2017年4月27日木曜日

平松洋子『ひさしぶりの海苔弁』

高校時代、毎日毎日母はお弁当をつくってくれた。
部活動の仲間と昼休みに練習をする都合上、二時間目と三時間目のあいだにその弁当を食べ終わり、三時間目と四時間目のあいだの休み時間に食堂に走って蕎麦を流し込む。ほぼそんな毎日だった。二段になった海苔弁は母の得意技だった(かどうかはわからないけれど)。
海苔弁がブームになっている(と、テキトーに言っている)。
この本で平松洋子が食した東京駅グランスタ紀ノ国屋の海苔弁は、というより紀ノ国屋がすでにない。代わって海苔弁界のスターに押し上げられているのは福島県郡山駅の駅弁、福豆屋の海苔のりべんであるという。JR東京駅構内のお弁当屋で売られているというが実物を見たことがない。一日何十個だか限定で発売されている上、値段も駅弁としては900円と安く、さらにはテレビ番組で幾度か取り上げられている。平日午前東京駅に着いて、駅弁屋をのぞいてみてもそれらしき弁当はない。これはもしや幻の弁当なのか。あるいは世の中の酸いも甘いも知り尽くした大人にだけ見えて、僕のような少年の心を持った人間には見えないのだろうか。
駅弁などというものは行った旅先で食べるからいいのであって、いくら東京駅に全国の駅弁があるといってもそんなところで買うのはフェアじゃない気もする。どうせ食べるのなら郡山に行こう。とりあえずそう思うことにした。
でもたまたま立ち寄った東京駅でひとつでも残っていたら走り込んで買うだろうわが姿もまったく想像できないわけではない。人間の行いというのものはその場になってみなければわからないものなのである。
先日、銀座にGSIXという新たな商業施設がオープンした。かつて松坂屋というデパートがあった場所だ。そのなかに刷毛じょうゆ海苔弁山登りというテナントが入っている。ちょっと高級そうな海苔弁を売っている(値段は1,080円とそれほどでもないが)。
いややはり郡山の海苔弁を食べてみたい。

2017年4月25日火曜日

獅子文六『コーヒーと恋愛』

昨秋に続いて春季高校野球東京都大会決勝戦は早実対日大三。
4月23日が決勝戦の予定だったから本来ならもう終わっているはずだが、4強にセンバツ出場の両校が進出した時点で日程が変更された。22日に神宮第二球場で予定されていた準決勝2試合を同球場で22日に1試合、23日に1試合とし、決勝戦を27日の18時から神宮球場で行うことになった。狭い神宮第二では観客の収容人数に問題があるし、応援団の入れ替わりだってたいへんだ。しかも早実、日大三はともにかつて新宿区、港区にあった学校であり、夏の大会などで対戦するときは毎度のことながらスタンドが超満員になる。西東京の地元だけが応援する学校ではないのだ。ましてや今春ともにセンバツに出場し、この夏はどちらが甲子園に行くのか今から注目されている。神宮第二での決勝戦をいちはやく諦めたのは無難な選択だったと思う(昨秋の決勝戦では多くのファンがチケットを求めて外苑の銀杏並木まで並んだらしい)。
秋は東京六大学野球終了後、明治神宮大会までのあいだの土日ないしは文化の日に日程を組めば神宮球場で決勝戦ができる。春はそうもいかない。平日昼は学生野球、夜はプロ野球の日程が組まれている。準決勝からできるだけ日程を空けてあげることを考えると27日神宮でのナイター決勝戦は妥当なところか。翌28日はプロ野球が予定されているし、29、30日は東京六大学野球も組まれている。
獅子文六は4冊目。今回もちくま文庫のツイートにまんまと乗せられてしまった。
『てんやわんや』『自由学校』では終戦から復興が背景にある。この本は『七時間半』の少し後に書かれている。高度経済成長=新しいニッポンのはじまりが舞台だ。なんてったってヒロインはテレビタレントだもの。そうした点では著者の晩年の作品といえよう。
それにしても27日の決勝戦が国士館対帝京でなくてよかった(両校を応援していた方々には申し訳ないと思うけど)。

2017年4月23日日曜日

平松洋子『ステーキを下町で』

平松洋子というエッセイストがどんな人なのか知らなかった。
日比谷図書文化館の二階をぶらぶらしていたとき『焼き餃子と名画座』という単行本に目がとまった。おそらくその前に月刊誌『散歩の達人』最新号をながめていて、町中華のコーナーでうまそうな餃子の写真を見たせいかもしれない。
サブタイトルには「私の東京味歩き」とある。川本三郎かと思った。
ぱらぱらとページをめくってみるとおもしろそうだ。借りてみようかと思ったけど貸出カードをうちに置き忘れてきている。とりあえず平松洋子という名前だけおぼえて帰ることにした。帰り途、特に読む本もなかったので電子書籍のサイトで検索してみた。『サンドウィッチは銀座で』と『ステーキを下町で』があらわれた。おもしろいそうだからぽちっと買ってしまった。
というわけで平松洋子との付き合いはさほど長くはない。せいぜい半月程度の間柄だ。ついこのあいだ銀座でサンドウィッチを食べ終わった、いや『サンドウィッチは銀座で』を読み終えたばかりだ。あまりよく知らない著者の方からおいしい話ばかり一方的にいただいているのも大人としていかがなものか思い、こんどはグーグルで検索してみた。
電子化されていない書籍もたくさんある。そのなかに『ひさしぶりの海苔弁』という本の装幀が目に飛び込んできた。表紙イラストレーションも挿画も安西水丸。ああ、これなら知ってる、見たことある。
そうか、海苔弁の人だったんだ。
まだ知り合って(知り合ったわけじゃない、こっちが勝手に知っただけだ)、まだ半月しか経っていないというのに俄然親しみがわいてくる(どうでもいいことだけど歳も僕に近い)。なんだはやく言ってくれればいいのに的な錯覚。安西水丸の『a day in the life』の書評を書いている。きっとただならぬ関係だったのだろう。
それはともかく東向島にステーキを食べに行こう。そして6月になったら有楽町であじフライだ。

2017年4月20日木曜日

平松洋子『サンドウィッチは銀座で』

グルメという言葉が一般に使われはじめたのはいつ頃からだろう。
少なくとも学生時代にそんなしゃれた言葉は流通していなかった。バブル経済とかおそらくそんな時代背景の中で使われるようになったんじゃないだろうか。もちろん昔から美食家であるとか、食通と呼ばれる人がいた。おいしいラーメン、蕎麦、寿司、うなぎ、とんかつ、ステーキなどにやたらと詳しい人がいた。
「グルメ」はいわゆるグルメ本とともに普及した。おいしい店は活字になり、写真になり、書店に山積みされた。さらにグルメは映像と音になって電波に乗った。日本全国津々浦々をかけめぐった。温泉とグルメさえおさえておけばそこそこのテレビ番組ができた。
やがてインターネットとソーシャルメディアの時代になる。活字や写植、電波に乗った映像以上の方法量がデータ化されて世界中を飛び回っている。多数決で民主的に決められた最強グルメのお店に連日行列ができる。何時間も並んだ末、スマートフォンやデジタルカメラで撮影されたデータはさらに世界をかけめぐる。
それはそれでいいとして、本当においしいものは食べるその人にとっておいしいものだ。
おいしいものをおいしく食べる人がおいしいものに至るまでの道のり。これこそがソーシャル時代のグルメ情報に著しく欠如している点ではあるまいか。著者が料理を頬張る時空間を共有し、そこに身をゆだねる。そうした追体験を可能にする情報が何よりもおいしい。
昨夜、この本を読み終わって明日(つまり今日)のお昼はサンドウィッチにしようと思った。
仕事場から歩いてすぐに行けるチョウシ屋でダブルコロッケパンとダブルメンチパン。天気もいいことだし、そのまま祝橋公園に腰かけてぺろりと食べてしまった。アツアツのコロッケがうまかった。
やはり東銀座にある映像の編集スタジオに何日もこもって仕事をしていた十数年前を思い出した。
引き続き、『ステーキを下町で』を読みはじめている。

2017年4月19日水曜日

曽根香子『その辺の男には負けないわ』


ずいぶん前の話。民主党の選挙CMのプレゼンテーションをお手伝いした。
CMの提案というのは絵コンテという4コマ漫画のようなボードをつくって完成形をイメージしてもらうのだけれど、そのときイラストレーターに描いてもらった菅直人があまり似ていなかった。鳩山由紀夫はまあまあ似ているのに菅直人が似ていない。時間も限られているのでボードに仕上げて広告会社に確認しに行った。案の定、「菅さんが似てないわよ!」の怒声を浴びた。
プレゼンテーションは翌日。この時点で20時をまわっている。カラーで描いてもらったイラストレーションを修正するのは相当難しい。このあとどう対応しようかと思案している間も「菅さんが似ていない!」と30分に150回ほど浴びせかけられた僕は明日朝まで描き直して来ますと引き下がるしかなかった。イラストレーターに再発注することもできず、僕は夜を徹し、ひとりで描き上げ、着彩した。
「菅さんに似てない」と、月に35日降る屋久島の雨のように浴びせかけた人が曽根香子である。
はじめて会ったのは平河町のおでん屋だった。おしゃべりだけどバイタリティあふれる女性だと思った。酔ってスペイン語を話していた。
それ以降、幾度となく曽根香子の提案の手伝ってきた。
直観に優れている彼女は、本書に書かれているとおり、これと決めたゴールに突き進む。時間もないし、これくらいでいいだろうと思ったのがいけなかった。曽根香子は自分で決めたことに嘘がつけない。志に一途な人なのだ。僕は今でも言い訳めいたことばを繕って逃げようとした自分を恥ずかしく思っている。
これまで曽根香子の友人を何人も紹介してもらった。こういってはなんだが、彼女にはもったいないくらい素敵な人ばかりだった(汗)。
この本には著者にとってばかりではなく、世間一般としてみても素晴らしい人物が何人も登場する。一人ひとりがきっと曽根香子のまっすぐな人がらを愛していたのだろう。

