2011年5月31日火曜日
川本三郎『日本映画を歩く』
日本ダービーはオルフェーブル号が制し、皐月賞に続いて二冠を達成した。
今年の競馬は先の震災の影響もあって、変則開催で皐月賞も日本ダービーも府中の東京競馬場での開催となった。古くはトウショウボーイ、ヤエノムテキの勝った皐月賞が東京開催だった。同じ競馬場で距離が400メートル延長されるだけだから、二冠も容易だろうと思われるのだが、天馬トウショウボーイでさえ伏兵クライムカイザーに敗れている。
というわけで1988年東京開催の皐月賞に範をとり、今回予想してみた。昭和最後のダービーを勝ったのはサクラチヨノオー号。皐月賞は一番人気で3着に敗れている。が、その前の、皐月賞トライアルともいうべき弥生賞で勝っている。似たパターンを今回の出走馬からさがしてみるとやはり人気で皐月賞に敗れたサダムパテック号が浮上する。弥生賞も勝っている。迷わず本命とする。
1951(昭和26)年、無敗で皐月賞馬とダービー馬となった伝説の名馬がいる。トキノミノル号である。馬主は大映社長の永田雅一。戦績10戦10勝。ダービー直後破傷風で急死してしまった。その後、1955年には「幻の馬」という映画となった(映画の中ではタケル号)。
以上、この本からの受売りである。
川本三郎にとって町歩きと映画は切っても切り離せない。まさに真骨頂の一冊といえそうだ。
先週末は東京でもたいそうな雨が降り続いた。競馬予想もはずれ、大雨の降りしきる東京競馬場をテレビで視ながら、ひと月に35日降るという屋久島の雨を思った。
2011年5月28日土曜日
藤井青銅『ラジオにもほどがある』
BCLという趣味があった。
ラジオや海外短波放送を聴くといういたってシンプルな趣味である。放送を聴いて、聴いた場所、受信状態、受信機の種類、放送内容などを受信報告として送るとベリカードと呼ばれるお礼の(?)カードが送られてくる。その収集がモチベーションを高める。ま、そんな趣味である。“あった”と過去形にしたのは今そんな趣味があるのかわからないからだ。
小学生から中学生にかけての時期、1970年代のはじめにそんな趣味が流行った。とはいっても高級な受信機など持っていないし、うちにあった古い真空管のラジオ(5球スーパーだったと思う)では国内の短波放送を聴くのがやっとだった。当時の雑誌、誠文堂新光社の『模型とラジオ』や電波新聞社の『ラジオの製作』などを紐解くと高一中二(高周波増幅一段中間周波増幅二段のスーパーヘテロダイン方式)受信機や再生検波式受信機の製作記事が載っていて垂涎のまなざしで眺めていたものである。メーカー製ではトリオの9R59(D、DS)が高嶺の花だった。
その後ソニーがスカイセンサーというスマートなラジオを発売した。これはかなりすぐれた製品だったが、真空管仕様の“受信機”に憧れていたぼくたちには“しょせんはラジオ”な感じが拭いきれなかった。
海外短波の受信にはアンテナが重要なファクターになる。ラジオとアンテナに恵まれていなかったぼくのコレクションは結局国内のAMラジオ局とモスクワ放送、北京放送のベリカードにとどまった。再生検波受信機のキットをつくり、ささやかながらもアンテナを建てた友人のHからVOA(Voice Of America)のカードを見せびらかされたときちょっとくやしい思いをした。
藤井青銅はたぶんこれが2冊目。今となっては斜陽メディアと思われがちなラジオがかろうじて輝いていた時代に裏方としての活躍していた著者の、少しなつかしく、少しほろ苦い自慢話である。
2011年5月24日火曜日
梨木香歩『僕と、そして僕たちはどう生きるか』
小学生のころはずいぶん本を読んだものだが、中学から高校にかけてはほとんど読まなくなった。理由は思い当たらない。結果的に読まなかったということだ。月並みな原因究明をするとすれば、勉強や部活が忙しくなったとか、深夜ラジオばかり聴いていたとか、たぶんそんなことだろう。
そんなわけでその頃読むべき本を読んでいないのが自分の読書的特徴である。いわゆる名作が欠落している。もちろんそれが原因で不幸、不利益を被ったことはない。『こころ』を読まなくても学校生活に支障はなかった。むしろ谷村新司の天才・秀才・ばかシリーズを聴かないと翌日つらい思いをした。
久しぶりに梨木香歩を読む。
主人公の名はコペル。その叔父さんが子どもの頃読んだ本の主人公の名が、彼の呼び名になっている。その本はもちろん、吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』だ。
群れの中で自分自身と向き合いながら、どう生きていかなければならないのかという物語である。もちろん“どう生きるのか”の答はない。集団に順応し、流されていくこともある主人公をはじめ、さまざまなタイプの少年少女が登場する。童話のようにわかりやすいキャスティング。サイドメニュー的な役割を果たしながら彼らをフォローする大人たちとエピソード。舞台は森。読み手にストレスを与えない梨木ワールドだ。
初代コペル君は上級生にいじめられる親友に助けを貸さなかったことで自己嫌悪に陥り、苦悩する主人公だったが、今回はコペル君とその仲間みんなが主人公だ。
多様化する時代、多様化する個と集団をも視野に入れた平成の吉野源三郎である。
2011年5月21日土曜日
田家秀樹『70年代ノート』
関東学生卓球リーグ早稲田対明治戦を観る。
明治は世界選手権出場の主将水谷が欠場。早稲田も笠原、御内が残っているものの昨年の主将足立がいなくなり、ダブルスが弱くなっている。しかも先週、埼工大が早稲田を4-3で破る金星を上げ、恒例の全勝対決ではなくなった。
トップで笠原、続いて御内が無難に勝って、早稲田ペースかと思われたが、明治3番手の平野(野田学園)が流れを変えた。ダブルスは平野・神(青森山田)の1年生ペアが笠原・板倉組に逆転で勝利。その流れで岡田(愛工大名電)、神と1年生3人で4ポイント連取し、見事全勝優勝を飾った。
明治の1年生はそれぞれ他校の新人にない勢いをもっている。しばらく明治1強時代が続くのではないだろうか。
先日読んだ赤瀬川原平『東京随筆』同様、この本も毎日新聞に連載されていたものだ。
以前、田家秀樹の『いつも見ていた広島』という吉田拓郎を主人公にした小説を読んだ。70年代といえば個人的には吉田拓郎である。どうしても拓郎中心に音楽シーンの動きを見てしまうが、この本は特定のアーティストに偏ることなく“70年代”という時代そのものを浮き彫りにしようとしている。
著者も書いているように激動の10年を駆け足で通り過ぎていった印象は否めないものの、次々に押し寄せてくる70年代のアーティストたちの挫折と模索、そして成功が凝縮された一冊である。たしかに新聞連載時には次週掲載が待ち遠しかったが、こうして単行本として読むと実にはかない10年だったのだと思い知らされる。
はかなくも濃密な10年。かすかな記憶をたどって、当時の自分をふりかえるとちょっとせつない気持ちになる。
2011年5月18日水曜日
根岸智幸『facebookもっと使いこなし術』
先週、南青山のSPACE YUIで安西水丸+和田誠AD-LIB4を見た。
ふたりのイラストレーターがひとつのテーマでイラストレーションを描きわけるという楽しい試みですでに4回目となった。心和む愉快な絵がならぶ。
青山から外苑西通りを千駄ヶ谷方面に歩いた。お昼を食べていなかったのでホープ軒でラーメンを食べる。腹ごなしの散歩は外苑から権田原に出て、御所沿いに坂を下る。この坂は安鎮坂。南元町、昔の鮫河橋あたりから上りになって学習院初等科から四谷見附に抜ける。坂を下ったところで左に折れて中央線のガードをくぐる。なんとなく道なりに歩いて行くと若葉町公園に出、その先の細い坂道が暗闇坂。寺や神社の多い須賀町の谷底を越えると四谷三丁目である。
なんてことを地図を見ながら、想像してみた。実際はホープ軒の後、外苑前から地下鉄に乗って仕事場に戻っている。
FacebookはTwitterにくらべて、オフィシャルな感じがする。気軽につぶやくという雰囲気ではない。そんなわけでついつい敬遠しがちなのだが、いろいろ活用するには便利なアプリがあるという。そんなこんなで手にとってみたわけである。
