賞といっても過言ではないだろう。
アド・ミュージアム東京で開催されている第60回広告電通賞展に行く。
今年の総合広告電通賞は角瓶の新聞広告、響のポスターで広告電通賞、オールドのラジオCM、TVCMで最優秀賞を獲得したサントリー。優秀賞にも名を連ねた缶コーヒーBOSSや黒烏龍茶も含め、トータルで資生堂や松下電器産業を上回った形だ。
電通賞は古い歴史を持つだけでなく、新聞、雑誌、ラジオ、テレビ、セールスプロモーションはもちろんのことインターネット部門や公共広告部門、地域部門と広告表現のあらゆる側面からこの1年を見渡せる貴重な賞である。広告制作に携わる人が審査にあたる広告賞とちがって、表現技術だけにかたよらない姿勢が思わぬ発見をさせてくれることもある。
たとえばテレビ部門の広告電通賞はリクルートのリクナビ、山田悠子の就職活動篇で、これはTCC賞にも選ばれているCMであるのだが、他の、エステWAMやコナミのウィンイングイレブン、高橋酒造白岳のような国際的にも評価を受けたCMを凌いで受賞している。もちろんややもすればサントリー、資生堂、松下など大広告主に高い評価を与える傾向は否めないものの、広告表現や企画力だけでなく、表現の送り手である媒体関係者や受け手である消費者の視点、さらには広告の社会的な役割などについて総合的に評価を下しているのがこの広告賞の素晴らしい点で、広告の可能性、広告表現の可能性をきわめて良心的に評価していく場なのだと思う。
去年も天候に恵まれ、いい広告がたくさんできました、みんなでひとつひとつ見て、明日のぼくたちの糧としましょうというメッセージが会場から伝わってくる日本で唯一の広告賞といっても過言ではないだろう。
2007年7月13日金曜日
恩田陸『図書室の海』
今日は仕事で早朝の新幹線で神戸に行った。神戸には1979年クラブカップ優勝大会というバレーボールの試合でいちど訪れたことがある。新神戸駅に降りるのはそれ以来。
南仏に行くときの話。
フランクフルト経由でニースまで。13時間以上の旅。ところが前日になって飛行機の中で読む本がない。どうしようかと思ってたら、長女がおすすめと称して何冊か文庫本を持ってきた。そのなかの一冊が恩田陸の『図書室の海』。
ミステリアスな短編が脈絡なく続き、ふだんこの手の本を読みなれないせいかなかなか先に進まず、それはそれで時間つぶしになってよかったんだが、聞くところによると著者の長編を読んでいるとおもしろいらしい。たとえば「図書室の海」は『六番目の小夜子』の番外編、「ピクニックの準備」は『夜のピクニック』の予告編なんだそうだ。
これらを読んだらもう一度読んでみるとするか。
というわけで新幹線の中でようやく読み終えたわけです。
南仏に行くときの話。
フランクフルト経由でニースまで。13時間以上の旅。ところが前日になって飛行機の中で読む本がない。どうしようかと思ってたら、長女がおすすめと称して何冊か文庫本を持ってきた。そのなかの一冊が恩田陸の『図書室の海』。
ミステリアスな短編が脈絡なく続き、ふだんこの手の本を読みなれないせいかなかなか先に進まず、それはそれで時間つぶしになってよかったんだが、聞くところによると著者の長編を読んでいるとおもしろいらしい。たとえば「図書室の海」は『六番目の小夜子』の番外編、「ピクニックの準備」は『夜のピクニック』の予告編なんだそうだ。
これらを読んだらもう一度読んでみるとするか。
というわけで新幹線の中でようやく読み終えたわけです。
2007年7月10日火曜日
6月24日フランクフルト経由成田へ
今回の旅は大きくいえばプロバンスの世界遺産めぐり。広告祭にかこつけて思う存分歩きまわるつもりだったんだけど、現実はなかなかそうもいきません。適度に観光、適度に視察といったよくいえばバランスのとれた旅、悪くいえば中途半端な旅。それでもまずまず楽しめたと思います。
欲をいえばきりがありませんが、それはまた次の機会にということで。今度はニーム、ポン・ドュ・ガール、リヨンあたりまで足をのばしてみたいし、今回行きたかったけれど行けなかったヴァンス、サンポール、エズなど行きたいところは山ほどあります。次回はツアーではなく、個人旅行で訪れたいとも思いますし。
