2007年4月21日土曜日

秋山満『フランス鉄道の旅』

現役をリタイアしてから、ゆっくりと旅を楽しむという人は多いと思う。行き先はアメリカでもなく、アフリカでもなく、オーストラリアでもなく、ニューカレドニアでもなく、やっぱりヨーロッパだろう。まあ、ハワイという人もいるかもしれないが、少なくとも知的な人生をおくってきた人の定年後の旅先としてはちょっと軽い気がする(なんて言ったら失礼だが)。定住するなら話はちがうと思うけど。
たとえば夫婦でヨーロッパを旅する。ツアーでなく、列車やバスを乗り継ぎながら。そんな方がご近所にでも住んでいればなあ、と常々思っていた。
近所にはいなかったが、近所の図書館にはあった。
著者の秋山満は高校の地理の教員をしていて定年後、パッケージツアーではない個人旅行を楽しんでいるという。その旅の記録をまとめたものが本書というわけだ。
基本は個人旅行、しかも鉄道やバスを利用しての旅だから、おのずと訪問する地域はヨーロッパになるに違いない。交通機関や宿泊施設に関してはアメリカやアジアに比べて圧倒的な利便性を備えているからだ。
この本では3つの旅行がとりあげられている。ナント、レンヌ、サンマロからカンペール、ラロシェルなど大西洋岸の街をめぐるブルターニュの旅。コルシカ島からニースにわたり、プロヴァンス、ピレネー山麓をまわる南仏の旅。そしてアルザス・ロレーヌからシェルブールなどノルマンディ地方をめぐる東北仏の旅。いずれも定年後の先生夫妻によるエピソードに事欠かない道中記になっており、いつの日か鉄道でフランス周遊でもしてみたいと思っている者にとってためになる生きた参考書である。

2007年4月19日木曜日

第13回中国広告祭受賞作品展

汐留アドミュージアム東京。

中国広告祭は中国の中で最も権威と影響力のある国家レベルの広告祭。何年か前から日本でも紹介されるようになって、年々レベルアップしているのが手に取るようにわかる。以前はどちらかというと日本の学生デザインコンクールの上位入賞作品と遜色ないような気がしていたが、ここ1、2年はハッと目を見張る作品もあって、見に行くのが楽しみになってきた。
洗面台の排水口に抜け毛が今にも流されそうになっている。その抜け毛がパンダの絵に見え、「少なくなったものを、救いましょう」というキャッチ。これはもちろん、希少動物を救うキャンペーンではなく、髪の毛によい漢方薬の広告だ。
またこんな広告もある。シャツの胸ポケットに空き缶をゴミ箱に捨てるピクトが刺繍されている。これは公共広告で「文明というブランドを常に身につけよう。いつでも、どこでも文明ブランド」とコピーが書かれている。公共マナーについての広告だ。アイデアとしてはわかるが、案外訴求するテーマが非近代的であったりもする。お隣の国であり、経済発展の渦中にある国という意識もあり、ついつい日本との差は埋まっていると思うのだが、意外とそうでもなさそうだ。
TVCMで驚いたのは、やはり公共広告でタイトルは母の愛情。「一番優しい母だから、嘘を世の中で一番素晴らしい言葉に変えられる」というコピーがついている。母親が子どもたちを育てるために食べたいものも食べたくないといい、夜を徹して働くことを働くのが好きだからといい、炎天下にいても冷たい水を飲みたくないといい、病に伏せて苦しいときも苦しくないという。母親が貧しさに立ち向かって、子どもたちを立派に育て上げていくというとてもいい話で、きわめて儒教的道徳的なお国柄が見てとれる。一方でどうしていまさらこんなテーマで公共広告が成り立つのかとも思ってしまう。実は中国でも日本のようにだいじな何かが失われつつあるのだろうかという穿った見方もできなくもない。
グランプリは北京マラソンを題材にしたナイキのCM。ネズミが追われるように走るCMだ。これもネズミになんらかの意味合いがあるのだろうが、マラソンランナーをネズミにしちゃっていいのかと思ってしまう。
いずれにしても日本と中国。似て非なるこの両国は広告コミュニケーションにおいても大きな差異があるようだ。