まだまだ日本語環境の整っていないアプリもあるが、たとえばDocsなどはGoogleのアプリより使い勝手がよさそうな気がする。ノートを使えば、ブログ的な使い方も可能だし、なかなか奥が深いぞFacebookと思う。もちろん、あくまで一個人の感想に過ぎないけど。
2011年5月15日日曜日
赤瀬川原平『東京随筆』
世界卓球選手権がロッテルダムで行われている。
男子単期待の水谷隼は前回王者の王皓に準々決勝で敗れ、ベスト8止まりだった。男女とも8強のほとんどが中国選手。そのレベルははかりしれない。水谷も相当王皓の卓球を研究したであろうが、逆に水谷がそれ以上に研究されていたのではないか。あまりにも呆気ないゲームだった。
日本卓球はとかく、打倒中国を掲げてはいるが、実際のところは超級リーグにトップ選手を派遣するくらいのことで現時点では抜本的な打倒中国策に至っていないように思われる。東大野球部が元プロ野球選手の谷沢健一をコーチとして招へいしたように日本の卓球も中国のトップクラスの指導者を招いみてはどうだろう。
日頃、近所の体育館で卓球をしていると教えるのが大好きなおじさんが必ずいるものだ。頼まなくても無償でああだこうだと指導してくれる。莫大な卓球人口を誇る中国のことだ。超A級の教え魔がいるに違いない。
今、毎日新聞の土曜日夕刊に「川本三郎の東京すみずみ歩き」という連載があるが、以前連載されていた散歩コーナーが赤瀬川原平の「散歩の言い訳」だった。この本はその連載を単行本にしたもの。赤瀬川原平は難しいこと、面倒なものを好まないタイプの人なので散歩という、ある意味、意味のない行為にはうってつけの人物である。
この本でも行った先々の歴史や薀蓄なんぞに字数を多く使わない。読んでいて散歩している気分になる。その点が川本散歩と少し違う。そのくせときどきいいことをいう。「どの店も美味しそうだが、昼食というのは失敗すると明日までないから、選ぶ目にも力が入る」、「静かなのは音がしないというより、静かな人たちがいるからだと思った」などなど。抜書きしておく。
2011年5月11日水曜日
林芙美子『浮雲』
先日、新宿区落合にある林芙美子記念館を訪ねた。もともと林芙美子が住んでいた家を新宿区の郷土資料として開放、展示している。
西武新宿線中井駅は妙正寺川が削ったであろう谷間に位置していて、その北側の目白大学や西落合の台地に向かって急坂がいくつかある。あまりに坂が多くて、ネーミングにも困ったのだろう。一の坂、二の坂と、戦後できた新制中学校や小学校が人口急増とともに番号を割り振られたような、そんな名前が付いている。
記念館は石段になっている四の坂の下にあり、『放浪記』や『清貧の書』などからはイメージしにくい立派な木造家屋である。編集者を待たせる部屋や使用人の部屋まである。行商人の子として、貧しく育った著者もこの家に移り住む頃には、売れっ子の小説家だったのだ。なにしろシベリア鉄道で陸路パリまで行った人なのだ。
『浮雲』は成瀬巳喜男が映画化している。外地から戻り、たくましく、したたかに生きる女主人公ゆき子を高峰秀子が演じている。映画の主役はあくまでゆき子であるが、小説の中で林芙美子が浮雲になぞらえたのは実はゆき子ではない。
今、文庫本などで身近に読める林芙美子の長編は『放浪記』とこの『浮雲』だが、必死の思いで書きなぐった日記風の前者にくらべ、後者は荒削りで乱暴だった時代の文章から格段の進歩をとげている秀作だと思う。しかもドストエフスキーの引用があり、ゾラの空気感を宿すところもあり、小説家林芙美子の完成形に近づいている。その結果が落合の、立派な木造家屋なのかもしれない。
『悪霊』第2巻もはやく読まなくちゃとも思いつつ。
2011年5月7日土曜日
池田あきこ『パリと南仏に行こう』
ゴールデンウィークはどこに行くでもなく、なんとなく過ごした。
散策したのは西武線の中井から高田馬場、江戸川橋にかけての神田川沿い。西早稲田のえぞ菊で味噌ラーメンを食べて、水神社に出て、胸突坂を上り、目白坂を下りる。目白も高台ではあるけど、小石川に比べるとゆるやかな感じがする。江戸川橋から茗荷谷界隈まで歩こうと思ったが、坂道を考えてやめることにした。飯田橋までそのまま神田川沿いに歩いた。
また別の日に神宮球場に行ってみた。久しぶりに野球を観た。
昨年ドラフト1位指名された好投手を3人擁した早稲田が今季は大方の予想通り苦戦している。今年は市川、杉山、地引とキャッチャーを3人スタメンに揃えている。まあどのみち今年は竹内大・福谷が投げ、伊藤の打つ慶應が断然強そうだ。それに続くのがエース野村の明治ではないか。そういえば野村の後輩、広陵の有原が早稲田に進学し、もうマウンドに立っている。大石よりスケール感が大きく感じられ、速球も140キロ台後半と速い。まだまだ荒削りといおうか、走者を出すととたんに打たれ出すが、今後の成長に期待しよう。
十条の斎藤酒場にも行ってみた。連休の谷間で空いているかと思っていたが、あれよあれよのうちに満席になった。串かつやポテトサラダが店内を飛び交っていた。
近場もいいが、今頃の季節になると南仏あたりに行ってみたくなる。アビニョンとかアルルとか。アンティーブとかカーニュシュルメールとか。もちろん南仏にこだわるわけではない。リヨンでもボルドーでもナンシーでもストラスブールでもいい。要はどこでもいいのである。
この本にとくに感想はない。
2011年5月3日火曜日
池内紀編訳『カフカ寓話集』
小石川富坂を後楽園あたりから上るとほどなく伝通院前の交差点に出る。
左に折れて、安藤坂を下れば、神田川。川に沿って新目白通りを下流にすすめば飯田橋、反対に行けば江戸川橋から高戸橋に出る。富坂上はちょっとした高台なので、どこに出るにも都合がいい。その反面、どの坂を下りようか、迷ってしまう。
小石川と呼ばれるこのあたりは高校時代はよく練習試合をした竹早高校や大学時代に教育実習に通った学校もあり、当時と町並みはずいぶん変わってしまっているものの思い出深い一帯である。水道橋駅や都営地下鉄の白山から歩いたこともある。もちろん丸ノ内線茗荷谷駅から来たこともある。下り方を迷うように上り方もバリエーションがいくつかある。
茗台中学校脇に石段があった。方角的には西向きだろうか。高い建物ばかりだが、目白や牛込方面が見渡せる。足下に丸ノ内線が地上を走っている。そんな風景を見ながら、一段、また一段と下りてみた。石段を下りきったところにトンネルがあった。その上は地下鉄の車庫。
カフカの「巣穴」を思い浮かべながら、トンネルを抜けた。
このあいだ池内紀の本を読んで、しばらくぶりにカフカを読んでみたくなった。寓話集と名づけられている。池内紀の名訳とはいえ、心して読まないとたちまち睡魔に襲われる。
とりたててカフカを読み込んでいるわけではないが、長編・大作のヒントが随所に隠されている小品集なのかもしれない。「皇帝の使者」は「万里の長城」を思い出させるし、「巣穴」の閉塞感は「変身」のにおいがする。
そしてトンネルを抜けるとそこには切支丹坂があった。
2011年4月30日土曜日
有川浩『阪急電車』
小高い丘の上にある門戸厄神から武庫川や伊丹方向の景色はのどかでいい。
以前同じマンションに住んでいたBさん一家が西宮に引越して、かれこれ10年近くなる。夏休みや春休みにはお互いの家族ぐるみで泊まりに行ったり、来たりしていたものだ。その住まいが門戸厄神駅の近くだった。
阪急梅田で神戸線に乗り、西宮北口で今津線に乗り換える。西宮北口という駅はJRの西宮駅の北口にあるものだとばかり思っていた。今津線はその南の今津と宝塚を結ぶ路線であるが、今津~西宮北口間と西宮北口~宝塚間は線路がつながっていない。不便なことに階段を上って乗り換えなくてはならない。東京の感覚でいえば、東海道新幹線と東北・上越新幹線が“今津線”という名前でどういうわけか東京駅で乗り換えないと新青森から博多まで一本で行けないと思えば、わかりやすい(そんなことないか)。