そんなことを考えながら、フランクフルトを経由して無事成田までたどりつきました。
欲をいえばきりがありませんが、それはまた次の機会にということで。今度はニーム、ポン・ドュ・ガール、リヨンあたりまで足をのばしてみたいし、今回行きたかったけれど行けなかったヴァンス、サンポール、エズなど行きたいところは山ほどあります。次回はツアーではなく、個人旅行で訪れたいとも思いますし。
そんなことを考えながら、フランクフルトを経由して無事成田までたどりつきました。
6月23日カンヌ国際広告祭
6月22日カンヌ国際広告祭
さてカンヌ国際広告祭ですが、フィルム部門(テレビCM)のショートリスト(予選通過作品)が発表になり、まる1日かけて全作品を観ました。さすがに1日中会場にいると効きすぎた冷房に体調を崩す人もいるようです。
街ではリゾート客にまじって世界の広告制作者が明日最終日に発表されるフィルム部門のグランプリについてあれこれ議論しています。もちろん何を話しているかなんて聞き取れませんが、たぶんそんな話をしてるんじゃないかと思うわけです。
6月21日ヴァロリス
2007年7月9日月曜日
6月20日グラース
二日間遠出をしたこともあり、今日は近場でのんびり過ごすことにします。カンヌの国鉄駅のすぐ横にバスターミナルがあります。グラース行きのバスは頻繁に出ているようで、それに乗って香水の街グラースを訪れました。
グラースは皮なめしのさかんな街だったようでその匂い消しのために香水がつくられたといわれています。カンヌからバスで40分くらいでしょうか。山の斜面にある街なので陽射がカンヌやニースとはひと味違う印象です。街並みもただの石づくりというより多少黄色がかった感じでコントラストが強く感じられます。
坂道を降りたり、登ったりして、旧市街の広場やステンドグラスがきれいなノートルダム・デュ・ピュイ大聖堂教会、香水工場を見て、お昼を食べて帰ってきました。カンヌから離れると多少物価も安いみたいです。
グラースは皮なめしのさかんな街だったようでその匂い消しのために香水がつくられたといわれています。カンヌからバスで40分くらいでしょうか。山の斜面にある街なので陽射がカンヌやニースとはひと味違う印象です。街並みもただの石づくりというより多少黄色がかった感じでコントラストが強く感じられます。
坂道を降りたり、登ったりして、旧市街の広場やステンドグラスがきれいなノートルダム・デュ・ピュイ大聖堂教会、香水工場を見て、お昼を食べて帰ってきました。カンヌから離れると多少物価も安いみたいです。
6月19日アルル~フォンヴィエイユ~マルセイユ(2)
アルル発13時48分マルセイユ行き。
この列車を逃すと今回の旅でマルセイユに立ち寄ることはできません。やはり14時~16時という時間帯は列車の本数が著しく少なくなるのです。次に来る列車は17時。マルセイユで乗り換えて、カンヌに20時過ぎに着くほぼ最終列車です。
駅に着いて次の列車の時刻を確認しようと思ったら、なんとマルセイユ行きが30分遅れ。助かりました。この旅、思いのほかついています。
列車は30分以上遅れてアルル駅に到着。40分ほどでマルセイユに到着しました。
夜9時過ぎても明るい南仏は15時から17時くらいの西日がいちばん暑く感じられます。マルセイユに到着したのがちょうどその灼熱の時間帯。方々歩き回った疲れもあって、軽く散策するにとどめることにしました。
まずはどこに行ってもお決まりの駅舎の撮影。着いたらすぐに駅の写真を撮っておくと後で写真を整理するときに便利です。マルセイユ駅は少し小高い場所にあるので、まずその見晴らしにびっくりします。そして遠くにノートルダム・ド・ラ・ギャルド大聖堂が見えます。これが今回の旅の最後の世界遺産です。
とにかく暑いので旧港あたりを歩いて、石鹸のお店を見たりするも力尽き、凱旋門を見て再び駅に戻り、ビール休憩。
帰りの列車は18時1分発。自動販売機で切符を買って待っていたら、またもや30分遅れの表示。どうやら後で聞いた話ではモナコでストライキがはじまって、その影響もあったとか。ビールを飲みながらぼんやり切符をながめているとどこかおかしい。カンヌからアビニョンTGVまでひとり40ユーロくらいだったのに、帰りのマルセイユ~カンヌが3人で30ユーロちょっと。よくよく見るとクーポンを持っている人用の切符らしい。一応ちゃんとした切符に変えてもらおうと切符売り場に並ぶも長蛇の列がなかなか前に進まない。そうこうするうちに遅れた列車がやってきたのでそのまま乗ることに。
