2026年8月31日月曜日

原田孔平『冷や飯喰い怜三郎』

ある日突然どうでもいい昔のことを思い出す。歳を重ねてそんなことが増えてきた。
大学に入って、一般教養で日本史の講義を受けた。
テーマは田沼意次。江戸時代中期、18世紀半ばから後半にかけての所謂田沼時代を追いかける授業で、テキストは岩波文庫の『田沼時代』だった。僕は岩波新書だったと思っていたが、記憶違いのようである。
ご存じのように田沼意次は商業を盛んにする政策を次々に打ち出した。大商人に特権を与え、彼らに莫大な利益を与えるとともに幕府に豊かな税収をもたらした。商業が発展することで町人文化も栄える。出版、戯作や浮世絵、蘭学、実学が隆盛した自由な気風にあふれる時代でもあった。
意次がめざした事業としては手賀沼、印旛沼の干拓が知られる。大商人から集めた財源で利根川流域の農業に充てようと考えたのだろう。一方で意次は蝦夷地の開拓に目を向ける。ロシアとの交易で枯渇する木材の輸入を目論んだのだろう。いずれにせよ、太平の世ではあったが、飢饉や自然災害も多発する時代だ。政治家としての手腕の高さを感じる。
そのぶん、今でいう「政治とカネ」といった面では多くの批判を集めた政治家であることは間違いない。当時の政敵は松平定信。意次失脚後、寛政の改革で田沼時代の政策を全否定する。日本史の授業では積極的な政策で日本を前進させようとしていたにもかかわらずロッキード事件で失脚した田中角栄を田沼意次に重ね合わせるような話があった。田中に代わって首相になった「クリーン」三木武夫が松平定信。クリーンになったかもしれないが、田中時代の前進政策のスピードはダウンした。三木は政治的な成果を上げることなく、党のイメージを持ち直すために起用されたに過ぎなかった。
主人公は役職のない旗本の次男怜三郎。剣の腕は立つが、学問はからっきしという青年。ひょんなことから田沼意次、田沼意知親子と接点を持つ。ただそれだけの話なのだが、どうしたことか大学時代に聴いた講義を思い出してしまった。

2026年8月28日金曜日

原田マハ『星がひとつほしいとの祈り』

旅をしてみたいと思うわりには旅行に出かけることは少ない。
子どもの頃から家族で旅行することもそれほど多くはなかったし、なにしろ時刻表を眺めるのが好きだったのでそれだけで旅をしている気分になれた。多くはないが本を読んでいるとその舞台に行ってみたい気持ちにはなる。司馬遼太郎『峠』を読んだら長岡に、『胡蝶の夢』を読んだら佐渡島に、吉村昭『ふぉん・しいほるとの娘』を読んだら宇和島に、といった具合に。でもなかなか尻の重い僕は旅に出ない。
以前はよく読んだ本に出てきた土地を歩いてみたものだ(もちろん都内)。高村薫『レディー・ジョーカー』で日之出ビールの城山社長が誘拐された大田区山王。『マークスの山』で看護師高木真知子が勤務する金町の病院。奥田英朗『オリンピックの身代金』に出てくる大田区雑色の北野火薬があった辺りや島崎国男の下宿があった本郷など。当時は仕事も忙しかったから、ロケハンの帰りや打合せの合間に時間を見つけては歩いた。今は仕事も忙しくなく、時間もたっぷりある。なのにフットワークが悪くなっている。
原田マハは2冊目。前回読んだ『さいはての彼女』ではハーレーダビッドソンで北海道に連れて行ってもらった。
今回も旅する短編が多い。
大分県日田市に夜明という駅がある。久大本線と日田彦山線が交わる無人駅。九州で石炭を積んだ貨物列車をSLが牽引していた地域ではないか想像する。表題作の「星がひとつほしいとの祈り」では松山の道後温泉を訪れる女性がいる。松山は一度行ってみたい町である。女友達と男鹿半島と白神山地を訪ねる旅もよさそうだ。ちなみに大分県、愛媛県、秋田県は僕にとって未踏の地である。
佐渡島を旅する母娘。朱鷺は見なくてもいいが、島倉伊之助の生家など遺っているようなら見てみたい。娘夫婦と長良川にやってくる母。鵜飼にはあまり興味はないが、おいしい鮎なら食べてみたい。
いずれも旅情をくすぐる素敵な物語だった。