この沿線は(西宮北口から今津へは行ったことがないが)、大阪や神戸の賑わいに比べて実に落ち着いた風景をもっており、車窓を眺めているだけで心が和む。仁川駅から見える阪神競馬場が宇宙から降ってきた異質な施設のようである。山が見え、川を渡る。鉄道模型マニアであればジオラマのつくり甲斐があるというものだ。
北に向かって終点にあたる宝塚は(この小説では起点の役割を果たしているが)、阪急電鉄が育て上げたミニリゾート地帯である。と同時に住宅地であり、学園町でもある。JRと阪急宝塚線をつなぐターミナルでもある。それらが絶妙なバランスで寄り添っているいい町だと思う。
そのような路線であるので、この小説に描かれたようなドラマがあっても不思議ではない。もちろんそんなドラマなんてなくてもじゅうぶんに楽しく、心あたたまる線区でもある。
2011年4月26日火曜日
井上寿一『戦前昭和の社会 1926-1945』
天気のよいとある日に地下鉄東西線に乗って、妙典に行ってみた。
この駅は開業してから10年ちょっと。比較的新しくできた駅で駅舎もきれいだし、駅前にも町らしい町はない。昭和成長期に生まれ育った浦安とか行徳とは異なる新興の駅といった雰囲気である。
駅から歩くとすぐ江戸川に行き当たる。橋がかかっていて、水門がある。江戸川もここまで下流になると、まわりに高い建物の少ないせいもあって、空ともども広い。水上スキーを曳くモーターボートが水しぶきを上げている。川の向こうに見える高層ビルは市川か。
江戸川沿いを歩いて、篠崎に出る。あっというまに江戸川区になった。川沿いをしばらく歩いたが、その先の橋までは相当距離がありそうだったので、引き返して、都営地下鉄の篠崎駅に出ることにした。なんの変哲もない日のなんの変哲もない散歩。
関川夏央によれば、戦前昭和の日本は決して暗いだけの時代ではなく、戦後社会に失われていく「家族」の生活のパターンが生まれ、安定的に成熟していった時代だという(たしかじゃないけどたしかそのようなことを書いていたような気がする)。戦前昭和に対するそんな興味をもって手にした一冊がこの本である。
格差社会であるとか新興宗教の台頭、あるいはカリスマの誕生など、現代日本との対比で昭和戦前を読み解くという試みは興味深いものがあるが、果たしてじゅうぶん解き明かせたかどうか。
篠崎からひと駅乗って、本八幡に出る。京成八幡の駅前で永井荷風が好きだったというかつ丼を食べた。荷風はずいぶん甘いかつ丼が好きだったんだな。
2011年4月23日土曜日
吉村昭『関東大震災』
JR総武線を下底に蔵前橋通りを上底にして、隅田川と清澄通りにはさまれた台形のゾーンには東京の災害の歴史が集約されている。
両国駅の北側には国技館と江戸東京博物館が並び、その図形に安定感を与えている。国技館の先にあるのが旧安田庭園。東側の辺に位置する日大一高と対称をなす。さらに北に行くと安田学園が横網町公園と向かい合っている。
横網町公園には東京復興記念館や東京都慰霊堂があり、関東大震災、東京大空襲による下町の痕跡を現代にとどめている。高校時代になんどか安田学園を訪れたことがあるが、その右手に広がる公園はいつも木々が鬱蒼と生い茂っていて、陰鬱な印象があった。子どもの頃、毎年夏休みを千葉の千倉で過ごしたぼくにとって、両国は東京と田舎の境であり、もとより神秘的な町だったからなおのことだ。
吉村昭でもう一冊。
先の東日本大震災は規模の大きい地震に加えて、津波と原子力発電所の被災が災害を巨大化している。ふりかえって大正12年の関東大震災では火災が大きな要因となった。それもその日の気象状況がかなり影響している。おそらく前線の通過があったのか、ただでさえ燃え広がりやすい東京の下町に大旋風が巻き起こったというのだ。
また今回の震災でも再三取り沙汰されている風評被害であるが、コミュニケーションツールが未発達であった当時も同じようにあって、悲惨な事件の犠牲者が続出した。さらに下町は地盤が弱く、山の手は比較的固いことも含め、当時も今も日本という国も日本人もそう大きく変化を遂げていないことがよくわかる。
地震を科学する試みは古くから積み重ねられている。人類はいつの日か地震を乗り越えることができるのだろうか。
2011年4月20日水曜日
川本三郎『東京の空の下、今日も町歩き』
BSジャパンで水曜日23時から「俺たちの旅」という1970年代半ばに放映されたドラマを再放送している。
中村雅俊、田中健、津坂まさあき(秋野太作)が大学生から社会人になりかけ、やがて今でいうフリーターとして生きていく、団塊世代後の青春物語である。当時高校生だったぼくは、大学生、しかも4年生なんて遥か彼方の遠い世界だと思っていた。その後再放送でもなんども視ているが、その距離感はずっと縮まらないままだった。
昔のドラマや映画を見ていておもしろいのは、なんといってもその当時の町並みだろう。「俺たちの旅」の舞台は吉祥寺、井の頭公園あたりだ。さすがに公園の風景は大きく変わったとは思えないが、近接する住宅地は妙に懐かしい。
町歩きの楽しみはまさにそんなことなのではないかと思う。
町を歩いていて、子どもの頃、あるいは学生時代に普通に眺めていた景色にふとしたきかっけで出会えたりすると得も言われぬ喜びを感じてしまう。そんなときかつて見たこの町をぼくは当時と同じ気持ちで眺めているのだろうかと自問する。ぼくの心は古びたモルタルの木造アパートではなく、どこにでもある無難な鉄筋マンションに変わってしまっているのではないかと。
町歩きを通じて、見出すものは決して、古き良き町並みや建造物だけではない。などと思いつつ、今日も川本三郎とともに町歩きに出かけるのである。
「俺たちの旅」では主人公のカースケ(中村雅俊)が事あるごとに既成社会の大人たちと対立する。昔はそんな彼に感情移入して視ていたものだが、今視ているとどうもその青臭さが鼻につく。いやな大人になったものだとつくづく思う。
2011年4月16日土曜日
吉村昭『三陸海岸大津波』
吉村昭は卓抜した取材力と冷静に綴る文章で史実を克明に記す作家だ。この本は明治29年、昭和8年、昭和35年に三陸海岸を襲った地震を多面的に記録したすぐれた作品である。
ぼくは大津波というものをSF映画的なイメージでしかとらえることができなかった、今まで。それを今回テレビのニュース映像で視ることで、その被害の甚大さをあらためて知ったもののひとりである。そしてこの歴史的な事件をしっかり焼きつけておく必要があると感じた。
先日、仕事仲間との昼食会の折(そこではたいてい食後に最近読んだ本が話題になる)、おいしい鯛茶漬けをつくってくれたSさんがすすめてくれたのがこの本だった。吉村昭は以前、『羆嵐』でドキュメンタリーのすぐれた語り手あることを知っていたので、その帰りに買い求め、一気に読み終えた。
海底地震の頻発する場所を沖にひかえ、しかも南米大陸の地震津波の
余波を受ける位置にある三陸沿岸は、リアス式海岸という津波を受ける
のに最も適した地形をしていて、本質的に津波の最大災害地としての条
件を十分すぎるほど備えているといっていい。津波は、今後も三陸沿岸
を襲い、その都度災害をあたえるにちがいない。
吉村昭の予言どおり、津波はやってきた。それも過去の教訓をも突き崩す勢いで。
東日本大震災の被害状況はいまだ把握されていない。いずれ21世紀の吉村昭が今回の津波の被害を克明に記す日が来るだろう。
2011年4月12日火曜日
新潮社編『江戸東京物語下町篇』
いわゆる下町にさほど思い出はない。
月島に母の叔父が住んでいて、子どもの頃はよく遊びに行った。月島に引越す前は佃に住んでいた。その頃の記憶は微かであるが、ぼくは大叔父を“佃のおじちゃん”と呼んでいた。佃のおじちゃんは佃のおばちゃんと長屋に住み、大工をしていた。子どもがいなかったのでおそらく母をかわいがってくれたのだろう。千葉県千倉町出身だったが、当時月島界隈には千葉出身者が多かったように記憶している。
いちど母と千倉からの帰りに両国から月島まで歩いたことがある。なにか届け物を預かるかしたのだろう。夏だったが、比較的風の涼しい午後だった。今でも夕暮れの相生橋を見るとその日のことを思い出す。
東北や北関東からやってきた人たちが赤羽に住みついたように、千葉から来た人たちは清澄通りに沿って、生きる場所をさがしたのかもしれない。