検札が来たら、罰金とられるかもと思うと憂鬱で、しかもフランス語であれこれわからないことを言われるのも面倒なので、フォンヴィエイユのタクシーのときみたく、またまた仏作文します。《J'ai achete ce billet avec un coupon freqence. Mais je n'ai pas de coupon. Je voudrais demender l'addition, s'il vous plait. 》
念のため仏文科出身のYK氏に見せると「だけどぼくにはクーポンがない…、泣かせますねこのフレーズ」と爆笑されました。
かくしてマルセイユからカンヌまで2時間少々の旅。結局検札はあらわれず、名作文は日の目を浴びることはありませんでした。
この列車を逃すと今回の旅でマルセイユに立ち寄ることはできません。やはり14時~16時という時間帯は列車の本数が著しく少なくなるのです。次に来る列車は17時。マルセイユで乗り換えて、カンヌに20時過ぎに着くほぼ最終列車です。
駅に着いて次の列車の時刻を確認しようと思ったら、なんとマルセイユ行きが30分遅れ。助かりました。この旅、思いのほかついています。
列車は30分以上遅れてアルル駅に到着。40分ほどでマルセイユに到着しました。
夜9時過ぎても明るい南仏は15時から17時くらいの西日がいちばん暑く感じられます。マルセイユに到着したのがちょうどその灼熱の時間帯。方々歩き回った疲れもあって、軽く散策するにとどめることにしました。
まずはどこに行ってもお決まりの駅舎の撮影。着いたらすぐに駅の写真を撮っておくと後で写真を整理するときに便利です。マルセイユ駅は少し小高い場所にあるので、まずその見晴らしにびっくりします。そして遠くにノートルダム・ド・ラ・ギャルド大聖堂が見えます。これが今回の旅の最後の世界遺産です。
とにかく暑いので旧港あたりを歩いて、石鹸のお店を見たりするも力尽き、凱旋門を見て再び駅に戻り、ビール休憩。
帰りの列車は18時1分発。自動販売機で切符を買って待っていたら、またもや30分遅れの表示。どうやら後で聞いた話ではモナコでストライキがはじまって、その影響もあったとか。ビールを飲みながらぼんやり切符をながめているとどこかおかしい。カンヌからアビニョンTGVまでひとり40ユーロくらいだったのに、帰りのマルセイユ~カンヌが3人で30ユーロちょっと。よくよく見るとクーポンを持っている人用の切符らしい。一応ちゃんとした切符に変えてもらおうと切符売り場に並ぶも長蛇の列がなかなか前に進まない。そうこうするうちに遅れた列車がやってきたのでそのまま乗ることに。
検札が来たら、罰金とられるかもと思うと憂鬱で、しかもフランス語であれこれわからないことを言われるのも面倒なので、フォンヴィエイユのタクシーのときみたく、またまた仏作文します。《J'ai achete ce billet avec un coupon freqence. Mais je n'ai pas de coupon. Je voudrais demender l'addition, s'il vous plait. 》
念のため仏文科出身のYK氏に見せると「だけどぼくにはクーポンがない…、泣かせますねこのフレーズ」と爆笑されました。
かくしてマルセイユからカンヌまで2時間少々の旅。結局検札はあらわれず、名作文は日の目を浴びることはありませんでした。
2007年7月8日日曜日
6月19日アルル~フォンヴィエイユ~マルセイユ(1)
世界遺産の旅二日目。
前日スーパーで買い込んだパンとハムとコーヒーで朝食をすませ、駅に向かいます。めざすはアルル。案内表示通りのホームで待っていたら、どこからか列車がやってきて、ずっと止まっています。が、行き先がマルセイユ行きではありません。マルセイユ行きはいつ来るのかとどきどきしながら待っていたら、発車直前にホームの表示が変わって、マルセイユ行きに。はやく来て待っていたわりにはあわてて乗り込んで、冷や冷やものです。
