2014年10月13日月曜日

博報堂ブランドデザイン『ビジネスを蝕む思考停止ワード44』

星野仙一は好きになれない野球人のひとりだ。
闘将などと呼ばれているが、それはアンパイヤーに食ってかかったり、ベンチでなにかを蹴飛ばす程度のことであり、それは闘でもなければ将でもない。
昨年日本シリーズ進出をかけたゲームで田中将大を酷使した。日本シリーズも同様だ。連投すればファンがよろこぶ。そこで登板させる。こんな理屈もへったくれもない起用を平気でやってしまうのだ。素人野球ファンに迎合する采配(それを采配と呼べればの話だが)なのだ。もしこの場面で田中が打たれたら、明日はどう戦うのか。ふつう指揮官が考える当然の思考がまったく欠如している。情に流されているだけだ。勝負師だなんでとんでもない話である。
北京オリンピックのときもそうだ。コーチに山本浩二、田淵幸一といった“おともだち”を選んでいる。観光旅行じゃあるまいし、友だち連れてってどうするんだ。彼らが日の丸をかけた戦いにどれほど貢献できると思っていたのだろうか。
今季は腰痛で戦列をはなれた。このとき辞めておけばよかった。星野仙一が尊敬してやまない“御大”島岡吉郎は車椅子でグラウンドに出てきた。星野仙一が真の闘将であるならば、這ってでもベンチにやってきたにちがいない。
ただこうしたセオリーを度外視した温情指揮官が不要かといえばけっしてそうとは言い切れまい。中央の球団では通用しないやり方も案外地方都市では歓迎される。長嶋茂雄や王貞治が日本野球の真ん中の人であるならば、星野仙一はその周縁で輝く甘いおっさんなのである。
博報堂ブランドデザインの本は好きで新刊が出るのを楽しみにしている。この本は少し前に出版されていたが、電子版が出るのを待っていた。
ずいぶん長きにわたって思考停止ワードを使ってきたなと感慨深く反省しながら読み終えた。

2014年9月30日火曜日

山本周五郎『赤ひげ診療譚』

加山雄三が好きになれなかった。
かつての若大将も77歳。喜寿を迎えたという。好き嫌いというのはあくまで個人の印象なので、好きじゃないから悪口をここに書こうなどという気はさらさらない。ただ好きになれないのはたぶん好きになれない理由があるにちがいない。そのあたりを少し冷静に分析してみよう。
多くの歌手と共演するステージに立つと加山雄三はいつもその真ん中にいる。オムニバス的なステージであってもあくまで主役は俺だという態度で、当然のことのようにテレビカメラの中央に映るところが好きになれない。紅白歌合戦にもここのところ出場していないのはいつまでたってもオオトリを務めさせてくれないからではないか。こうした自分中心主義的な態度が好きになれないひとつのような気がしている。
それにこの人はあまりに恵まれ過ぎている。歌はつくる、絵は上手い、スポーツは万能、船は持っている、慶應を出ている。恵まれ過ぎているということはなんとつまらないことだろうか。もちろんこれにはひがみもある。やっかみもある。歌は地声をはり叫ぶだけでけっして上手いとは思わないが、岩谷時子をはじめとしてすばらしい詞に恵まれた。このいいところだらけな人生が好きになれないのかもしれない。
山本周五郎の『赤ひげ診療譚』が黒澤明の手によって映画化されたとき、保本登役は加山雄三だった。やはり育ちのいい青年だった。そんな身勝手な若者が新出(三船敏郎)から人間を学んでいく。何となくではあるが、加山雄三を応援したくなるストーリーだった。
先日、BSの番組で加山雄三のコンサートを放映していた。会場はやはりそれなりのお年を召した方たちでうめ尽くされていた。77歳になる加山雄三は80歳になったら光進丸で旅に出たいと語っていた。彼のポジティブな姿勢は彼の生きてきた時代に欠かせないものだった。そして多くの人々が勇気づけられ、前を向いて生きていこうと促されたのだと思う。
僕も少し前向きになった。

2014年9月29日月曜日

山本周五郎『季節のない街』

高校野球の秋は新チームの春である。
夏の選手権大会が終わって、大阪桐蔭が全国の頂点に立ち、最上級生はこれで引退。2年生と1年生による新チームがスタートする。各都道府県で地区予選がはじまり、11月には各地区の優勝チームが神宮球場に集まる。明治神宮野球大会だ。
東京では48のブロックにわかれて予選を行い、勝ち上がったチーム同士でトーナメントを行う。昨秋予選を勝ち上がった小山台が堀越、早実、日大豊山と強豪私立を破って8強に進出し、21世紀枠でセンバツ出場を果たした。記憶に新しいところだ。絶対エースのいた昨年のチームにくらべると投手力に難はあるものの、今年の小山台もいいチームだ。初戦で春季都大会優勝の成立学園に逆転勝ち、幸先のいいスタートを切った。惜しくもブロック決勝で関東一にコールド負けしたが、春に向けてさらに力をつけてくれるといい。
今年も10数校の都立校が本大会進出を決めた。今夏東東京8強の雪谷、昨夏8強の江戸川、西東京準優勝の日野など都立校の中にも名門校が生まれつつある。強豪私立と比べれば、練習量や環境など大きな差があるかもしれない。連戦になったときや僅差の試合になったときにその差を痛感することもあるが、手薄なメンバーで重厚長大な強豪校に挑んでいく姿は見ていてすがすがしい。
山本周五郎の『季節のない街』は黒澤明が映画化している。「どですかでん」である。貧民窟のような長屋で夢も希望も抱きようのない最底辺の生活を余儀なくされる人びと。だからといってドラマがないわけではない。もちろん小説だからドラマがないと話にならないんだけど。
周五郎の小説で一貫しているのは善の中にも悪がはびこり、かっこよさの中にもかっこ悪さがしみついているといった確固たる人間観だ。ひっくり返していえば、悪の中にも善があり、かっこ悪さの中にかっこよさがあるということで多くの読者がその登場人物に惹きつけられていく秘密がわかる気がする。
強豪私立校の圧倒的な勝ち方も好きだし、公立校の食い下がるような勝ち方も好きなのだ。

2014年9月28日日曜日

小林雅一『クラウドからAIへ』

お彼岸というので南房総まで行ってきた。
距離もあるので彼岸に墓参りをする習慣はなかったのだが、昨年父が亡くなってからお盆だけではさみしかろうと出向くようになった。それまで、つまり一昨年のことはわからないが、今年は墓へ行く道々にこれでもかというくらい彼岸花が咲いている。大量発生している。あちこちで真っ赤に咲き誇っている。地元に住む叔母の話でもこんなに彼岸花が咲いた年は覚えがないという。
人工知能というと膨大な知識や情報を組み込んだ巨大なコンピュータを連想してしまう。
ところが今はクラウドだのビッグデータだのといった技術革新が人工知能の飛躍的な進化に貢献している。つまり人工知能というハードウェアそのものに膨大な知識や情報を取り込んでおかなくてもいい。ネットワークにアクセスできる手段さえあればハードウェアはPCでいうシンクライアント状態でいいということだ。頭脳を持ち運ぶ必要はなく、必要なときにどこかから手に入れればよい。
それと人工知能というと人間の脳のような記憶の蓄積であると考えること自体が間違えだった。
すでにGoogleの検索や翻訳で使われている確率論的な処理が人工知能の主流の考え方になっている。膨大な辞書データを保有し、逐一訳語をさがすというのが僕が思い描いていた翻訳ロボットのイメージだった。そうではない。英語と日本語の、大量の文章をコンピュータに流し込む。ある文章のなかで、そのひとつひとつの単語や句、あるいは文章そのものがどのように訳される確率が高いか。その確率の高い訳語が提供される。
無人自動車でもこの原理は同じだという。センサーが読み取った情報のうち、どのような動きを選択すればぶつからないかという計算が働くのだという。これも確率の問題。いちばん確率の高い行動を選択する。もちろん事故を起こす可能性がゼロとはいえないが、すべてが確率論的に優位な選択をするので、データが蓄積されればされるほど精度が上がる。翻訳だってありとあらゆる事例がビッグデータ処理されれば、誤訳の確率は減っていく。
AIの未来は空恐ろしいのである。

2014年9月8日月曜日

吉村昭『アメリカ彦蔵』

8月の終わりころからいくらかしのぎやすい日が増えた。
それでもやはり季節の変わり目のせいだろうか、“天候不順”という言葉がよく似合う空模様が続いている。局地的な豪雨、土砂災害などというキーワードが新聞、テレビのニュースやネット上を駆けめぐっている。各地に雨が降っているのはメディアを流通しているこれらキーワードが原因となって大気の状態を不安定にしているからではないだろうか。
8月の終わりに名古屋に行ってきた。2010年4月以来である。
以前からいっしょに仕事をさせていただいた(シニア)クリエーティブディレクターOさんの大送別会に出席するためである。一次会は2時間という制約の中で訪れた200人近くがひとことずつあいさつをするという強引な企画あり、加えて動画やスライドの上映があり、プレゼントの贈呈ありの盛りだくさん。日頃からてきぱきと打合せを仕切るOさんの送別会に相応しい進行だった。しばらくぶりに会う人も多く、会は二次会、三次会と深まっていき、ホテルに戻ったのは3時過ぎだった。
翌日名古屋駅ではやめの昼食を摂った。高校時代の友人がすすめる(というか彼が社長だ)ひさだ家という店でおばんざい弁当をいただく。
品川で新幹線を降り、ふと京浜急行に乗りたくなった。先日読み終えた吉村昭の『アメリカ彦蔵』を思い出したのだ。
横浜のひとつ手前の神奈川駅で下車すると第二京浜国道沿いの小高い丘の上に本覚寺という曹洞宗の寺がある。播磨の水主彦太郎が漂流の後、アメリカにわたり、その後祖国に戻って公使ハリスとともに赴いた場所である。開国当時この寺はアメリカ領事館となっていた。
この寺に領事館が置かれたのは神奈川宿と横浜村を結ぶ渡船場が近いことと、海を見渡せる高台にあったからだと言われている。もちろん今となっては海などビルの向こうにわずかにのぞく程度である。
新幹線のなかで『生麦事件』を読みはじめた。こんどは生麦を歩いてみよう。

