2011年4月3日日曜日

芝木好子『洲崎パラダイス』


母校である小学校と中学校が統合されて新たに小中一貫校になった。
そんな知らせとともに廃校になる中学校の同窓会の案内をかつての同級生であるI(旧姓)が実家に持ってきてくれた。前の住所に出した往復はがきが返ってきたというのでわざわざ持ってきてくれたのだ。生憎、耳の遠い父が留守番だったためにIの話がどれだけ伝わったかわからないが。
Iはちょっとおせっかいだけど、小さいころから(Iとは小学校のときから同級だった)責任感の強い、しっかりしたやつだった。
出身の小学校中学校がなくなり、すでに出身高校もなくなっている。やれやれである。
地震のあと木場のビデオスタジオに行かなければならない用事があった。午後はやめに終わったので洲崎神社からかつての洲崎界隈を歩いてみた。“パラダイス”は跡形もない。なくなるものはなくなるし、のこるものはのこされる。
ただ、どうせ洲崎を歩くなら、この本を読んで歩いたほうがいい。もちろんこの町を歩かないにしても、この本は読んだほうがいい。貧しい戦後東京に生きる女性たちの姿は、実はきわめて人間的だった。ドラマティックだった。もちろんこれは小説の話であって、事実でも史実でもない。けれどもこの町に生きた人間の生きざまとしてはかなり真実なのではないかと思うのだ。
結局同窓会当日は都合がつかず欠席した。その旨を伝えるべく、Iの携帯に電話をかけ、何十年ぶりに声を聞いた。ちょっとおせっかいだけど、責任感の強いしっかりした声だった。

2011年3月29日火曜日

新潮社編『江戸東京物語山の手篇』


先週末、BSで映画『時代屋の女房』を観た。
この映画はぼくが生まれ育った品川区の大井町駅周辺でロケ撮影されており、1980年代はじめの大井町駅周辺の懐かしい風景が満載されている。
日本光学(現ニコン)のある西大井あたりから、JRの大井町に向かう光学通りを東に進んでいくと、大井町と大森、蒲田をつなぐ池上通りにぶつかる。その交差点の歩道橋下に時代屋はあった。三つ又商店街と呼ばれるその一帯が主たるロケ地で、さらに大井町駅東口につながる路地や東急大井町線の高架下に並んだ商店街などすでに失われた町がフィルムに残されている。
大坂志郎が店主を演じた今井クリーニング店は今の西大井駅に近い。貨物専用線だった品鶴線には横須賀線の車両が走っている。東海道線の混雑を緩和するため、1980年にとられた措置だ。映画の中ではかなりのスピードで走っている。当時、西大井駅はまだできていなかったのだ。
クリーニング店そばの踏切近くに公園があった。正式な名前ももう憶えていないし、当時みんなで呼んでいた“なんとか公園”という呼び名も失念している。ただぼくたちの小学校の区域ではない他所の公園でときどき遊ぶ、その緊張感だけが記憶に残っている。
『江戸東京物語山の手篇』を読む。
東京の山の手と下町の区分けは思いのほか難しい。実に複雑に入り組んでいる。仕分けするということはたいてい難しいのであるが。

2011年3月27日日曜日

新潮社編『江戸東京物語都心篇』


高校野球春季都大会はブロック予選がなくなり、秋の新人戦の再戦となった(参加校はなぜか47校で秋より1校少ない)。楽しみにしていた日大三対日大鶴ヶ丘もなくなった。
都高野連の発表によれば、この大会で夏のシード権を決めないそうだ。夏の東西選手権はシードなし。これもまた今から波乱含みである。
甲子園の選抜大会では日大三と明徳義塾が初戦でぶつかった。秋の地区大会を優勝している両校のハイレベルな試合だった(エラーも目立つには目立ったが)。走者を出しても、守り切る。打たれても、失点しても連打、連続得点を許さない。そういう試合だった。6対5という得点以上に緊張感があった。
『江戸東京物語』は最寄駅駅前のブックオフで見つけた。
新潮文庫では絶版にされたのだろうか、ホームページ上からも消え去っている。平成14年発行の文庫本がもうなくなっているなんて、ちょっとがっかりである。岩波文庫だと絶版になってもウェブ上では記録が残っているし、神田神保町には岩波の書籍を厚く取り扱っている古書店もある。“売らんかな”というより本をだいじにする姿勢が見え隠れしている。パンダも結構だが、新潮文庫も今以上に本のことを考えていただければと思うのである。
さて、このシリーズには都心篇、山の手篇、下町篇とあって、今回手に入れたのは都心篇と山の手篇。下町篇は捜索本名簿に記載して、後日さがすことにした。
紀尾井町は紀伊家、尾張家、井伊家の頭文字をとったとか、神田錦町は昔、一色さんの邸がふたつあって、あわせて錦となったとか。随所にふむふむがいっぱいであった。

2011年3月23日水曜日

芥川龍之介『蜘蛛の糸・杜子春』


一昨年の夏に岩波文庫版『蜘蛛の糸・杜子春・トロッコ他十七編』を読んだ。これは娘の本棚にあったものだ。
今回読んだ新潮文庫版『蜘蛛の糸・杜子春』には10編が収められていて、そのうち9編は岩波文庫版に含まれている。つまり、岩波文庫版の20編を読めば、新潮文庫版のほとんどを読んだことになる。にもかかわらず、新潮文庫版を古本屋で買ってきて読んだのは(厳密に言うと新潮社版が読みたいとぶつぶつ言ってたのを聞いていた娘がブックオフで105円だったからと買ってきてくれたのだが)、ひとえに「蜜柑」が読みたかったからである。
「蜜柑」程度の長さの短編なら図書館でもネットでも5分もあれば読めるというものだが、なんとなく自分で所有する本で読みたかった。そう思ってしまったんだから仕方ない。
もう20年以上前、とある男性かつらのCMでこんなのがあった。ローカル線の列車の中で車窓を開けようとしている若い女性。昔の列車の窓というのはなかなか開きにくかったものだ。力の入れ方にちょっとしたコツが要る。たまたま相席していた男性が代わりに開けてあげる。開いた車窓から車内に吹き込む風が男性の前髪を強くなびかせる。
車窓の外では幼い弟が旅立つ姉に手を振っている。「強いから、やさしくなれる」というナレーションが耳に残る。
このCMはぼくの師匠ともいえるUさんとMさんが考えた。当然のことながらMさんが思い浮かべた光景は芥川龍之介の「蜜柑」だった。
「ほんとはみかんを投げたかったんだよね」とその昔、Mさんが話してくれた。

2011年3月19日土曜日

レイモンド・チャンドラー『ロング・グッドバイ』


東北関東大震災の被災者の方々に心よりお見舞いを申し上げます。
宮城、岩手、福島、茨城をはじめとして被災地にはいまだじゅうぶんな支援が行き届いていないようである。また都心にいちばん近い被災地といえる浦安も液状化現象、断水に加えて、計画停電が実施されるなど不自由な暮らしを余儀なくされている。
たいへん卑近な話で申し訳ないが、区の体育館の開放も4月まで中止が決まり、週末のスポーツ難民もこれから増えていくかもしれない。またスポーツに限らず、多くのイベントが中止。卓球の東京選手権も取りやめになっている。ご近所のCちゃんがカデットで出場する予定だった。
先週の地震の際読んでいたのが『ロング・グッドバイ』でチャンドラーファン(というかフィリップ・マーロウファン)は身近に比較的多くいたが、はじめて読んでみた。ハヤカワ文庫はカート・ヴォネガット・ジュニアとかアーウィン・ショーくらいしか読んでいない。久しぶりである。
新潮社でもらったブックカバーをかけようとしたら微妙にサイズが合わない。少しだけ大きいのだ、ハヤカワ文庫は。大きな震災とは対称的な小さな発見。一週間かけてようやく読み終わった。
探偵という職業はきわめて英米的な職業で日本で暮らしている限り、そんなかっこいい職業にお目にかかることはない。フィリップ・マーロウはまさに探偵のイデアのような存在である。
それにしてもなかなか手の込んだ読み応えのある一冊だった。村上春樹がなんど読んでも読み飽きることがないというのもわかる気がする。