2017年4月14日金曜日

内田百閒『東京焼盡』

僕たちの知らない戦争、その終焉を先人たちはどう迎え、受け容れてきたのか。
両親が戦争の時代を生きた僕ら戦争二世はもっとちゃんと次の世代に語り継いでいかなくてはと常々思う。戦前から戦中、そして終戦を経て戦後。こうした時代を背景にした文学や映画が数多くある。終戦直後に限らない。舞台は何十年も経った日々なのに戦争の影が落ちている、そんな作品も多い。創作だけではなく、その時代を生き抜いた作家がどのように戦争という怪物の臨終を見つめてきたかに興味がある。
安岡章太郎『僕の昭和史』、高見順『敗戦日記』、吉村昭『東京の戦争』…、あげればきりがない。
日本の敗戦をつつみ込む重苦しいにおいをもとめて、これらの本を読んできた。そして内田百閒のこの本も同様の期待感とある種の責任感をもって手にとった。
まるで違う。
百閒先生は時代を達観している。下町が焼け、山の手が焼け、日本中が空襲にさらされていようとどこ吹く風のように淡々と日記をしたためる。米がなくなろうが、酒がなくなろうがあわてふためくこともなく、取り乱すこともない。家が焼け、なにもかもが焼けてしまっても。
先日観た映画、黒澤明監督の遺作「まあだだよ」は松村達夫演じる百閒先生がモデルだった。
5月25日のいわゆる山の手空襲で焼け出されてからは掘っ立て小屋での生活を余儀なくされる。今でいうと千代田区五番町。四谷~市ヶ谷間の土手近くだ。この日記が書かれていたのはこの頃だろう。マッチ箱のようなわずかな空間の中でまるでもうすぐ戦争は終わるであろうと思っていたかどうかわからないが、人生も世の中もすべて見通していたようにさえ思える。
その後番町小学校の北、六番町に居をかまえ、名作を生みだしていく。『ノラや』も『阿房列車』もそこから生まれた。
それにしても内田百閒の中で戦争は呆気なく終わってしまった。先生の心は戦争の終わりよりももっと遠く旅の空の下をさまよっていたのかもしれない。

2017年3月31日金曜日

獅子文六『自由学校』

御茶ノ水駅改良工事が行われている。
地盤強化、耐震補強、バリアフリー化をはかる工事だそうである。御茶ノ水駅といえば足下に神田川が流れているが、この川が江戸時代初期に開削されたことはよく知られている。本郷の台地に無理矢理川を通したものだから、隣の水道橋駅や秋葉原駅のあたりと異なり、御茶ノ水駅は狭隘な地形に位置している。しかも東西を聖橋、お茶の水橋にはさまれている(駅は御茶ノ水だし、橋はお茶の水だし地名の表記は難しい)。工事をするにはやっかいな場所だ。
現在、神田川の上に仮設桟橋を設置している。せまく、急峻な地形のため桟橋をつくって、そこから神田川河岸の耐震補強を行うらしい。聖橋口の駅前広場機能整備まで含めると2020年までかかるというから、かなり大掛かりな工事である。
お茶の水はこの小説ではお金の水と称されている。家を追い出された南村五百助はお金の水橋の袂の土手に住んでいた。今でいうホームレスである。
戦後間もない昭和25年頃、混乱の時代ではあったが、お茶の水の谷間にはのどかな時間が流れていたのではないだろうか。さすがの五百助もこんな工事の最中ではのんびりもできなかったにちがいない。
獅子文六を読むたびに思う、これは映画全盛期の小説だなと。
実際にその作品の多くが映画化されている。澁谷実監督「てんやわんや」、川島雄三監督「特急にっぽん」(原作は『七時間半』)と、これまで読んだ二冊はともに映画になっている(いずれの映画も興味深い)。1950~60年代の映画全盛期は原作に飢えていた時代だったのかもしれない。
『自由学校』にいたってはほぼ同時にふたりの監督が映画化している。吉村公三郎監督(大映配給)と澁谷実監督(松竹配給)。この競作がともに好評を博したというのだから驚きだ。
獅子文六の作品人物はキャラクターがはっきりしているから、活字の世界から実写の世界に飛び出すにはうってつけなのかもしれない。

2017年3月30日木曜日

小沢信男『ぼくの東京全集』

三月も終わりかけたある日、東京駅からバスに乗る。
[都05]という系統番号の晴海埠頭行き。東京国際フォーラム、有楽町駅前を経て銀座を突き抜ける。晴海通りをバスに揺られているとちょっとした観光気分だ。朝から晴れて天気もいい。気温も高い。こんな日は事務所のある築地で降りないでそのまま勝鬨橋をわたって「島」まで行ってみたくなる。ちょうどいい具合に東京駅で買った昼の弁当をリュックに忍ばせている。なんてことはしないでもちろん普通に出社する。
センバツ高校野球は関西勢が強い。昨秋近畿大会と明治神宮大会を勝った大本命履正社のみならず、近畿大会4強の大阪桐蔭、同じく8強の報徳学園の3校が準決勝まで勝ち進み、決勝は大阪対決となった。近畿大会準優勝の神戸国際大付属が初戦突破ならなかったものの、智弁学園、滋賀学園もひとつ勝ち、近畿勢のレベルの高さを思い知らされる。
東京からは早実と日大三。
日大三はいきなり履正社と当たる。主戦投手が最後力尽きて、履正社の猛打を浴び、大敗。昨秋の早実戦に続いて履正社の破壊力を見せつけられた。早実は投手力が課題のままセンバツを迎えた。持ち前の打力だけでは全国は通用しない。
東京は来月1日から春季大会がはじまる。両校ともとりこぼすことなく勝ち進んで、関東大会に駒をすすめられるといい。夏の大会のシード権を逃してしまって神宮に来る前に直接対決ということだけは避けてもらいたいものだ。
ちくま文庫が例によってツイッターでおすすめするものだから、この本を買ってしまった(実は紙の本を買うのは久しぶりなのだ)。興味深そうなタイトル、ながめるだけでわくわくする目次。にもかかわらずあまりおもしろいと思えなかった。作者は詩人であり、俳人であり、目の付け所がユニークなんだけど文章が僕には読みづらかった。いつも読んでいる文章とはちょっとちがう感じがするんだ。もう少しこの著者の本を読んでみてから手にとればよかったかな。

2017年3月27日月曜日

森枝卓士『カレーライスと日本人』

築地のコンワビルの地下にRASAというインドカレーの店がある。
コンワビルは晴海通りに面した銀座松竹スクエアと旧電通本館ビルの間、高速道路沿いにあるビルだ。南側の角に活字発祥の碑がある。明治6年に建てられた東京活版製造所がここにあったらしい。
出版社に勤める友人が「このビルに精美堂という写植屋さんがあって、何度も通った」と言っていた。僕も広告会社にいた頃、新聞広告や雑誌広告のフィニッシュ(版下制作)を精美堂にお願いしていたし、つい数年前にも雑誌広告の製版を依頼した(すでに高輪に移転していたが)。
30年くらい前、築地に大手の広告会社があった(というかそれは電通だ)。制作会社の駆け出しのCMプランナーだった僕は毎日のように築地に出かけていた。午前の打合せが長引いて、昼食を摂る時間がなくなったときはたいていRASAに駆け込んでカレーライスを食べていた。カウンターの左右に目をやるとやはり同じような境遇の人たちがいた。昼食難民化した広告会社の社員か、そこに出入りする関連会社、制作会社の人たち。
その広告会社が築地から明石町、汐留と移転を重ねても、RASAはずっとコンワビルの地下にとどまり、築地界隈の忙しい人種の胃袋を待ちかまえていた。誤解がないように申し上げておくとRASAは決してファーストフードではない。時間に余裕のある人だって訪れる。すべてのお客さんがあわただしくカレーを飲み込んでいくわけではないのだ(ビールの小瓶で喉をうるおす人だってたまに見かけた)。辛さだけではなく、味わいも深い。時間がないときサクッと食べられるだけの店ではない。時間がなくてもおいしいカレーライスが食べられる店なのだ。
カレーライスが如何にして日本の食シーンにあらわれたか、この本を読むとよくわかる。
そういえばカレー好きだった叔父がなくなって3年になる。どうりでこの一週間ほどカレーが食べたくて仕方なかったわけだ。

2017年3月19日日曜日

山本周五郎『深川安楽亭』

本所と深川の境はどのへんなのだろう。
墨田区が本所で江東区が深川という説もあるようだが、墨田区千歳と江東区新大橋、森下あたりの複雑な区界を見るかぎり、そう簡単には線引きができないこともわかる気がする。
本所両国から深川に向かって歩いてみる。
深川は川の名前ではない。徳川家康の時代、この地を拓いた深川八郎右衛門の名前が由来だという。意外な真実だ。沼田という土地があって、沼だらけだからと思っていたら昔この地に住み着いた大豪族が沼田さんだったみたいな話だ。
さて両国から深川に歩くとして、どこを最終目的地にするか。とりあえず深川の最果てにたどり着きたい。ところがやっかいなことに時代とともに深川は海へ海へと進出していく。行政上の区分でいえば豊洲や有明の方まで深川なのだ。
東に目を向けてみる。どうやら横十間川あたりまでが深川でその先は城東と呼ばれる地域らしい。ということで暫定的にというか当然かもしれないが、深川の最果てを越中島とする。両国から越中島までなら歩ける。それに道々楽しそうじゃないか。
両国駅から回向院に立ち寄り、清澄通りを南下する。森下あたりから深川だ。高橋、清澄庭園を経て、門前仲町へ。昭和30年頃の地図では深川門前仲町、深川富岡町、深川越中島と現在の町名に深川が付いている。神田みたいだ。おそらく旧深川区が統合して江東区になったとき、町名に深川を残したいという住民の意見が反映されたせいではないだろうか。
人もクルマもにぎわう門前仲町の交差点を過ぎれば、最果ての地越中島も近い。枝川方面へ左折する交差点の歩道橋の向こうに東京海洋大学(旧東京商船大学)が見えてくる。
深川安楽亭はどこにあったのだろう。抜け荷をする連中が集まる場所だから運河にかこまれた辺鄙なところにちがいない。深川木場あたりかそれとも深川佐賀町か。
そんなことを考えるともなく歩いているといつしか相生橋に差しかかる。
深川の果ては佃島と橋でつながっている。