2014年8月25日月曜日

河尻定『東京ふしぎ地図「幻の計画」を探る』

甲子園の決勝は三重対大阪桐蔭。
壮絶な打ち合いになるかと思っていたら、僅差のゲームになり、観ていておもしろかった。大阪桐蔭が4-3。
大阪桐蔭は今大会優勝候補の一角だったが、昨秋の大阪大会で履正社に敗れ、近畿大会にも出場できなかった。地区大会に進出できなかったということはセンバツにも出場できなかったということだ。そのチームが春になって力をつけて、春大阪大会、近畿大会、夏予選を連覇し、ついに全国制覇したというわけだ。
三重は昨秋から好調で、明治神宮大会やセンバツでこそ初戦敗退しているが、秋春夏の県予選と秋春の東海大会すべてに優勝していた今大会のエリート校。大阪桐蔭に挑む三重、というより、三重に挑む大阪桐蔭という図式の方がしっくり来る。
昨秋神宮で日本文理と沖縄尚学の“打ち合い”を観ていたので、今年も7~8点をひっくり返すような試合を期待していた。期待通りの試合が何試合かあった(テレビのないところに出かけていたのでラジオでしか聴けなかったけど)。正直いって、日本文理と沖尚の再戦は観たかったね。
これで夏も終わり。
東京では月末の30日に秋季大会の組合せ抽選が行われ、ブロック予選は9月6日から。勝ち進んだ24校によるトーナメントは10月11日にスタートして11月9日決勝。あっという間に秋が来て、明治神宮大会はまた寒空の下で行われる。
『東京ふしぎ地図』は前にも読んだことがある。今回の『「幻の計画」をさぐる』では、奥多摩を第二の箱根にする計画や丸の内~新宿弾丸道路計画、仮駅のまま定着した西武新宿駅などかつてあった「計画」がおもしろい。子ども時代の夏休みの目標のようにおもしろい。
1951年に1年だけ稼働した三鷹の東京スタディアムについても紹介されている。ここは小関順二『野球を歩く』で武蔵野グリーンパークとして紹介されている国鉄スワローズのホームグラウンドだ。
まあそんなこんなで秋以降もおもしろい野球の試合を観たいものだ。

2014年8月21日木曜日

佐々木紀彦『5年後、メディアは稼げるか』

8月のお盆は南房総で過ごす。
今年は新盆ということでいつもよりはやめに出て、いつもより長く滞在した。
南房総の父の実家は就学前から夏を過ごす場所だった。7月も末になると祖父が上京してきて、姉と三人で両国駅発の列車で千倉に向かう。冷凍みかんを食べながら、何時間もかけて旅をした記憶がある。たいてい漫画雑誌を一冊持っていく。2週間もするともう読むところがなくなる。
砂浜までは歩いて5分ほど。子どもの頃はもっとずっと遠かった。浜で泳いだり、磯で貝を採って日を過ごした。この地方で「しただめ」と呼ぶ小さな巻貝である。茹でて針などでくるくるっと巻きとって食べる。美味だ。
よく東京より涼しいんじゃないかと訊かれる。昨今の猛暑の日はどこにいたって暑いが、朝晩心地いい風が吹く。ただ、風は塩を含んでいるためか重たい。東京に戻ると風に質量がなくなるのを感じる。
新聞や雑誌、テレビなどのメディアがデジタルにのみ込まれると言われ、もう10年近くなるだろうか。かろうじて紙媒体の新聞も雑誌も存在してはいるけれど、それ以上にウェブメディアの進展がめざましい。著者は「東洋経済オンライン」の編集長としてPVを飛躍的に伸ばしてきた。新聞や雑誌のデジタル化、ウェブ化はあちこちですすめられているが、思いのほかうまくいかないことが多い。この本にはデジタルメディアに必要なものを従来メディアと対比させながら、丁寧に説き明かしている。
この本の中で「ナナロク世代」という1976年前後に生まれた世代が紹介されている。ネットと紙の世界、固定電話と携帯電話の世界、昭和と平成の世界の双方を体で知っている世代だという。その10歳くらい下までが「両生類」、さらにその下、26歳以下が「ニューメディア世代」、38歳以上は「オールドメディア世代」と著者は分類している。
オールドメディア世代の僕がこの本のよさを伝えてもなかなかうまく伝えきれない。松岡正剛の千夜千冊でも参照していただく方がいいだろう。

2014年8月11日月曜日

小関順二『野球を歩く』

台風の影響で開会式を含め二日間順延された夏の甲子園が今日からはじまった。
開幕試合の龍谷大平安対春日部共栄は1対5。マスコミで有力校と騒がれていた春センバツの優勝校が大会初日に姿を消した。ピッチャーは立ち上がりがだいじだとよく言われるが、まさにその立ち上がりを果敢に攻めた結果だろう。
高校野球を予選から観ているといろいろな球場に足を運ぶ。秋季、春季のブロック予選などは当番校のグラウンドを使用する。昨年は岩倉高校のグラウンドで観戦した。当番校の部員たちが丁寧に慈しみながら整備する姿は気持ちのいいものだ。
夏の大会は神宮球場だけでなく、多くの球場が使用される。西東京の球場はあまり行くことはないが、東東京の試合も府中市民や明大球場で行われることがある。東東京の会場となる神宮、神宮第二、江戸川、大田は人工芝で、たまに駒沢球場のような土のグランドで野球を観ると少しなつかしい。
東京だけでもずいぶんたくさんの球場があるが、これを全国的、歴史的に見てみると実に多くの球場が生まれ、そしてなくなっていった。武蔵野市の武蔵野グリーンパーク球場はわずか一年、深川の洲崎球場はわずか三年稼働したに過ぎない。球場めぐりを通じて日本野球の歴史を旅するというこの本のねらいはたいへん興味深い。
思い返せば、子どもの頃にあって、今はない球場がいくつもある。川崎球場や東京球場、日生球場、西宮球場、平和台球場がなくなった。大阪スタヂアム、後楽園球場、ナゴヤ球場はドーム化された(ナゴヤ球場は中日2軍の本拠地となっている)。学生時代にはまだ早稲田に安部球場もあった。そう考えるとアメリカのフェンウェイ・パークやヤンキー・スタジアムのように地域に根差した古い球場は日本にはさほど多くなく、歴史の浅い国だと言わざるを得ないだろう。
それでもこの本を通じて、野球を日本に根付かせようと努力した足跡を知ることができる。ちょっとした野球の旅を味わえる。『野球を歩く』というタイトルはまさに言い得て妙である。

2014年8月5日火曜日

新井静一郎『広告のなかの自伝』

Oさんはある広告会社のCMプランナーである。
いっしょに仕事をするようになったのはここ2~3年のこと。僕みたいに50半ばのCMプランナーとちがって、彼女のアイデアは新鮮で幅広い。九州の芸術系の学部で学んだという。その豊かな才能は東京の美術系大学出身者に勝るとも劣らない。
僕は最初の打合せでOさんの出す案に何度も感服した。彼女は自分なりに有効と思われるメッセージをまず提示し、その表現を模索する。しかも多角的に。
広告クリエーティブに携わるものとしてはこれは別段難しいことではない。ただ彼女の場合、思いつきとか、思い浮かびというレベルではなく、広告制作者がひととおりトライして検証しておかなければいけない方向性を確実にカバーしてくるのだ。
アイデアメーカーとしてのOさんの力が優れているのは言うまでもないが、それ以上に彼女は優れたクリエイティブディレクターに鍛えられてきたことがわかる。才能に恵まれ、しかもそれを鍛錬する場に恵まれた。彼女も素晴らしいが、彼女の周囲で支えてきた先輩たちも素晴らしい。
以前「電通報」の「電通を創った男たち」という連載記事で取り上げられたのが、広告クリエーティブの「水先案内人」新井静一郎だ。
僕たちは生まれたときから広告があって、テレビコマーシャルも流れていたから、別段不思議に思うこともなく広告制作の仕事をしているけれども、広告というものが世の中でさほど必要とされるものではなかった時代があった。広告を経済活動にとって重要な行為として認めさせ、それをビジネスにまで高めていったのは吉田秀雄をはじめとした先駆者たちのおかげである。そして広告宣伝の技術をより高度にしていった技術者がいる。『広告のなかの自伝』は新井静一郎自身の戦前から戦後にいたる広告クリエーティブの発展に貢献してきたその足跡が紹介されている。
Oさんは今いる広告会社を辞め、アニメーションのキャラクター開発にチャレンジするという。
新たなフィールドでどんな自伝を描いていくのだろうか。たのしみである。

2014年7月28日月曜日

大岡昇平『ながい旅』

先日カエルの話をした。その続き。
梅雨時だったから仕方のないことだが、雨が続いてカエルが頻繁に姿をあらわすようになった。長女は誰かが迎えに行かないかぎり、玄関まで近寄ろうともしない。家の前に着くと電話をかけてよこす。次女はどちらかといえばカエルがいようがいまいが見ないようにすれば平気だといって普通に帰ってきていたが、再三見かけるようになって何とかならないかと言ってきた。
というわけで捕獲作戦司令官にして直接処理班班長に押しだされるように拝命された次第である。
子どもの頃ならいざ知らず、もうかれこれ50年近くカエルに触れていない。直接捕獲するのは避けたい。ビニールの手袋をすればいいかというとそれも直接触るのとなんら変わりはない。少なくとも精神的には同じだ。カエルに触れることなく捕獲し、安全な場所に逃がすというのが司令官が自らに課した課題である。
実際のところ捕獲はさほど難しくなかった。傘の先で地面を叩いてカエルをおびき出し、バケツに誘い込む。そしてバケツを下げて、近所の池のある公園に放しに行く。任務はあっけなく終了した。
カエルはバケツに捕獲されると最初だけ前脚を伸ばして逃亡をはかろうとする。何も処刑しようというつもりは毛頭ないのだが、なんて潔くないやつなんだという印象を受けた。B29の(またその話になるが)搭乗員処刑に関して上官として全責任を追うと法廷で戦った元第十三方面軍司令官兼東海軍司令官岡田資中将のようになぜ堂々としていられないのだカエルよと思わず声をかけてしまいそうになった。
吉村昭の『遠い日の戦争』が逃亡する戦争犯罪人なら、大岡昇平の『ながい旅』は終戦後法廷でも戦い続けた戦争犯罪人の記録である。その後「雨あがる」の小泉尭史が「明日への遺言」というタイトルで映画化していることも恥ずかしながら最近知った。
カエルを捕獲した翌日、もう一匹、そしてその二日後もう一匹を捕獲、釈放した。三匹もいたのだ。