2026年8月18日火曜日

安西水丸『POST CARD』

8月の13~15日を南房総で過ごした。昨年他界した母の新盆だったのだ。
今年のお盆は一昨年、昨年ほどの猛暑ではなかったが、不安定な天候だった。13日は朝雨がぱらついたが、昼間は雲が多いものの晴れ間がひろがった。午後4時過ぎにそろそろ迎え火を炊こうかと思っていたら、激しい雨が降ってきた。仕方なく軒下で小さな迎え火を炊いた。雨は降りやまず、小雨になってそろそろやむかもと思った頃、墓参りに出る。土地の慣習で新盆の家は切子提灯を持って行くのだが、雨なのでやめた。祖父母、両親の墓に線香をあげた後、親戚の墓をまわった。その間強く降ることはなかったが、びしょ濡れになって家に戻った。
夕飯を終えて、姉と姪家族が館山のスーパー銭湯に行くという。雨が小やみになったところで出かけて行った。それからしばらくして豪雨になった。深夜になっても帰ってこない。土砂崩れや道路の冠水もあったようで、道中のコンビニの駐車場で明るくなるのを待つという。真っ暗な田舎道を走るより真っ当な判断だ。コンビニの駐車場なら必要なものがすぐに買えるし。空が白んできた頃、出発し、5時近くに戻ってきた(僕は寝ていたので覚えていない)。
一夜明けて記録的集中豪雨の被害の大きさを知る。翌日は鉄道がほぼ全滅。高速道路も通行止めが多い。南房総もかなり降ったが、千葉県北部の方が被害が大きかった。床上浸水があり、停電があった。土砂崩れで道路は寸断され、冠水で動けなくなったクルマが2000台以上もあった。死亡者も出ている。
とんでもないお盆のスタートだったが、14日、15日と不安定な天候は徐々におさまってくる。時折雨がぱらつくものの、穏やかなお盆になった。
実家から運び込んだ母の荷物のなかに安西水丸の本が何冊かあった。暇にまかせて『POST CARD』を読む。1986年に刊行されたこの本はイラストレーションの人安西水丸を文筆家にした最初の本だと思っている。

2026年8月10日月曜日

朝井リョウ『スター』

40年以上、映像制作の仕事に携わってきた。今でこそ映像はスマホやデジカメで簡単に撮影できるが、1980年代半ばくらいまではフィルムを感光させていた。ムービー撮影専用のカメラが必要だった。フィルムにどのように写っているかはファインダーを覗くカメラマンしか確認できなかった。
撮影されたフィルムは現像にまわされる。翌日、現像されたネガとプリントされたポジ(ラッシュと呼んでいた)が現像所から届く。ムビオラというフィルムビューワーで映像を確認しながら、ラッシュを切り刻んで編集する。編集室は手作業の場であり、いちばんフィルム制作らしい現場だった。
編集されたラッシュは試写された後、オバーラップなどの加工やタイトルを載せるためふたたび現像所に送られる。現像所の作業もムービーカメラと同様ブラックボックスである。
80年代の終わり頃から、撮影したフィルムをビデオテープに転写して編集するようになった。映像はデータ化され、ユニックスのワークステーション上のソフトで処理される。今ではカメラもSDカードのような記憶媒体にデータ収録されるようになっている。現場からフィルムもビデオテープもなくなった。
SDからHD、さらには4K、8Kと画質もよくなり、データ量も増えていく。4K映像はHD映像の4倍ほどのデータ量になる。記憶媒体が高価な時代には普及し得なかった。
古くから映像制作の世界にいたのに映像制作に携わる人が主役の小説を読むのははじめて。フィルムフェスティバルでグランプリを獲ったふたりの大学生、尚吾と紘。作品は共作だが、祖父とともに名画座で数多くの名作にふれて育った尚吾は細部を見つめる能力に長けている。島で育った紘は美しいものや一瞬の表情に深い洞察力を持っている。尚吾は巨匠監督の助手になり、紘はネット配信動画の世界に飛び込んでいく。
ネット時代。映像制作の進化とこれからについて考えさせられる一冊だった。