2017年3月14日火曜日

川端康成『遠い旅・川のある下町の話』

情けない話であるが、ここのところリアルな書店に立ち寄ることがめっきり減った。
そもそもリアルな書店という言い方からしておかしいのだが、リアルじゃない本がこれだけ世の中に流通しているのだから致し方ない。
母の誕生日になるとたいてい本を買う。もちろんリアルな本だ。装幀されていて、表紙があって、見返しがあって、遊び紙があってそれらに触れると紙であることがわかる本。手にとると重さを感じられる本。
先だって、新宿の紀伊国屋書店で母にも読めるような昔の小説はないかと探していたところ、山口瞳の『居酒屋兆治』を見つけた。こういってはなんだけど、紙質もよくなく、粗末な装幀の本だった。もちろん値段もべらぼうに安い。
小学館から何年か前に出版されたP+D BOOKSというシリーズであると知ったのはつい最近のことだ。ペーパーバックス&デジタルの略であるという。全集など大掛かりな書物でなければお目にかかれなくなった名作を気軽に手軽に読んでもらおうという考え方から生まれたのだという。けっこうな企画ではないか。
電子書籍のショップで(もちろんネット上の)“下町”“川”などという検索ワードを打ち込んだところ引っかかってきたのが川端康成のこの本だ。書名の横にカッコ囲みでP+D BOOKSと付記されている。それが気になっていた。
「川のある下町の話」はNという川沿いの町が舞台になっている。
川沿いのN?
具体的な描写がほとんどないせいかとっさにイメージできない。日暮里か、日本橋か。大きな病院がある川沿いの下町というと築地界隈をイメージしてしまうのだが、この辺りは空襲を免れているから、たぶんちがうんだろう。さりとて深川あたりでもなさそうだ。
1955年に衣笠貞之助監督の手で映画化されている。義三は根上淳、ふさ子が有馬稲子、井上民子が山本富士子。まだ観てはいないけれど、これはほぼイメージ通りのキャストである。期待が高まるばかりである。

2017年2月21日火曜日

四方田犬彦『月島物語』

20数年前に月島を歩いた。
月島に住んでいた大叔父が南房総館山に移り住んだ後だ。
中学生の頃、夏休みの工作に必要なラワン材を切ってもらいにおじちゃんを訪ねたのが最後だったか。だいたいこんな本箱をつくりたいのだと紙に描いたところ、おじちゃんはわかったわかったと言って、長屋の向かいにある作業場へ行って木を切るどころか釘まで打って完成させてしまった。ひと晩泊まって翌日出来上がった本箱を持って帰り、砥の粉で目止めしてニスを塗った。あっという間に技術家庭科の宿題は終わった。
おじちゃんの家は玄関の右手に二畳ほどの板の間があった。誰かいるときはたいてい鍵が開いていた。月島の長屋は(全部見てまわっちゃいないけど)ほとんどそうだった。
月島では「おはよう」とか「こんにちは」という日常的な挨拶言葉が発達しなかったという。ガラガラと玄関の引き戸を開けて「いる?」というのが挨拶だった。
四方田犬彦の月島考察を通じて、記憶の土砂に埋もれていた月島がよみがえってきた。
中学生以来ふと立ち寄った月島で、おじちゃんの住んでいた長屋の前まで行ってみた。昔だったら風呂屋の先のガソリンスタンドの脇の路地とすぐにわかったのに、すでに目じるしはなく、不安な思いで入り込んだ。どこからか女性があらわれ、怪訝そうな視線を投げる。
昔親戚がここに住んでいて、近くまで来たのでついなつかしくなって訪ねてきたみたいなことを話す。渡辺さんはずいぶん前に引越しましたよ、千葉の方になどと言う。そんなことは重々承知なのだが、もう住んでいない親戚の家を訪ねてきたという行為はまあ、常識的にも月島的にも理解されなくて当然だ。
大叔父は月島という町を通り過ぎていった人に過ぎず、僕を不審に思った女性だって月島を通り過ぎていくだけの人だろう。ある日突然東京湾にあらわれた埋立地月島はどこからともなく人が集まってきて、やがてどこかへ去っていく、そんなはかない町なのかもしれない。

2017年2月20日月曜日

山本周五郎『人情武士道』

カタカナってのは本当にやっかいだ。
文化庁のホームページに外来語の表記の留意事項がまとめられている。「イ列エ列の次のアの音に当たるものは、原則として「ア」と書く」のように。つまりグラビア、ピアノ、フェアプレー、アジアとなるということだ。ただし「ヤ」と書く慣用のある場合はそれによる。ダイヤ、ダイヤル、ベニヤ板など。
また語末の-(i)umは(イ)ウムと書くとしている。アルミニウム、カルシウム、ナトリウムなど。ただし「注」としてアルミニューム」と書く慣用もあるとしている。
文化庁のまとめはゆるやかで、ハンカチ・ハンケチ、グローブ・グラブなど表記のゆれに対して寛容であり、分野によって慣用が異なる場合はそれぞれの慣用によればよろしいとしている。
学生時代はvの音を(ドイツ語だとwも)ヴで書いていた。理由はない。いちおう、綴りを知ってますよくらいしか意味のないことと思いながら。ヴィデオとヴォランティアとかヴォイスとか。ところがこれは後で読み返すと結構恥ずかしい。ビデオだろようそれ、と誰かにあざ笑われているんじゃないかと思ってしまうのだ。そういうわけでいつしかヴは使わなくなった。
ただどうしてもヴじゃないと落ち着きの悪い言葉がある。たとえばヴォルテールはボルテールだとちょっと哲学者のシズル感に欠けるきらいがある。フランス語の会話をカタカナ表記するときもコマンタレヴ?とかサヴァビアン、メルシじゃないとフランス語感が湧いてこない(もちろんこんな会話を日常書く機会は滅多にないのだが)。
ということで最近では外来語=日本語として定着している言葉はブ、人名のように本来日本語表記できない言葉や固有名詞はヴと表記するようにマイルールをつくっている。バイオリンだし、ジュール・ベルヌだし、ヴァン・ジャケットだ。
周五郎の初期の短編集。時代物あり、現代ものあり、ミステリアスなものもあり。
ヴァラエティに富んでいる。前歯で下唇を噛んでみる。

2017年2月17日金曜日

浅田次郎『月島慕情』

動画のシナリオや広告コピーを書くことはあるとしても文章を生業にしているという意識はあまりない。
ただ、人様に文章をお見せする仕事をしている以上、表記には気を遣う。とりわけ外来語(カタカナ語)が厄介でJIS(日本工業規格)には「アルファベットをカタカナで表記する場合、2音の用語は長音符号をつけ、3音以上の用語の場合は長音符号を省くと定められいるそうだ。たしかに車はカーだし、コンピューターではなくコンピュータという表記をメーカーはしている。お客様センタと表記する会社もある。複合語の場合は省かないというルールもあって、ハイブリッドカとはならない。ん?メーカーはメーカではないのかな。
文化庁のガイドライン(1991)では外来語の表記として、英語の語末が-er、-or、-arなどに当たるものは、原則ア列の長音とし長音符号「-」を用いて書き表し、慣用に応じて省くことができるのだそうだ。この影響を受けて、JISの規格も2005年以降、長音は省いても誤りではないと修正されたという。そのせいか最近、サーバーとかプリンターとか長音を付けた表記をよく見かけるようになったが、実は文化庁のガイドラインだけではないらしい。
2008年にマイクロソフトが「マイクロソフトの製品ならびにサービスにおける外来語カタカナ用語末尾の長音表記の変更について」を発表した。マイクロソフトの方針転換が大きな影響を及ぼしているらしいのだ。たしかにインストーラよりインストーラーの方がちゃんとインストールしてくれそうだし、ブラウザよりブラウザーの方がゆったり検索できそうな気がする。
しかしだ、これら複数のガイドラインをどうこなしていけばいいのか。ハードウェアとしてはサーバ、その機能の話をするならサーバー。いやいやそんな使い分けをしていたら文章が先に進まない。
浅田次郎の『月島慕情』を読む。再読である。
久しぶりに月島を歩いてみようと思った。

2017年2月16日木曜日

山本周五郎『明和絵暦』

センバツ高校野球の出場校が決まった。春はもうすぐだ。
毎年気になるのは出場枠のあいまいな関東・東京地区。基本は両地区で6校が選ばれるが、それが関東4、東京2だったり関東5、東京1だったり。もちろん秋季大会をいっしょにやってしまえばいいのだろうけれど、センバツに東京の学校が出場できないことだってあり得てしまうわけだから、東京都高野連はなんとしても独立枠を確保したいのかもしれない。
センバツ出場校は全国10地区から選ばれる。地区大会上位が同一府県だったりすると2校出場できる。そのかわり出場できない府県が出てくる。関東は最大5校出場できるが、当然出場できない県ができる。今春は群馬から2校選ばれている。茨城、埼玉、神奈川からの出場校はなし。
そのぶんと言っちゃなんだけど21世紀枠という地区大会の成績にかかわらない独自の基準で評価された学校が選ばれる。合計32校。どんな戦いが見られるか。
周五郎の(おそらく)ファンであろうC書房のTがこの本はまだ読んでいないと言っていた。僕が読んでTが読んでいない周五郎ははじめての快挙である。
刊行は1941年。少年雑誌に時代小説を連載していた頃の作品か。今まで読んできた周五郎とはちょっとちがう。文章が若々しい。主人公の百三九馬も少年漫画の主人公のようだ。腕は立つし、言うこともふるっている。それでいて冷静沈着、周囲をよく見ている。しかも(というか当然というか)女性にはモテモテである。やはりこいつは少年漫画のヒーローだ。
話はセンバツにもどるが、東京からは2校が選ばれた。早実と日大三。接戦をくりひろげた都大会の決勝戦をふりかえると妥当な選択か。先の話になるが、夏の選手権では同じ西東京で1枠を争うことになる。どちらかがセンバツ後の都春季大会でとりこぼしでもしようものなら夏のシード権を失い、神宮にやってくる前に両校の対決もなくはない。
と、とりとめもないことを考えている。