アルル駅には40分ほどで到着。駅を降りて歩き出すとすぐに石造りの建造物が見え隠れし、世界遺産のにおいがぷんぷんします。
まずはお目当ての円形闘技場へ。ここも古くて大きくて石です。今でも闘牛が行われているそうです。客席のいちばん高いところから見渡すプロバンスの街並みと山並みは圧巻です。その下をローヌ川が静かに流れています。
続いて古代劇場、市庁舎、サントロフィーム教会と見て、ゴッホの絵でおなじみのカフェ・ヴァン・ゴッホへ。一応お決まりのアングルで写真を撮りました。あと共同浴場を見て、モノプリでビールを買って駅に戻りました。アルルは観光名所がまとまっているため、非常に効率よく見てまわることができます。9時過ぎに着いて、1時間半ほどの散策でした。
11時10分にフォンヴィエイユに行くバスが来ます。フォンヴィエイユにはドーデの『風車小屋だより』の舞台となった風車があります。早起きしたご褒美にとバスに乗り込みました。バスに乗って30分ほどでフォンヴィエイユに到着。降りるときに近くに座っていた老夫婦が風車小屋に行くには右に行くんだよと教えてくれました。厳密にいうとそんなに明瞭に聴きとれたわけではなく、<ムーラン>と<ドロワット>が聴きとれたのでたぶんそう言っているんだろうと推測しただけです。
バス停から歩くこと15分ほどで赤い屋根の風車小屋が見えてきました。まわりには何もありません。あるのは風車小屋だけです。圧倒される何もなさです。のどか過ぎる光景です。20分ほどぼんやり過ごして、バス停に戻りました。
さてアルルで時刻表を見たときには13時10分発のバスがあって、これに乗れば13時48分のマルセイユ行きに乗れると思っていたのですが、帰りのバス停で時刻を見ると次は14時10分となっています。ちょっとショックです。とりあえずお昼でも食べて、そのお店でタクシーを呼んでもらおうと考えました。下手にしゃべってわからなくなるより、紙に書こうということになって、《Appelez nous le taxi pour Arle, SNCF.》とメモ用紙に書いて店員に見せたら、どうやら通じたようす。後で考えると《le taxi》ではなく《un taxi》ですね。とはいえ、お昼時のせいかタクシーはなかなか来なくて、13時半ころようやく到着。チップを多めに払って店を出、タクシーでアルルに向かいました。
が、しかしアルル駅に着いたのは13時50分過ぎ。アルル駅は閑散としていました。
前日スーパーで買い込んだパンとハムとコーヒーで朝食をすませ、駅に向かいます。めざすはアルル。案内表示通りのホームで待っていたら、どこからか列車がやってきて、ずっと止まっています。が、行き先がマルセイユ行きではありません。マルセイユ行きはいつ来るのかとどきどきしながら待っていたら、発車直前にホームの表示が変わって、マルセイユ行きに。はやく来て待っていたわりにはあわてて乗り込んで、冷や冷やものです。
アルル駅には40分ほどで到着。駅を降りて歩き出すとすぐに石造りの建造物が見え隠れし、世界遺産のにおいがぷんぷんします。
まずはお目当ての円形闘技場へ。ここも古くて大きくて石です。今でも闘牛が行われているそうです。客席のいちばん高いところから見渡すプロバンスの街並みと山並みは圧巻です。その下をローヌ川が静かに流れています。
続いて古代劇場、市庁舎、サントロフィーム教会と見て、ゴッホの絵でおなじみのカフェ・ヴァン・ゴッホへ。一応お決まりのアングルで写真を撮りました。あと共同浴場を見て、モノプリでビールを買って駅に戻りました。アルルは観光名所がまとまっているため、非常に効率よく見てまわることができます。9時過ぎに着いて、1時間半ほどの散策でした。
11時10分にフォンヴィエイユに行くバスが来ます。フォンヴィエイユにはドーデの『風車小屋だより』の舞台となった風車があります。早起きしたご褒美にとバスに乗り込みました。バスに乗って30分ほどでフォンヴィエイユに到着。降りるときに近くに座っていた老夫婦が風車小屋に行くには右に行くんだよと教えてくれました。厳密にいうとそんなに明瞭に聴きとれたわけではなく、<ムーラン>と<ドロワット>が聴きとれたのでたぶんそう言っているんだろうと推測しただけです。
