2023年2月20日月曜日

浅田次郎『マンチュリアン・リポート』

「BSチューナーを買って、アンテナも付けたんだけど、映らないんだよ。こんどの休みの日に見てくれないか」
声をかけてきたのは当時僕が所属していた広告会社の副社長道山さんだった。ロンドンやニューヨークで広告ビジネスの経験を有する道山さんは、朴訥とした日本語からは想像しえないような英語を話した。プレゼンテーションの挨拶ではジョークをまじえてクライアントの重鎮たちを笑わせた。もちろん「聞く力」のない僕にはさっぱりわからなかったが。
当時制作を担当していた僕が作業スペースにあるモニターやビデオデッキ、オーディオアンプなどの配線をしていたとき偶然通りがかった道山さんに声をかけられたのである。1989年か1990年の冬だったと思う。NHKがBSの本放送を開始したのは89年の6月だったから。
結論的にいえば、あの手この手を尽くしたもののBSは映らなかった。チューナーの上面にねじ止めされたふたがあり、ねじがゆるんでいた。開けてみると小さなコイルがいくつか並んでいた。おそらく同調用の微調整コイルだろう。
「道山さん、ここを開けて、ドライバーか何かで中の部品、いじりましたか」
映らない理由がなんとなくわかった。アンテナを設置した業者さんに聞いてみてくださいと告げて作業を終えた。
道山さんのお宅で大きな餃子と奥さんが漬けたピクルスをごちそうになった。餃子は大きく、銀座にある天龍という中華料理店のそれとよく似ていた。ピクルスはニンニクの利いた独特の味がした。
「僕はね、満洲で生まれ育ったんだよね。子どもの頃から食べてきた餃子と僕がロシア人から教わったピクルスを女房に教えたんだ。これと同じものをつくってくれって」
満洲という大地もその時代も知らない僕がはじめて満洲に触れたひとときだった。
その後、BS放送は映るようになって、ロンドンやニューヨークから発信されるニュース番組を道山さんは毎日楽しみにしていたという。

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