新潮文庫のこのシリーズは残念ながら絶版となっている。
たしかにこの手の東京本は昨今の散歩ブーム(?)の中、競合が激化してきており、生き残りが難しいジャンルなのかもしれない。『都心篇』、『山の手篇』はたまたま古書店で見つけたが、この『下町篇』は区の図書館で予約した。
上野・浅草、本所・両国、向島、深川、芝・新橋と下町を5地区に分けて散策している。両国(今の東日本橋)に生まれ育ち、ほとんど隅田川の向こうに足を運んだことのない小林信彦が巻末解説。この人選は下町を客観視する上で興味深い。その解説の中で地下鉄はもういらないのではないか、ビルが高すぎるのではないかと警鐘を鳴らす小林信彦は「ものごころついた時から、関東大震災の怖さを吹き込まれた身としては、そろそろかな、と思わぬでもないのだが」と締めくくっている。
それはともかく、こんど小名木川沿いをゆっくり歩いてみたいと思っている。
2011年4月9日土曜日
司修『赤羽モンマルトル』
司修といえば、大江健三郎の本の装丁家という印象が強い。
細く繊細な線を駆使しながら、メッセージ性の強い表現を生み出す本格派の画家であるとずっと思っていたが、文章家としても素晴らしい。この本を読んでそんな思いが深くなった。
そもそもこの本を読むきっかけは、ツイッターでコミュニケーションしている知人たちが赤羽探検をしたという話(ぼくは参加していないのだが)を聞いて、ぼくの中で急速に赤羽熱が高まったことにある。この『赤羽モンマルトル』と『赤羽キャバレー物語』は2大赤羽物語といっていい。
子どもの頃の記憶では赤羽駅は2階建ての駅だった。真上真下に2階建てではなく、両国や上野のような段差のある2階建て。京浜東北線のホームから見下ろせたのは東北本線のホームだったか。鉄道が好きだったので、下ばかり見ていた。モンマルトルの丘を眺めたことなどいちどもなかった。
未だ赤羽ビギナーであるぼくはまるます家に行ってもどこかぎこちなくうな丼を食べている。常連と思われる赤羽焼けしたおじさんたちの一挙手一投足を横目で見ながら、なんとか赤羽おやじに近づきたいと思っているのである。
先日、まるます家でうな丼を食べた後、荒川まで歩いてみた。おそらく岩渕水門に出るあたりに巴里館はあったのではないだろうか。荒川はここで隅田川と分かれる。いわば赤羽は下町の源流といえる。
司修の青春はこの本だけではくみとれない深い苦悩があっただろう。彼はそのほんの一部を創作したにすぎない。そんなことを考えながらぼくは荒川の流れをしばし眺めていた。
2011年4月6日水曜日
川本三郎『私の東京町歩き』
1ヶ月ほど前、三の橋にある笑の家という店でラーメンを食べたあと、久しぶりに魚藍坂あたりを歩いてみた。
古川橋から魚藍坂は四谷見附から品川に行く都バスのルートで学生時代、アルバイト先の広尾からの帰り道によく通った場所である。
昔、急だと思った坂道がその後思ったほどの急斜面ではなかった、ということがときどきあるが、こと魚藍坂に関しては昔も今もきつい坂だ。魚藍坂下から伊皿子まで上っただけでちょっと汗ばんでしまった。
伊皿子を右に折れると二本榎の商店街である。二本榎という地名はもう地図上からはなくなってしまっている。六本木の今井町とか、赤坂の丹後町のような感じだ。それでもしばらくはこの商店街とほぼ平行している桜田通り(第二京浜国道)の明治学院近くの歩道橋にはたしかに“二本榎”という表示があった。
その商店街を都営地下鉄浅草線の高輪台駅まで歩いて、そこからさらに東京メトロ南北線の白金台駅をめざした。
桜田通りから目黒通りへ、ちょっとした裏道探検だ。
品川区の北のはずれ東五反田、上大崎と接する港区の南端白金は思いのほか薄暗い路地で隔てられている。高低差もあって、アップダウンがきつい。歩いた日がちょうど小雨模様だったせいもあり、ちょっとした秘境気分を味わえた。
川本三郎のこの本は、もう古典といってもいいであろう比較的初期に書かれた町歩き本である。おそらくこの当時はまだまだ東京に昭和の面影が色濃く残っていたに違いない。返す返すも昔はよかったねと思わざるを得ない、そんな一冊だ。
2011年4月3日日曜日
芝木好子『洲崎パラダイス』
母校である小学校と中学校が統合されて新たに小中一貫校になった。
そんな知らせとともに廃校になる中学校の同窓会の案内をかつての同級生であるI(旧姓)が実家に持ってきてくれた。前の住所に出した往復はがきが返ってきたというのでわざわざ持ってきてくれたのだ。生憎、耳の遠い父が留守番だったためにIの話がどれだけ伝わったかわからないが。
Iはちょっとおせっかいだけど、小さいころから(Iとは小学校のときから同級だった)責任感の強い、しっかりしたやつだった。
出身の小学校中学校がなくなり、すでに出身高校もなくなっている。やれやれである。
地震のあと木場のビデオスタジオに行かなければならない用事があった。午後はやめに終わったので洲崎神社からかつての洲崎界隈を歩いてみた。“パラダイス”は跡形もない。なくなるものはなくなるし、のこるものはのこされる。
ただ、どうせ洲崎を歩くなら、この本を読んで歩いたほうがいい。もちろんこの町を歩かないにしても、この本は読んだほうがいい。貧しい戦後東京に生きる女性たちの姿は、実はきわめて人間的だった。ドラマティックだった。もちろんこれは小説の話であって、事実でも史実でもない。けれどもこの町に生きた人間の生きざまとしてはかなり真実なのではないかと思うのだ。
結局同窓会当日は都合がつかず欠席した。その旨を伝えるべく、Iの携帯に電話をかけ、何十年ぶりに声を聞いた。ちょっとおせっかいだけど、責任感の強いしっかりした声だった。
2011年3月29日火曜日
新潮社編『江戸東京物語山の手篇』
先週末、BSで映画『時代屋の女房』を観た。
この映画はぼくが生まれ育った品川区の大井町駅周辺でロケ撮影されており、1980年代はじめの大井町駅周辺の懐かしい風景が満載されている。
日本光学(現ニコン)のある西大井あたりから、JRの大井町に向かう光学通りを東に進んでいくと、大井町と大森、蒲田をつなぐ池上通りにぶつかる。その交差点の歩道橋下に時代屋はあった。三つ又商店街と呼ばれるその一帯が主たるロケ地で、さらに大井町駅東口につながる路地や東急大井町線の高架下に並んだ商店街などすでに失われた町がフィルムに残されている。
大坂志郎が店主を演じた今井クリーニング店は今の西大井駅に近い。貨物専用線だった品鶴線には横須賀線の車両が走っている。東海道線の混雑を緩和するため、1980年にとられた措置だ。映画の中ではかなりのスピードで走っている。当時、西大井駅はまだできていなかったのだ。
クリーニング店そばの踏切近くに公園があった。正式な名前ももう憶えていないし、当時みんなで呼んでいた“なんとか公園”という呼び名も失念している。ただぼくたちの小学校の区域ではない他所の公園でときどき遊ぶ、その緊張感だけが記憶に残っている。
『江戸東京物語山の手篇』を読む。
東京の山の手と下町の区分けは思いのほか難しい。実に複雑に入り組んでいる。仕分けするということはたいてい難しいのであるが。
2011年3月27日日曜日
新潮社編『江戸東京物語都心篇』
高校野球春季都大会はブロック予選がなくなり、秋の新人戦の再戦となった(参加校はなぜか47校で秋より1校少ない)。楽しみにしていた日大三対日大鶴ヶ丘もなくなった。
都高野連の発表によれば、この大会で夏のシード権を決めないそうだ。夏の東西選手権はシードなし。これもまた今から波乱含みである。
甲子園の選抜大会では日大三と明徳義塾が初戦でぶつかった。秋の地区大会を優勝している両校のハイレベルな試合だった(エラーも目立つには目立ったが)。走者を出しても、守り切る。打たれても、失点しても連打、連続得点を許さない。そういう試合だった。6対5という得点以上に緊張感があった。
『江戸東京物語』は最寄駅駅前のブックオフで見つけた。
新潮文庫では絶版にされたのだろうか、ホームページ上からも消え去っている。平成14年発行の文庫本がもうなくなっているなんて、ちょっとがっかりである。岩波文庫だと絶版になってもウェブ上では記録が残っているし、神田神保町には岩波の書籍を厚く取り扱っている古書店もある。“売らんかな”というより本をだいじにする姿勢が見え隠れしている。パンダも結構だが、新潮文庫も今以上に本のことを考えていただければと思うのである。