バス停から歩くこと15分ほどで赤い屋根の風車小屋が見えてきました。まわりには何もありません。あるのは風車小屋だけです。圧倒される何もなさです。のどか過ぎる光景です。20分ほどぼんやり過ごして、バス停に戻りました。
さてアルルで時刻表を見たときには13時10分発のバスがあって、これに乗れば13時48分のマルセイユ行きに乗れると思っていたのですが、帰りのバス停で時刻を見ると次は14時10分となっています。ちょっとショックです。とりあえずお昼でも食べて、そのお店でタクシーを呼んでもらおうと考えました。下手にしゃべってわからなくなるより、紙に書こうということになって、《Appelez nous le taxi pour Arle, SNCF.》とメモ用紙に書いて店員に見せたら、どうやら通じたようす。後で考えると《le taxi》ではなく《un taxi》ですね。とはいえ、お昼時のせいかタクシーはなかなか来なくて、13時半ころようやく到着。チップを多めに払って店を出、タクシーでアルルに向かいました。
が、しかしアルル駅に着いたのは13時50分過ぎ。アルル駅は閑散としていました。
6月18日オランジュ~アビニョン(2)
駅前の道を15分ほど歩くとすぐに見えてきました。巨大な石のかたまりです。35ミリのレンズでは引き尻が足りません。劇場の客席側がサントゥロップの丘と呼ばれる小高い丘になっていて、さっそく登ってみました。オランジュの街が一望できます。もちろん古代劇場も眼下に見えます。舞台の壁面にある像はアウグストゥスです。ローマの征服者たちはこうした劇場や闘技場を次々につくっていったんですね。
市庁舎や広場を見て、駅に戻ります。オランジュには古い凱旋門もあって、やはり世界遺産に登録されているのですが、ちょっと遠いこともあり、午後の残りの時間をアビニョンの観光にあてることにしたのです。

来た道を引き返して地図を頼りにバスターミナルへ行くとアビニョン行きのバスが止まっていました。ちょうど出発するところだったのです。なんとかすべりこんで40分ほどのバスの旅。無事アビニョンに戻ることができました。
アビニョンに着いてホテル探しです。KK氏のおすすめは駅から近いホテルモンクラール。親切な日本人のスタッフがいてアパルトマンタイプの部屋を見せてくれました。キッチン付き、シャワー付きで1泊90ユーロ。3人で泊まるなら安いもんです。で、即決。部屋で少し休んで、アビニョン観光に出発しました。
まずは法王庁宮殿を見て、サン・ベネゼ橋を見て、オペラ座や市庁舎も見て…とお決まりのコース。この一帯がアビニョン歴史保存地区と呼ばれる世界遺産であります。とりわけ法王庁はその巨大さと壁面の質感に圧倒されます。
城壁の外を歩いて遠くからサン・ベネゼ橋を見てみたいと思ったのですが、あいにくの雨。城壁内をくまなく散策して、はやめの夕食をとって、本日の行程は終了としました。
6月18日オランジュ~アビニョン(1)
今回の旅行でいちばん行きたかったのが、アルルやアビニョンなどプロバンス地方の世界遺産めぐり。トーマスクックの時刻表や観光ガイドを駆使して入念に計画を立てて望んだつもりなんですが…。
アビニョンTGV行きの列車を前日のうちに購入。7時過ぎにカンヌ駅に着いてホームへ。列車を待っているとどうやら番線が変更したようす。みんなぞろぞろと移動をはじめる。遅れまいとぼくとYK氏、KK氏も移動すると、やってきました、TGV。でも待っていた列車よりも編成が長い。とりあえず乗り込んで座席指定の場所に移動しようとするもどっちにいけば何号車なのかさっぱりわかりません。そうこうするうちまあ空いてる席に座って乗務員が来るのを待つことに。で、車内のアナウンスを聞いてみるとどうやらパリ行きだと言ってます。列車番号も違う。カンヌ駅で列車を待つ緊張が徐々に解けてきて、少しはリスニング能力が高まってきたようです。
ぼくらが乗りたかったのは7時34分発のリヨン行き、列車番号は6854。でも乗っている列車はどうやらパリ行き。時刻表を見るとカンヌ発7時39分、列車番号6172。どうやら後から来るはずのパリ行きが先に来てしまったようです。あるいはカンヌで番線が変更になったのはパリ行きだけで、リヨン行きは予定通りのホームに到着したのかもしれません。