2011年3月13日日曜日

安西水丸『大衆食堂へ行こう』


たいへんな地震だった。
赤坂見附で鴨せいろを食べ、赤坂エクセル東急ホテル1階にあるコーヒーショップでぼくはレイモンド・チャンドラーを読んでいた。すぐにおさまるだろうとはじめは楽観していたが、次第に揺れが大きくなる。店員が誘導し、外に出された。地下鉄も止まったのだろう、赤坂見附駅からどっと人があふれ出ていた。しばらく地面も揺れていたし、信号機はもちろんビルも揺れていた。
仕事場はさほど遠くないので歩いて戻り、テレビを視た。
たいへんなことになっていた。
家族の安全は確認できたが、品川にある実家に電話がつながらない。心配なので赤坂から歩くことにした。乃木坂から、西麻布、広尾を通って、中原街道、第二京浜国道と道はわかっている、はずだった。夜の東京の街はこんなにも歩いてみんな帰宅するのかとびっくりするくらい人がいた。
一箇所道を間違えた。外苑西通りから中原街道に出たつもりが山手通りだった。逆行し、さらに道に迷った。およそ1時間のロス。精神状態がやはりまともじゃなかったんだろう。
歩きなれていると思っている道を間違えると精神的にショックが大きい。
安西水丸が大衆食堂めぐりをしたのが2000年から2005年にかけて。このなかの少なくない数の店が閉ざされている。そのことがちょっと哀しい。
3時間歩いて実家にたどり着いた。父はテレビをつけっ放しにしたまま寝ていた。

2011年3月8日火曜日

江藤省三『KEIO革命』


そろそろ野球の季節だ。
東京都の高校野球春季大会も組み合わせが決まり、あとはブロック代表決定戦を待つばかり。昨秋の新人戦で都大会出場を果たせなかった早実、日大鶴ヶ丘、堀越、日大一あたりの強豪校がブロック予選から登場する。仮に日大鶴ヶ丘がブロック予選を突破するとトーナメント3回戦で早々と第一シードの日大三とぶつかる。昨年夏準決勝で対戦し、延長14回の死闘を演じた両校だ。
大学野球では東洋の藤岡、明治の野村、法政の三上、早稲田の土生らが最終学年を迎える。斎藤、大石、福井が卒業し、リーグ戦で勝ち星のある投手がいなくなった早稲田は苦戦を強いられるだろう。六大学は慶應、明治、法政の争いになるのではないだろうか。
江藤省三が監督になってから、俄然慶應野球部は強くなった気がする。
以前ここでも書いたと思う。バッターボックスに向かう選手にひと声かける姿を昨年の春秋のシーズンによく見かけたが、やはりプロ経験者として素晴らしい助言がそこにあると思われる。
この本はどちらかといえば単なる慶應バンザイ的な話と著者の野球人生を振り返ることに終始している。それでいてタイトルは“革命”などとおどろおどろしい。ただその内容云々はともかく、江藤省三が監督をして慶應野球部の黄金時代を築きさえすれば、それが結果として革命になる。
彼の力量を信じて、今年も東京六大学野球を見守りたいと思う。

2011年3月5日土曜日

池内紀『なぜかいい町一泊旅行』


大学時代、カフカの「万里の長城が築かれたとき」という短編を読んだ。
ひとり黙々と読んだわけではなく、一般教養の第二外国語の授業で読んだのである。それも4年生になって。
2年時から何を思ったのか、お茶の水のフランス語学校に通うようになって、大学のドイツ語の授業はすっかりさぼってしまったのである。再履修した3年時の授業はたいして興味が持てないまま、パス。4年になってようやくカフカを読む授業に出会った。これは今でも運がよかったと思っている。
「万里の長城が築かれたとき」というのはぼくが訳したもので(直訳だと「中国の壁が築かれたとき」とかそんな感じだった)、一般には「万里の長城」というタイトルで全集などにはおさめられている。当時訳したノートは不思議と紛失の憂き目にあうことなく、今もわが家の書棚に眠っている。いつか読みかえしてみようかと思っている。
さてそのカフカの翻訳者として、またドイツ文学者として名高い池内紀(白水社から出ているカフカ全集の「万里の長城」は氏の訳である)は旅人としても名手である。ところどころ、道案内が不親切なところがあるにしても、町の見方、視点の置き方がすぐれている。
また、この本では新書という限られたスペースでありながら、行ってみたいと思わせる適切な場所が選ばれていると思う。そのあたりの、読者を旅にいざなうぎりぎりいい町が紹介されているのがなんとも心憎い。
できることなら続編をぜひ期待したいものである。

2011年3月1日火曜日

岩井健太郎『予防接種は「効く」のか?』


マスメディアからソーシャルメディアへ。
広告コミュニケーションの主流が変わりつつある。イメージだけを大量生産、大量消費するマス媒体の広告出稿が後退し、ネット広告が大きく飛躍を遂げそうな予感がしている。
昨日、電通とFacebook社の提携がニュースとして流れた。大手広告会社は時流をいちはやくつかんで、アクションを起こす。原稿を送って、校正して、何日後かに掲載される広告や企画打合せから納品まで何週間も何カ月も要するテレビコマーシャルなど、つくっているうちに時代のほうが変化する。そんな時代も遠くない。
マスからソーシャルへと図式的にものごとを考えると、これからどうなるのか不安になる一方だ。どういう形態のコンテンツが有効なのか、その構築の方法は、などと考えはじめるともうどこからどう手をつけていいのかすらわからなくなる。
マスのコミュニケーションをどうしていくか、ソーシャルのコミュニケーションをどうしていくかというよりは、日々ソーシャルなものの考え方を習慣づけていくことがだいじなんじゃないか。少なくともそれだけはいえるような気がする。ものごとはシンプルに考えたほうがいい。
ワクチンの話などさほど興味もないのだが、ひょんなことから読んでみた。
予防接種がどうのこうの言う以前に、臨床医としての著者の基本フォームがいいと思った。医学は日々進歩しているから、断定的に物事は語れないというスタンス、複数の立場、主張がある場合、それぞれの立ち位置とアングルがあるという冷静なものの見方、好き嫌いではなく、現時点で正しいか正しくないかという大人のものの見方など、たいへん勉強させられた。
日ごろ興味のない分野であっても、こうして学べる点を見出せる良書と出会えるとちょっとうれしい。

2011年2月27日日曜日

遠藤諭『ソーシャルネイティブの時代』


鯵を味噌とねぎをまぜてたたいた房総半島の料理、なめろう。
ここのところずっと食べたくて仕方ない。川本三郎の銚子を訪ねた記述が脳裏に焼きついているのだろうか。
子どものころ、南房総千倉町出身である母は鯵と味噌とねぎをたたいたなめろう状のものをフライパンでこんがり焼いてよく夕食のおかずにした。ちょっとしたおさかなハンバーグとでもいったらいいだろうか。当時比較的安価な食材で子どもたちのよろこぶメニューを考えるにあたり、自分の幼少から食べていたなめろうをヒントに加工したのかもしれない。
正直、なめろうハンバーグはさほどおいしいとは思わなかった。ハンバーグは肉じゃなければいけないと思っていた。
40年以上もたって、なめろうが恋しくて仕方ないのは、そんな母の手づくり料理に対するノスタルジアか。
ところでこの本の157-159頁はおもしろかった。
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携帯端末としてのiphoneに比べ、ipadは画面が大きく、書籍や新聞に変わるデバイスとして、実は40代が利用率でピークであるという。それでいて
<<ネットに書かれたユーザーの声を見ていると「もうお父さん、トイレにipadを持って入るのはやめてください」なんてジョークまである。>>
などという一節を書いている。
紙に代わるデバイス、ゆえにトイレに持って入る。笑えた。ipadを紙として使う、なんて贅沢なんだろう。
データとその読み込みが中心である本書の中でここだけが一服の清涼剤だった。

2011年2月23日水曜日

斉藤徹『新ソーシャルメディア完全読本』


3色ボールペンは便利でよく使うのだが、特定の色のインクだけが先になくなってしまうので困る。
おそらく今の時代だから、替え芯があるのだろう。それにしても3色ボールペンはふつうのボールペンに比べて内部構造が複雑で、一見すると替え芯を受け付けないんじゃないかと思えるときもある。
たとえば、斎藤孝の3色ボールペンを活用する読書は最重要部分に赤線を、重要部分に青線を、自分でおもしろいと思った部分に緑線をひくというものだが、たぶん赤インクの消費量は少ないのではないかと考える。たしかにクレヨンにしたって、色鉛筆にしたって何色あろうが、好きな色とか汎用性のあるベーシックな色からなくなっていくものだ。
もちろんふだんはできるだけそんなことは考えないようにしている。インクの減りが偏るから、今日は赤を使おうとか、だいじなメモだけど最近赤が少ないから黒にしておこう、などと考え出したら、書いた気がしないではないか。そんなわけで3色ボールペンを使うときは心のおもむくままにインクを使い分けよう、けちな考えは起こさないようにしようと日ごろ心がけている。その点、4色ボールペンだともうどうでもいいやという気持ちになりやすく、気兼ねなく使えていい。
先日、ファイルストレージサービスを使って、資料を送ったら、相手先からダウンロードできないとクレームがあった。その時点で原因はわからず、こちらに落ち度があったのかなかったのかさえわからなかったが、ツイッターでそのサービス名を検索したら、サーバが落ちて困っている人が多数いることがわかった。ああ、ソーシャルなんだな、時代は。
ツイッターだフェイスブックだとソーシャルメディアがうねっている。なんとか時代に取り残されないようにこんな本を読んでいる。
その時点でなんとなく“負け”てるなと感じる。