2014年7月27日日曜日

山本周五郎『さぶ』

江東区の塩浜に映像の編集スタジオがある。
東京メトロ有楽町線の豊洲駅、東西線、都営地下鉄大江戸線の門前仲町駅、同じく東西線の木場駅、JR京葉線の越中島駅、どの駅からも適度に遠い。徒歩にして15分ほどだろうか。普段は木場から歩くことが多い。駅前にイトーヨーカドーがあり、109木場というシネマコンプレックスがあり、ちょっと寄り道したいときには好都合だ。門前仲町から商店街や船宿の前を通りながら歩くのもわるくない。豊洲から歩けば、運河をわたる風が心地いい。距離があるということは楽しみもあるということだ。
時間のあるときは有楽町線の新富町駅や月島駅からも歩いてもいい。
新富町を起点にして、佃の渡し跡のあたりから佃大橋を渡り、佃に出る。豊田四郎監督「如何なる星の下で」で三益愛子はこのあたりでおでん屋を営んでいた。住吉神社の前を通って石川島を隅田川沿いに歩く。かつて人足寄せ場のあったあたりだ。
最近になって、ようやく山本周五郎を読むようになった。
『さぶ』の親友栄二は無実の罪でこの地に送られる。災難に遭いながらもやがて人間不信から脱する。彼を苛みつづけた復讐心から脱却し、人間らしさを取り戻す。
石川島から向こう岸には湊、入船、霊岸島が見わたせる。愚直なさぶは対岸から定期的に栄二に会いにきたのだろう。ほどなく相生橋に出る。何度か通った道ではあるが、『さぶ』を読む前と読んだあとでは景色がずいぶんちがって見える。
相生橋を渡るとそこは越中島だ。東京商船大(今は東京水産大と統合して東京海洋大学という)の構内を散歩する。古めかしい校舎がなつかしい。このあたりの住所は越中島だが、その先にある浜園橋をわたると塩浜。めざすスタジオはそこにある。
さらにその先には越中島貨物駅や東京メトロの深川車両基地などがある。東京駅から地下を走り続けていた京葉線も地上に姿をあらわす。話は尽きないのだけれど、長くなる一方なのでつづきはまたそのうちに。

2014年7月23日水曜日

吉村昭『遠い日の戦争』

3~4年ほど前、近隣の小学校の建て替え工事がはじまり、その頃からわが家の庭にヒキガエルが棲みつくようになった。
これはあくまで推測の域を出ないが、小学校の池に棲んでいたカエルが行き場所を失い、バス通りをわたって引っ越ししてきたのだろう。こればかりは誰にたしかめるわけにもいかないので、勝手に思い込んだままにしている。わが家に池があるわけでもなく、カエルが棲むにはさぞ不便だろうと思うのだが、なぜだか居ついてしまった。住み心地がよかったのかも知れない。もちろんこれも推測の域を出ない。
カエルがいようがいまいが普段どおりの生活を送るぶんには不自由はない。柱をかじるわけでもなく、ひと晩じゅう鳴きつづけるわけでもない。いつもは草の陰にいて、おそらくは虫でもつかまえては食べでもしているのだろう。いたって目立たぬ人生(蛙生)を送っている。
ところが雨が降ったりすると活発に動きまわる。そんなタイミングで長女が帰宅したときは大騒ぎになる。長女は梨木香歩を愛読するわりには生き物に対する想像力に欠けている。こっちも驚くだろうが、向こうも驚いているであろうことがわからない。わかろうともしない。
その昔、米軍がB29で日本の各地を爆撃した。そのうちの何機か日本の対空砲に撃ち落され、その搭乗員は捕虜になった。終戦間近の空爆の標的は軍事基地や軍需工場ではなく、無差別爆撃だったという。日本軍はそんな一般市民をまきこんだB29の搭乗員を処刑した。それも斬首という恐ろしい手段で。その処刑に関わった者たちはB・C級戦争犯罪人として連合軍にとらえられ、裁判にかけられ、その多くが処刑された。
このカエルもおそらくは米兵処刑に関わったのだろう。名前を変えて、逮捕からのがれるためにわが家に逃亡してきたのだ。
吉村昭の『遠い日の戦争』では米兵捕虜を処刑した清原琢也は逃亡の末とらえられ、戦犯として断罪される。
戦争を知らない子どもたちは、終戦後もずっと尾を引いた戦争犯罪というもうひとつの戦争をこの本で知った。

2014年7月20日日曜日

小林弘人『Webとはすなわち現実世界の未来図である』

南房総に行ってきた。
以前書いたかもしれない。またこの地域に限った話でもないのかもしれないけれど、南房総の鉄道の旅は衰退しつつある。
特急さざなみ号やわかしお号の本数が極端に減ったというわけでもなかろう。特急列車は朝晩を中心に何本か走っている(かつては夏休みになると夏季ダイヤといって、臨時の特急列車が増発された)。
房総方面は道路がよくなった。アクアラインの開通で内房方面が便利になった。またアクアラインを起点にして鴨川、勝浦方面も便利になっているにちがいない。東京駅でバスに乗る。空いていると2時間半で南房総の千倉町や白浜町に到着する。もちろん連休最終日の上り、なんていうとちょっとした渋滞に巻きこまれる。アクアラインによってもたらされた便利さは誰にも平等だからだ。4~5時間かかることだってある。それでもバスが鉄道以上の人気を誇るのはやはり乗降が楽なことと、値段だろう。時間通りに行かない移動はあまり好ましくは思わないが、それを上回る利便性と安さがバスにはあるのだ。
Webが現実世界の未来図とは実にうまく言ったものである。リアルはどんどんバーチャル化している。「これコピーして関係スタッフに配っておいて」なんて言い方をせず、「これシェアしておいて」などと言って、複写機でコピーなんかしないでファイルをメールに添付する。古本屋や図書館に出向いて資料を探したりなどしない。センスのいいビジュアルアイデアを収集する人はグラフィックデザインのセンスを持つ人ではなく、検索ワードをたくみにあやつれる人だ。
こうして考えていくとこれからのビジネスのヒントはネット上にあるといえるかもしれない。ただアイデアというのは組合せであるから、Webを駆けずりまわっても答は自分でつくるしかないだろうけど。
この本は実によくネット社会がリアル社会をリードしてきたかを整理している。忙しくてクリス・アンダーソンや佐々木俊尚を読む暇がないという人もこれなら読めると思う。
ということでこのあいだ無事、父の一周忌を南房総の町で済ませてきたのだ。

2014年7月11日金曜日

大岡昇平『幼年』

渋谷という町はあまり好きではない。
通学や通勤で通りかかる場所でもなかったし、若い時分から若者の町などというものに興味がなかった。人が大勢込み合う場所が好きじゃないのかもしれない。なかでも好きになれないのはJRのホームの狭さだ。
ターミナル駅としての渋谷は非常によくできた駅で銀座線、、東横線、井の頭線への乗り換えがループ状になっていてスムースに行くよう計算されたつくりになっていると聞いたことがある。それにしても山手線のホームは狭い。
以前の渋谷駅は今の埼京線のホームのあたりにあったのが、その後玉電の発着する現在地に移転してきたという経緯があるらしい。あとから無理矢理こじ開けた駅なのかもしれない。たしかに現在の渋谷駅のまわりは東急関係の建物が圧倒的に多い。
渋谷には地形的にも注目度の高い駅である。青山まで地下を走っていた電車が地上3階にあられる。その名のとおり谷なのだ。宮益坂、道玄坂、金王坂など坂道の道幅も広いので窪地であることがより実感される土地だ。東横線の発着も地下になった。渋谷の谷はどんどん深く削られる。
幼年期から少年時代を渋谷で過ごした大岡昇平の『幼年』にはその川沿いの町が表情豊かに描かれている。
大岡昇平が生まれたのは牛込新小川町、飯田橋駅の近くだそうだが、その後麻布笄町、広尾羽根沢町、氷川神社近辺、渋谷駅近辺、宇田川町、松濤と住み移っている。いずれも渋谷に近く、川が近い。笄川、いもり川など台地から次々と渋谷の低地に集まる。
渋谷川は新宿御苑を源とする穏田川が代々木の方から流れてくる宇田川と合流した後、現在の渋谷駅の地下を流れ、国道246号線を越えたあたりで開渠となる。恵比寿駅付近まで山手線と並行して流れ、広尾から古川橋、一の橋を通り、浜松町で海へと注ぐ。麻布辺りでは古川、芝の方では金杉川とも呼ばれるらしい。都心を流れるこの川は山の手にみごとな下町を形成している。
渋谷の町は好きではないが、渋谷川は気に入っている。

2014年7月5日土曜日

向田邦子『霊長類ヒト科動物図鑑』

南青山のスペースユイで開催されていたあずみ虫の個展「物語のための絵」を観にいった。
あずみ虫はブリキの板だか、アルミの板だかをはさみで切って着彩するというちょっと変わったイラストレーションを描く作家である。陶器に着彩したブローチなんかもつくっている。僕は秘かにブリキのイラストレーターと呼んでいる。
紙のように人のいうことを聞いてくれる素材じゃないから、まずカタチがゴツゴツというかカクカクしている。金ばさみで切りながら、ああここで一息ついたんだろうなというあたりが見ていてわかる。子どもの工作みたいだというとちょっと安易に聞こえるかもしれないが、その輪郭は鉛筆や画筆では絶対再現できない唯一無二のありがたさが感じられる。ゾウだのキリンだの鳥だのが、あずみ虫オリジナルの世界からやってくるのだ。
それでいてそのブリキに描かれる絵が繊細で息をのむようかと言われれば、まったくそんなことはない。チャッチャッチャッと筆を走らせているのだ(本当はそうじゃないかもしれないけれど少なくとも僕にはそう見える)。そうやってつくられたイラストレーションは昆虫の標本ケースのような箱におさめられ、展示される。僕らはガラス越しに作者の世界をのぞき見る。
このイラストレーションの素晴らしさは、何より楽しそうなことだ。作者、つまりあずみ虫は口もとに笑みを浮かべながら、工作好きな少年のようにブリキを切っているにちがいない。お絵描きの時間が大好きな少女のように色を塗っているにちがいない。できあがったイラストレーションをドールハウスに並べるように、蝶の標本をレイアウトするようにだいじにだいじにケースにしまう。実に楽しそうなアトリエの風景が目に浮かんでくる。
スペースユイの窓際のテーブルに向田邦子『霊長類ヒト科動物図鑑』の文庫本が置いてあった。よく見ると新装版とあり、表紙のイラストレーションがあずみ虫だった。以前読んだときはたしか村上豊の絵だったと思う。その絵も素敵だったけど、あずみ虫のイラストレーションもこの本によく合っていると思う。