2017年2月6日月曜日

出久根達郎『佃島ふたり書房』

佃に親戚がいたことは何度かここに書いている。
母方の叔父が佃(新佃)に住んでいた。深川から来ると相生橋をわたってすぐ。肉の高砂の裏手になる。
大叔父夫婦はその後月島に引っ越した。僕の記憶のなかで佃はおぼろげだ。
ただ南房総の海辺の町から上京し、大叔父の家に寄宿した母からなんどとなく佃の話を聞いている。その話がいつしか僕の記憶に溶け込んでいる。
母の住んでいた昭和20年代。佃は門前仲町から商船大学の前を通って、相生橋を渡るか、月島に出て勝鬨橋を渡る陸路のほか、「渡し」という船の便があった。上京したばかりの母は明石町にある洋裁学校に通いはじめた。収入があるわけでない居候だから贅沢はできない。橋を渡るには電車賃が要る。住吉神社に近い渡し場から明石町に通った。もちろん銀座や築地に行くわけではないから距離的にも渡しの方が近かったかもしれないが。
大叔父夫婦には子どもがなく、母をだいじにしてくれたという。そのおかげもあって僕もおじちゃん、おばちゃんによくなついた。その頃はもう月島に越していたが、何度も泊まりに行っては、おばちゃんには晴海のプールや築地の映画館に連れて行ってもらったし、おじちゃんとは銭湯に行ったり、夕涼みがてら西仲の商店街を散策しては本を買ってもらったりした。渡しはとっくになくなっていた。たいていは有楽町まで国電で出て、そこから都電に乗った(都電もその後廃止されバスで通うことになる)。勝鬨橋は1970年まで通航のため跳開を行っていたというが実際に見た記憶はない。
佃大橋ができたときには佃の若い衆が神輿をかついだという。そして佃島が橋でつながったその日、ポンポン蒸気は姿を消した。
この本にはそんな遠い日の町の記憶が描かれている。
新富町から若き母の日々に思いをめぐらせながら、何度か佃に渡った。こんど訪ねるときはふたり書房をさがしてみることにしよう。きっと佃の町のどこかでひっそりとねむっているはずだ。

2017年2月3日金曜日

山本周五郎『天地静大』

2月になった。
節分を過ぎればいわゆる「暦の上」の春だ。
先月は法事で南房総へ行ってきた。あたたかい週末だった。
年末の葬儀はおそろしく寒い日だったので、故人が申し訳なく思ってあたたかくしてくれたのではないかと思う。
まだ真っ暗な早朝、電車でJR千葉駅まで行き、そこから南房総行きの高速バスに乗る。空が白みはじめる。車内に朝陽が真横から射し込む。こんな時間に出かけることはめったにないので内房の海の輝きがいつもとちがうように思える。厳密にいうとほぼ眠っていたのだが。
叔母の家で法要を済ませて、館山にある古民家を改造した日本料理店で食事をした。ぽかぽか陽気はほんとうに助かる。
取り急ぎ読まなくちゃいけない本がないと山本周五郎を読む。
読まなきゃならない本は山ほどある。たぶんあるはずだ。自覚していないだけ、顕在化していないだけだ。
私は今何を読むべきかなんて哲学的に考え出したらたいへんなことになる。時間だけがどんどん過ぎ去っていってしまう。そこで取り急ぎ周五郎を読む。
幕末の東北小藩の話だ。
佐幕か倒幕か、江戸時代の末期は日本の国がさまざまな形で細胞分裂と核融合をくりかえした時代である。尊王攘夷運動は水戸藩が思想的にリードし、長州藩、薩摩藩がその運動を具体化する、激化させる。宇和島藩、福井藩、土佐藩も進歩的な藩主のもと改革に動き出す。
幕末の激動はこれら大藩だけのものではなかった。東北の小藩も将来を賭した二者択一に迫られていた。ということがこの本でわかる。
実をいうと、杉浦透には共感がもてる。もし僕がその時代の東北の小藩の武士で、ある程度(というかかなり)明晰な頭脳をもった人間であったなら、学問の道を進んだだろう。将来変わるであろう国家のために有用な人材になりたいと思うのは新国家を打ち建てるために戦うのとおなじくらい意味があることだと思う。
もちろん僕が士族の家に生まれて、頭脳明晰だったとしての話だ。

2017年1月25日水曜日

森田誠吾『魚河岸ものがたり』

銀座も築地も川の町だった。
昭和30年ごろの地図を見ると築地市場界隈には市場橋、門跡橋、海幸橋と3つ橋があったことがわかる。いずれも支流にわかれた築地川に架かっている。
市場橋と門跡橋は交差点にその名前を残している。市場橋には橋の面影は残っていないが、築地と小田原町をつなぐ門跡橋は川筋が築地本願寺裏手の駐車場になっていて、わずかながら橋のあった時代をしのばせる。築地場外市場のにぎわう通りはもんぜき通りと呼ばれている。つい最近までアーチ橋の形をとどめていたのが海幸橋で築地市場の場内と場外をつないでいる。
古い地図には市場内を線路が通っている。汐留貨物駅から伸びている引込線のようだ。子どもの頃、佃島に住んでいた親戚を訪ねた帰り、父の運転するクルマが新大橋通りにあった踏切を渡ったことを思い出す。
この小説は着想の段階では『海幸橋』というタイトルだったという。
主人公吾妻健作は謎の人物である。その秘密は最後に明かされるのだが、物語は築地市場、いわゆる「かし」のさまざまな人間模様を描いている。長編小説であるとともに連作短編でもある。大事件が起こるわけではない。近所の噂話程度のエピソードがつみ重なっていく。
時代背景はいつぐらいだろう。過激をきわめた学生運動が挫折した直後から10年ほどだろうか。おそらく築地界隈のみならず昭和の人情味がそこかしこにあふれていた時代だったと思われる。
どことなく既視感をおぼえた。
山本周五郎の『青べか物語』を思い出したのだ。青べかも浦安という町に溶け込んだ先生がそこに住む人々の日常を見つめる話だ。河口の町のにおいが共通しているのだろうか。同じような風の流れを感じる。
川本三郎は町歩きの基本は、《ただ、静かに「昔の町」のなかに、姿を消すことである》と語っていた(『東京暮らし』潮出版社2008)。
吾妻健作も、蒸気河岸の先生も昔の町にひっそりと隠れたたずんだ時の旅人だったのかもしれない。

2017年1月22日日曜日

獅子文六『七時間半』

東京大阪間を在来線利用で路線検索する。
12時半出発とすると中央線で新宿に出て、特急あずさで塩尻に出て、特急ワイドビューしなので名古屋。東海道本線の在来線で米原行、さらに姫路行の快速を乗り継ぐと9時半前には大阪に着く。
特急ちどりは東京大阪間を7時間半でむすんだが、60年近く経った現在でも8時間半少々でたどり着く。さらに検索結果をよく見ると乗車時間は7時間25分とある。遠回りと思われる中央本線経由でも当時の直通特急列車よりはやい。同じレールの上を走っているようで鉄道も案外進歩している。
そういえば昔は食堂車なんていう優雅な設備があった。東海道新幹線のビュッフェでビールを飲んだことはあるけれど食堂車で食事をした経験はない。そもそも食堂車を連結した列車に乗ったことがほとんどない。上野札幌を寝台特急北斗星で往復したことがあるが、食堂車はすべて予約制で駅弁を何十食分も食べられるくらい高価なメニューだったと記憶している。
大阪へは東海道新幹線で移動することが当たり前になった時代に生きてきたのでそもそも在来線で移動することがなくなった。つい最近まで朝一番の飛行機よりはやく大阪に到着する寝台急行銀河が運行されていたが、すでに廃止されている。寝台列車はもはやビジネスツールではなく、道楽の乗物になってしまっている。
獅子文六の小説を多く読んだわけではないが、映画やドラマにするにはうってつけのストーリーが多い。この小説もご多分に漏れず1961年川島雄三が「特急にっぽん」というタイトルで映画化している。居残り佐平次のフランキー堺が矢板喜一役を演じている。
人にもよるのだろうが、列車の旅というのは得てして思い出に残るものだ。飛行機やバスも同じかもしれないけれど列車という空間には独特の空気が流れ、独特の秩序がある。そこに小さな世界があって外の世界とは隔絶されている(内側と外側をむすぶ場所として駅があり、祝祭的な役割を果たしている)。
この本はそんな小さな世界のものがたりだ。

2017年1月18日水曜日

村田沙耶香『コンビニ人間』

仕事場が築地に移ってひと月以上たつ。
広告の仕事をはじめたばかりの二十代、この地に大手広告会社があり、毎日のように通っては打合せを重ねた。ずいぶん当時とは変わってしまったところもあるし、変わらないままの場所もある。
引っ越してからしばらく当時ごはんを食べたお店をたずね歩いた。
カウンター席だけのインドカレーのお店とか、下町風情のあふれる洋食屋など。なくなってしまったお店も多い中、30年の時を隔ててまだある味に感激する。
勝どきに仕事でお世話になった方の事務所があり、よく築地市場の場内や場外にも連れて行ってもらった。そんな思い出のお店も再訪している。よくよく考えてみれば築地市場は昨年の11月豊洲に移転するはずだった。豊洲移転後の地図を貼っている店も多い。幸か不幸か築地市場はまだ築地にある。いつまであるかは明らかではないけれど、ここにあるうちに食べられるものは食べておこうと思っている。
市場場外はしばらく築地に残ると聞いてた。そういうこともあって場外ではあまりお昼を食べることはないが、時間のないときなど少し並べばラーメンや蕎麦、丼ものにありつけるのだから(もちろんそんなに安くはないけれど)ありがたいといえばありがたい。おかげでお昼をコンビニエンスストアのおにぎりやサンドイッチで済ませることもなくなった。
コンビニで働くなんて想像だにしたことがなかった。
ときどき立ち寄るコンビニで自分と同年配の方が働いていたりすると、どうしてこの人はここで働いているんだろうなどと思いめぐらせることはあるが、それほど真剣に考えたことはない。
広告制作の世界があるように、学校の先生の世界があるように、銀行マンの世界があるように、コンビニの世界があるのだ。
そこは特別な世界ではなく、特別な人が働いているわけでもなく、その世界なりの時間が流れ、その世界のことばが話されている。
ちょっと変わった人がいるかもしれないがそれは小説だからなんじゃないかな。とりあえずそう思うことにする。