2011年2月20日日曜日

村上春樹『村上春樹雑文集』


庭にツグミがいた。
ツグミを見るのは空き地や農閑期の畑などだだっ広いところが多いので、猫の額のような庭にいるのがなんとも不似合いである。ツグミもそれとすぐに気づいたのか、またたく間に飛び去って行った。ツグミの凛として、背筋の伸びたその姿勢が嫌いではない。
今住んでいる場所に引っ越してくる前は駅まで30分ほどかけて歩いていて、そのときさまざまな野鳥に出会った。さまざまといっても東京の住宅街で見かける野鳥といえば、ヒヨドリ、ムクドリ、メジロ、ハクセキレイ、くらいのものであるが。夏のツバメ、冬のツグミはやはり季節を感じることができてうれしい鳥たちだ。
この本は“雑文集”ということでレコードのライナーノートや文学賞の受賞のあいさつ、翻訳版刊行の序文など、さまざまなジャンルの雑文からなる。雑文といっても駄文ではない。ひとつひとつがウィットに富んでいる。ぼくはジャズなどほとんどわからないし、彼が翻訳紹介した作家の本もすべて読んでいるわけではない。チャンドラーでさえ読んでいない。それでも楽しく読めたのが不思議だ。
長編小説が村上春樹にとってのメインストリートだとするとちょっとした路地裏や横丁集といった色合いの本とでもいえるだろうか。
もともとユーモアの感覚に富む人だから、カジュアルな文章は読んでいて楽しいし、またある意味偏屈な人でもあるので小説のことを語らせると奥が深い。まじめな人なんだなと思う。
ちょっとした町歩きのつもりで読んでいたら、いとこの名前が出てきた。裏道でばったり出くわしたみたいな感じだ。

2011年2月17日木曜日

井伏鱒二『駅前旅館』


『駅前旅館』と聞くと往年のシリーズ映画を思い出す。
森繁久弥、伴淳三郎、フランキー堺に淡島千景、淡路恵子、池内淳子といずれも芸達者なキャストである。
その映画の原作となった井伏鱒二『駅前旅館』のおもしろさは、日常接することがあまりできない“裏側”を覗き見るところにある。幸田文の『流れる』の主人公梨花が“くろと”の世界を覗いたように。
以前仕事で結婚式場の舞台裏を見せてもらったことがある。厨房から披露宴会場に通じる秘密の通路を歩いてみた。風景は立ち位置が変わるとがらりと一変する。卒業した学校に久しぶりに訪ね、もうその生徒じゃない目で教室や校庭を眺めてみるときにも似たような感覚をおぼえる。
ぼくの母は若い頃銀座のデパートに勤めていた。客商売というのは客前で言えない言葉が多くあって、隠語によるコミュニケーションをする。マスコミや広告業界の人たちも“シーメー”とか“ヒーコー”とか業界用語を駆使する。当然、旅館にもある。主人公生野次平が随所に紹介してくれる。
旅館やデパートに限らず、どんな業界にも表と裏があるのだと思う。そして白昼のもとに曝された裏側は間違いなくおもしろい。それだけでこの本は有無を言わさずおもしろい小説なのである。
それにもましてこの本がいっそう読者を駆り立てるのは単なる裏側暴露にとどまらない人間観察に基づくものだからだ。駅前旅館という東京の都心ではまず見かけなくなった場所の、番頭という職業は今の時代に通用するビジネスヒントや接客の基本をその経験から数多く身に付けている。そういったちょっと大人の視点で読んでみるのも悪くない一冊だ。

2011年2月13日日曜日

向田邦子『男どき女どき』


向田邦子はラジオ、そしてテレビの脚本を書いていた。放送作家と呼ばれるジャンルの物書きだった。彼女は単なる文章家ではなく、時間という制約の中で書いていた。そのことが読んでいてよくわかる。無駄がないのだ。
広告の文案づくりも似たところがあって、同じ単語をなんども使わないようすぐれたコピーライターは訓練されている。いちど状況を説いたら、それ以上深入りはしない、反復もしない。それが放送作家出身である向田邦子の明快さだ。
この本、『男どき女どき』は『思い出トランプ』の続編として連載開始された創作短編だった。残念ながら連載が完結する前に向田邦子は飛行機事故で世を去っている。ちなみにこのブログでは簡単にカテゴリー分けをしている。本書後半のエッセーもたいへん魅力的で捨てがたいのであるが、ここでは“日本の小説”に分類させてもらう。この本を刊行した人がつけたタイトルを尊重したかたちだ。
昭和の戦前、戦中は一般には暗い過去として脚光を浴びる時代とはいえない。向田邦子のよさは多くの人が避けるようにしてきた昭和的な生活に光をあて、そのなかにきわめて日本人的な生活様式や家族観なるものを書き残している点にあるといえる。関川夏央は「少女時代から転校を繰り返していた向田邦子は、土地に愛着しなかった。いわゆる古里を持たなかった。そのかわり失われた、昭和戦前という時代とその家族像に深く愛着した」といっている(『家族の昭和』)。
それはともかく、「鮒」、「ビリケン」をはじめとして短編は秀逸。一見寄せ集め的に並べられたエッセーの数々も小気味いい向田節で、読むものの心に響く。

2011年2月8日火曜日

山脇伸介『Facebook 世界を征するソーシャルプラットフォーム』


先週、南阿佐ヶ谷のバタフライ卓球道場へ山手四区親善卓球大会を観に行った。
回を重ねて55回。小規模な大会ではあるけれど伝統ある試合である。
新宿、杉並、世田谷、中野の各区から選抜された男女13選手による団体戦で、一般どうしの対戦と年齢別(30代~70代)で5ゲームマッチの試合を行う。例年だとかつて世界選手権や全日本で活躍したベテランも参戦するそうだが、今年は代々木第二体育館のジャパントップ12という大会と重なり、協会役員クラスのベテランはそちらに行ってしまったそうだ。
ゲームは接戦の連続で、さすがに各区の代表であり、東京選手権などハイクラスな大会の経験者やかつてインターハイや学生リーグ戦でならしたつわものが集まっただけはある。結果は杉並区が3戦全勝で優勝。卓球の師匠であり、監督であるTさんのいいはなむけとなった。
Tさんは長年営んでいた酒屋を辞め、来月長野へ転居する。その日は試合の打ち上げと新年会を兼ねて、送別会が行われたという。
facebookがどうもよくわからない。
わからないことがあると書物に頼る傾向があるので本屋をうろうろする。できれば新書でさらっと読めるものがいい。
というわけで読んでみた。まあ軽く概観してくれている。ツイッターとはこう違うのだね、となんとなくわかる。使いこなせるとすごいらしいが、使いこなし方はまた別の本が必要だと思った。

2011年2月5日土曜日

山口瞳『居酒屋兆治』


先日、JR中央線の国立駅で降りて、南武線の谷保駅まで歩いてみた。
国立は、道幅の広い大学通りが南に伸び、緑も豊かで(もちろん季節的には緑はないが)、空が高く見えるいい町だ。一橋大学には古い建物が残されている。堂々としたたたずまいである。歩道には駅から何百メートルと記された敷石がある。1,000メートルあたりになると駅前の人通りは絶え、静かな住宅地になる。
さらに歩いていくと商店が見えてくる。駅がある。駅前にロータリーがある。ここが南武線の谷保駅。『居酒屋兆治』のモデルとなった“やきとん文蔵”はこのあたりにあった。
1982年。この本が刊行された当時、ぼくは中央線武蔵小金井にある大学に通っていた。当時はそこから西へ行くことはほとんどなく、国立なる駅も意識になかった。
映画『居酒屋兆治』はテレビで観た。緒方拳演ずる河原の「じょうだんとふんどしはまたにしてくれ」という台詞だけが強烈に残っている。映画の舞台は函館だった。高倉健は北の空気と光がよく似合う。
国立は新しい町という印象が強い。国分寺と立川の間だから国立というその名の起こりからして新しい。作者の山口瞳はこの町に長く住んだという。おそらくはこの本を通してでなければ、国立が昔ながらのよき集落であったという認識は持たなかっただろう。
もっと若い頃読んでおけばよかったと思う気持ちと、いまこの歳になってはじめて読んだからよかったんだという思いが半々である。