2014年7月3日木曜日

松本清張『砂の器』

原作のなかの今西刑事に会ってみたかった。
そもそも映画はあまり観ない方だったが、どちらかといえば原作を読んだあとで映画を観るケースが多かった。野村芳太郎監督「砂の器」に関していえば、映画を何度か観ていたものの、松本清張の原作は読んでいなかった。
原作を知っていると映画を観て、ここはちがうなとか、この登場人物はイメージとちがったななどと気づくのだが、今回はその逆だった。ここは映画とちがうぞなどという読み方をした。
もう少し古い作品、たとえば幸田文の『流れる』『おとうと』、林芙美子の『放浪記』あたりは映画も原作に忠実だ。
「砂の器」では時代背景を変え、構成をシンプルにしている。映画の時代の刑事は移動に新幹線を使う。和賀英良は音楽家だが原作ではエレクトロニクスを駆使する前衛芸術家。映画ではクラシックの天才ピアニストにして作曲家という設定だ。映画では登場人物も絞られている。前衛演劇の仲間も評論家も登場しない。事件も蒲田操車場での殺人事件だけだ。
もちろんここで映画と小説の優劣を競う気持ちはさらさらない。映画は映画ですぐれた脚本が書きあげられているし、小説は小説で重層的かつ複雑に事件解決への迷路をさまよう。今西刑事は錯綜する。しかし舞台が映画であろうと小説であろうと今西に与えられた役割ははっきりしている。今風にいえば「ブレがない」のだ。おそらく映画の脚本担当者もこの一点だけは譲らなかったのではあるまいか。丹波哲郎というキャスティングも絶妙だ。
映画もまだご覧になっていない、小説もまだお読みになっていない、そんな方もあるかと思うのでこれ以上つっこんだことを書いてはいけないと思うのだが、ひとつだけ、映画が小説を凌駕しているシーンがある。脚本スタッフは和賀英良の父、本浦千代吉を生かしておいた。そして今西と千代吉を対面させた。
このエピソードがなければ、僕はそれほどまでに号泣しなかっただろう。

2014年6月30日月曜日

山本周五郎『青べか物語』

梅雨時は町歩きもままならない。
じとじとと降りつづける雨なら仕方がない。あきらめもつく。ついさっきまで晴れていた空模様が急転し、豪雨になったり、雷雨になったり。ところによっては雹が積もったりする。大気の状態が不安定だと気象予報士は告げる。不安定とは具体的にどういうことなのか。よく理解できないまま、今日は大気の状態が不安定らしいよ、などと知ったかぶりをしたりする。
いずれにしても最近歩いていない。このことは雨水が入りこみやすい靴を履いていることと無関係ではない。
山本周五郎ファンはまわりに多くいた。
折があれば読んでみようと思っていたが、なかなかチャンスは訪れなかった。時代小説をさして好まないせいもあった。
以前江戸川に浮かぶ東京都区内唯一の島といわれる妙見島を訪ねた。島といっても何があるわけでもない。食品工場とヨットハーバー、そして小さな社がひとつ。往き来するトラックが砂埃を巻き上げていた。
島の対岸、江戸川左岸には釣り宿や釣り船が見える。そういえばこのあたりを舞台にした小説があったと思い出した。何年も読もうと思って忘れ去られていた記憶のすきまの一冊がひょんなことから浮かび上がってきたのだ。
東京の町が肥大化してきたおかげでかつて近郊にあった田舎が呑み込まれ、失われていく。大岡昇平の渋谷や井伏鱒二の荻窪はまさに東京近郊の田舎だった。浦安(ここでは浦粕)は東京的な集落ではまったくなく、むしろ房総半島の漁師町に近い。おそらくの手前の葛西や砂町あたりもそんなのどかな町だったのではあるまいか。
まだ観てはいないが1962年に新藤兼人脚色、川島雄三監督で映画化されている。主演は森繁久彌。ろくでもない人間の、ろくでもなく人間臭いドラマにちがいない。沖の百万坪に巨大リゾートができるなんて夢見る者さえいなかった頃の話だ。
その後浦安の町も歩いてみた。『青べか物語』の世界が市の資料館に再現されていた。

2014年6月27日金曜日

鳥飼重和監修『そのつぶやきは犯罪です』

2014サッカーワールドカップブラジル大会は一次予選が終わり、ベスト16が出そろった。
さほどサッカーに強い関心はないのだが、世界各地に数多あってしのぎを削っているクラブチームのプレーヤーたちが国別に整理され、32チームで世界一を決めるというワールドカップのシンプルな構造が気に入っている。もちろん日本の選手にもがんばってもらいたかったが残念な結果に終わってしまった。
サッカーは19世紀にイングランドのパブリックスクールがその発祥といわれているが、またたく間にヨーロッパにひろがり、アメリカ大陸、アフリカ、アジアへと伝わった。サッカーの伝播に関してはヨーロッパ列強が植民地を持っていたのが一因と思われがちだが、必ずしもそれだけとは限らないようだ。アルゼンチンやブラジルなどは19世紀はじめには独立している。それに植民地政策によって世界にスポーツが伝えられるのであれば他のスポーツだってもっとさかんになってもおかしくない。世界各地でサッカーだけが国じゅうを上げて盛り上がるにはそれなりの理由があるのだろう。たとえばルールがシンプルであるとか、特別な道具が要らないといったこともスポーツ普及には欠かせない要素だ。
ふだん野球ばかり観ている。4年に一度、シンプルなサッカーの大会を観るとサッカーの大いなる歴史と人を惹きつけてやまない魅力に圧倒される。
ソーシャルメディアでは日本敗退によって肯定派否定派にわかれて打ち合いをしているみたいだ。監督・選手に非難をぶつけるものもあれば、彼らをねぎらう声もある。協会の姿勢や指導力に疑問を投げかける意見もあれば、実力以上の期待感をあおったマスコミを責める人もいる。幸いにして僕は熱狂的なサッカーファンでもないのでなるほどなるほど、そういう見方もあるんだな程度の態度で接している。どっちを向いても、そうだよね、で済ませている。
この本はソーシャルのつぶやきを法律的な観点から切って見せている。侮辱罪とか名誉棄損罪に該当するつぶやきなんて案外簡単に、誰にでもできるんだね。

2014年6月24日火曜日

吉村昭『戦艦武蔵』

Kは以前同じ職場にいていっしょにテレビコマーシャルの企画をしていた。今はアーティストとして活躍している。
昨年に続いて今年も個展を開いたので見に出かけた。ほぼ昨年展示した作品でそのことを指摘すると額縁を新たにつくったのだと言っていた。どうも芸術家の感性というものははかりがたいものがある。
広告会社HでクリエイティブディレクターをされていたIさんもKの個展に足を運んでくれたそうだ。Iさんは、CMプランナー時代からKの卓抜した才能に目をみはっていたひとりである。IさんとKの話でこんど僕も入れて3人でご飯を食べようという話になった。Iさんが自発的に幹事を買って出てくれて、スケジュール、場所を調整してくれて先々週それが実現した。
実をいうとIさんと僕とKはそんなにたくさんの仕事をいっしょにしたわけでもないし、長きにわたって同じ仕事をしてきたわけでもない。ほんの2~3本、お付き合いしただけ。さらに厳密にいえば、僕たちのなかで共通して思い出に残っている作品は1本に過ぎない。それなのに話が尽きないのだ。
還暦を過ぎたIさんは小さなメモ帳にボールペンで話題になっているキーワードを書き記す。
「こうしないと最近次から次へと忘れちゃうからね」
Iさんは広告会社をリタイアされた後はフリーランスとして広告クリエイティブの仕事にたずさわっている。広告づくりが根っから好きな人なのだ。
『戦艦武蔵』を読む。つくられる戦艦も巨大なら、ストーリーも壮大だ。
戦闘機中心の空中戦にシフトしていく戦争を予期しながら、どうしてこのような時代遅れの巨艦がつくられたのか。太平洋に沈んだのは4年という無駄な歳月と浪費された労力だった。カフカの「万里の長城」を思い出した。
Kはまた別の場所で個展を開いている。来月そこで現代美術のキュレーターの何某氏とトークショーをするという。Iさんも僕も行く予定だ。尽きない話には続きがある。

2014年6月22日日曜日

沢木耕太郎『深夜特急』

日本は島国だから、国境を越えるというイメージをなかなか描きにくい。
飛行機に乗って、目が醒めたら異国。国境の絵を描かせたらイミグレーションのカウンターだった、なんてことも多いのではないだろうか。
2000年にテキサス州サンアントニオから国境を越え、メキシコに渡った。国境は一面の草原でイミグレーションの建物のほか目立ったものはなく、パスポートを見せて、ひとことふたこと英語でのやりとりがあり(もちろんそれは同行者が話しただけで僕は意味もわからず聞いていただけだが)、それから橋を渡ってメキシコに入った。アメリカとメキシコの国境はリオグランデという川が流れているくらいの知識はあったので、おそらくこの橋の下には川が流れているのだろうとは思ったが、橋の下も周囲も丈の長い草に覆われて、川の流れを確認するには至らなかった。いずれにしても国境の川というにはちょっとものさびしい印象だけが残った。
国境を越えてしばらくすると町があらわれ、商店の看板がマルチネス、とかゴンザレスだとか原色っぽい派手な名前に変わり、しかも日に焼けたせいか、埃にまみれたせいか、少し色褪せていた。ここはまぎれもなくメキシコなんだと思ったのはそのときだ。
20代の沢木耕太郎は香港、マカオを皮切りにスペイン、ポルトガル、そしてパリ、ロンドンまで幾多の国境を越えてきた。それも主として陸路で。バスの旅もまんざらでもないじゃないか。
この本が刊行されたのは86年。当時の同僚のコグレ君が夢中になって読んでいた。はやく続きが読みたいと言っていた。僕もずいぶん惹かれはしたが、当時は他に読みたい本があったか、そもそも本を読むゆとりなんかなかったか、読みたいときに読まないと本はその逃げ足をはやくする。
でもまあ、この歳になってはじめて読んだというのもわるくない。こんな本を20代で読んでいたら、いったい今ごろどこにいて何をしているかもわからない。