2017年1月6日金曜日

北別府学『カープ魂 優勝するために必要なこと』

少年時代はジャイアンツファンだったけれど、数年前にやめた。
これからは横浜のファンになろうと思った。が、どうしても納得いかない点があって、暫定的に広島ファンになった。
僕の場合、どのチームがいいかではなくて、どのチームに誰がいてどんな活躍を魅せてくれるかに興味を惹かれる。そういった点では大谷翔平だけでなく明大時代の二刀流岡大海やここのところエースを量産している広陵出身の有原航平が活躍する日本ハムも応援したいチームだし、かつてライバルであった(巨人ファンだった頃のね)阪神タイガースの上本博紀や高山俊も応援している。この際どの球団をと考えるのが面倒だ。
そういった点からすると広島は千葉経済大附属出身の丸佳浩がいて、広陵の甲子園準優勝投手野村祐輔、荒川リトルから二松学舎にすすんだ鈴木誠也、亜細亜のエース九里亜蓮と人材は豊富だ。それになんといってもわが巨人軍の(もう「わが」じゃないけど)ドラフトを拒否した福井優也がいる。
広島ファンといってもまあ実をいえばその程度で、根っからのファンの方たちと「やっぱりタカハシヨシヒコがさ」とか「キノシタのあのプレーで」とか「ミムラが、ソトコバが、炎のストッパーが」なんて深い話になるとついていけない。
北別府学のドラフト会議は1975年。高橋慶彦のひとつ下になる。ジャイアンツの1位指名が銚子商業の篠塚俊夫だった年だ。
北別府も巨人から指名される可能性はあったらしいが広島が1位指名したことで巨人入りはなくなった。本書にも書かれているように本人はジャイアンツファンだった(そういった意味では親しみをおぼえないでもない)。
世代的には僕と近いのでずいぶん新しい野球選手のような印象があるのだけれど、書いている内容は精神野球的なところが随所に見られて、当時の野球ってこんなに時代遅れだったけと思うところも多い。
そんなことはどうでもいいとして、少しだけ広島ファンに近づけたような気がした。

2017年1月3日火曜日

山本周五郎『ちいさこべ』

あけましておめでとうございます。
盆暮れ正月ではないけれど、年末年始のあわただしい時期はなかなかゆっくり本が読めない。
今までそうやってあわただしさのせいにしてきけれど、一昨年末司馬遼太郎の『峠』を読みふけり、この年末は山本周五郎を読んでいた。おもしろい本があれば、人はどんな状況下にあっても読み続けられるものだと思った。
年末年始、毎度のように思うのは年賀状。もうやめようかとずっと思っている。いただくだけいただくとして、もう出さないようにする、そうこうするうちにこうしたやりとりはなくなるだろうと。それはそれですっきりするんじゃないかと。
とはいうものの親戚づきあいというものもあり、古くから出し合っている友人・知人も多い。ここで突然止めるのもいかがなものかとも思う。そうこうしているうちに印刷して、いつものようにポストに投函している。
住む家もだんだん手狭になってきている。よけいなものは片づけてしまいたい。そんな矢先、高校時代の同級生Sからもらった1985年の年賀状が出てくる。Sは大学卒業後国鉄に就職し、長崎からキャリアをスタートした。ほどなくして北九州に移り、今や重要文化財に指定されている門司港駅の写真を賀状にしたのだ(もともと建築物に興味があったという)。
門司港駅は鹿児島本線の始発駅であるが、山陽本線との接続駅がひとつ先の門司駅だったせいか、ちょっとした盲腸線の駅のような存在だった、少なくとも時刻表を見るかぎり。でも写真で見る門司港駅は九州の表玄関然とした凛々しい佇まいを持っていた。
その賀状を捨てずにとっておいたのはそういう理由からかもしれない。
今、都会の駅は大量生産された工業品だ。駅名表示の看板さえ入れ替えればオールマイティな存在になってしまった。町の顔としての表情はもうない。
それはともかく、山本周五郎はいいな。
正義・寛容・謙虚。
読めば読むほど、今、自分に足りないものが見えてくる。じわっとしみてくる。

2016年12月24日土曜日

小板橋二郎『ふるさとは貧民窟(スラム)なりき』

「貧民窟」なんて言葉は現代の日本では死語なのではないだろうか。
海外に出向いたとき、大都会の片隅にスラムと呼ばれる地域が存在することがある。あの辺はスラム街だから観光で訪れた人は近寄らないほうがいい、などと言われる地域がある。今の大都会はおそらくそのような地域はないと思う。
古くは東京にも貧民窟があった。
JR浜松町駅に近い金杉橋のあたりにあった芝新網町。同じく上野駅に近い下谷万年町。そして四谷の鮫河橋。
これらは明治の頃に生まれ、東京三大スラムと呼ばれていた。芝、下谷のような下町のみならず、赤坂御所のお膝もとに規模の大きな貧民窟があったことに驚かされる。
鮫河橋は永井荷風の散歩道としても知られている。
四谷は新宿通りの南北が谷になっていて、北は荒木町から住吉町の方へ続いている。南は須賀町、若葉、南元町へ谷が続く。『日和下駄』の頃の荷風はおそらく余丁町あたりから歩きはじめて、須賀町の闇坂を下って鮫河橋(鮫ヶ橋)の火避地を訪れていたのだろう。今のみなみもとまち公園のあるあたりだ。もちろん貧民窟の名残はない。それは芝にしても、下谷にしても同じだ。
山本周五郎の『季節のない街』を思い出す。具体的なイメージとしては黒澤明監督の「どですでかん」だ。貧民窟とはあのような地域だったのではないかと。漫画でいえばちばてつやの『ハリスの旋風』だ。石田国松の親父は屋台を引いていた。トタン屋根の上には石が置かれていた。
作者小板橋二郎は板橋の貧民窟の生まれだという。
調べてみると板橋にも貧民窟があった。今でいう都営地下鉄板橋本町あたり。埼京線の十条からも遠くない。以前歩いたことがあるかも知れない。
いずれにしてもかつて貧民窟と呼ばれた地域にそのおもかげは残されていない。時間というきめ細かい土砂が堆積し、今や歴史の地層の奥深くに隠されてしまった。
教科書に載るような事件があったところなら、石碑でも建つのだろうけれど。

2016年12月18日日曜日

所澤秀樹『鉄道フリーきっぷ 達人の旅ワザ』

その昔、茶色い電車が走っていた。
山手線や中央線が近代的でカラフルな電車が走るようになっても、京浜東北線は導入が少し遅れた。スカイブルーの電車が運行するようになったのは1970年くらいからか。その後、茶色い電車(どうやら72系というらしい)はどこか他線区にまわされたのかもしれない。くわしいことはわからない。もしかすると南武線で使われていた電車がそうだったのだろうか。高校のグランドが南武線の沿線にあって、乗る機会があった。
鶴見線には90年代の半ばまで茶色い電車が走っていた。12系というそうだ。どこからともなくそんな情報が入り、一眼レフカメラを下げて見にいった。はじめて乗った鶴見線である。
行く先々で枝分かれしていく不思議な線で、工場の敷地とつながっていて一般の乗客は下車できない駅もある。いずれ京浜工業地帯に物資と人を送りこむ産業路線であったのだろう。
この著者は鉄道関係の著作が多い。以前『時刻表タイムトラベル』という本を読んでいる。
全国津々浦々のフリーきっぷを紹介する本かと思っていたら、首都圏で入手の容易なフリーきっぷの活用事例を紹介している本だった。
週末JRで400円くらいの区間を往復する。迷わず都区内フリーパスを購入する。途中駅で下りて、大型カメラ量販店をのぞいたり、中古レンズのお店をのぞく。往復するだけで元が取れる。トクした気分になる。平日、打合せで出かけることが多い日には東京メトロの一日乗車券を買う。
著者はJR東日本の週末パスで東日本を駆けめぐる。方々を乗り歩いた経験が随所に生きている。うらやましい。いつか両毛線、水戸線、水郡線、磐越西線経由で新潟まで行ってみたいと思っている。
ところで鶴見線にも数年前までぶらり鶴見線パスという粋なフリーきっぷがあった。最近はとんと見かけないが、時期限定で今も発売されているのかもしれない。あらかた無人駅の鶴見線でフリーパスもどうかとは思うけれど。

2016年12月16日金曜日

池内紀『東京ひとり散歩』

焼香が苦手だ。
客観的に自分が焼香しているシーンを見たことはないが、たぶんちゃんとできていないと思う。背筋をきちんとのばして丁寧におじぎして、はやからずおそからず適度なスピードで三回、無駄な動きなくこなせる人がいる。自分はおそらくああではないのだ、きっと。
自分の順番になる。遺影に向かって一礼する。もともと猫背なのでじゅうぶんにおじぎできているかわからない。せせこましく頭を下げて焼香台に向かっているような気がする。出だしで躓くと、以後の所作だけでも完璧にしようと気持ちが焦る。合掌して右手でつまんだ香をおでこの近くに持っていく。そのとき左手はどうするんだっけ。右手に少し添えるようにするんだっけ。それとも左手の位置は「気を付け」の位置でよかったんだっけ。気がつくと左手が中途半端に空中に漂っている。さっき姿美しい焼香をした男性はどうしていたっけ。
そんなことを思いめぐらせながら、三回香を落す。爪が伸びていると爪の間に香が残る。親指人差し指中指をこすりあわせるように香をふり落とす。ああなんて俺はみっともないんだと思う。
何ごとに関しても基礎ができていないのだろう、今さら気づいても遅きに失しているのだが。
池内紀はカフカの翻訳で知られるドイツ文学者だが、旅行記や町歩きの著書も多数上梓している(このブログを書くようになってからたぶんこの本が4冊目だと思う)。文章も着飾ったところがなく、おしゃれな書き手だと思う。
銀座、両国、紀尾井町…。訪ねる先も日常的な東京だ。それぞれの町で見つけた小さな発見をひけらかすこともなく、うんちくをしつけることもなく、おそらく散歩するものとして適切なスピードと所作と感じ方で歩いていると思われる。旅をすること歩くことの基本的な姿勢がいい人なのだ。
先日、そんなことを南房総行きの高速バスの中で海を見ながら考えた。
叔父の葬儀に列席した。残念ながら僕がめざしている理想の焼香にはほど遠かった。