2011年2月1日火曜日

長谷川裕行『Wordのイライラ根こそぎ解消術』


先週、阿佐ヶ谷ラピュタで小石栄一監督の『流れる星は生きている』を観た。
原作は言わずと知れた藤原てい。新田次郎夫人であり、数学者藤原正彦の母である。主演は三益愛子。川口松太郎夫人であり、川口浩の母である。
映画は原作のような引揚げシーンの連続ではなく、むしろ引揚げ後の夫を待つ引揚げ者の苦労が中心に描かれている。1949年に満州から朝鮮半島を経て、日本に還る行程など当然映像化できるものではあるまい。山崎豊子の『大地の子』がドラマ化されたが、おそらくそのくらい時をへだてていなければ、原作の世界は描けないだろう。
この映画は終戦のどさくさの中で助け合いながら強く生きるもの、利己的に小賢しく生きるものなどの対比が全体に染みわたっている。終戦の現実を描くことで、大陸生活者の、引揚げ者としての悲哀を描こうとしているかのようである。
パソコンを使いはじめてから、しばらく一太郎というワープロソフトを使っていた。Ver.3からVer.4くらいの頃。当時はワープロは一太郎、表計算はロータス、データベースはDB3が主力だったと思う。WordもExcelも使い勝手はよくなかった。その後、MSDOSからWindowsにオペレーティングシステムが移行するにつれ、Word、Excelが主役になってくる。それにしても国産品でないワープロソフトは実は微妙に使い難い。ワープロなんてマニュアルなしで使いこなせなければいけない標準ソフトなのに。
と思っていた矢先に出会った本がこれ。講談社のブルーバックスを読むのは何十年ぶりだろう。

2011年1月30日日曜日

山際淳司『スローカーブを、もう一球』


選抜高校野球の出場校が決まった。
全国10地区から何校か選ばれるわけだから、だいたい昨秋の地区大会の上位校が出場する。その枠内では“選抜”は難しいことではない。議論されるのはたとえば関西地区のように6校を選ばなければならない場合のベスト8ののこり4校から2校を選りすぐるときだろう。京都成章などは僅差で準々決勝敗退だったので評価が高いというわけだ。加古川北も優勝した天理と好ゲームをした点が評価されている。同じようなことが関東にもいえて、ベスト8から前橋育英が選ばれた。
1980年頃の本を読んでみたいと思った。
『Sports Graphic Number』が創刊されたのが1980年。それまでのスポーツ紙の延長線上にあったジャーナリズムとは異質なメディアの誕生だった。スポーツはそれ自体がドラマであると同時にメディアにおいてもドラマになった。
おそらく山際淳司はその先鞭を着けたひとりだろう。
こうして30年の時をへだてて読んでみると当時からすでにスポーツを志す若者たちは“さめていた”んだなと思う。ドライで割りきりのはやい若者たち。おそらくぼくたちもそんな風に生きていたに違いない。
同時代に生きた選手たち(江夏は世代的には上であるが)は今ごろ何をしているのだろう。
1980年頃の本。そこにはなにがしか昭和の残骸が残っているような気がする。
そんなにおいに惹きつけられてやまないのである。

2011年1月25日火曜日

川本三郎『我もまた渚を枕』


このタイトルは島崎藤村作詞「椰子の実」からとったのだという。取材をほとんどせず、ぶらっと訪れ、風景の一部となる、そんな流儀の町歩き記録である。
川本三郎といえば東京町歩きの名人であり、東京のほぼ全域をカバーしているはずだ。しかも膨大な文学作品や映画作品を引き合いに出して、町という時空間を立体的に読み解く、あるいは、歩き解く。
この本は著者がほぼ歩きつくした東京から一歩外へ足を踏み出した近郊の旅の記録である。船橋、鶴見、大宮、本牧と行き先になんの気取りも気負いもない。観光スポットでもなければ名所旧跡でもない。そこがこの本の最大の魅力となっている。基本は著者の東京歩きのスタンスが活きている。遠出するからといって着飾ることもない。
川本三郎の町歩きの基本は町との同化である。「ただ、静かに「昔の町」のなかに、姿を消すこと」(『東京暮らし』)といっているし、本書のあとがきにも「旅とは、日常生活からしばし姿をくらまし、行方不明になること」と書いている。
こういう歩き方はそう簡単にできるものではない。歩いて歩いて歩き抜いてはじめて到達できる境地、というものがそこに感じられる。
ちなみに本書中で強く惹かれた場所は本牧、市川、川崎。
横浜の石川町、根岸界隈は以前から市電保存館を見て、大学の指導教授が住んでいた山元町あたりを歩きたいと思っていた。川崎の海側はかつて実家からいちばん近い野球場としてなんども通った川崎球場があるあたり。市川はいわずと知れた永井荷風の晩年の町。
鶴見線も以前全線乗りつぶしたことがあるが、町歩きという視点でもういちど訪ねてみたい。

2011年1月23日日曜日

川本三郎『東京暮らし』


今日、全日本卓球選手権を観戦に行った。会場は千駄ヶ谷東京体育館。
男子ダブルスと女子シングルスの決勝が行われた。男子シングルスは6回戦が終わり、ベスト8が出そろった。笠原、岸川、高木和卓、張、丹羽、松平賢、水谷、吉田。韓陽、松平健らがベスト16で終わった。準決勝、決勝を観ておもしろいのは当然だが、一般市民として観て楽しいのはやはりベスト32~8あたりだろう。
明日は準々決勝~決勝が行われる。
去年の暮れ、図書館に永井荷風全集の一冊を返しに行った。
永井荷風は『濹東綺譚(ぼくとうきだん)』ともう何編か読みたかったのだが、12月のあわただしさにかまけて、結局一編しか読めなかった。幸田文全集も借りたけれど、これはまったくの手付かずのまま返した。年末にむけてますます本を読む時間はなかろうと思って帰ろうとしたそのとき目の中に飛び込んできたのが、川本三郎の本だった。
川本三郎の本をさほど多くは読んでいなかったが、どことなく波長が合いそうな気がしていたし、時間がなくてもこの本は“ベツバラ”かと思い借りてしまった。
結論からいえば、借りるんじゃなかった、買えばよかったと思っている。
先に読んだ『きのふの東京、けふの東京』に比べると、町歩きや映画のことだけでなく、著者の日常なども描写されていて興味深い一冊だ。それに失われていくものに対する思いが忌憚なく語られていて好感の持てる本である。
しばらく川本ワールドにはまりそうな気がする。

2011年1月19日水曜日

幸田文『流れる』


東京の昭和をふりかえる際、必ずといっていいくらい言及されるのが幸田文の『流れる』である。
この小説は成瀬巳喜男の手によって映画化され、フィルムに焼きつけられた古きよき東京の風景とともに多くの人の記憶にとどまっている。川本三郎しかり、関川夏央しかり。
多くの論者の言を待つまでもなく舞台は東京柳橋。神田川が隅田川に流れ込むあたりでJR浅草橋駅に程近い。かつては新橋とならぶ東京の花街であった。蔦屋という置屋で働きはじめた女中の目を通してみたくろうとの世界がいわば、“家政婦は見た”的なしろうと視点で語られる。
そしてこの小説はくろうと、しろうとのヴァーサスな関係意外にも置屋の主人一家と看板借り芸者、下町と山の手、凋落と繁栄など多面的な対立的構図から成る。主人公はしろうと視点の立場でありながら、ある意味、中立的に、その存在感を強く顕示することなく生きていく。
映画の『流れる』は田中絹代、杉村春子、山田五十鈴、岡田茉莉子、栗島すみ子らそうそうたるキャストである。関川夏央は『家族の昭和』で栗島すみ子が昭和62年、85歳で、幸田文が平成2年、86歳で他界したことに言及し、次のように語る。