2014年6月15日日曜日

池井戸潤『ルーズヴェルト・ゲーム』

昨年はじめて都市対抗野球を観に行って、社会人野球もおもしろいものだと思った。
というわけで今年は少しだけ、予選も観てみることにした。
テレビドラマ「ルーズヴェルト・ゲーム」の影響ももちろんある。社会人野球の苦悩が中堅企業経営者の苦悩とともに浮き彫りにされたドラマだ。ということでさっそく原作も読んでみた。
池井戸潤は『下町ロケット』が話題になったときから読みたい作家のひとりであったが、縁がないというか、読みたいと思ったときに読みそびれるとだんだん遠のいてしまう。そうやって数々の名作を僕は読まずにやり過ごしてきた。
今年も都市対抗野球の代表が選出された。昨年の都市対抗野球まで王座に君臨していたJX-ENEOSが昨秋の日本選手権で新日鉄住金かずさマジックに敗れてから、どうもパッとしない。スポニチ大会、JABA静岡大会はともに決勝トーナメントに進めていない。昨年ほどの勢いがない。先日観たのは西関東第一代表東芝との壮行試合。1-5といいところなく敗れた。
前年度優勝チームなので推薦枠で本大会に出場できるが、予選から戦っていたらどうなっただろうか。
東京の第一代表決定戦はJR東日本対NTT東日本。日大三、明治を経て関谷亮太がJRの新戦力としてオリックスにドラフト1位で指名された吉田一将の抜けた穴をじゅうぶんカバーしている。JRには片山純一という頼れるもう一枚がいる。本大会でも優勝候補といえそうだ。にもかかわらず、勝ったのはNTT東日本。これだから野球はわからない。
原作の青島製作所のモデルは鷺宮製作所だとささやかれているが、作者も実際に取材に行ったという。鷺宮製作所は今年は二次予選で早々に敗れ去ったが、社会人野球としては歴史がある。現チームには早稲田時代の2010年春に首位打者とベストナインに輝いた渡辺侑也がいる。
今年もチャンスがあれば東京ドームに行ってみようか。なんといっても涼しいのがうれしいのだ。

2014年6月12日木曜日

東郷和彦『北方領土交渉秘録』

前回に続いて高田越えの話なんだけど、128安打を4年間で打つとすると1年春から出場してシーズン平均16本のヒットが必要になる。おおよそであるが16本打てば打率は3割を越える。つまりフルシーズン出場して3割を打たないと高田越えはできない計算になる。鳥谷の1年春は10安打、上本博紀が15安打。まずまずのスタートではあったが、これでは届かない。
そんななかで今注目されているのが明治の高山俊だ。前年日大三のトップバッターとして夏の甲子園優勝に貢献。デビューシーズンに20安打を放って、ベストナインに選ばれた。
2年秋を終え、62本。そして3年春19本、5季終了時点で通算81安打。これはもしかすると、と期待を持たせる。
高山に期待できるところは単にバッティングセンスにすぐれているとか、足が速いとか大舞台での経験が豊富であるとかだけではない。彼にとっていちばん恵まれているのはライバルだ。
明治の同期にはチャンスに強い菅野剛士(東海大相模)や意外性の男坂本誠志郎(履正社)らがいて、入学当初から切磋琢磨できる環境があった。横尾(慶應)、畔上(法政)、吉永(早稲田)ら元チームメートの活躍も刺激になる。さらに同じく高田越えをめざすライバル大城滉二(興南~立教)の活躍も見逃せない。ちなみに大城は2年秋を終え、60安打。今季16本。通算76本で高山を追いかける。
そういえば以前北方領土のことを調べようとして国境問題関連の本をまとめ読みしたことがあった。この本はそのときの一冊。今となってはなかみを思い出せないが、日本とロシアの交渉が再開されると少しだけ思い出す。本を読んでおくということはこうしたこと、つまりいずれ何かの役に立つかもしれないということだ(たぶんそれほど役に立つとも思えないけど)。
いろいろトータルに考えてみると来年の秋には東京六大学野球史を塗り替える21世紀の記録が打ち建てられるかもしれない。

2014年6月9日月曜日

宇都宮浄人『 路面電車ルネッサンス』

東京六大学野球リーグには古い記録が残っている。
比較的新しい新記録といえば平成14年に江川卓(法政~巨人)の通算奪三振443を和田毅(早稲田~ソフトバンク、オリオールズ)が476に塗り替えたあたりか。田淵幸一(法政~阪神、西武)の通算本塁打22本を越えた高橋由伸(慶應~巨人)の23本も平成9年だから20世紀の記録になる。
投手の通算最多勝利、山中正竹(法政~住友金属)の48に迫った記録として江川卓の47があるが、おそらくこれは未来永劫更新されることはないだろう。あるとすれば通算安打数の新記録。用具や技術、練習方法などの進歩がもたらすものは野球においては攻撃面だ。
昭和42年に打ちたてられた通算最多安打、高田繁(明治~巨人)の持つ127本。これはいずれ越えられるであろうとずいぶん前から思っていた。
これまで多くの選手が高田越えに挑んできたが、もっとも肉迫したのが堀場秀孝。堀場は長野の丸子実業出身。江川と同期であるが、受験に失敗し、一年浪人した後慶應義塾に入学した。1年春から正捕手としてレギュラー入り、以来安打を重ねること125本。卒業後はプリンスホテルから広島、大洋、巨人と渡り歩いた。
堀場に次ぐのが彼の先輩にあたる松下勝美(慶應~松下電器)の123本。昭和43~46年の記録だから、高田と入れ違いにリーグ戦デビューしてつくられた記録だ。
4人いる120本越えのあとひとりが大引啓次。法政からオリックスにすすんだ平成の安打製造機である。以下、高橋由伸、岡田彰布(早稲田~阪神)、中村豊(明治~日ハム、阪神)、鳥谷敬(早稲田~阪神)。ここまでが115本以上。
路面電車には未来があると思っている。実相寺昭雄監督もそう言っていた。
この本は鉄道趣味的な枠組みを越えて路面電車の未来を語る。夢物語ではない新しい都市交通を描いている。
何を隠そう今ひそかに応援しているのは大学野球と路面電車なのである。

2014年6月7日土曜日

河尻定『歩いてわかった東京ふしぎ地図』


国立競技場が建て替えられるという。
そのデザイン、費用など賛否両論。どちらかといえば反対意見を多く耳にする。
霞ヶ丘あたりの景観も一変するようだ
フリーマーケットなどでにぎわう明治公園もレンガ色の日本青年館も新国立競技場にのみこまれてしまう。明治公園は南側にある都営霞ヶ丘アパートが取り払われた跡地に移転するとも当初聞いた。
先日新聞で見た完成予想イメージでは明治神宮第二球場は残るようだが、あるいは改装されるのかもしれない。神宮第二球場は狭さゆえに東都大学2部リーグでも使用されなくなっている。場外に飛んで行ってなくなるボールが財政を圧迫しているというのはほんとうか。
先月、明治神宮野球場に東京六大学野球春のリーグ戦慶應対早稲田の一回戦を観に行った。勝ち点をとった方が優勝という盛り上がる早慶戦だ。リーグ戦を通じて好投を続ける早稲田有原から慶應の竹内が起死回生の逆転本塁打を放ち、初戦をものにした。その勢いをかって翌日も逆転勝ち。みごとに34回目の優勝を飾った。病気療養中の竹内監督(本塁打を打った竹内選手の父)に代わって指揮を執った江藤助監督がインタビューで涙していた。
千駄ヶ谷駅まで歩いて帰る途中、国立競技場のまわりには別れを惜しむ人であふれかえっていた。その勇士をカメラにおさめたり、記念撮影をするものもいた。これほど多くの人のまぶたに国立競技場が焼き付けられたのはまさしく先の東京オリンピックの開会式以来ではあるまいか。
この本の著者は日本経済新聞の記者だという。メディアとしての新聞は衰退しつつあるというが、やはり取材して記事にするというプロセスの中で興味深いネタが説得力あふれる事実に育っていくのだろう、読んでいておもしろい。町のうわさやネットで目にするさまざまな情報に感心するレベルをはるかに超えて、納得できる真実がそこに露呈していく。
このようにして国立競技場の物語が後世に伝えられて行ったらこれにまさる喜びはない。

2014年5月10日土曜日

村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の旅』


ついこのあいだまで映像はフィルムやビデオテープに収録していた。完全に過去形なわけでもなく、今でも35ミリフィルムで撮影したり、HDならビデオテープに収録することができる。
昨年、オリンピックの東京招致が決まった。7年後のテレビの規格は現在のHDをはるかに上まわる4Kになるだろうとささやかれている。つまり現在のHD(2K)サイズ1920ピクセル×1080ピクセルから各辺その倍の3840×2160になるということだ。より精細で美しい映像を家庭で視ることができる。
すでに4Kの規格で撮影、収録のできる撮影機材は多く出回っていて、テレビ番組やコマーシャル制作の現場では使用されているという。映像の未来は明るく、きめ細かいのである。
先日映像制作のセミナーに参加して、4K時代の制作工程がどう変わるか話を聞いた。
撮影機材がいちはやく普及したものの、4Kのスペックをフルに活かしきるモニタがまだなかったり、一気に制作プロセスが変わるところまでは至っていないのが現状のようだ。それと4K制作がポピュラーになるためには収録データをどう管理していくという問題もある。データ量が現在のHD規格の128倍になるというのだ。
HD収録は初期の頃はテープだったが、最近ではコンパクトフラッシュなどの電子的なストレージやハードディスクを使用している。仮に収録データの総量が1TBだとすると4Kでは128TBになる。今までストレージ間でコピーしたりネット経由で伝送したりするのに1時間かかっていたとしよう。その手間を考えるとちょっと気が遠くなる。もちろんデータ量が増えれば、合成や編集にだってそれなりに時間がかかるはずだ。この先映像制作はどうなるのだろう。
はじめて海外旅行に行ったときは非常に緊張した。近ごろの若い人たちはそんなことはないのかな。
多崎つくるは何ということもなく海外へ旅立つ。それも北欧フィンランド。レンタカーなんか借りちゃうんだ。この物怖じしないところがうらやましい。もちろん鉄道の駅をつくる仕事っていうのもうらやましい。
データ量の件だが、たぶんそのうち500TBくらいのコンパクトフラッシュがあらわれるんじゃないかな。