2016年12月12日月曜日

ジェームズ・M・ケイン『郵便配達は二度ベルを鳴らす』

読み終わった本のことを書き残しておこうというのがこのブログのねらいだ。
それが第一義的な目的ではあるんだけれど、たぶん僕が読む本のことなんてきっと誰かがもっとちゃんと書いているだろうと思っているので、できるだけ書物の中身に両手両足を突っ込んだ話にしないようにしている。それでもおもしろい本を読んだり、昔感動した本を再読したりした後ではどうしてもその思いを強く語ってしまう。あとで読みかえすとけっこう恥ずかしかったりする。むしろその本を読んでいた当時、僕は何に興味を持ち、何をしていたかが思い出せたほうがいい。あるいは読みながら、思い出したことなんかを書き留めておいたほうがいい。そんなこともあって一向に内容に触れることもなく終わってしまう書き込みもなくはない。それはそれでいいかもと思う。
読んだ本にまつわる思い出や身近なできごとをブログにしようと思ったのはキネマ旬報に連載されていた「安西水丸のシネマ・ストリート」のようなメモを残しておこうと思ったことがきかっけだ。映画の話なんだけど、映画以外の話で盛り上がっている不思議な連載だった。
BSで録画した映画を観る。
郵便配達は登場しない映画だとわかる。
原作を読んでみると、映画でストーリーが忠実に再現されていることがわかる。映画では「郵便配達は二度ベルを鳴らす」というフレーズにちょっとだけふれるけれども、原作ではまったく言及されない。なかなか洒落たタイトルをつけた小説だ(とはいえ、原作を先に読んでいたら、映画を観るまでその題名の意味はわからないままだっただろう)。
さて、このブログ。いつのころからか自分でルールをつくった。週に2本投稿する。1投稿は800字前後とする。というものだ。これは読んでくださる奇特な方々にはまったく関係のない自己満足のためのルールだ(厳守したところで満足感なんか得られっこないのだが)。
おかげで更新するのがめんどくさいブログになってしまった。

2016年12月11日日曜日

岡康道『勝率2割の仕事論 ヒットは「臆病」から生まれる』

岡康道になりたかった。
20代のなかば、僕は小さなCM制作会社にアルバイトとしてもぐり込み、撮影現場の手伝いをしながら、テレビコマーシャルの企画を学んだ。そして20代最後の年、あるクリエーティブディレクターに誘われ、CMプランナーとしてやはり小さな広告会社に移籍した。
広告制作者としてようやくスタート地点に立つことができたとき、岡康道はすで心臓破りの丘を越えようとしていた。精悍な表情のまま、仕立てのいいスーツを着て。
はるか遠く、肉眼では見えない岡康道の背中をずっと追いかけてきた。多大なる影響を受けたと思う。そのわりにつくってきたCMは情けないものが多い。
岡は絵がうまいわけではない(というか彼の描いた絵を見たものはいないんじゃないか)。すぐれたコピーを書くわけでもない(もちろん文章はすばらしいが、広告制作のなかで彼の立ち位置はコピーを書くことではないと自覚しているようだ)。クリエーティブとしての彼の才能は絵コンテやコピーに注がれているわけではない。もっと大きなものを動かしてつくっているのだ。
あえて誤解を受けるような言い方をするならば、広告制作者としてすぐれた技術を岡は持っていない。決して凡庸とまでは言わないが、どちらかというと広告マンとしては普通の人である。「クリエイティブに進むなら、大学で美学を専攻していたり、映画研究会にいた、ジャーナリズム研究会をやっていた、というような経歴が必要だと、そのときは信じていた」と本人も言っているように。
岡康道にはドラマがある。
僕は常々そう思っている。岡康道という人間がドラマであり、その人生がドラマである。岡康道にしかない孤高のドラマを彼は持っている。だから岡康道のつくる広告は強いのだ。
多いときで年に4,000枚くらいの絵コンテを描いてきた。企画が通って形になるのがせいぜい20本くらい。僕の勝率5厘にくらべれば2割は天文学的な数字だ。

2016年12月5日月曜日

村上春樹『羊をめぐる冒険』

村上春樹の短編「ドライブ・マイ・カー」で「(みさきは)小さく短く息をつき、火のついた煙草をそのまま窓の外に弾いて捨てた。たぶん中頓別町ではみんなが普通にやっていることなのだろう」という一節があり、これに対し中頓別町の町議が抗議した。その結果、後日単行本として出版されるにあたり、村上は中頓別町を上十二滝町に改めている(そのことは単行本の「まえがき」に書かれている)。上十二滝という集落は『羊をめぐる冒険』に登場する架空の地名だ。
ひょんなことから思い出し、もういちど羊をめぐる冒険を冒険してみようと読み直す。
十二滝町の開拓史が描かれている。まるで実在していた集落のように。
村上ファンが突きとめたところによると十二滝町は旭川から塩狩峠を越えた美深町ではないかと言われている。中頓別町はそこからさらに北にある。
1988年。11月末から12月にかけてはじめて北海道を旅した。
最初に勤めた会社を辞めて、一ヵ月まるまるすることがなくなったのだ。寝台特急で札幌に出て、釧路、根室をまわった。まだ雪深い時期でもなかったし、太平洋側だったのでさほどの積雪もなかった。ただ西高東低の気圧配置が強まると身体を切り裂くような季節風が吹いた。
根室から会社に電話をすると(退社手続きの関係で12月になったらいちど電話をよこせといわれていた)、名古屋で打ち合わせがあるからすぐに帰って来いという。帯広で一泊して、翌日札幌からふたたび寝台特急に乗って帰京した。
もし時間が許せば、上十二滝町を訪ねてみたかもしれない。もちろんそんな架空の町がどこにあったかなんて知る由もなかったけれど。
札幌にはほとんど滞在しなかった。ドルフィンホテルを探そうともしなかった。村上春樹の不思議な冒険の出発点ともいうべきこの本を読んだのが(僕のメモによると)84年8月。その後社会人になり、転職しようとしていた。『羊をめぐる冒険』はその間、すっかり僕の記憶のかなたにあった。

2016年12月1日木曜日

梅田悟司『「言葉にできる」は武器になる』

近く、仕事場が移転する。
これまでは永田町、紀尾井町、麹町に囲まれた平河町という小さな町にあった。
小さな町はきらいじゃない。そこにしかない町だからだ。面積は小さくても存在が大きい。隼町という町が隣り合っている。これもまた小さい。
この界隈は昔、麹町区だった。町名としての麹町は半蔵門から四ツ谷駅あたりまで新宿通りをはさむように東西に細長い。北側は番町、さらに市ヶ谷、九段とつながる。
高校が九段にあった。
今でもときどき一番町から靖国神社に出て、飯田橋駅まで歩く。考えごとをするのにちょうどいい距離だ。デスクや打ち合わせで思いつかなかったようなアイデアがポンと思い浮かんだりすることがある。厳密にいえば、思い浮かびそうな気分になる。
さすがにもう高校時代のことは思い出さないが、母校はいつだったか東京都立から千代田区立に変わった。今まで千代田区で仕事をしてきて、賃貸料だのなんとか税だのが後輩たちに役立ってくれているんじゃないかと思うと励みになった。
こんど引っ越すところは中央区築地。昭和30年ごろの地図で見ると目の間が川になっている。というか銀座も築地も川だらけだった。タイムマシンがあればぜひ訪れたい。
築地にも小田原町という小さな町があった。今の築地6、7丁目にあたる。明石町は生き残ったのに小田原町は生き残れなかった。
広告の仕事をしていながら、近ごろ売れているコピーライターやアートディレクターのことを知らない。
この著者も知らなかった。
上智大大学院理工学研究科を終了している。根っからの理系みたいだ。理屈がちゃんとしている。組み立てがしっかりしている。
言葉が武器になるのは「内なる言葉」に耳を傾け、その解像度を高めていく。自分の思いをしっかり持つ。つまり言いたいことを磨き込んでいけば、「人が動く」(人を動かすではない)言葉は生み出される。ご丁寧に「使える型」と称して実践例まで紹介してくれている。
まさに伝わる言葉の生産技術書だ。

2016年11月27日日曜日

松尾卓哉『仕事偏差値を68に上げよう』

ある日曜日に自宅のファクシミリに着信があった。
数案のテレビコマーシャルの企画コンテだった。もう二十年近く昔の話だけど。
送って寄こしたのは松尾卓哉。当時あるかつらメーカーのテレビやラジオのコマーシャルをいっしょに企画していた。休日返上でアイデアをまとめた彼はクリエーティブディレクターのチェックをもらい、さらに僕にリライトをお願いしろとアドバイスを受けた。
それが日曜日のファックス着信である。
もちろんどんな内容のプランだったかははっきり憶えていない。元アイドル歌手が母親役で授業参観に行く。事前に子どもからおしゃれしてきてねとか言われたのかもしれない。そのときの元アイドルが言う。「だいじょうぶ、ママは昔○○(アイドル歌手の名前)だったのよ!」おしゃれなウィッグを着けて教室にあらわれた元アイドルのママが脚光を浴びる。たしかそんな企画案があったように思う。
日曜日に絵を描いて、翌月曜日にスキャンして当時やっと使い方を覚えたばかりのフォトショップで色を着けた。おもしろいアイデアばかりだったけど、残念ながら制作されて放映されるには至らなかった。
ラジオコマーシャルもいっしょにつくった。当時の松尾卓哉のラジオCMはありふれた台詞を(商品名とか商品特徴を連呼するのではなく)とことん繰り返すパターンが多かった。原稿ではちょっと強引かなと思ったけれど、録音してみたらおもしろかった。
その頃の松尾卓哉はまだまだ売り出し中の若手クリエーターだった(カンヌ国際広告祭で入賞し、忍者のコスチュームで表彰式にのぞむ数年前だった)。それでもすでに完成形をしっかりイメージしながら、企画やコピーを考えていたのだろう。
広告制作にたずさわる制作者がクリエーティブの手法やCM制作から学んだことなどを本にすることは少なくない。そのなかでもこの本は平明で誰にでもわかりやすい。松尾卓哉のつくったテレビCMのように。