  彼女たちの死とともに、大正・昭和戦前という懐かしい時代は、その時代の
  家族像と花柳界の記憶を浮かべて満々たる隅田川の水のごとく、橋の下を
  流れ去った。

『流れる』、近々ぜひ観てみたいものである。

2011年1月15日土曜日

町田忍『東京ディープ散歩』


卓球の師匠Tさんが引越すという。
Tさんはうちの近所で酒屋を営んでいる。そのかたわら区の卓球連盟の役員をされている。世代的には荻村伊知朗と長谷川信彦の中間の世代でまさに卓球ニッポン全盛期の人である。全日本や国体の出場経験もある。根っから明るい人柄で初心者にも懇切丁寧に指導してくれる。
話を聞くと奥さんの実家が長野で幼稚園を経営していて、高齢のお義父さんの手伝いがてら同居を決めたのだと。もちろん大学時代の後輩が長野の連盟にいるので卓球の仕事も続けたいという。
Tさんにはじめて教わったのが一昨年の夏。月にいちどの一般開放日のアドバイザーとして練習を見てくれるだけなのでさほど多くの時間をかけて指導されたわけではないが、長年ラケットを振っているだけあって、ひと目で弱点を見抜いて、ポイントポイントを集中的に教えてくれる。昔話もまた楽しい(これが少々長いのだ)。
引越してしまうのは寂しいものだが、Tさんは今中学1年生のお孫さんがインターハイに出場するのを楽しみにしている(Tさんも、Tさんの娘さんもインターハイに出場している)。いずれ応援に足繁く東京に通ってくるんじゃないだろうか。そんな気もしている。
1500円の本を神保町で350円で売っていた。それも古書でもなさそう。たいした本ではないだろうと高をくくって開いてみると写真もいいし、この350円はいい!と思って買ってみた。
まだまだディープな東京はたくさんあるんだろうが、ディープ入門としてはなかなか結構な一冊である。

2011年1月12日水曜日

日本経済新聞社編『日本経済新聞の読み方』


日曜日、十条界隈を散策した。
昔、山手線池袋と京浜東北線赤羽を結ぶ赤羽線という路線があって、山手線の電車が黄色からうぐいす色になったあとも黄色の101系電車が走っていた。十条はそのなかの一駅である。今では埼京線と名前を変え、埼玉以北と副都心さらには湘南につながる重要な路線だ。おそらく埼玉県内の埼京線の駅はたとえば戸田公園あたりはぴかぴかの新駅という気がする。それにくらべると十条駅は古くさいローカル線の駅のままである。
駅の北には十条銀座という商店街が東西に延びていて、昔ながらの商店がならび、演芸場もある。少し裏路地に入ると、木造モルタルのアパートがまだ多く残っている。質素な町並みだ。
しばらく行くと北区中央図書館がある。ここは通称赤レンガ図書館。1919年に建てられた旧東京第一陸軍造兵廠十条工場だった建造物を利用してつくられている。王子、滝野川は明治の昔から軍関係の工場が多かった地域である。
社会科学というものに興味を持てないままおとなになってしまった。
大学の一般教養の授業で経済学、社会学、法学のどれかをとらなければならなくて、結局何を選択したのかさえ憶えていない。歴史とか地理とかに比較するととても複雑な構造物のような気がするのだ。
そういった意味ではぼくにとって、日本経済新聞はふつうに生活しているぶんには一向に無関係なメディアである。分厚く、文字数が多く(新書2冊ぶんあるという)、おそらく自らすすんで読むことはないと思うが、この本のようなガイドがあると読まなければいけないんじゃないかというに気にさせられる。
十条は埼京線より赤羽線が似合う町だ。

2011年1月8日土曜日

山本直人『電通とリクルート』


春高バレーが東京体育館で開催されている。
昨年までは、野球でいえば選抜高校野球のような、3年生引退後の新人チームによる大会だったが、今年から3年生の最後の試合として位置付けられた。いってみれば、高校サッカー、高校ラグビー的な大会だ。
昔はバレーボールをしていたこともあって、よく観戦に行った。
30数年前、東京で強かったのは東洋、駒大高、早実、明大中野あたりで、それ以前は中大付の全盛時代もあった。中大付から全日本入りした選手が多かったことを憶えている。また東洋は学校も近かったせいもあるが、当時日体大OBの監督が赴任して突如として強くなったチームで印象深い。
久しぶりに東京体育館に足を運ぶのも悪くないなと思っていたが、年明け早々仕事が少したて込んできた。今年の東京代表は駿台学園と東亜学園だそうだが(東洋は前年度優勝校で出場)、どうなったのだろう(やはり昔ほど関心は高くない)。
タイトルからして電通とリクルートのビジネスモデル比較を論じた本だと思っていたが、期待はいいほうに裏切られた。
今日的な広告ビジネスの根源を安定成長期以降の1980年代に求め、インターネット広告時代の先鞭をつけたリクルートと既存のビジネスモデルを堅持しながら、変化に対応していく電通とを対比しながら、20世紀末広告史を興味深く展開する力作だ。歴史が近現代史ほどおもしろいのと同様、広告史も最近の話のほうが圧倒的におもしろい。
この本はぼくにとって妙にリアルでなつかしい、70~80年代を起源とする広告現代史といっていい。

2011年1月4日火曜日

川本三郎『きのふの東京、けふの東京』


正月の朝、餅を焼くのが子どもたちの仕事だった。
当時うちには練炭火鉢があって、そこに金網をのせて雑煮の餅を焼く。姉とふたりで。餅のふくらむのがなぜだかうれしいのは今も昔も変わらない。焼いた餅は小鍋に新聞紙をしいて、そのなかに入れておく。
父は雑煮のつゆのなかで餅を煮込んでどろどろにして食べる。ぼくと母親は硬めの餅が好きで、椀に餅を入れてつゆをかける。物心ついてはじめて千葉の父の実家で正月を迎えたとき、祖母がやはりどろどろの雑煮を食べていた。親子は煮る、ではなく、似るものだと思った。
鶏肉の入ったしょうゆだしの雑煮。実はぼくがあまり鶏肉を得意としていないので最近ではさといも、大根、小松菜など野菜だけのつゆである。それはそれでうまいが、物足りなくもある。
姉が京都に嫁いで、白味噌仕立ての丸餅の雑煮をはじめて見たとき、絶句したという。その何年かのち、実家で正月を迎えたとき、わが家の雑煮をうれしそうにほおばっていた。
川本三郎はもとは記者だったっというが、こなれた文章を読むとそのことがわかる。
また記者出身ということがどう影響しているかわからないが、少なくとも足で記事を書くタイプの人であろう。もちろん町歩きに特化した作家であるわけではない。川本三郎を最初に読んだのは『映画のランニングキャッチ』という本だった。映画評論も明快でおもしろい。まるで映画を歩いたみたいに。
近頃下町歩きに興味を持っている。今のような歩き方ではいけない。居酒屋だけをチェックするような歩き方はよくない。生半可な姿勢で歩いてはいけない。そう思った。

2011年1月1日土曜日

国木田独歩『武蔵野』


謹賀新年。

小学校の校歌が“みやこのまみなみ むさしのの”という歌い出しだったのを憶えている。
ぼくが生まれ育った品川はいわゆる東京ではなく、郊外の武蔵野だったのだろう。渋谷あたりもかつては武蔵野だったという。昔の区部はほぼJR山手線の内側と考えていい。
そう考えてみると武蔵野は広かった。なんとなくイメージしていた武蔵野は西荻から先、調布、府中、小平あたりまでで、そこから西南は多摩ではないかと思っていた。JR武蔵野線は西国分寺から新座、浦和、越谷、三郷、松戸を経て船橋の方までつながっている。この沿線を武蔵野、つまり旧東京の周縁部を武蔵野と呼ぶならば、それは相当広い範囲と言える。東北や北海道が土地として広いのと同様、未知なる土地は大きくくくられるのであろう。東京は自然豊かな未知なる田園に囲まれていたわけで、ぼくもその“むさしの”の出身なのだ。
国木田独歩といえば『武蔵野』が代表作であり、叙情豊かに武蔵野の自然とそれを愛する独歩の思いが綴られているが、むしろそれ以外の珠玉の短編に出会えたことのほうが、この本を読んだ意義としては大きい。「わかれ」、「置土産」、「源叔父」、「河霧」など泣かせる秀作がそろった短編集である。

というわけで今年も本読みブログはじめます。本年も引き続きよろしくお願いいたします。

2010年12月28日火曜日

今年の3冊2010


先週、川崎という町を訪ねた。
川崎は「街」というより「町」な感じがする。その熱狂振りはカワーニョさんのブログに紹介されているのでそちらを参考にしてほしい。丸大ホールで熱燗をのんで、つまむ、というより、ガッツリ食べた。草食系でもなく、肉食系でもなく、定食系の忘年会だった。
さて、世にある評論家のごとく今年の3冊などと生意気なことを許していただくとして、心に残った本を別記事で記しておこうと思う。