さて、このシリーズには都心篇、山の手篇、下町篇とあって、今回手に入れたのは都心篇と山の手篇。下町篇は捜索本名簿に記載して、後日さがすことにした。
紀尾井町は紀伊家、尾張家、井伊家の頭文字をとったとか、神田錦町は昔、一色さんの邸がふたつあって、あわせて錦となったとか。随所にふむふむがいっぱいであった。
2011年3月23日水曜日
芥川龍之介『蜘蛛の糸・杜子春』
一昨年の夏に岩波文庫版『蜘蛛の糸・杜子春・トロッコ他十七編』を読んだ。これは娘の本棚にあったものだ。
今回読んだ新潮文庫版『蜘蛛の糸・杜子春』には10編が収められていて、そのうち9編は岩波文庫版に含まれている。つまり、岩波文庫版の20編を読めば、新潮文庫版のほとんどを読んだことになる。にもかかわらず、新潮文庫版を古本屋で買ってきて読んだのは(厳密に言うと新潮社版が読みたいとぶつぶつ言ってたのを聞いていた娘がブックオフで105円だったからと買ってきてくれたのだが)、ひとえに「蜜柑」が読みたかったからである。
「蜜柑」程度の長さの短編なら図書館でもネットでも5分もあれば読めるというものだが、なんとなく自分で所有する本で読みたかった。そう思ってしまったんだから仕方ない。
もう20年以上前、とある男性かつらのCMでこんなのがあった。ローカル線の列車の中で車窓を開けようとしている若い女性。昔の列車の窓というのはなかなか開きにくかったものだ。力の入れ方にちょっとしたコツが要る。たまたま相席していた男性が代わりに開けてあげる。開いた車窓から車内に吹き込む風が男性の前髪を強くなびかせる。
車窓の外では幼い弟が旅立つ姉に手を振っている。「強いから、やさしくなれる」というナレーションが耳に残る。
このCMはぼくの師匠ともいえるUさんとMさんが考えた。当然のことながらMさんが思い浮かべた光景は芥川龍之介の「蜜柑」だった。
「ほんとはみかんを投げたかったんだよね」とその昔、Mさんが話してくれた。
2011年3月19日土曜日
レイモンド・チャンドラー『ロング・グッドバイ』
東北関東大震災の被災者の方々に心よりお見舞いを申し上げます。
宮城、岩手、福島、茨城をはじめとして被災地にはいまだじゅうぶんな支援が行き届いていないようである。また都心にいちばん近い被災地といえる浦安も液状化現象、断水に加えて、計画停電が実施されるなど不自由な暮らしを余儀なくされている。
たいへん卑近な話で申し訳ないが、区の体育館の開放も4月まで中止が決まり、週末のスポーツ難民もこれから増えていくかもしれない。またスポーツに限らず、多くのイベントが中止。卓球の東京選手権も取りやめになっている。ご近所のCちゃんがカデットで出場する予定だった。
先週の地震の際読んでいたのが『ロング・グッドバイ』でチャンドラーファン(というかフィリップ・マーロウファン)は身近に比較的多くいたが、はじめて読んでみた。ハヤカワ文庫はカート・ヴォネガット・ジュニアとかアーウィン・ショーくらいしか読んでいない。久しぶりである。
新潮社でもらったブックカバーをかけようとしたら微妙にサイズが合わない。少しだけ大きいのだ、ハヤカワ文庫は。大きな震災とは対称的な小さな発見。一週間かけてようやく読み終わった。
探偵という職業はきわめて英米的な職業で日本で暮らしている限り、そんなかっこいい職業にお目にかかることはない。フィリップ・マーロウはまさに探偵のイデアのような存在である。
それにしてもなかなか手の込んだ読み応えのある一冊だった。村上春樹がなんど読んでも読み飽きることがないというのもわかる気がする。
2011年3月13日日曜日
安西水丸『大衆食堂へ行こう』
たいへんな地震だった。
赤坂見附で鴨せいろを食べ、赤坂エクセル東急ホテル1階にあるコーヒーショップでぼくはレイモンド・チャンドラーを読んでいた。すぐにおさまるだろうとはじめは楽観していたが、次第に揺れが大きくなる。店員が誘導し、外に出された。地下鉄も止まったのだろう、赤坂見附駅からどっと人があふれ出ていた。しばらく地面も揺れていたし、信号機はもちろんビルも揺れていた。
仕事場はさほど遠くないので歩いて戻り、テレビを視た。
たいへんなことになっていた。
家族の安全は確認できたが、品川にある実家に電話がつながらない。心配なので赤坂から歩くことにした。乃木坂から、西麻布、広尾を通って、中原街道、第二京浜国道と道はわかっている、はずだった。夜の東京の街はこんなにも歩いてみんな帰宅するのかとびっくりするくらい人がいた。
一箇所道を間違えた。外苑西通りから中原街道に出たつもりが山手通りだった。逆行し、さらに道に迷った。およそ1時間のロス。精神状態がやはりまともじゃなかったんだろう。
歩きなれていると思っている道を間違えると精神的にショックが大きい。
安西水丸が大衆食堂めぐりをしたのが2000年から2005年にかけて。このなかの少なくない数の店が閉ざされている。そのことがちょっと哀しい。
3時間歩いて実家にたどり着いた。父はテレビをつけっ放しにしたまま寝ていた。
2011年3月8日火曜日
江藤省三『KEIO革命』
そろそろ野球の季節だ。
東京都の高校野球春季大会も組み合わせが決まり、あとはブロック代表決定戦を待つばかり。昨秋の新人戦で都大会出場を果たせなかった早実、日大鶴ヶ丘、堀越、日大一あたりの強豪校がブロック予選から登場する。仮に日大鶴ヶ丘がブロック予選を突破するとトーナメント3回戦で早々と第一シードの日大三とぶつかる。昨年夏準決勝で対戦し、延長14回の死闘を演じた両校だ。
大学野球では東洋の藤岡、明治の野村、法政の三上、早稲田の土生らが最終学年を迎える。斎藤、大石、福井が卒業し、リーグ戦で勝ち星のある投手がいなくなった早稲田は苦戦を強いられるだろう。六大学は慶應、明治、法政の争いになるのではないだろうか。
江藤省三が監督になってから、俄然慶應野球部は強くなった気がする。
以前ここでも書いたと思う。バッターボックスに向かう選手にひと声かける姿を昨年の春秋のシーズンによく見かけたが、やはりプロ経験者として素晴らしい助言がそこにあると思われる。
この本はどちらかといえば単なる慶應バンザイ的な話と著者の野球人生を振り返ることに終始している。それでいてタイトルは“革命”などとおどろおどろしい。ただその内容云々はともかく、江藤省三が監督をして慶應野球部の黄金時代を築きさえすれば、それが結果として革命になる。
彼の力量を信じて、今年も東京六大学野球を見守りたいと思う。
2011年3月5日土曜日
池内紀『なぜかいい町一泊旅行』
大学時代、カフカの「万里の長城が築かれたとき」という短編を読んだ。
ひとり黙々と読んだわけではなく、一般教養の第二外国語の授業で読んだのである。それも4年生になって。
2年時から何を思ったのか、お茶の水のフランス語学校に通うようになって、大学のドイツ語の授業はすっかりさぼってしまったのである。再履修した3年時の授業はたいして興味が持てないまま、パス。4年になってようやくカフカを読む授業に出会った。これは今でも運がよかったと思っている。
「万里の長城が築かれたとき」というのはぼくが訳したもので(直訳だと「中国の壁が築かれたとき」とかそんな感じだった)、一般には「万里の長城」というタイトルで全集などにはおさめられている。当時訳したノートは不思議と紛失の憂き目にあうことなく、今もわが家の書棚に眠っている。いつか読みかえしてみようかと思っている。
さてそのカフカの翻訳者として、またドイツ文学者として名高い池内紀(白水社から出ているカフカ全集の「万里の長城」は氏の訳である)は旅人としても名手である。ところどころ、道案内が不親切なところがあるにしても、町の見方、視点の置き方がすぐれている。
また、この本では新書という限られたスペースでありながら、行ってみたいと思わせる適切な場所が選ばれていると思う。そのあたりの、読者を旅にいざなうぎりぎりいい町が紹介されているのがなんとも心憎い。