2016年11月23日水曜日

マーク・トウェイン『ハックルベリー・フィンの冒険』

読書の記録を残すようになってずいぶん経つ。このブログだけでなく読書メーターというSNSも利用している。
半年前、一年前に何を読んでいたかがすぐにわかる(もちろんさらにさかのぼるることだってできる)。ブログの方は読んですぐに書くなんて洒落たことはできない。タイムラグが生じる。それはそれで致し方ない。
ただ半年前、一年前をふりかえって見たとき、半年後一年後にこんな本を読んでいたのかとは想像すらできない。そこがおもしろい。本を読むとはあてもない旅なんだと思う。
仕事でどうしても本を読まなければいけない人もいる。僕だっていつも冒険小説や時代小説ばかり読んでいるわけじゃない。そういうのは趣味娯楽ではなく仕事なんで読書とは違う。
一年前は何を読んでいたかというと司馬遼太郎の『世に棲む日々』だ。『竜馬が行く』、『燃えよ剣』、『花神』を読み終わって、もう少し幕末にとどまろうか、『坂の上の雲』に行こうか思いめぐらせていた頃だ。
半年前は『大地の子』や『64(ロクヨン)』を読んでいた。その後、村上春樹の未読のエッセーを読んだり、初期の作品を読みなおしたり、スタインベックの『怒りの葡萄』を再読したりして現在に至っている。紆余曲折も甚だしいが、どういう経路でハックルベリー・フィンにたどり着いたのかまったくわからない。スタインベックに触発されたのと大統領選の過熱する報道がアメリカ文学の原点に向かわせたのかもしれない。
読み終えた一冊が無意識のうちに次の一冊へ導いていく。そういうことはたしかにあるし、テレビのニュースやネットで知るさまざまな情報に導かれているのかもしれない。
いずれにしても僕の読書は根無し草みたいなものだ。ミシシッピ川に浮かぶ筏に揺られているようなものだ。流れ着いた町ではじめて出会う人たちと波乱万丈支離滅裂な事件に遭遇する。
こんなおもしれえことばっかあるんならおいらこれからも本を読みつづけるぜ。

2016年11月20日日曜日

マーク・トウェイン『トム・ソーヤーの冒険』

今でも町歩きが大好きなんだけど、そのはじまりは小学校時代にさかのぼるんじゃないかと思っている。
ゴムボールで野球をしたり、タカオニやカンケリなどといった低学年的な遊びもしたけれど高学年になってにわかに冒険心が芽生えたんだと思う。学区域を越える、区境を越える。まだ知らない町を見てみたい。そんな気持ちになった。
なんとなくこの辺、みたいな話だとイメージしづらいかもしれない。僕らの冒険の出発点(いわばセントピーターズバーグだ)を品川区の大井町としよう。そこを拠点にあちこち歩きまわったのだ。
今でも憶えているのは区の南西にあたる大田区上池台。僕たちが学校教育以外で接する唯一といっていいメディアを提供していた学研の本社があった。学習研究社の雑誌『学習』と『科学』は当時教科書のおやつとして絶大な支持を得ていた。その生産拠点を(少なくともその場所を)見極めようと小さな旅に出た。
当時、学区域を出ることは大いなる冒険だった。学区域の外は他の学校の生徒児童の縄張りであり、迂闊なことでもしようものなら僕らは生命の保証がなかったからだ。大げさかもしれないが、気分的にはそうだった。
学習研究社はまわり一面畑に囲まれた丘に上にあった。のどかな風景だった。北馬込から夫婦坂を通って行ったと思う。
記憶に残る次の冒険は国電(今のJR東日本)の品川駅と田町駅のあいだにある東京機関区(たしかそんな名前だった)という機関車の基地。これは興味をそそられたね。深夜九州に向かう電気機関車たちが昼間ここで眠っているのだ。
でも歩いていくには遠かった。入口もわからなかった。高輪や三田あたりの線路沿いから、札の辻の陸橋の上から遠く眺めたものだった(後日見学させてくださいと正式に訪問している、皆カメラをぶら下げて)。
20世紀の日本で、品川という小さな町に育った僕らの冒険とはこんなものだ。
トム・ソーヤーほどではないが、見方を変えればトムの冒険よりおもしろかったかもしれない。

2016年11月16日水曜日

松岡正剛『危ない言葉』

もし理想的な国語の教師がいたとしたら(これは高校現代国語の授業を想定しています)。
その人は僕たちに好き勝手に本を選んで読めと、その授業の冒頭で言うだろう。そしてわれわれは、ある者は鞄の中から読みかけの文庫本を取り出し、ある者は駅前の書店に出向き、またある者は学校の図書室で読みたい本を物色する。もちろんここぞとばかりに靖国神社で缶ビールを開けたり、神楽坂のパチンコ屋でひと勝負する者もいただろう(学校がその辺にあったので地域が限定されますが、あくまでたとえということで)。
小学校以来ほとんど本を読まなくなった僕はやることがない。頭のいい輩なら予備校や塾の宿題をここでこなすんだろうけど。
勝手に本を読めと言ったその教師は自ら持参した本を読みはじめている。することもないので彼を観察する。
ときどき微笑んだり、涙ぐんだりしている。真剣な表情も見せる。自分の親と同世代か、少し歳上かもしれない。そんな大人がページをめくりながら嗚咽なんぞしている。気持ちがわるい(僕が高校生当時、そんなボキャブラリーはなかったけど、今でいう「キモイ」感じ)。とはいうもののだんだん気になってくる。彼は何を読んでいるのかと。
他人に、この本だけは絶対読め、いい本だから。そうすすめるのは簡単なことだ。だけど自分の、あるいは不特定多数の読書体験を盾に課題化される、強制されることが何よりもいやだった。中学生になってから本を読まなくなったのは(もちろんそれは自分のせいにちがいないけれど、あえて人のせいにするなら)夏休みなどに課される読書感想文の宿題のせいだ。
国語教師が読んでいる本を覗きに行った。
その本の題名はさして重要ではない。ここでは割愛する。
もちろんこれは僕がつくった架空の話でそんな理想の教師に出会う機会はなかった。
読書は強制されるものではない。覗き見ることだ。松岡正剛はそんなことを教えてくれた。僕にとって理想の教師かもしれない。

2016年11月12日土曜日

村上春樹『風の歌を聴け』

東京六大学野球や東都大学野球は先に2勝したチームが勝ち点1をもらう。その勝ち点の多いチームが優勝。同数であれば勝率で決める。非常にわかりやすいルールである。と同時に春秋のリーグ戦をおもしろくしている。
どのチームにも試合をまかせられる投手がひとりはいる。完投こそしなくても失点を最小限に抑えて、打線が少ないチャンスをものにすれば野球は勝てる。柱になる投手がもうひとりいて第二戦も同様に戦えればすんなり勝ち点はもらえる。問題は一勝一敗のタイになった3戦目だ。
第3戦は1、2戦で活躍した投手が同じように投げられるとは考えにくい。疲労も蓄積されている。お互い後のない戦いに必要以上にプレッシャーがかかる。たいていの場合総力戦になる(プロ野球でもそうだが、学生野球も投手の分業がすすんでいる。初戦に勝ち投手になり、2戦目負け投手になり、3戦目も先発でマウンドをまかされ完投する、なんていう猛者はもうあらわれないだろう)。
そういった意味でも学生野球のリーグ戦を観戦するなら第3戦をおすすめしたい。初戦で完璧な投球をした投手がもろくも打たれたり、打ち崩された投手が見事に立ち直っていたりする。ベンチやブルペンのあわただしい動き、決死の覚悟の応援団などなど。第三戦は見どころ満載だ。
忘れたころに村上春樹を読み直す。
初期の作品はたぶん二回は読んでいるだろうから、これが再々読になるかもしれない。いわば第三戦ということか。
主人公や登場人物がビールを何本も飲んで、クルマを走らせ、煙草を何本も吸っていたそんな時代のお話。もう30年近く以前に南房総の防波堤に寝ころんでビールを飲みながらページをめくった夏の日を思い出す。
東京六大学野球秋のリーグ戦最後の試合となった第三戦早稲田大対慶應大は広島東洋カープにドラフト一位指名された慶應の加藤拓也が圧巻のピッチングで学生最後の試合を飾った。いい思い出になったんじゃないだろうか。

2016年11月10日木曜日

司馬遼太郎『幕末』

東京都秋季高校野球大会決勝を観に行く。
チケット売り場は神宮球場外野方面にある。たどり着くとそこから長蛇の列。最後尾をさがして行くと外苑の銀杏並木の中ほどまで続いていた。何度かの折り返し点を過ぎ、ようやくチケットを手にしてスタンドに席を確保するまでおよそ2時間。もともと東東京にあった早稲田実、日大三の対戦は毎度のことながらスタジアムが埋まるのだが、今年はあの怪物清宮幸太郎をひと目見ようと詰めかけるファンも多い。
試合は一進一退の接戦だったが、もうひとりの怪物日大三の金成麗生の同点ホームランと逆転タイムリーヒットで勝負あったかに見えたが、粘る早実が9回裏バッテリーエラーで同点、清宮5つ目の三振の後、続く1年生で4番の野村大樹の劇的なサヨナラホームラン。来春の選抜出場をほぼ確実にした。勝った早実は明治神宮大会初戦で東海地区代表の静岡と対戦。またしても神宮はフィーバーするのだろうか。
明治神宮野球大会といえば学生野球一年の締めくくりの大会。高校生にとっては新チームで最初の全国大会であり、大学4年生にとっては学生時代最後の試合となる。大学の部では明治大の柳、星、桜美林大の佐々木などドラフト上位指名投手のピッチングに期待したい。
立冬を過ぎる頃に開催されるこの大会は観戦するには寒い。とりわけ点灯試合になる第4試合は寒い。今年はここにきて急激に寒くなったので観戦する人はどうか暖かくしてお出かけください。
司馬遼太郎の短編集。
暗殺をテーマにした12編。とはいえすべて暗殺される話ではない。桂小五郎のように明治の世まで逃げ切った者もいる。井上聞多のように殺されかけたが一命をとりとめた者もいる。死ねばいいというものではないということを司馬は語っているように思える。
ヒットが続いて無死一二塁になる。勢いが出る、押せ押せムードになる。ここで送りバントで一死二三塁にする作戦はいかがなものかと僕は常々思っているのです。