2014年5月7日水曜日

野地秩嘉『TOKYOオリンピック物語』


昨日閉幕した世界卓球団体。
日本チームは男子銅、女子銀とその健闘は称えられるべきではあるが、その一方で相変わらずの中国一強に対して次につながる収穫があったのかどうか。準決勝を突破した女子は挑戦権を獲得したものの、男子はドイツに敗れ、対戦すら叶わなかった。アジア、ヨーロッパにも強豪国が多い中でのメダルはたしかに健闘だろうが、今大会がこれからの卓球世界地図を刷新する礎となったかどうかは甚だ疑問だ。
テレビ中継では決勝の女子中国チーム以外、中国卓球をほとんど放映していない。世界最高水準のレベルが来日しているのに日本のマスコミや卓球関係者は何を考えているのだろう。中国の強さを広く紹介することで日本の卓球との差を認識し、共有することがその仕事ではないのだろうか。マスコミ報道が徹底的に中国卓球の強さの秘密に迫ることで視聴者も日本卓球に対する見方が当然厳しくなるはずで、こうした裾野のファンのレベルアップが日本卓球のレベルアップにつながっていくという見方も大げさではあるまい。
たとえば男子決勝ではドイツのティモ・ボルが張継科(チャンジーカをチョウケイカと呼ぶのもいい加減やめたらどうか)に一矢報いたが、こういう試合はやはり放映するべきだったろう。なぜボルが勝てたのか、張継科はどう攻められると弱いのか。水谷や丹羽にボルと同じ戦い方ができたのか。マスコミ、ジャーナリズムも一体となって戦わなければ正直言って2020年を過ぎても日本は、あるいは世界は中国に勝てないだろう。そうした気概を彼らは持っているのか。
この本は64年のオリンピック東京大会を支えた人々を紹介している。グラフィックデザイナー、警備会社、ホテル料理長、コンピュータ技師など。アスリートたちの下のレイヤーにスポットを当てた作品だ。彼らは決して縁の下の力持ちではない。東京オリンピックという戦後最大の舞台で活躍した主役たちである。
それにしても中国チームのゲームをほとんど放映しなかったのはビートルズが来日したのにドリフターズだけしか中継しなかったみたいなもんだ。

2014年5月6日火曜日

川本三郎『ちょっとそこまで』


春センバツはぜひ甲子園で観たいと思っていた。
その前日、突然の訃報が届いた。イラストレーターである叔父が脳出血で亡くなったという。
甲子園で都立小山台高校の試合を観戦したら、その翌日は父の墓参りに南房総に行こうとバスの予約もしていた。電話をくれた母も何度となく信じられないと繰り返していた。
叔父は最初に勤めた広告会社を4年で辞め、ニューヨークに旅立った。69年の3月27日の日曜日である。
なんでそんな細かいことを憶えているかというと当時子どもたちに人気のテレビ番組「ウルトラQ」の日だったからである。それも前の週の予告でガラダマが東京を襲うというのである。ガラモンが東京を焦土と化すというのにパンアメリカンの航空機でアメリカへなんか行けるわけがない。
出発は夜だった。なにせ当時、昭和40年代なかばの渡航だ。東京じゅうの親戚が叔父を見送りに行くのだ。ガラモンの登場まであとわずかというところで僕はテレビの前から引きはがされ、羽田へ連れて行かれてしまった。
羽田空港は当時出国する人と最後にことばを交わせるように刑務所にある窓みたいな、穴を穿った厚いアクリル板があって、そこでみんなが叔父にさよならを言うのだ。もちろん僕もさよならを告げた。涙があふれた。それはガラモンを視ることができなかったくやし涙だった。
川本三郎の若かりし頃(といっても40を越えているけれど)の紀行文。
随所に若さが読み取れる。歩きに力強さが感じられる。
そういうわけで48年後の3月春の日、叔父を見送りに行ってきたのだ。

※追記…これは後日記憶違いと判明した。TBS系「ウルトラQ」のガラダマの回は1966年3月27日だった。叔父の渡米は1969年の2月。おそらく視たかったテレビ番組は「怪奇大作戦」ではなかったかと思う。残念ながら記憶がない。
2018年12月20日

2014年2月24日月曜日

杉山隆男『昭和の特別な一日』


どうにも滞りがちなブログではある。
人なみというにはスローペースすぎるけれど、本は読んでいる。人なみに感想を抱いたりもする。それを書くのが億劫になっているのはたしかだが、EVERNOTEに抜き書きもしている。ブログにのせる用の写真も撮っている。
なのになんで滞っているのだろう。
そんなことを考えてもいた仕方ないので、これは老化ということにしておく。
つまりインプットとアウトプットのバランスがよくないということだ。じゅうぶんな栄養を摂っておきながら、その利活用がきちんとなされていない。つまり無駄にぜいたくなものを飲み食いしておきながら、身になっていないということか。忌々しき事態である。
さて、しばらく書かないでいるうちに都立小山台高が21世紀枠で春のセンバツ出場を決めた。調べてみると甲子園出場は品川区の高校として初の快挙である。もちろん都立校としてもはじめてのセンバツだ。
そういえば昨年の夏もブログをさぼっているうちに都立日野高が西東京大会の決勝まで駒をすすめた。ブログをさぼると都立校が活躍する。そんな因果関係がもしかしたらあるのかもしれない(いや、そんなはずはない)。
杉山隆男著『昭和の特別な一日』を読んだ。以下のようなメモをとった。

銀座の都電最後の日、横浜に原鉄道模型博物館をつくった原信太郎は和光ビルからムービーをまわしたそうだ。中野ブロードウェイの建てた宮田慶三郎。歯科医から不動産事業に乗り出し、新宿御苑にエンパイヤ・コープ、原宿にコープ・オリンピアを建てる。乃木希典の土地も中野ブロードウェイのあたりにあった。壷井栄の家は鷺宮。白鷺1-18?オリーブ橋?東中野柏木団。

要は市井の昭和史ということだ。歴史は陽のあたる場所だけのものじゃないということだ。それはさておき原鉄道模型博物館はぜひとも行きたいものである。もちろん甲子園にも行きたい。

2013年12月25日水曜日

富澤一誠『あの素晴しい曲をもう一度―フォークからJポップまで』


40年以上昔に東北本線の尾久駅で下車したことがある。
上野から東北、上信越方面に向かう列車の操車場がそこにあった。小学校の頃、同級生の高橋くんと写真を撮りに行ったのだ。たしか高橋くんのお父さんが付き添ってくれた。ふたりとももう他界している。
大井町あたりに住んでいて、よく行く親戚も赤坂や月島だったから、京浜東北線の北側は遠い世界だった。尾久という駅の近くに操車場があり、色とりどりの電車や客車が並んでいることを雑誌か何かで知り、行ってみたいと思ったのだろう。尾久駅は「おくえき」と憶えた。
高校生になって行動半径がひろがった。町屋に住む友だちや王子から通う同級生に尾久は「おく」ではなく、「おぐ」であると何度も正された。なぜ駅名だけ「おく」なのか。おそらくは「やまてせん」と「やまのてせん」の関係に近いのではないかと思っている。歴史的に見てもこの界隈は尾久村(おぐむら)と呼ばれていたようだ。
歌謡曲やニューミュージックの歴史を追った書物は多々あるが、やはり教科書的に平たく概観するのは無理がある。そんな気がする。
とりわけ評論家という立ち位置というか書き手の視点からでは難しい。
以前テレビの番組でなかにし礼が「不滅の歌謡曲」と題してその歴史をたどった。作詩家としての視点から歌謡曲を解き明かした。
坂崎幸之助は『坂崎幸之助のJ-POPスクール』でアーティストをめざした少年の視点でフォーク、ニューミュージックの世界を読みなおした。たしかこの本もラジオ番組をまとめたものだったと思う。1アーティストの昔話と言ってしまえばそれまでなのだけれど、むしろその方が味があって、生き生きと感じられる。
というわけで何が言いたいかというと、歌の歴史をまとめるのはたいへんだよなってことである。
「おくえき」を降りるとそこは昭和町(しょうわまち)だった。

2013年12月13日金曜日

村上春樹『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』


12月である。忘年会のシーズンである。
ここのところ、酒量が減っている(たぶん)。特に体調がすぐれないとかそういうことではなく、毎日毎日いやっていうほど飲むのに少し飽きてきたのだ。もちろん飲むときは飲むし、電車でとんでもないところまで乗り過ごすことだって以前とまったく変わらない。ひとりでふらっと居酒屋に入って、熱燗を2本飲んでぼんやり過ごすこともある。
東京の下町には安くて風情のある居酒屋が多く、その一軒一軒をたずね歩くのも悪くない。十条の斎藤酒場、王子の山田屋、北千住のおおはし。
このあいだは下町散歩仲間のKさんと新子安の諸星に行った。キンミヤの割梅ロックでしたたかに酔っ払った。少し反省した。
昼間、蕎麦屋で飲む酒もうまいもんだ。神田のまつやとか室町の砂場あたりで板わさ、焼鳥などをつまみに熱燗を飲む。いいとこ2本も飲めばじゅうぶんだ。蕎麦屋に長居するのも野暮だ。
たずねてみたい居酒屋や蕎麦屋はいくらでもあるけれどどちらかというといろんな店に行ってみるより、同じところに何度も足を運ぶ方が好きかも知れない。
仕事を終えて、パブで一杯だけ飲んで帰ることもある。ひとりで本を読みながら、ギネスの1パイントをゆっくり飲む。活字を追っているとだんだん自分が酔ってくることがわかる。
そういえば最近ウィスキーを飲んでいない。
以前は南青山の墓地近くにあるバーに立ち寄って、ワイルドターキーのライをちびりちびりと飲んだものだ。シングルモルトもそこでいろいろおそわった。
ウィスキーは奥が深い酒だと思った。
そういえばそのバーで村上春樹を何度か見かけたことがある。バーとしては比較的はやい時間帯であったと思う。
「あ、ご無沙汰してます」
「あ、どうもお久しぶりですね」
などという会話を交わすわけもなく、やはりバーとしてははやい時間帯にカウンターを去っていった。
バーは移転して今は西麻布にある。もう2年くらい行っていない。