できることなら続編をぜひ期待したいものである。
2011年3月1日火曜日
岩井健太郎『予防接種は「効く」のか?』
マスメディアからソーシャルメディアへ。
広告コミュニケーションの主流が変わりつつある。イメージだけを大量生産、大量消費するマス媒体の広告出稿が後退し、ネット広告が大きく飛躍を遂げそうな予感がしている。
昨日、電通とFacebook社の提携がニュースとして流れた。大手広告会社は時流をいちはやくつかんで、アクションを起こす。原稿を送って、校正して、何日後かに掲載される広告や企画打合せから納品まで何週間も何カ月も要するテレビコマーシャルなど、つくっているうちに時代のほうが変化する。そんな時代も遠くない。
マスからソーシャルへと図式的にものごとを考えると、これからどうなるのか不安になる一方だ。どういう形態のコンテンツが有効なのか、その構築の方法は、などと考えはじめるともうどこからどう手をつけていいのかすらわからなくなる。
マスのコミュニケーションをどうしていくか、ソーシャルのコミュニケーションをどうしていくかというよりは、日々ソーシャルなものの考え方を習慣づけていくことがだいじなんじゃないか。少なくともそれだけはいえるような気がする。ものごとはシンプルに考えたほうがいい。
ワクチンの話などさほど興味もないのだが、ひょんなことから読んでみた。
予防接種がどうのこうの言う以前に、臨床医としての著者の基本フォームがいいと思った。医学は日々進歩しているから、断定的に物事は語れないというスタンス、複数の立場、主張がある場合、それぞれの立ち位置とアングルがあるという冷静なものの見方、好き嫌いではなく、現時点で正しいか正しくないかという大人のものの見方など、たいへん勉強させられた。
日ごろ興味のない分野であっても、こうして学べる点を見出せる良書と出会えるとちょっとうれしい。
2011年2月27日日曜日
遠藤諭『ソーシャルネイティブの時代』
鯵を味噌とねぎをまぜてたたいた房総半島の料理、なめろう。
ここのところずっと食べたくて仕方ない。川本三郎の銚子を訪ねた記述が脳裏に焼きついているのだろうか。
子どものころ、南房総千倉町出身である母は鯵と味噌とねぎをたたいたなめろう状のものをフライパンでこんがり焼いてよく夕食のおかずにした。ちょっとしたおさかなハンバーグとでもいったらいいだろうか。当時比較的安価な食材で子どもたちのよろこぶメニューを考えるにあたり、自分の幼少から食べていたなめろうをヒントに加工したのかもしれない。
正直、なめろうハンバーグはさほどおいしいとは思わなかった。ハンバーグは肉じゃなければいけないと思っていた。
40年以上もたって、なめろうが恋しくて仕方ないのは、そんな母の手づくり料理に対するノスタルジアか。
ところでこの本の157-159頁はおもしろかった。
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携帯端末としてのiphoneに比べ、ipadは画面が大きく、書籍や新聞に変わるデバイスとして、実は40代が利用率でピークであるという。それでいて
<<ネットに書かれたユーザーの声を見ていると「もうお父さん、トイレにipadを持って入るのはやめてください」なんてジョークまである。>>
などという一節を書いている。
紙に代わるデバイス、ゆえにトイレに持って入る。笑えた。ipadを紙として使う、なんて贅沢なんだろう。
データとその読み込みが中心である本書の中でここだけが一服の清涼剤だった。
2011年2月23日水曜日
斉藤徹『新ソーシャルメディア完全読本』
3色ボールペンは便利でよく使うのだが、特定の色のインクだけが先になくなってしまうので困る。
おそらく今の時代だから、替え芯があるのだろう。それにしても3色ボールペンはふつうのボールペンに比べて内部構造が複雑で、一見すると替え芯を受け付けないんじゃないかと思えるときもある。
たとえば、斎藤孝の3色ボールペンを活用する読書は最重要部分に赤線を、重要部分に青線を、自分でおもしろいと思った部分に緑線をひくというものだが、たぶん赤インクの消費量は少ないのではないかと考える。たしかにクレヨンにしたって、色鉛筆にしたって何色あろうが、好きな色とか汎用性のあるベーシックな色からなくなっていくものだ。
もちろんふだんはできるだけそんなことは考えないようにしている。インクの減りが偏るから、今日は赤を使おうとか、だいじなメモだけど最近赤が少ないから黒にしておこう、などと考え出したら、書いた気がしないではないか。そんなわけで3色ボールペンを使うときは心のおもむくままにインクを使い分けよう、けちな考えは起こさないようにしようと日ごろ心がけている。その点、4色ボールペンだともうどうでもいいやという気持ちになりやすく、気兼ねなく使えていい。
先日、ファイルストレージサービスを使って、資料を送ったら、相手先からダウンロードできないとクレームがあった。その時点で原因はわからず、こちらに落ち度があったのかなかったのかさえわからなかったが、ツイッターでそのサービス名を検索したら、サーバが落ちて困っている人が多数いることがわかった。ああ、ソーシャルなんだな、時代は。
ツイッターだフェイスブックだとソーシャルメディアがうねっている。なんとか時代に取り残されないようにこんな本を読んでいる。
その時点でなんとなく“負け”てるなと感じる。
2011年2月20日日曜日
村上春樹『村上春樹雑文集』
庭にツグミがいた。
ツグミを見るのは空き地や農閑期の畑などだだっ広いところが多いので、猫の額のような庭にいるのがなんとも不似合いである。ツグミもそれとすぐに気づいたのか、またたく間に飛び去って行った。ツグミの凛として、背筋の伸びたその姿勢が嫌いではない。
今住んでいる場所に引っ越してくる前は駅まで30分ほどかけて歩いていて、そのときさまざまな野鳥に出会った。さまざまといっても東京の住宅街で見かける野鳥といえば、ヒヨドリ、ムクドリ、メジロ、ハクセキレイ、くらいのものであるが。夏のツバメ、冬のツグミはやはり季節を感じることができてうれしい鳥たちだ。
この本は“雑文集”ということでレコードのライナーノートや文学賞の受賞のあいさつ、翻訳版刊行の序文など、さまざまなジャンルの雑文からなる。雑文といっても駄文ではない。ひとつひとつがウィットに富んでいる。ぼくはジャズなどほとんどわからないし、彼が翻訳紹介した作家の本もすべて読んでいるわけではない。チャンドラーでさえ読んでいない。それでも楽しく読めたのが不思議だ。
長編小説が村上春樹にとってのメインストリートだとするとちょっとした路地裏や横丁集といった色合いの本とでもいえるだろうか。
もともとユーモアの感覚に富む人だから、カジュアルな文章は読んでいて楽しいし、またある意味偏屈な人でもあるので小説のことを語らせると奥が深い。まじめな人なんだなと思う。
ちょっとした町歩きのつもりで読んでいたら、いとこの名前が出てきた。裏道でばったり出くわしたみたいな感じだ。
2011年2月17日木曜日
井伏鱒二『駅前旅館』
『駅前旅館』と聞くと往年のシリーズ映画を思い出す。
森繁久弥、伴淳三郎、フランキー堺に淡島千景、淡路恵子、池内淳子といずれも芸達者なキャストである。
その映画の原作となった井伏鱒二『駅前旅館』のおもしろさは、日常接することがあまりできない“裏側”を覗き見るところにある。幸田文の『流れる』の主人公梨花が“くろと”の世界を覗いたように。
以前仕事で結婚式場の舞台裏を見せてもらったことがある。厨房から披露宴会場に通じる秘密の通路を歩いてみた。風景は立ち位置が変わるとがらりと一変する。卒業した学校に久しぶりに訪ね、もうその生徒じゃない目で教室や校庭を眺めてみるときにも似たような感覚をおぼえる。
ぼくの母は若い頃銀座のデパートに勤めていた。客商売というのは客前で言えない言葉が多くあって、隠語によるコミュニケーションをする。マスコミや広告業界の人たちも“シーメー”とか“ヒーコー”とか業界用語を駆使する。当然、旅館にもある。主人公生野次平が随所に紹介してくれる。