安岡章太郎『僕の昭和史』
大正末に生まれ、昭和とともに歩いてきたぐーたら作家の代表格による独自の昭和史。戦争を庶民の目線でとらえた貴重な資料だと思う。すでに新潮文庫のリストからはずされているが、神保町の三省堂書店で手に入ったのも幸運だった。

高村薫『レディ・ジョーカー』
ビール会社に限らず大企業、それも出世をめざす人、警察官をめざす人、そしてジャーナリストをめざす人は絶対読むべき本だ。大森山王から海岸側の産業通り、さらには糀谷、萩中、羽田あたりの風情を味わう散策ガイドとしてもすぐれている。

関川夏央『家族の昭和』
ぼくの関川体験は『砂のように眠る』からである。ここのところ昭和探索を続けているが、その原点はこの本にあるといえる。その関川夏央がまた新たな切り口で昭和を見せてくれた。向田邦子、幸田文などここからインスパイアされる本は数知れず。

そんなわけで2010年のブログはこれでおしまい。
一年間立ち寄ってくださった皆さんに感謝します。
よいお年をお迎えください。

2010年12月24日金曜日

永井荷風『濹東綺譚(ぼくとうきだん)』


このあいだの日曜日、卓球仲間の忘年会があった。
いつしか体育館で知り合い、毎週日曜日(場合によっては祝祭日、土曜日)に集まっては練習をするようになった。中学・高校時代に部活経験のある人もいるので、毎回ただ漠然と打ち合うのではなく、それなりにシステマティックな練習も採り入れている。そんな仲間たちと酒をのんだというわけだ。
のんで話し出せばきりがない。卓球の話はもちろんのこと、他のスポーツの話、各自の出身のこととか、食べ物の話などなど。年齢的にも40~60台だから共通する話題もあれば、かみあわない話もある。で、話は結局、卓球のことに戻るわけだ。
生ビールをのんで、焼酎をのんで。それから後のことはあまり憶えていない。翌日は立派な二日酔いになっていた。
永井荷風は『ふらんす物語』以来だ。
一般にこの小説は東京向島の往時を偲ぶ名作と評されている。ごたぶんにもれず、ぼくもそのような視点から読んでいる。グーグルマップで東向島駅周辺を表示し、あ、これはこの界隈だな、などとひとりごちながら読んだのである。
青梅街道の荻窪辺りに天沼陸橋というJR中央線をまたぐ橋がある。天気のいい日にはここから遠くスカイツリーを見渡せる。ふむふむ、あの辺が向島だな、などと思いながら、休日に散歩する。スカイツリーができあがってしまえば、おそらく街の風景はもちろん、その空気みたいなものも変わってしまうだろう。浅草から曳舟、千住。さらに荒川を渡って立石。いったいこの辺りはどうなってしまうのだろう。
大きな変貌をとげる前に東向島(当時の名前でいえば玉の井)を散歩してみたいものだ。

2010年12月21日火曜日

吉野源三郎『君たちはどう生きるか』

Ticket
今月のはじめにACC(全日本シーエム放送連盟)の主催するコマーシャル博覧会というイベントに行ってきた。
コンテンツは著名なクリエーターによる講演や今年のCMフェスティバルの入選作品、日本の名作CM選、海外クリエーターのドキュメントフィルムなどの上映である。
ぼくはそのなかで「杉山登志作品集」と「もう一度みたい日本のCM50年」、そして映画「Art&Copy」を観た。杉山登志はかつて資生堂のCMなどでコマーシャルの世界を席巻した天才CMディレクターであり、今の時代からみればその映像の見た目はそれなりに古びてきてはいるが、随所に当時としては大胆な手法を取り入れてきたその手腕に感心させられる。「Art&Copy」はここ何年かで世界的に注目を浴びたCMの制作者にスポットをあてたドキュメンタリー。すぐれたクリエーターというものはすぐれた言葉を吐くものだ。
で、実はいちばん楽しみにしていたのが「もう一度みたい日本のCM50年」だった。
結論からいうとこれはぼくの期待に応えていなかった。それはかつてACCで表彰された秀作のリールであり、この業界にいるものなら誰も知っている、見たことのあるお手本集だった。そうじゃないんだ、ぼくが観たかったのはぼくが子どもの頃なんども視て、記憶にとどめていた昭和の普段着のCMなのだ。「ほほいのほいでもう一杯ワタナベのジュースの素ですもう一杯」とか「ハヤシもあるでよ」とか「うれしいとめがねが落ちるんですよ」なのだ。
『君たちはどう生きるか』、これも関川夏央からインスパイアされた一冊。
もともと健全な青少年を育成するタイプの本だけに今さら読むのはどうだかなあと思っていたんだが、これはむしろうす汚れてしまった大人こそが読むべき本であろう。デジタル化されて、斜に構えた今どきの子どもたちになんか読んでほしくない。
世の中に、人生にくたびれ果てたおじさんたちにさわやかな一陣の風を送り込む、そんな本である。


2010年12月17日金曜日

小林信彦『昭和の東京、平成の東京』


12月になって、暖かい日があり、寒い日もある。寒いといっても今のところ超一級の寒波の到来はなく、気圧配置が冬型になると北西風が強くなり、空気が乾くが、それも一時のことで気温は平年並みだったりする。
ついこのあいだまで暑くて暑くてどうしようもなかったのが信じられないくらいだ。特に休日の体育館でそのことを痛感する。少しラリーをするだけでじゅうぶん汗をかけた夏場と違って、この時期はなかなか身体があたたまらない。準備運動も夏場より入念に行う必要がある。休憩するにしても上着を着るとか、トレーニングパンツをはくなどしないとあっという間に冷え切ってしまう。
ここのところ3球目攻撃、5球目攻撃、7球目攻撃といったパターン練習を繰り返している。基本練習であり、実戦的な練習でもある。もっと新しいパターンを試してみてもいいと思うのだが、新しいことより、今やっている基本練習の精度を上げていくほうが大切な気がしている。一応、それなりに緊張感を保ちながら、反復しようと心がけてはいる。
筆者小林信彦の生まれた現在でいう東日本橋あたりはかつて両国と呼ばれていたそうだ。
両国というとぼくのように両親が房総半島の出身だったりすると両国駅をすぐに連想する。かつて房総の玄関であった両国駅である。そんなわけで隅田川の西側が両国というのは少々違和感があるのだが、隅田川をはさむ地名、ゆえに両国なのだという。その後、川の向こう側だけが両国と呼ばれるようになったらしい。
浅草橋駅の近く、神田川が隅田川に合流するところに柳橋という緑色に塗られた小さな橋がかかっているが、それを渡ると住所は東日本橋となる。大きな通りに出ると左手に両国橋が見える。
昭和から平成へ。下町に生まれた筆者の思慕を随所に読みとれるすぐれた随想である。

2010年12月15日水曜日

朝倉かすみ『田村はまだか』


このブログに対して、いろいろアドバイスをいただくことが少なからずある。
たとえば、もっと写真とか画像を入れてみたらどうかとか、文章量を減らしたり、行間をあけたりして読みやすくしてはどうかとか、著者名、書名だけでなく出版社とか発行年とかも入れてくださいとか。ぼくも映画評論をするイラストレーターよろしく、名場面を絵にしたらどうかと考えたこともある。絵を描くことはある意味ぼくの職業でもあるのだが、絵を描くだけが仕事ではないのでちょっと負荷がかかりすぎる。まあたまにならいいかもしれないけど。
まことにありがたいサジェスチョンの数々ではあります。そのうちにいくつかは実現していきたいと思っています。
あと、もっと本のことを書いてください、なんて方もいるんですけど、まあこのブログはぼくの個人的な備忘録的な意味合いもあり(それがほぼすべて?)、もちろん読みやすく、読む人すべてにわかりやすく、ためになることをめざしたいとは思うのですが、今は自分のことだけで精一杯なのです。
それでもこのブログを読んで、同じ本を読みました、なんて言われるとちょっとうれしかったりする。
この本はイラストレーター井筒啓之の装丁が気に入って読んでみた。最近文庫化されたようだが、ぼくはたまたま図書館で単行本を見かけたのでそちらのほうを読んだ(たぶん内容的に異なるところはないはずだ)。
後半にやってくる事件がちょっと劇的すぎると思うが、こんなストーリーを映画化したらそこそこヒットするんじゃないかな。アラフォーには受けるかも。
キャストを考えるだけでもちょっと楽しい。