2013年11月28日木曜日

川本三郎『向田邦子と昭和の東京』


向田邦子の誕生日は11月28日である。
太宰治が入水自殺した日や三島由紀夫が自決した日を憶えていても、向田邦子の誕生日は案外知られていないのではないか。
たまたまなんだけど(そんなこと偶然以外のなにものでもないのだが)母と長女が同じなのだ。さらにどうでもいいようなことを書くと松平健も原田知世もいっしょだ。
向田邦子は昭和4年の生まれ。私事ではあるが、父のひとつ下で母の五つ上になる(父は11月28日生まれではない)。生きておられれば今年で85歳ということだ。
現在の家族のあり方が生まれたのは昭和のいわゆる戦前であるといわれている。母から聞いた幼少時の話では昭和の前半は戦争による暗い時代だったそうだが、関川夏央の『家族の昭和』を読むと戦前の昭和は今でいう「家族」というスタイルが確立した時代だったことがわかる。明治から大正を経て、ようやく生活習慣や人びとの考え方が変わったというのだ。中流のサラリーマン家庭に育った向田邦子は新しい家族の時代を謳歌できる環境にあった。本書でもそのことが語られている。
そして向田邦子にとっての家族がいちばん色濃くあらわれているのがドラマ「寺内貫太郎一家」ではなかろうか。谷中の石屋石貫の主人貫太郎は向田邦子の父親がイメージされているという。時に家長として権威を振りかざす一方でふだんは家族の食卓シーンに小さくおさまっている。人情味にあふれている。明治から大正にかけて育ち、昭和で家庭を持ったたいていの男はこうして生きてきたのだろう。
ところで母の父、つまり母方の祖父は母が中学生のときに亡くなっている。南房総千倉町白間津の実家にある遺影でしかその顔を知らなかった。先日、母がどこからか昔の写真が見つかったと見せてくれた。母はよく笠智衆みたいな感じのやさしい人だったと言っていた。たしかに写真を見ると似ていなくもない。
祖父もいわゆる昭和の父親だったのだろうか。

2013年11月26日火曜日

芝木好子『隅田川暮色』


何を隠そう、下町ウクレレ探検隊という不思議な組織の一員なのである(別に隠しているわけでもない)。
あるときは代々木公園でウクレレを練習し、またあるときは下町を歩く(ウクレレに関しては西田敏行のピアノと同じで僕は持っていないし君に聴かせる腕もない)。先月は冬が来る前に川散歩をしようということになり、日の出桟橋から水上バスに乗って浅草吾妻橋へ行った。間近で見る隅田川はまるで海のようだ。水量が豊かで東京の真ん中をこんな大きな川が流れているとは信じられない。不思議な感覚に陥る。
以前浅草に来たときは駒形橋までいったん戻り、川沿いを今戸橋まで歩いた。芝木好子『隅田川暮色』の世界だ。山谷堀沿いに紺屋はまだあるのだろうかと探したものだ。
昔撮ったカラー写真が褪色する。モノクロームの写真がセピア色に変わる。それはそれで風情のあるものだが、最近のカラープリンタで印刷した写真はひどいものだ。あっという間に色が褪せる。今は思い出そのものも昔に比べて軽くなってしまっているのかもしれない。
化学でつくられたものは自然の色彩にはかなわない。昔の人はそのことをよく知っていた。染色とは糸に色をつけるだけではない。歴史に色を残す営為なのだ。そんなことをこの本からおそわった(たいていの書店で在庫のない文庫版を見つけられたのはラッキーとしか言いようがない)。
この本の舞台は池之端から根津、上野、浅草だ。時間が許せばその界隈から歩いてみたいものである。
下町探検隊は吾妻橋上陸後、仲見世、浅草寺、そしてその周辺の商店街を歩く。短くなった日差しの許す限り写真を撮った。あたりが暗くなってきた。せっかく浅草に来たのだからとねぎま鍋の店やおでん屋を覗いてみるが、あいにく満席だったり、定休日だったり。で、結局、浅草寺脇のもつ煮ストリートに迷い込んで生ホッピーにありついた。これはこれで浅草らしい過ごし方だ。
川風が気持ちよく吹いていた。

2013年11月24日日曜日

笠松良彦『これからの広告人へ』


さて、今年の大学野球をふりかえってみよう。
大学野球といっても東京六大学リーグばかり観ていて他チームの試合は全日本選手権や明治神宮大会でしかお目にかかっていない。おのずと偏りがある。
今年は明治大学の年だった。春は昨秋優勝の法政が勝ちっぱなしで最終週を迎え、明治と激突。明治は勝ち負けをくりかえしながらもなんとか勝ち点4で法政と並んでいた。初戦を落とした明治の第2戦、法政のねばりに会って引き分ける。悪い流れのなかで第3戦、ようやく法政に土を付け、流れを引き寄せる。混戦に持ち込んで這い上がるのがこの春の明治の勝ちパターン。第4戦は終始リードされる苦しい展開となったが思いがけないエラーで逆転、そのまま1点差を守りきった。
大学選手権は上武大に不覚をとり、4強にとどまった。
秋は立教に勝ち点を落としたものの春より安定した戦いぶりだった。立教対明治の3回戦で舟川が起死回生の代打逆転3ランを放った。観ている方もびっくりしたが、打った本人も感極まって涙のホームインだった。4年間野球を続けてきたよかったと思ったのだろう。
明治神宮大会は明治と亜細亜の一騎打ち。準決勝では明治中嶋、亜細亜嶺井が主将の仕事をして試合を決めた。が、流れをつかんだのは後者だった。先制ホームランと貴重な追加点となるタイムリーヒット。母校の沖縄尚学が初優勝を決めたその直後だけに嶺井にも期するものがあったにちがいない。亜細亜は九里、山崎のリレーで全試合を戦い抜いた。トーナメントを勝ち抜くにはそれ以外にないとの判断だろう。戦国東都をはじめ、入れ替え戦のある連盟に加入している大学は負けない術を知っているのだろうか。
以前いっしょに仕事をしていたTくんがイグナイトという会社に移り、広告ビジネスの最前線でがんばっているようだ。この本の著者はそのイグナイトの代表。広告ビジネスにはスピードと結果をともなう緻密さがこれまで以上に求められている。その足場が悪く、水の流れの激しい上流で彼らは仕事をしている。そんなことがわかった。

2013年11月23日土曜日

タカハシマコト『ツッコミニケーション』


明治神宮野球大会が終わり、今年の野球も全日程終了。
この大会は高校の部と大学の部にわかれて、それぞれ今年最後の日本一を競う。高校の部は全国10地区の秋季大会優勝チームが集まり、大学の部も各地区のリーグ戦勝者、あるいは勝者同士の代表決定戦を勝ち抜いたチームでトーナメント戦を行う。高校生は夏の選手権後、1,2年生による新チームが始動する。その頂点を決める大会であり、大学生にとっては4年最後の大会となる。そういう意味合いがあるのか知らないが、高校の部は午前中、大学の部は午後に行われる。当然この時期だから16時半くらいからはじまる第4試合ともなると点灯ゲームになる。スタンドでじっと観ているのと身体が冷えきって凍えるのである。高校生の試合と大学生の試合を観ていると金属製か木製かといったバットの違い以外にも微妙にルールが異なっていることがよくわかる。高校チームの監督はのっしのっしとマウンド上に歩いていって、ピッチャーに「どうだ、まだ行けるか」などと声をかけたりできないのだ。
今大会、高校の部決勝は九州地区代表の沖縄尚学と北信越代表の日本文理の対戦だった。準決勝をともにコールド勝ちした打撃のチームである。初回、日本文理の先頭打者が初球をいきなりスタンドに運ぶ。これを皮切りに打つわ打つわ、ホームラン5本とタイムリーヒット1本で6回までに8-0。決勝戦でなければ次の回でコールド勝ちだ。その7回、沖縄尚学に3ランホームランが出て、完封負けは避けられた。と思っていた続く8回、もう1本3ランが飛び出す。相手エラーにも助けられ、1点差まで詰め寄り、さらにタイムリーが飛び出しなんと8点差をひっくり返してしまった。
ネット広告やソーシャルの時代になって、今はまさにオンタイムでコミュニケーションすることが可能になった。この本は「ボケ・ツッコミ」をキーワードにして今どきの広告手法をわかりやすく説いている。
こんなびっくりした試合は滅多に観られるものではないが、その前、5回にもびっくりしている。それは日本文理の飯塚が放ったその日2本目(今大会3本目)のホームランだ。低い弾道を描きながらぐんぐん伸びていく打球はそのままバックスクリーンの向うへ飛んで行った。飛ぶボールが使われているのか、とツッコんでみた。

2013年11月21日木曜日

村上春樹『雨天炎天』

トルコという国をさほど意識したことがなかった。
もちろんまったく未知の国というわけではない。学校で習った世界史や地理程度のことは知っている(ほんとうか?)。ヨーロッパとアジアの境界に位置し、庄野真代が「飛んでイスタンブール」と歌っていた国だ。ちなみに首都はイスタンブールではなく、アンカラだ。まちがって憶えていたとしても恨まないのがルールだ。旅行会社の新聞広告はカッパドキアという世界遺産を見に行こうと声高に叫んでいる。まだまだたくさん知っているが、この辺で勘弁してやろう。
本を読むとき、たいていその舞台や登場人物などをイメージしながら読みすすめる。だが残念なことにトルコという国のイメージが脳裏に浮かんで来ない。これまでその国を思い浮かべながら読んだ本といえば梨木香歩の『村田エフェンディ滞土録』くらいだ。このときはトルコというよりアラビアみたいな空間を思い浮かべながら読んでいた。もちろんアラビアのことだってろくに知らない。ともかく自分がいかにトルコと無縁な人生経験を積んできたかを思うとたいへん申し訳なく思う。ついでにいえば、ギリシャも同様で青い海と白い建物と石づくりの遺跡。その程度のイメージしか持っていない。B。G.M.はジュディ・オングだ。
まだ読んでいない村上春樹の本、読みつぶしの旅。今回は『雨天炎天』、ギリシャ、トルコ紀行である。
ギリシャは巡礼の旅、トルコは命がけの冒険物語。読み応えじゅうぶんの旅行記だった。ギリシャ正教の聖地アトスを徒歩で旅する前半はコリーヌ・セロー監督の「サン・ジャックへの道」を思い出させてくれたが、おそらくはそんなのんきな旅ではなかったろう。後半は埃にまみれ、危険と背中合わせの緊張のトルコ一周。
たいていの紀行文は読み手を旅に誘う役割を少なからず持っている。ところがこの本に関してはまったくそういう気にさせない。そこが辺境の旅たる所以だ。
これを読んで、同じ旅をしたいですかと訊かれたら、答は迷わずノーだ。