旅館やデパートに限らず、どんな業界にも表と裏があるのだと思う。そして白昼のもとに曝された裏側は間違いなくおもしろい。それだけでこの本は有無を言わさずおもしろい小説なのである。
それにもましてこの本がいっそう読者を駆り立てるのは単なる裏側暴露にとどまらない人間観察に基づくものだからだ。駅前旅館という東京の都心ではまず見かけなくなった場所の、番頭という職業は今の時代に通用するビジネスヒントや接客の基本をその経験から数多く身に付けている。そういったちょっと大人の視点で読んでみるのも悪くない一冊だ。
2011年2月13日日曜日
向田邦子『男どき女どき』
向田邦子はラジオ、そしてテレビの脚本を書いていた。放送作家と呼ばれるジャンルの物書きだった。彼女は単なる文章家ではなく、時間という制約の中で書いていた。そのことが読んでいてよくわかる。無駄がないのだ。
広告の文案づくりも似たところがあって、同じ単語をなんども使わないようすぐれたコピーライターは訓練されている。いちど状況を説いたら、それ以上深入りはしない、反復もしない。それが放送作家出身である向田邦子の明快さだ。
この本、『男どき女どき』は『思い出トランプ』の続編として連載開始された創作短編だった。残念ながら連載が完結する前に向田邦子は飛行機事故で世を去っている。ちなみにこのブログでは簡単にカテゴリー分けをしている。本書後半のエッセーもたいへん魅力的で捨てがたいのであるが、ここでは“日本の小説”に分類させてもらう。この本を刊行した人がつけたタイトルを尊重したかたちだ。
昭和の戦前、戦中は一般には暗い過去として脚光を浴びる時代とはいえない。向田邦子のよさは多くの人が避けるようにしてきた昭和的な生活に光をあて、そのなかにきわめて日本人的な生活様式や家族観なるものを書き残している点にあるといえる。関川夏央は「少女時代から転校を繰り返していた向田邦子は、土地に愛着しなかった。いわゆる古里を持たなかった。そのかわり失われた、昭和戦前という時代とその家族像に深く愛着した」といっている(『家族の昭和』)。
それはともかく、「鮒」、「ビリケン」をはじめとして短編は秀逸。一見寄せ集め的に並べられたエッセーの数々も小気味いい向田節で、読むものの心に響く。
2011年2月8日火曜日
山脇伸介『Facebook 世界を征するソーシャルプラットフォーム』
先週、南阿佐ヶ谷のバタフライ卓球道場へ山手四区親善卓球大会を観に行った。
回を重ねて55回。小規模な大会ではあるけれど伝統ある試合である。
新宿、杉並、世田谷、中野の各区から選抜された男女13選手による団体戦で、一般どうしの対戦と年齢別(30代~70代)で5ゲームマッチの試合を行う。例年だとかつて世界選手権や全日本で活躍したベテランも参戦するそうだが、今年は代々木第二体育館のジャパントップ12という大会と重なり、協会役員クラスのベテランはそちらに行ってしまったそうだ。
ゲームは接戦の連続で、さすがに各区の代表であり、東京選手権などハイクラスな大会の経験者やかつてインターハイや学生リーグ戦でならしたつわものが集まっただけはある。結果は杉並区が3戦全勝で優勝。卓球の師匠であり、監督であるTさんのいいはなむけとなった。
Tさんは長年営んでいた酒屋を辞め、来月長野へ転居する。その日は試合の打ち上げと新年会を兼ねて、送別会が行われたという。
facebookがどうもよくわからない。
わからないことがあると書物に頼る傾向があるので本屋をうろうろする。できれば新書でさらっと読めるものがいい。
というわけで読んでみた。まあ軽く概観してくれている。ツイッターとはこう違うのだね、となんとなくわかる。使いこなせるとすごいらしいが、使いこなし方はまた別の本が必要だと思った。
2011年2月5日土曜日
山口瞳『居酒屋兆治』
先日、JR中央線の国立駅で降りて、南武線の谷保駅まで歩いてみた。
国立は、道幅の広い大学通りが南に伸び、緑も豊かで(もちろん季節的には緑はないが)、空が高く見えるいい町だ。一橋大学には古い建物が残されている。堂々としたたたずまいである。歩道には駅から何百メートルと記された敷石がある。1,000メートルあたりになると駅前の人通りは絶え、静かな住宅地になる。
さらに歩いていくと商店が見えてくる。駅がある。駅前にロータリーがある。ここが南武線の谷保駅。『居酒屋兆治』のモデルとなった“やきとん文蔵”はこのあたりにあった。
1982年。この本が刊行された当時、ぼくは中央線武蔵小金井にある大学に通っていた。当時はそこから西へ行くことはほとんどなく、国立なる駅も意識になかった。
映画『居酒屋兆治』はテレビで観た。緒方拳演ずる河原の「じょうだんとふんどしはまたにしてくれ」という台詞だけが強烈に残っている。映画の舞台は函館だった。高倉健は北の空気と光がよく似合う。
国立は新しい町という印象が強い。国分寺と立川の間だから国立というその名の起こりからして新しい。作者の山口瞳はこの町に長く住んだという。おそらくはこの本を通してでなければ、国立が昔ながらのよき集落であったという認識は持たなかっただろう。
もっと若い頃読んでおけばよかったと思う気持ちと、いまこの歳になってはじめて読んだからよかったんだという思いが半々である。
2011年2月1日火曜日
長谷川裕行『Wordのイライラ根こそぎ解消術』
先週、阿佐ヶ谷ラピュタで小石栄一監督の『流れる星は生きている』を観た。
原作は言わずと知れた藤原てい。新田次郎夫人であり、数学者藤原正彦の母である。主演は三益愛子。川口松太郎夫人であり、川口浩の母である。
映画は原作のような引揚げシーンの連続ではなく、むしろ引揚げ後の夫を待つ引揚げ者の苦労が中心に描かれている。1949年に満州から朝鮮半島を経て、日本に還る行程など当然映像化できるものではあるまい。山崎豊子の『大地の子』がドラマ化されたが、おそらくそのくらい時をへだてていなければ、原作の世界は描けないだろう。
この映画は終戦のどさくさの中で助け合いながら強く生きるもの、利己的に小賢しく生きるものなどの対比が全体に染みわたっている。終戦の現実を描くことで、大陸生活者の、引揚げ者としての悲哀を描こうとしているかのようである。
パソコンを使いはじめてから、しばらく一太郎というワープロソフトを使っていた。Ver.3からVer.4くらいの頃。当時はワープロは一太郎、表計算はロータス、データベースはDB3が主力だったと思う。WordもExcelも使い勝手はよくなかった。その後、MSDOSからWindowsにオペレーティングシステムが移行するにつれ、Word、Excelが主役になってくる。それにしても国産品でないワープロソフトは実は微妙に使い難い。ワープロなんてマニュアルなしで使いこなせなければいけない標準ソフトなのに。
と思っていた矢先に出会った本がこれ。講談社のブルーバックスを読むのは何十年ぶりだろう。
2011年1月30日日曜日
山際淳司『スローカーブを、もう一球』
選抜高校野球の出場校が決まった。
全国10地区から何校か選ばれるわけだから、だいたい昨秋の地区大会の上位校が出場する。その枠内では“選抜”は難しいことではない。議論されるのはたとえば関西地区のように6校を選ばなければならない場合のベスト8ののこり4校から2校を選りすぐるときだろう。京都成章などは僅差で準々決勝敗退だったので評価が高いというわけだ。加古川北も優勝した天理と好ゲームをした点が評価されている。同じようなことが関東にもいえて、ベスト8から前橋育英が選ばれた。
1980年頃の本を読んでみたいと思った。
『Sports Graphic Number』が創刊されたのが1980年。それまでのスポーツ紙の延長線上にあったジャーナリズムとは異質なメディアの誕生だった。スポーツはそれ自体がドラマであると同時にメディアにおいてもドラマになった。
おそらく山際淳司はその先鞭を着けたひとりだろう。
こうして30年の時をへだてて読んでみると当時からすでにスポーツを志す若者たちは“さめていた”んだなと思う。ドライで割りきりのはやい若者たち。おそらくぼくたちもそんな風に生きていたに違いない。
同時代に生きた選手たち(江夏は世代的には上であるが)は今ごろ何をしているのだろう。