2016年11月7日月曜日

田宮寛之『新しいニッポンの業界地図 みんなが知らない超優良企業』

神奈川近代文学館で開催されている「安岡章太郎展--<私>から<歴史>へ」を見に行く。
目録冒頭の文章を寄せていたのは村上春樹だった。『若い読者のための短編小説案内』という著作の中で安岡章太郎にふれている。たぶん、そのせいだろう。
小説家をテーマにした展示は古い原稿や書簡、当時の写真などがメインになる。百万年前の動物の骨やオルセー美術館に行かなければ見ることのできない名画が飾れているわけではない。どちらかといえば退屈なイベントだ。
中学校時代の卒業アルバムや当時の校章(菊の花に中とデザインされている)がガラスケースにおさめられていた。「サアカスの馬」時代のものだ。
安岡は高知県出身。土佐藩の郷士の出であるという。私小説からはじまる彼の小説家人生は、晩年になって『流離譚』や『境川』など自らの家系をさかのぼる作品にたどり着く。この展覧会は安岡章太郎というひとりの作家の旅をテーマにしている。
さて。
名前もほとんど知られていない企業が実は世界有数の技術と実績をそなえている。そんな会社が日本にいくつもある。
ここ最近、とりわけIT分野の驚異的な発展で海外の製品やテクノロジーについ目が行ってしまう。日本の産業はどうなっていくのか、労働人口の衰退とともに日本という国はだめになってしまうのではないかと懸念することが多い。もちろんそういう分野もあるだろうけれど、まだまだ知られざる日本の力があるのだ。この本に紹介されている250社はまさに前途有望。ニッポンオリジナルで世界をリードする技術やサービスを持っている。
広告している企業がメジャーだという先入観にとらわれる、たとえば生産材や部品をつくっている会社に目がいかない。実は日本を今支えている、あるいはこれから支えていくであろうビジネスはまだまだ日の目を見ない場所で力をさらにたくわえているのだ。
などと思いながら、港の見える丘公園から麦田町まで歩いて奇珍楼でワンタンメンを食べたのだった。

2016年11月4日金曜日

村上春樹『女のいない男たち』


読書メモをはじめたのは1990年頃からだと思う。
ワードプロセッサ(ワープロ)からパーソナルコンピュータ(パソコン)に移行したのがたぶんそのあたりでMSDOSのテキストファイル(プレーンなテキストファイルを昔はこんなめんどくさい術語で呼んでいたんだ)に保存しておけば後々何かの役に立つかもしれないと思って読後のメモを書き残すようになった。書いたり書かなかったりしながらかれこれ四半世紀以上続けている。もちろんまだ何の役にも立っていない。
最近は疲れたときに焼肉が食べたいとか、温泉に行きたいと思うようにどうしても読みたい、これだけは読んでおきたい、プレスリーみたいに読ずにいられないという本も少なくなってきた。昔読んだ本をもういちど読んでみたいと思うし、昔読もうと思って何らかの事情で読めなかった本を読んでみたいと思っている。
スタインベックやカポーティ、村上春樹、スチーブンソンの『宝島』などがそうだ。
村上春樹は大半の小説を二回は読んでいると思うけれどもう一回読み直してみたい作家のひとりだ。
その前にまだ読んでいなかったこの本を手にとる。
文藝春秋に連載された何編かを読んでいたのでまったくはじめてというわけじゃないが、村上春樹はきちんと原稿に手を加える書き手なので、初出と変わっているところがあって興味深い。
「ドライブ・マイ・カー」では上十二滝という地名が単行本になってあらわれた(ちょっとした苦情が寄せられたらしい)。『羊をめぐる冒険』で鼠の別荘があった町だ。なつかしい。
「イエスタデイ」も木樽が歌う歌詞が省略されている。版権絡みの面倒を避けたようだ。
「女のいない男たち」に一角獣の像がある公園が出てくる。「貧乏な叔母さんの話」に登場する絵画館前の風景を思い出す。野球を観に行くときその像の前を通る。
今日、ひとり静かに誕生日を迎えた。またひとつ歳をとった。
それはまあしゃあないやろ。

2016年11月2日水曜日

司馬遼太郎『酔って候』

両国の江戸東京博物館で開催されている「よみがえれ!シーボルトの日本博物館」を見る。
二度来日を果たしたシーボルトが持ち帰った日本コレクション。これらはミュンヘンなどで何度か日本展として公開されたという。ヨーロッパの人々にとって日本を知るいいきっかけになったにちがいない(正直僕はさほど感激はしなかったけど)。
シーボルトが国外に持ち去ろうとしていたもののなかには、当時幕府のご禁制であった日本や蝦夷地の地図なども含まれており、やがて発覚する。いわゆるシーボルト事件である。このあたりは吉村昭の『ふおん・しいほるとの娘』に描かれている。
事件を明るみにしたのは間宮林蔵ともいわれている。同じく吉村昭の『間宮林蔵』にそんなエピソードが登場する。
司馬遼太郎の長編は少しお休みするとして、短編集を読む。
土佐藩主山内容堂、薩摩藩主島津久光、宇和島藩主伊達宗城、肥前藩主鍋島正直にまつわるエピソードを集めた短編集『酔って候』である。
表題作「酔って候」。山内豊信(容堂)は酒好きで片時も離さなかったといわれている。自らを鯨海酔候などと呼んでいた。てっきり江戸時代の人かと思っていたが、明治維新後まで生きた。
「伊達の黒船」は伊達宗城の命で蒸気船をつくった前原喜一(巧山)の話。手先の器用な職人がその器用さを認められ、宇和島城に呼びつけられる。長崎に遊学後、蒸気船を完成させ、その後士分に取り立てられる。
日本人は古くから海外から新しい技術を学び、持ち前の繊細な感覚でより高度な製品をつくってきた。いわゆる技術立国である。その縮図のようなエピソードが宇和島にあった。
薩摩に蒸気船建造の研究修業に出た帰り途、長崎に立ち寄った前原はシーボルトの娘楠本イネに会う。さまざまな日本の文化をコレクションして持ち帰ったシーボルトと西洋の叡智を収集しながら蒸気船を完成させた前原とのたったひとつの接点がここにあった。

2016年10月23日日曜日

田勢康弘『島倉千代子という人生』

小学生3年か4年の頃、社会の授業で品川区の地図をもらった。
授業中にひろげて、先生の言うこともそっちのけで、品川駅は港区にあり、目黒駅は品川区にあるなどという発見に興奮したものだ。当時あって、今なくなった駅もあれば当時なくて今ある駅もある。横須賀線の西大井駅はなかった。今の横須賀線は品鶴線と呼ばれる貨物専用線だった。
なくなったのは京浜急行の北馬場と南馬場。京浜急行が高架化されるにあたり統合され、新馬場となった。馬場という駅がないにもかかわらず、「新」が付いた。1976年。僕はもう高校生になっていた。
京浜急行は廃止された駅が多いという。立会川駅と大森海岸駅の間にあった鈴ヶ森駅もそのひとつ。戦時中の1942年に廃止されているからずいぶん昔の話だ。
新馬場駅を降りると第一京浜国道の向う側に品川神社、目黒川沿いに荏原神社がある。島倉千代子が地元商店街の「若旦那楽団」の一員としてアコーディオンを弾きながら歌っていた社である。旧東海道を中心に商店街が連なっている。今も若旦那が出てきそうな店構えもある。島倉千代子の生まれ育った家は荏原神社の裏手だったらしい。
この本を最初に読んだのは出版当初のことだから1999年くらいか。単行本は誰かに貸してそれっきりになっていた。電子版が刊行されていることを最近知り、再読する。
島倉千代子がヒット曲を連発していたのは50年代半ばから60年代前半だと思う。僕がリアルタイムで見聞きしていた当時のヒット曲は「ほんきかしら」や「愛のさざなみ」くらい。いずれも60年代後半、島倉は30歳になろうとしていた。若い流行歌手が次々にあらわれてヒット曲を披露していく中で島倉千代子はすでにベテランの部類に属する歌手だったと思う。それなのにいつまでもアイドルのような初々しい印象を与える不思議なキャラクターだった。
この本を読むとそんな彼女のひたむきさが少しわかるような気がする。

2016年10月19日水曜日

村上春樹『ラオスにいったい何があるというんですか?』

村上春樹の紀行文をたまに読む。
たいていの場合、彼は僕が行きたいと思う場所には行かない。
『遠い太鼓』のイタリアにはあまり興味がなかったし、『雨天炎天』のギリシャやトルコの辺境も行きたいと思ったことがない。ギリシャの修道院を巡る巡礼の旅はミュリエル・ロバン監督「サン・ジャックへの道」を彷彿とさせる苦難とユーモアに満ちた作品でそれなりに楽しめたけれど。
ウィスキーをテーマにアイラ島やアイルランドを旅する『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』もおもしろかった。ただシングルモルトのふるさとを見に行くためだけでスコットランドやアイルランドに行きたいかと言われたら、もっと他に行ってみたい場所はある。
じゃあ君はいったいどこに行きたいのかと面と向かって訊かれたら、それはそれで答えに窮してしまう。列車とバスでは到底たどり着けないフランスの美しい村とか答えるかもしれない。たとえばセギュレとか。あるいは非常に現実的な答だったら道後温泉かもしれない。
他人がどこに行こうが、自分がどこを旅したいかなんて結局本人の自由だ。もちろん村上春樹が僕の行ってみたかった村を訪れ、なんらかの文章を残してくれたら、それに勝るよろこびはない。だけど彼が旅する土地のほとんどに興味を持てない。だのになぜ僕は村上春樹(彼だけに限らないけど)の紀行文を読んでしまうのか。それが不思議だ。もしかするとまったく関心のない町や村が創作的な世界を感じさせてくれるからかも知れない。
テレビではじめて知る原住民の生活をつい見入ってしまう。そこに彼らに対する興味関心は皆無だ。でも今まで知らなかった世界に惹き込まれてしまう。それだけでじゅうぶん楽しめたりもする。つまりはそういうことなのかなと。
さて、この本はボストン、ポートランド、ニューヨークと僕の行きたい町が紹介されている。あと、熊本もいい。村上春樹の旅行記のなかでは屈指の一冊といっていい。