2013年11月19日火曜日

田宮俊作『田宮模型の仕事』


昔はティックではなく、チックだった。
ゴチックとかマグネチックとかドラマチックとかエロチックとか。
最近ではもっぱらティックである。たとえばエレキギターではない古典的なギターをアコースティックギターと呼んで区別したりするけれど、今の時代は「アコースティック」であり、「アコースチック」ではない。アコースチックギターなんて全然アコースティックじゃない。
ティックをチックにしてしまうとどことなく古くさくなる。アーティスチックは芸術の匂いが薄れるし、ロジスチックだと荷物の届くのが遅れそうだ。ニヒルスチックはあんまりニヒルじゃないし、アクロバチックは場末のサーカスみたいである。
アメリカのメジャーリーグにアスレチックスという球団がある。古くからアスレチックスと表記されているのであまり違和感がない。フィールドアスレチックなどという場所が日本全国にある。定着した言葉はむしろチックでいい。プラスチックもそうだ。
田宮模型をはじめとする静岡の模型メーカーは古くは木の模型をつくっていた。恵まれた森林資源が背景にあったからだ。しかし時代の主役は木から石油に変わった。絹がナイロンに変わったように。
戦後次々に海を渡ってきたアメリカ製品は日本人のあこがれだった。プラスチックモデルとて例外ではなかった。静岡の木工メーカーはプラモデルへの転向を模索した。本書『田宮模型の仕事』はこのあたりからはじまる。
数ある模型メーカーのなかで田宮模型が頭角をあらわしてくる。そこには卓越した芸術的センスと好奇心、探究心があった。加えて日本人ならではともいえる緻密な目と手が次々に精巧なプラモデルを生んでいく。プラモデルの昭和史というにはスケールの大きな一冊と言っていいだろう。
プラスチックがプラスティックにならないでプラスチックのままでいてくれるのはプラモデルも一役買っているのではないだろうか。
それはともかく、カメラを担いで戦車を撮りにドイツまで行ってみたいったらありゃしない。

2013年11月16日土曜日

ロブ・フュジェッタ『アンバサダー・マーケティング』


電子ブックリーダーを買った。
以前はタブレット端末でKindleの無料本を読みあさっていた。ところがタブレット端末ではバッテリの持ちとか、気になるところも多く、またガジェット好きな知人からKindleペーパーホワイトの話を聞かされ(実はこのおススメがいちばん大きかったのだが)、じゃあ一台という気持ちになった。
たまたま三省堂に紙の本(紙の本という言い方もおかしな話だ)を買いに行ったとき、そこに展示されていたLideoという電子ブックリーダーをいじってみて、これでじゅうぶんじゃないかと思ったのである。で、その場で買ってしまったのである。さほど高額な買い物ではない。スペックなどを比較検討したり、口コミを調べたりして深く悩むこともなく即決した(その辺の自分の性格というのがある意味恐ろしくもあるのだが)。
三省堂は高校入学前に教科書を買いに行った本屋である。当時はまだ木造の本屋然としていて神田らしい風情があった。いろいろと思い出も多い。Lideoが三省堂になければおそらく衝動買いをすることもなかっただろう。ブックファーストやジュンク堂だったら買わなかったかも知れない。逆に三省堂にソニーのリーダーが置いてあったらそっちを買っていたかも知れない。
僕は三省堂のファンなのだ。
今、マス広告よりも知人や友人のおススメが効くと言われている。意識的にアンバサダー、つまり推奨者=ファンを見出し、おススメをソーシャルネットワークなどで広めてもらうマーケティング手法が注目されている。この本ではそんなシステムの有効性と活用法が紹介されている。
義理人情浪花節的商売が普通だった日本人の感覚としてはごく当たり前のことである。おススメが効くから、システマティックに商売に取り入れましょうよ、なんて大真面目に書かれてあると笑っちまうのである。
ちなみにこの本は紙の本で読んだ(やっぱり紙の本で読んだという言い方はへんだと思う)。
Lideoを友だちにおススメするかと訊かれたら、それは微妙だ。

2013年10月26日土曜日

吉川昌孝『「ものさし」のつくり方』


秋もまた野球のシーズンだ。
夏の選手権大会で3年生は引退し(国体というサービス残業的なイベントはあるにせよ)、2年生中心の新チームが始動する。今年の夏は特に2年生の好投手が多かった印象がある。新チームが楽しみだなと思っていた矢先、甲子園を沸かせたチームが秋季大会で苦戦を強いられ、早々に敗退したところも多い。
甲子園が終わると日本選抜チームが招集され、国際試合を行う。今年は18U世界選手権が台湾で行われた。センバツをめざす秋の大会前にできることなら2年生は選考の対象からはずせばいいのにと思う。済美の安樂、前橋育英の高橋がそれにあたる。いずれも県予選の初戦で敗退している。ただでさえ、甲子園に行った学校は新チーム始動のタイミングが遅れるわけだから、各都道府県の高野連も公平を期するならば代表チームの選考に新チームのメンバーをあてない、などの配慮が必要なのではないか。
先月、都のブロック予選がはじまった。武蔵境の岩倉グランドまで母校の応援に行ってきた。初戦、二回戦を突破し、強豪岩倉とブロック代表決定戦まで駒を進めた。序盤の失点を最小限に抑え、後半やってくるワンチャンスをものにできれば弱小公立校でも強豪私立に勝てる。前半の5失点は痛かったが、唯一のチャンスに得点ができ、敗れたとはいうものの来春につながる戦い方ができたと思う。
博報堂生活総合研究所はなんとなく気づいてはいるけれど明確には規定できない事象をいつも巧みに切り取ってカタチにしてくれる。生活者意識オリエンテッドな集団だ。
今回読んだのは過剰摂取してしまいがちな情報をいかに整理整頓してアイデアに加工していくかという本。もちろんこれを読んだからってそれほどアイデアなんか出てはこない。ただアイデアってのはたしかにこういう手順を踏んで湧き出るものかもしれないなあと妙に納得感がある。思いつきって案外そんなものかもしれない。
しつこいようだが、高校野球の日本代表チームに2年生を選ばないでもらいたい。

2013年10月23日水曜日

村上春樹『遠い太鼓』


海外で暮らすというのはどんな気分なのだろう。
前世紀の最後の年にアメリカのテキサスに3週間滞在した。コンピュータ・グラフィックスをサンアントニオの制作会社に発注し、その進捗状況をチェックする、そんな仕事だった(細かく言えばそれ以外にもたいへんな仕事はあったけど)。さすがに3週間もいると仕事以外の時間を持て余す。話すことといえば日本に帰ったらまず何を食べたいかなんてことばかりだ。
以前南仏を訪れたとき、SNCFの列車に乗って、アルル、アヴィニヨン、マルセイユ、ニースなどをまわった。そのなかでいちばん気に入った町はアンティーブ。町全体が静かで(まあコートダジュールの町はたいていそうなんだけど)、リゾート地ではあるのだろうが観光地らしくない。城壁に囲まれた旧市街が駅から近い。ビーチも近い。ああ、海外で永住するならこんな町がいい、と思ってしまったわけだ。
それから具体的に永住するにあたって、アパートの家賃はいくらくらいなのだろうとか、なにか仕事は見つかるだろうかとか、日本に残してきた両親の面倒はどうするんだろうかとか考えはじめた。で、永住する計画は考えないことにした。
母方の叔父が20代の終りに近い頃、それまで勤めていた広告会社を辞めて2年ほどニューヨークのデザインスタジオで働いていた。本人はもっといたかったらしいがビザの関係で帰国せざるを得なかったようだ。叔父から母宛てに何通か手紙が届いており、見せてもらったことがある。祖母(つまり母と叔父の母)が誰かに住所を代筆してもらって手紙を送ってくれた話なんかが書かれている。平和なうちに帰ってきなさいと書いてあったという。
村上春樹が南ヨーロッパで暮らした何年かを書き記したこの本はそんな叔父のニューヨーク便りにも似ておもしろい。具体的なことを具体的に考えなければ海外で生活するってのはやっぱり楽しいのだ。見知らぬ土地で見知らぬ国民性や風習に出会い、不思議な体験ができるのだ。ギリシャやローマに住んでみたいとはこれっぽっちも思わないけれど、この種の経験というものはしてみてけっして損はないだろう。
深い井戸に潜るには海外で生活するのがいちばん手っ取りばやいという気もするし。

2013年10月20日日曜日

本田創編著『地形を楽しむ東京「暗渠」散歩』


時間が許せば、ふらっと東京の町を歩く。
まだ行ったことのない土地の方が圧倒的に多い。できれば東京23区内を均等に訪れたいと思っているのだが。不思議なもので生まれも育ちも東京なものだから、フラットな視線で東京の町を眺めることができない。どうしても思い出や思い入れのある町が地図上で、あるいは脳裏に浮かんできて知らず知らずにそういう町ばかり歩いている。
たとえばずっと住んでいた大井町とか馬込とか戸越などいわゆる地元はよく歩く。不思議なことに馴れ親しんできたとこちらが一方的に思っているつもりでも案外知らなかった道や新たな発見が多い。へえ、この道はあの道につながっていたのか、とか実家と目と鼻の先にまったく通ったことのなかった道がある。
たとえば高校のあった飯田橋から、神田方面。あるいは麹町方面。毎日通っていたというのは実は過信に過ぎず、知ってるつもりになっているだけだったりする。みんながよく行く店だから、よく通る道だから自分も知っているつもりになっている。戒めなければいけない。
月島や佃島。ここは母が下宿していた大叔父の家があったので幼少の頃の思い出がある。
赤坂丹後町。伯父が家を買って、母も佃島から移り住んだ。
駒込西片町。父方の大叔父が住んでいた下町。記憶はないが、その町の名前は耳に残っている。
よく歩く町はこうした知っている町が多い。もっと本を読んだり、映画を観たり、自分自身とかかわりのない町に興味を持たなければいけないんじゃないかと思うのだ。
川の本を読んだ。
川といってもかつて川であった川の本だ。
子どもの頃近所の公園で手打ち野球(その後ハンドベースボールと呼ばれたらしいが最近の子どもたちはやるんだろうか、そんな遊び)をしていて、公園の外まで打球を飛ばせばホームラン。すぐ近くを流れる立会川に落すと一発でチェンジだった。立会川にボールが落ちると少年たちは靴と靴下を脱ぎながら走って一カ所だけあった梯子段を降りてボールを拾いにいったものだ(もちろんそこは立ち入り禁止だったけど)。ボールを拾った子はそこで声高に叫ぶ。
「チェンジ!」
立会川のその場所は今ではバス通りになっている。