こんなことは海外旅行にはつきものだし、どうやらパリ行きのほうが、マルセイユに停車せずにTGV専用線に入るため、リヨン行きより20分はやくアビニョンTGVに着くようです。そう思って、そのまま乗っていようと思ったのですが、ツーロンで大勢乗って来そうなのでいったん降りて、次に来るはずのリヨン行きに乗り換えることにしました。ところがどういうわけかリヨン行きはもう隣のホームに停車していて、駅員の指示であわてて乗り換えるはめになりました。なぜカンヌで後から出たTGVがツーロンに到着していたのかは謎だ。
いきなりいろんなことがありましたが、10時半に無事アビニョンTGV駅に到着。途中エクサンプロバンスを過ぎたあたりで車窓からサンビクトワール山が見えました。セザンヌの絵で名高い山です。
アビニョンはTGV専用線の駅と在来線の駅が離れています。市街は在来線の駅アビニョンサントル駅の間近にあり、TGV駅で降りるとシャトルバスで移動となります。
アビニョンは周囲をぐるりと城壁で囲まれた街です。シャトルバスを降りて、ぼくたちがまず向かったのが、長距離バスターミナル。ポン・デュ・ガールというローマ時代の水道橋を見に行くためのバスをさがしに行ったのです。ところがポン・デュ・ガールへ行くバスは一日数本しかなく、午後のバスに乗ったら、半日をそこで過ごさなければなりません。
ということでものわかりよくあきらめ、お昼を食べて国鉄でオランジュに向かいしました。
2007年7月6日金曜日
6月17日カーニュ・シュル・メール~アンティーブ
カンヌ三日目。
日曜日は休む店が多く、比較的街は静かです。
今日はまた列車に乗って、カーニュ・シュル・メールという街を訪れました。フランスには方々に鷲巣村と呼ばれる山岳都市があります。山の上に城塞を築き、その中に街をつくっています。ニース近郊ではエズやサン・ポールが有名ですが、カンヌから近くて列車で行ける手ごろな鷲巣村がカーニュ・シュル・メールから程近いオー・ドゥ・カーニュです。
国鉄駅は高速道路沿いの寂しい場所にありますが、歩いていくとすぐに商店が連なって、日曜にもかかわらずちょっとした賑わいを見せます。まずはひたすら歩いてルノワール美術館をめざします。市街地を越え、少し小高くなった丘の中腹あたりにあり、けっこう息が切れました。ここは晩年のルノワールが家族と住んだ家だったそうで往時のアトリエなどがそのまま残されています。
隣接するお土産店で絵の具のチューブから絵の具がはみ出ている、長さにして3センチくらいのアクセサリを見つけました。色数も30色くらいあるでしょうか。いくつか選んでリングにぶらさげるようです。チューブが1個5ユーロ。子どもたちのお土産はこれかなと思ったんですけど、何色か選んでセットにするとかなり高価。絵の具ひとつづつでもいいかなとは思ったり、あれこれ迷って結局やめた(ちょっと後悔もしてる。今回の旅行で悔いが残るとすればやっぱりこれかな)。
ルノワール美術館を後にしてオー・ドゥ・カーニュへ。急な坂道を息を切らしながら登ること20分ほど。石畳の道の両脇にレストランやホテルがあります。こんなホテルに泊まったらとても健康的です。ようやくたどり着いた頂上には大きな城、グリマルディ城があって、その前が広場と展望台。レストランやお土産店もありました。
帰りは路地を歩いてみました。狭い路地が迷路のように入り組んでいて、昔宮崎アニメで見たような気がする不思議さです。しかもひとつひとつの路地にもちゃんとなんとか通りと名前が付いています。フランスってどんな道にも必ず名前が付いているって聞いたことがあります。通りの名前と数字が住所になるらしいんです。
急坂を転がり降りるようにして駅に戻りました。このあたりから少し雲行きが怪しくなってきました。後でわかったことですが、駅前からオー・ドゥ・カーニュまでは無料のバスが往復しているそうです。どうりで山頂のレストランにも大勢の観光客がいたわけです。さてカーニュ・シュル・メール駅からカンヌ行きの列車に乗って次なる目的地アンティーブに向かいます。アンティーブは3年前にも訪れた街ですが、駅に着いたときにはどしゃ降り。コートダジュールで見るはじめての本格的な雨です。