1980年頃の本。そこにはなにがしか昭和の残骸が残っているような気がする。
そんなにおいに惹きつけられてやまないのである。
2011年1月25日火曜日
川本三郎『我もまた渚を枕』
このタイトルは島崎藤村作詞「椰子の実」からとったのだという。取材をほとんどせず、ぶらっと訪れ、風景の一部となる、そんな流儀の町歩き記録である。
川本三郎といえば東京町歩きの名人であり、東京のほぼ全域をカバーしているはずだ。しかも膨大な文学作品や映画作品を引き合いに出して、町という時空間を立体的に読み解く、あるいは、歩き解く。
この本は著者がほぼ歩きつくした東京から一歩外へ足を踏み出した近郊の旅の記録である。船橋、鶴見、大宮、本牧と行き先になんの気取りも気負いもない。観光スポットでもなければ名所旧跡でもない。そこがこの本の最大の魅力となっている。基本は著者の東京歩きのスタンスが活きている。遠出するからといって着飾ることもない。
川本三郎の町歩きの基本は町との同化である。「ただ、静かに「昔の町」のなかに、姿を消すこと」(『東京暮らし』)といっているし、本書のあとがきにも「旅とは、日常生活からしばし姿をくらまし、行方不明になること」と書いている。
こういう歩き方はそう簡単にできるものではない。歩いて歩いて歩き抜いてはじめて到達できる境地、というものがそこに感じられる。
ちなみに本書中で強く惹かれた場所は本牧、市川、川崎。
横浜の石川町、根岸界隈は以前から市電保存館を見て、大学の指導教授が住んでいた山元町あたりを歩きたいと思っていた。川崎の海側はかつて実家からいちばん近い野球場としてなんども通った川崎球場があるあたり。市川はいわずと知れた永井荷風の晩年の町。
鶴見線も以前全線乗りつぶしたことがあるが、町歩きという視点でもういちど訪ねてみたい。
2011年1月23日日曜日
川本三郎『東京暮らし』
今日、全日本卓球選手権を観戦に行った。会場は千駄ヶ谷東京体育館。
男子ダブルスと女子シングルスの決勝が行われた。男子シングルスは6回戦が終わり、ベスト8が出そろった。笠原、岸川、高木和卓、張、丹羽、松平賢、水谷、吉田。韓陽、松平健らがベスト16で終わった。準決勝、決勝を観ておもしろいのは当然だが、一般市民として観て楽しいのはやはりベスト32~8あたりだろう。
明日は準々決勝~決勝が行われる。
去年の暮れ、図書館に永井荷風全集の一冊を返しに行った。
永井荷風は『濹東綺譚(ぼくとうきだん)』ともう何編か読みたかったのだが、12月のあわただしさにかまけて、結局一編しか読めなかった。幸田文全集も借りたけれど、これはまったくの手付かずのまま返した。年末にむけてますます本を読む時間はなかろうと思って帰ろうとしたそのとき目の中に飛び込んできたのが、川本三郎の本だった。
川本三郎の本をさほど多くは読んでいなかったが、どことなく波長が合いそうな気がしていたし、時間がなくてもこの本は“ベツバラ”かと思い借りてしまった。
結論からいえば、借りるんじゃなかった、買えばよかったと思っている。
先に読んだ『きのふの東京、けふの東京』に比べると、町歩きや映画のことだけでなく、著者の日常なども描写されていて興味深い一冊だ。それに失われていくものに対する思いが忌憚なく語られていて好感の持てる本である。
しばらく川本ワールドにはまりそうな気がする。
2011年1月19日水曜日
幸田文『流れる』
東京の昭和をふりかえる際、必ずといっていいくらい言及されるのが幸田文の『流れる』である。
この小説は成瀬巳喜男の手によって映画化され、フィルムに焼きつけられた古きよき東京の風景とともに多くの人の記憶にとどまっている。川本三郎しかり、関川夏央しかり。
多くの論者の言を待つまでもなく舞台は東京柳橋。神田川が隅田川に流れ込むあたりでJR浅草橋駅に程近い。かつては新橋とならぶ東京の花街であった。蔦屋という置屋で働きはじめた女中の目を通してみたくろうとの世界がいわば、“家政婦は見た”的なしろうと視点で語られる。
そしてこの小説はくろうと、しろうとのヴァーサスな関係意外にも置屋の主人一家と看板借り芸者、下町と山の手、凋落と繁栄など多面的な対立的構図から成る。主人公はしろうと視点の立場でありながら、ある意味、中立的に、その存在感を強く顕示することなく生きていく。
映画の『流れる』は田中絹代、杉村春子、山田五十鈴、岡田茉莉子、栗島すみ子らそうそうたるキャストである。関川夏央は『家族の昭和』で栗島すみ子が昭和62年、85歳で、幸田文が平成2年、86歳で他界したことに言及し、次のように語る。
彼女たちの死とともに、大正・昭和戦前という懐かしい時代は、その時代の
家族像と花柳界の記憶を浮かべて満々たる隅田川の水のごとく、橋の下を
流れ去った。
『流れる』、近々ぜひ観てみたいものである。
2011年1月15日土曜日
町田忍『東京ディープ散歩』
卓球の師匠Tさんが引越すという。
Tさんはうちの近所で酒屋を営んでいる。そのかたわら区の卓球連盟の役員をされている。世代的には荻村伊知朗と長谷川信彦の中間の世代でまさに卓球ニッポン全盛期の人である。全日本や国体の出場経験もある。根っから明るい人柄で初心者にも懇切丁寧に指導してくれる。
話を聞くと奥さんの実家が長野で幼稚園を経営していて、高齢のお義父さんの手伝いがてら同居を決めたのだと。もちろん大学時代の後輩が長野の連盟にいるので卓球の仕事も続けたいという。
Tさんにはじめて教わったのが一昨年の夏。月にいちどの一般開放日のアドバイザーとして練習を見てくれるだけなのでさほど多くの時間をかけて指導されたわけではないが、長年ラケットを振っているだけあって、ひと目で弱点を見抜いて、ポイントポイントを集中的に教えてくれる。昔話もまた楽しい(これが少々長いのだ)。
引越してしまうのは寂しいものだが、Tさんは今中学1年生のお孫さんがインターハイに出場するのを楽しみにしている(Tさんも、Tさんの娘さんもインターハイに出場している)。いずれ応援に足繁く東京に通ってくるんじゃないだろうか。そんな気もしている。
1500円の本を神保町で350円で売っていた。それも古書でもなさそう。たいした本ではないだろうと高をくくって開いてみると写真もいいし、この350円はいい!と思って買ってみた。
まだまだディープな東京はたくさんあるんだろうが、ディープ入門としてはなかなか結構な一冊である。
2011年1月12日水曜日
日本経済新聞社編『日本経済新聞の読み方』
日曜日、十条界隈を散策した。
昔、山手線池袋と京浜東北線赤羽を結ぶ赤羽線という路線があって、山手線の電車が黄色からうぐいす色になったあとも黄色の101系電車が走っていた。十条はそのなかの一駅である。今では埼京線と名前を変え、埼玉以北と副都心さらには湘南につながる重要な路線だ。おそらく埼玉県内の埼京線の駅はたとえば戸田公園あたりはぴかぴかの新駅という気がする。それにくらべると十条駅は古くさいローカル線の駅のままである。
駅の北には十条銀座という商店街が東西に延びていて、昔ながらの商店がならび、演芸場もある。少し裏路地に入ると、木造モルタルのアパートがまだ多く残っている。質素な町並みだ。
しばらく行くと北区中央図書館がある。ここは通称赤レンガ図書館。1919年に建てられた旧東京第一陸軍造兵廠十条工場だった建造物を利用してつくられている。王子、滝野川は明治の昔から軍関係の工場が多かった地域である。
社会科学というものに興味を持てないままおとなになってしまった。
大学の一般教養の授業で経済学、社会学、法学のどれかをとらなければならなくて、結局何を選択したのかさえ憶えていない。歴史とか地理とかに比較するととても複雑な構造物のような気がするのだ。
そういった意味ではぼくにとって、日本経済新聞はふつうに生活しているぶんには一向に無関係なメディアである。分厚く、文字数が多く(新書2冊ぶんあるという)、おそらく自らすすんで読むことはないと思うが、この本のようなガイドがあると読まなければいけないんじゃないかというに気にさせられる。
十条は埼京線より赤羽線が似合う町だ。
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