2010年12月12日日曜日

佐藤達郎『教えて!カンヌ国際広告祭』

先日久しぶりに高田馬場から早稲田界隈を散策した。
ツイッターで知り合った下町探険隊に加わったのだ。探険隊のメンバーはすでに立石だの向島だの三ノ輪だの方々を歩いているつわものばかり。たまたまぼくが以前、20台の最後の歳から5年近く早稲田に住んでいたということで仲間入りしたわけだ。
夕刻高田馬場ビッグボックス前で待ち合わせして、早稲田松竹や今は廃屋となっている名曲喫茶らんぶるを見て、古書店街を歩き、早稲田大学構内へ。大隈講堂前で後発のメンバーと合流。隊長Kさんの母校であるなつかしの文学部校舎へ。Kさんは卒業以来だとしみじみした様子。
お腹も空いたので馬場下町のキッチンオトボケで思い思いの夕食。やはり一番人気はじゃんじゃん焼き定食。K隊長の説明によれば、ジンジャー焼き、要は生姜焼きがなまったものだろうとのこと。ビールを飲みながら時間をかけて完食した。とにかくみんなお腹がいっぱいなのでとりあえずどこかでお茶でも飲もうと喫茶店に入る。
ここからがまるで学生ノリ。尽きない話で盛り上がり気がつけば夜の10時。じゃ、そろそろってことで解散となった。学生街に迷い込んだ大人がすっかり学生気分になってしまったわけだ。K隊長いわく、「学生に戻りたいな。学生に戻れたら、こんどはちゃんと勉強するぞ」
佐藤達郎は2004年のカンヌ国際広告祭フィルム部門の日本代表審査員である。よくよく考えればこの年、ぼくはこの広告祭に参加しているのである。著者が審査会場で浴びるようにフィルムを観て、とめどない議論を積み重ねているとき、ぼくは会場をあちこちはしごしながらエントリー作品を観ていたのだ。
そういうこともあって妙になつかしい気分になった。筆者の思いは広告制作者たちに向けた新しい時代の広告の模索であるはずなのに。もちろんそれはそれで勉強になる一冊だ。
その一方でぼくはなつかしいものが好きなのだ。

2010年12月8日水曜日

小林信彦『怪物がめざめる夜』

先週また野毛に行ってしまった。
ぼくが十数年前に辞めた会社の後輩だったKに会ったのだ。Kはしばらく仙台にいて(ぼくがいた頃はまだ会社は小さく、その後合併して支社ができた)、今年になって横浜支社勤務を命ぜられた。
四日市出身で中学の頃上京。それ以降しばらく東京に落ち着いていた。もともと野球はドランゴンズ、ラグビーは明治、競馬は藤田伸二と一度決めたら応援し倒すタイプであるが、仙台時代は楽天も応援するようになり、東北の祭という祭も見てまわったという。頑固一徹ではない人なつっこさも持っている。
声の大きいやつに悪いやつはいないというらしいが、まさにそんなキャラクターだ。行った先、行った先でしっかり根を生やし、地元に親身に溶け込んできたことが話の端々にうかがえる。横浜はまだまだ初心者だと謙遜しているが、なかなかどうして、野毛や山手あたりのいい店にはかなり精通している感がある。
そんなわけで先週はたいへん混み合う焼鳥屋から都橋の風情のあるスナックをめぐり、最後は地元で人気の中華へ。サンマー麺、餃子、紹興酒が締めの3点セット!と高らかに声をあげるKはすっかりハマっ子のようである。
伊集院光が深夜ラジオで言及していたのがこの本。
ありえそうでありえない話より、ありえなさそうだけどありえるかもしれない話のほうが物語としては断然面白い。
この本はもちろん後者だ。20年近く昔に書かれた小説なのにきわめてありえそうな予感のする恐怖小説だ。もちろん10~20代の若者を虜にするカリスマというキャラクターが現代的かどうかというのは別として。

2010年12月5日日曜日

千尋『赤羽キャバレー物語』

キャバレーと呼ばれるところに行ったことがない。
以前勤めていた会社の近くに「白いばら」というキャバレーがあり、社長はよく通っていたという。行ったことがないので勝手なことしか言えないけれどホステスさんが大勢いて、ショウがあって、ダンスをしたりする昭和の社交場というイメージが浮かぶ。先の社長もダンスが大好きな人だった。
ぼくは近ごろ(今にはじまった話ではないのだが)、“昭和”に凝っている。古い居酒屋や情緒のあるスナック、さらにはこれらのお店が息づいている風情ある街を歩いてみたいと思っている。
毎日新聞の夕刊、たしか毎週土曜日だと思うが、東京すみずみ歩きという川本三郎のコラムがあり、古き良き東京に独自の視点を投げかけている。そこで紹介された赤羽の町がこの本を読むきっかけになった。記事では司修の『赤羽モンマルトル』とこの『赤羽キャバレー物語』が紹介されている。『赤羽モンマルトル』は現在捜索中である。
著者の千尋は紆余曲折の人生を経て(おそらくこの本に書かれている以上に紆余曲折があったんじゃないかと思う)、川口、赤羽でホステスとして生きる。この本は彼女のホステスの日々を率直に綴ったもので読みすすめればすすめるほどに味が出る。ホステスという職業が主役なのでなく、つまり接客業という狭義のエピソードではなく、人間対人間の、思いやりだとかコミュニケーションのあり方が語られているのだ。
ひとりの人間がひとつの職業を、生涯を通じて全うするためには単に資質だけではなく、日々努力研鑽する姿勢がなによりも大切なのだと大げさではなくそう思った。

2010年12月2日木曜日

村松友視『黒い花びら』

水原弘といえば、昭和40年代少年の世代には「ハイアース」のホーロー看板である。アクの強い視線を街中に投げかけながら、商品を手にうっすら笑っている和装の水原弘(にっこり笑っているバージョンもあったっけ)。今でもぼくの両親の実家がある千葉の白浜や千倉では目にすることができる。
新進気鋭の永六輔、中村八大と組んだデビュー曲「黒い花びら」は第一回の日本レコード大賞受賞曲。まさに一瞬にしてスターダムにのし上がった男だ。その後大ヒットから遠ざかり、酒におぼれ、借金をかかえ、博打に手を染め、破滅の道を歩んでいく。そして再起をかけ、川内康範、猪俣公章コンビによる「君こそわが命」で劇的なカムバックを遂げる。おそらくぼくらの世代がリアルに見た水原弘はこの曲からだろう。が、水原弘は多くの協力者たちを尻目にさらなる破滅の道を選んでいく。
それにしても村松友視という人はおかしなところに目を向ける作家である。トニー谷しかり、力道山しかり、大井町の骨董屋しかり。アウトローを追いかけているのではなく、一般人とアウトローの境界あたりにいる人を描くのが巧みだ。水原弘は世間一般の価値観である“昼の論理”で見てはいけないと筆者はいう。天文学的数字にまでふくれあがった借金をかかえ、破滅に向かって血を吐くまでステージに立ち続ける“夜の論理”に生きた男である。それでいて家族に向ける、不思議にやさしいまなざし。
フランス映画にあるような、貧困の時代からスターダムへのし上がり、そして放蕩から破滅に向かうヒロインが奇跡的なカムバックをとげたにもかかわらず、その後世間から敵視され、不遇な晩年、そして悲惨な死を遂げる、そんなドラマティックな生涯がぼくたちが少年時代に親しんだホーロー看板の向こう側にあったなんて。
なかなかの力作である。

2010年11月28日日曜日

向田邦子『父の詫び状』

週末卓球を練習しに行くとき、かつての向田家の近くを通る。
向田邦子の家は荻窪駅から徒歩20分くらいの杉並区本天沼にあった。当時向田邦子は港区のマンション住まいだったから住んでいたのは向田家の人々ということになる。
荻窪とか阿佐ヶ谷あたりは作家が多く住んでいた地域で井伏鱒二、太宰治、青柳瑞穂などなど枚挙に暇なしってところだ。井伏鱒二の家はいまでも文学者然とした風貌で残っている。
先日杉並区立郷土資料館分室で『田河水泡の杉並時代』という展示を見た。
田河水泡は本名高見澤仲太郎というらしい。ペンネームの田河水泡はたがわすいほうと読むんじゃなくて、“たがわみずあわ”と読ませたかったそうだ。タガワミズアワ、転じてタカミザワ。創作する人はおもしろいことを考えるものだ。義兄が小林秀雄だったというのも知らなかった。世の中は知らなかったことに満ち満ちている。
向田家の人々を描いた『父の詫び状』は関川夏央にインスパイアされた一冊。昭和の家族像を綴った秀逸のエッセーである。語り手の向田邦子もさることながら、父母、きょうだいが幾度となく登場するなかでひときわ輝いているキャラクターは癇性の強さは父親譲りだと向田邦子も語っている父だろう。まさに寺内貫太郎のような人だ。
ぼくの父より年下で母より年上の向田邦子であるが、「おみおつけ」をはじめとしてボキャブラリーが昭和なのもうれしかった。
そしていつしかぼくは向田邦子が亡くなった歳を越えていた。