小一時間ほど駅前のカフェでサンドウィッチを食べながら雨宿りしてから、駅の北にあるフォル・カレという城塞に向かいました。16世紀につくられた巨大な城塞で周囲をまわって、写真を撮り、続いて旧市街に。日曜にもかかわらず観光客も多く、また飲食店や食料品などの店も多く開いていてまずまずの賑わいです。市場を見て、改修工事中のピカソ美術館を見て、城壁の上を歩きました。
明日はちょっと遠出するので今日は早めに切り上げ、カンヌに戻りました。
日曜日は休む店が多く、比較的街は静かです。
今日はまた列車に乗って、カーニュ・シュル・メールという街を訪れました。フランスには方々に鷲巣村と呼ばれる山岳都市があります。山の上に城塞を築き、その中に街をつくっています。ニース近郊ではエズやサン・ポールが有名ですが、カンヌから近くて列車で行ける手ごろな鷲巣村がカーニュ・シュル・メールから程近いオー・ドゥ・カーニュです。
国鉄駅は高速道路沿いの寂しい場所にありますが、歩いていくとすぐに商店が連なって、日曜にもかかわらずちょっとした賑わいを見せます。まずはひたすら歩いてルノワール美術館をめざします。市街地を越え、少し小高くなった丘の中腹あたりにあり、けっこう息が切れました。ここは晩年のルノワールが家族と住んだ家だったそうで往時のアトリエなどがそのまま残されています。
隣接するお土産店で絵の具のチューブから絵の具がはみ出ている、長さにして3センチくらいのアクセサリを見つけました。色数も30色くらいあるでしょうか。いくつか選んでリングにぶらさげるようです。チューブが1個5ユーロ。子どもたちのお土産はこれかなと思ったんですけど、何色か選んでセットにするとかなり高価。絵の具ひとつづつでもいいかなとは思ったり、あれこれ迷って結局やめた(ちょっと後悔もしてる。今回の旅行で悔いが残るとすればやっぱりこれかな)。
ルノワール美術館を後にしてオー・ドゥ・カーニュへ。急な坂道を息を切らしながら登ること20分ほど。石畳の道の両脇にレストランやホテルがあります。こんなホテルに泊まったらとても健康的です。ようやくたどり着いた頂上には大きな城、グリマルディ城があって、その前が広場と展望台。レストランやお土産店もありました。
帰りは路地を歩いてみました。狭い路地が迷路のように入り組んでいて、昔宮崎アニメで見たような気がする不思議さです。しかもひとつひとつの路地にもちゃんとなんとか通りと名前が付いています。フランスってどんな道にも必ず名前が付いているって聞いたことがあります。通りの名前と数字が住所になるらしいんです。
急坂を転がり降りるようにして駅に戻りました。このあたりから少し雲行きが怪しくなってきました。後でわかったことですが、駅前からオー・ドゥ・カーニュまでは無料のバスが往復しているそうです。どうりで山頂のレストランにも大勢の観光客がいたわけです。さてカーニュ・シュル・メール駅からカンヌ行きの列車に乗って次なる目的地アンティーブに向かいます。アンティーブは3年前にも訪れた街ですが、駅に着いたときにはどしゃ降り。コートダジュールで見るはじめての本格的な雨です。
小一時間ほど駅前のカフェでサンドウィッチを食べながら雨宿りしてから、駅の北にあるフォル・カレという城塞に向かいました。16世紀につくられた巨大な城塞で周囲をまわって、写真を撮り、続いて旧市街に。日曜にもかかわらず観光客も多く、また飲食店や食料品などの店も多く開いていてまずまずの賑わいです。市場を見て、改修工事中のピカソ美術館を見て、城壁の上を歩きました。
明日はちょっと遠出するので今日は早めに切り上げ、カンヌに戻りました。
6月16日ニース
カンヌ二日目。
本日午前中はニース観光にあてました。国鉄カンヌ駅からニース・ヴィル駅までは列車で40分ほど。
ニースはカンヌよりもさらに巨大なリゾート都市で、広大なビーチはもちろん、美術館や歴史遺産にも富んでいます。お店もお土産店からスーパー、デパートまでたくさんありますし、観光地ならではのブティックはもちろん旧市街には市場もあります。純粋にリゾートを楽しむということであれば、やはり拠点として定める街だと思います。
ぼくは前回もニースは訪れているので今回は初ニースとなるYK氏、KK氏の案内役としてマセナ広場から海岸沿いを歩いて展望台に向かいました。古い城跡が展望台になっています。
昼食はたまたま長距離バスターミナルの近くですませたので、そのままバスでどこかに行ってもよかったのですが、長旅の疲れもあり、早めに退散となりました。
カンヌにもどって国際広告祭のエントリー手続きをしました。IDカードをもらい、これで会場への出入りが自由にできるようになりました。
本日午前中はニース観光にあてました。国鉄カンヌ駅からニース・ヴィル駅までは列車で40分ほど。
ぼくは前回もニースは訪れているので今回は初ニースとなるYK氏、KK氏の案内役としてマセナ広場から海岸沿いを歩いて展望台に向かいました。古い城跡が展望台になっています。
昼食はたまたま長距離バスターミナルの近くですませたので、そのままバスでどこかに行ってもよかったのですが、長旅の疲れもあり、早めに退散となりました。
カンヌにもどって国際広告祭のエントリー手続きをしました。IDカードをもらい、これで会場への出入りが自由にできるようになりました。
6月15日カンヌ到着
南仏カンヌで毎年6月国際広告祭が開催されます。3年前(2004年)にも視察に行っているのですが、今年も視察ツアーに参加しました。
6月15日早朝に成田に集合。午前中のルフトハンザ便でフランクフルトを経由してニースに向かいました。人数的にはかなり大きなツアーで現地で泊まるホテルごとにニース行きの便が異なります。ぼくの乗ったニース行きはフランクフルト着後1時間半後に出発する過密スケジュール便。ただでさえヨーロッパでいちばん大きいといわれるフランクフルト空港で道に迷いそうになりながら、なんとか入国審査、手荷物チェックを受け、ぎりぎりセーフでした。
ニース空港に着いたのが現地時間で17時半。日の長いこの時期のヨーロッパでは夕方というより、日本でいえばいちばん暑い時間帯です。原色の光の中、一路バスでカンヌのホテルに向かいました。
ホテルはSNCFカンヌ駅にも国際広告祭の会場であるパレフェステバルにもどちらも程近い距離にあるホテルグレイダブリオン(フランス語っぽくいえばオテルグレダブリオンってとこでしょうか)。星は四つでなかなか大きなホテルです。
ゆっくりする間もなくさっそく買い出しに出かけました。ホテルからモノプリというスーパーマーケットまでは歩いて5分ほど。とりあえず必要な水やビール、そして<51>というラベルのパスティスを1本買いました。ミネラルウォーターはどこででも買えますし、駅には自動販売機もありますが、やっぱりスーパーで買った方が安いですし、硬水より軟水のほうがいいなどといった好みがある場合、選択肢も広いです。
続々とツアー団がカンヌ入りして、レストランにも大勢の日本人が見られます。本日は竹園飯店という中華レストランで餃子と焼きそばというまるで南仏コートダジュールっぽくないディナーでした。
6月15日早朝に成田に集合。午前中のルフトハンザ便でフランクフルトを経由してニースに向かいました。人数的にはかなり大きなツアーで現地で泊まるホテルごとにニース行きの便が異なります。ぼくの乗ったニース行きはフランクフルト着後1時間半後に出発する過密スケジュール便。ただでさえヨーロッパでいちばん大きいといわれるフランクフルト空港で道に迷いそうになりながら、なんとか入国審査、手荷物チェックを受け、ぎりぎりセーフでした。
ニース空港に着いたのが現地時間で17時半。日の長いこの時期のヨーロッパでは夕方というより、日本でいえばいちばん暑い時間帯です。原色の光の中、一路バスでカンヌのホテルに向かいました。
ホテルはSNCFカンヌ駅にも国際広告祭の会場であるパレフェステバルにもどちらも程近い距離にあるホテルグレイダブリオン(フランス語っぽくいえばオテルグレダブリオンってとこでしょうか)。星は四つでなかなか大きなホテルです。
続々とツアー団がカンヌ入りして、レストランにも大勢の日本人が見られます。本日は竹園飯店という中華レストランで餃子と焼きそばというまるで南仏コートダジュールっぽくないディナーでした。
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