2010年11月24日水曜日

孫正義vs.佐々木俊尚『決闘ネット「光の道」革命』

音楽プロデューサーM君夫妻と卓球をした。
M君は中学高校と卓球部で鍛えたつわものであり、その奥さんもPTAなどの大会で華々しい成績をおさめている。先日飲みながら、久しぶりに打ちますかってことになって、昨日午後、荻窪のクニヒロ卓球で練習とゲームを行った。
ぼくのラケットは中国式ペンホルダーグリップで、ふだん練習している仲間たちもペンホルダーが多い。シェークハンドグリップの人もその中にいるにはいるが、まだまだ発展途上の人ばかりである。そういった点からするとシェークの上級者と練習できたのは大きな収穫だ。
ペンホルダーは一般にバックハンドが難しい。ラケットのフォア面を右利きの人ならば自分の左側にまわして打たなければならないからだ。その点シェークハンドはバック面にもラバーが貼ってあり、ラケットを裏返すだけでバック側の打球に対応できる。日頃、ペン相手に練習をしていると強打しにくい難しいボールは相手のバック側に返すことが多い。相手もつないでくることが多いのでチャンスボールの生まれる可能性が高くなる。ところが相手がシェークだとよほどコントロールよく返球しないと、振り抜きやすいバックハンドから痛打をくらう。ドライブに精度が求められるのだ。
孫正義の「光の道」構想がマスコミを賑わせている。天下国家日本の未来を憂い、熱いビジョンを語れる数少ない実業家だ。
この本はユーストリームなどで配信された5時間にわたる激論をまとめたもので読みごたえじゅうぶん。対決図式で興味を煽っているが、実は両者がそれぞれの主張を補完し合っていて、書物として言いたいことが明快だ。
ところでゲームは週5回の練習量をほこるM君夫人には完敗。今まで手も足も出なかったM君とは互角にわたりあえるようになった。日頃の練習の成果と認識し、今後も精進していきたい。

2010年11月21日日曜日

関川夏央『家族の昭和』

明治神宮野球大会が終わった。
野球が終わると秋も終わりだ。いよいよウィンタースポーツの季節がはじまる(とはいっても中国広州ではアジア競技大会で連日盛り上がっているが)。
明治神宮大会は高校の新チームによる最初の全国大会である。今年は東京の日大三が投打のかみ合った試合で優勝した。この大会に出場する10チームと地区予選で準優勝した10チームは間違いなく春の選抜に出場する。さらにこの大会の優勝校の地区からは“神宮枠”というもうひと枠が与えられる。都大会準決勝で日大三に大敗した都立昭和にも選抜のチャンスが生まれたということだ。
大学の部は斎藤、大石、福井のドラフト1位指名の3投手を擁する早稲田が初優勝。これが初というのが意外な感じがした。決勝の東海大戦は中盤逆転し、最少得点差を福井-大石-斎藤のリーグ戦では見られない豪華リレーで守りきった。それにしても打てない早稲田。来季からどう戦うのだろうか。土生、市丸、松本ら3年生と杉山、地引ら2年生は残るとして経験のない投手陣に不安が残る。春の主役は伊藤、竹内大らが残る慶應、野村、森田、難波ら投手王国となる明治、三嶋が加賀美の抜けた穴を埋めるであろう法政ではあるまいか。
関川夏央の読み解く昭和が好きだ。
この本では文芸作品(小説、随筆だけでなく映画、ドラマも含めて)をベースに昭和的家族の成り立ちから崩壊までをドラマティックに紡いでいる。戦後のいわゆる昭和的家族像はすで戦前、戦中に成立していた。ただ戦後という時代が戦前、戦中の否定から成り立っていたため見過ごされてきたというのだ。筆者以上の昭和の語り部はそう多くはいないだろう。

2010年11月18日木曜日

村松友視『時代屋の女房』

このあいだ免許の更新に都庁まで出向いたのだが、昔は鮫洲か府中でしか更新ができなかった時代に比べるとなんと便利になったものか。便利の裏側にはなにかが犠牲になっている。品川の大井町に生まれ育ったぼくにとっては鮫洲という街との接点を失ったのがなんとしても大きい。
鮫洲から南へ行くと立会川という京急の駅があり、大井競馬場の最寄り駅になっている。さらに南下すると鈴ヶ森の刑場跡がある。小学校の区内見学では品川火力発電所から鈴ヶ森というのは定番ルートだった。もっと南に行くと第一京浜国道が産業道路と分岐する。その扇の要には大森警察署があり、『レディジョーカー』でおなじみだ。「時代屋の女房」とともに収められている「泪橋」はこの立会川界隈が舞台となっている。
立会川から京浜東北線のガードをくぐり、池上通りを右折すると三叉(みつまた)商店街という、大井町では東急大井町線沿いに連なる権現町と並ぶ商店街があった。最近はとんと歩いていないので今はどうなっているのか。昔の町名でいうと倉田町だったと思う。
この小説に出てくるクリーニング屋の今井さんは横須賀線の踏切近くに店をかまえていたようだが、時代屋からはかなりの距離がある。横須賀線は以前貨物線で品鶴(ひんかく)線と呼ばれ、ぼくの通った小学校のどの教室からも眺めることができた。EH10という重量級の電気機関車が大量の貨物を引いて走っていた。踏切をわたると伊藤博文の公墓がある。さすがこれは昔のままだろう。
「時代屋の女房」も「泪橋」もアウトローになりきれなかった半端な男たちが主人公である。そういった意味ではリアルで哀しい物語である。
時代屋のあった場所は今は駐車場になっているらしい。

2010年11月14日日曜日

フョードル・ドストエフスキー『地下室の手記』

フォアハンドが苦手だった。
と書いてみると、バックハンドが得意なのか、これまで苦手だったフォアハンドを克服して今では得意なのかと誤解をまねく表現ではあるが、要は卓球の基本技術であるフォア打ちが弱かった、あるいは多少の改善のきざしはあるが、弱い。と、まあそういう意味である。卓球をなさらない方にはフォアが弱いといってもイメージしにくいかも知れない。野球でいうとキャッチボールが弱いとか、サッカーでいえばパスが下手、みたいなことかも知れない。
これは自覚症状もあり、また多くの人から指摘されていた課題であった。とはいえ、いちばんベースとなる技術だけにどう克服していけばいいのかが難しい課題でもあった。
夏の終わりから秋にかけて(といっても今年はしばらくずっと暑かったのでどこに線をひけばいいのかわかりにくいが)中級から上級クラスの方とスマッシュ練習に取り組んでみた。スマッシュ、ロビング、スマッシュ、ロビングとつながる限り相手コートに強いボールを叩き込むのだ。5分もやれば、汗びっしょり、大腿筋は痛くなるし、三角筋やら広背筋やらくわしいことは知らないがとにかく筋肉が痛くなる。そんな練習をなんどか繰り返しているうちにいつしか強い打球が打てるようになっていた。もちろんまだまだ不安定ではあるに違いないが、今までより格段といいボールが出るようになった。
また野球のティーバッティングのように目の前でボールをワンバウンドさせそれを強打する練習もやってみた。できるだけ強く、スイングは小さく速く、打球の方向を安定させるようにターゲット(ペットボトルなど)を置いて。そうこうするうちにフォアが強くなった。
案外頭で悩んでいるより、やってみたほうがはやい、ということがスポーツには往々にしてあるものだ。
さて、この本は自意識過剰の青年の独白である。哲学的というか病的というか、特に第一部は抽象的で難解。主人公の“俺”はどことなくサリンジャーの『ライ麦』の主人公みたいだと思った。ホールデン・コールフィールド、だっけ。
この作品には後に続く大作のプロトタイプ的なエピソードや登場人物が見てとれるという。それはなんとなくわかるような気がする。