2007年4月17日火曜日

川上弘美『真鶴』

今春の高校野球都大会はベスト8が出そろった。
帝京、関東一、堀越、八王子、修徳、日大三、東海大菅生、都文京。東西それぞれ4校づつ。都立勢はベスト16に4チーム。そのうち1校が準々決勝に進出した。
で、真鶴なんだが、15年ほど前に行ったことがある。
最初はロケハンと称する下見。その後が本番。
半島の中程に中川一政美術館というこじんまりと落ち着いた美術館がある。周辺には公園があって、そこで写真撮影をしたわけだ。当然のことながら、この界隈は魚がうまい。ロケハン時には鯵の茶漬けがおすすめと聞き、いただいたものだ。
さて子どもが大きくなっていく。手ばなれていく。高校生くらいになるととりたててお互いが関心を持ち合うようなことがらでない限り会話はなくなる。父親と娘だったりするとその傾向はますます顕著になる。失踪した夫って要するにそういう存在なのかなあと思ったりしたわけだ。
久しぶりに読んだ川上弘美。語彙がいっそう豊かになって文章に無駄がない。次々に押寄せてくる短い文章が心地いい。

2007年4月1日日曜日

城 繁幸『若者はなぜ3年で辞めるのか?』

大阪で仕事があり、その帰りに甲子園に立ち寄る。今春注目のスラッガー大阪桐蔭の中田翔の長打を期待していたのだが、残念ながら不発。チームも破れ、ベスト8に終わる。
さて最近増えてるタイトルでつかむ新書。
中身は年功序列、終身雇用といった昭和的価値観の崩壊をテーマにしている。
少子化問題もそうなのだが、結局世の中ってやつは次世代にツケをまわすことでしか成り立たないらしい。そのいちばん顕著だった時代が高度経済成長を生んだ昭和というわけだ。
昭和を顧みるとき、子どもだったぼくらにとっては石原裕次郎や美空ひばり、長嶋茂雄らスターの時代だった。経済成長の陰の部分、負の部分を覆い隠して余りあるくらい輝ける時代だった。問題をどれほど先送りしようが、それ以上の夢だの希望だのといった抽象的な明るさが世の中を照らしていたんだろう。
年功序列だから希望が持てたのか、年功序列だから希望が見失われたのか。その辺に関しては決定打はないけれど、要するに世の中にはいろんなシステムのモデルがあって、時には時代の流れに乗って脚光を浴び、時には諸悪の根源として貶められるということではないのかと思う。若者の離職率もさることながら、少子化問題に対して子どもを増やす的な発想ではない新しい社会のシステムをつくらないことにはこの「閉塞感」はどうにもならないのではないか。

2007年3月24日土曜日

ラ・ロシュフコー『箴言集』

銀座のVTR編集スタジオがあり、仕事が立てこむと何日も徹夜したり朝帰りしたりする。運動不足になるし、たばこも吸いすぎるし、ろくなことはない。
先日も夜明け間近まで録音をしていた。そろそろ終わりそうな頃、トイレに立った。いつもなにげに使っているトイレに掃除用のブラシがおかれている。とそこまではよくある光景なのだが、よくよく見るとそのトイレブラシにおそらくはテプラかなにかで印字されたであろうシールが貼ってある。
「●●●●●・●」(スタジオの名前)と。
なんのためにそのようなものが貼ってあるのか、よくわからない。おそらくは盗難防止のため?しかし、こんなものに名前を貼って誰が盗むというのだろう。
しかもそのシールはブラシ本体にではなく、台座に貼られているのだ。盗むやつはきっとブラシを盗むだろう。間違っても台座だけ盗みはしない。
まあ、それはともかく、ラ・ロシュフコーの『箴言集』を読んでいる。なかなかウィットに富んだ、というかエスプリに富んだ名言の連続である。
ラ・ロシュフコーは17世紀の人なのだそうだ。ルイ13世、14世、リシュリュー、マザランらと時代をともにしている。てっきり、16世紀の、ラブレーやモンテーニュくらいの時代の人だとばっかり思ってた。


2007年2月20日火曜日

柴田三千雄『フランス史10講』

もし仕事や血縁、地縁などのしがらみがなければ(しがらみなんていったらお世話になっている皆様方には甚だ失礼であるが)、最終的に永住するのはフランスだという断固たる妄想を抱いている。なぜフランスかと問われても答に窮するのだけれど、学生の頃、フランス語の学校に短い期間ではあったものの、通っていた(もちろん初級で終わった)せいかもしれないし、やはりその頃、ジャン=ジャック・ルソーやフランソワ・ラブレーなんかをよく読んでいたせいかもしれない。が、決定的な理由は2年ほど前に南仏を旅した影響かとも思われる。
その旅はちょうどバカンス時期でカラッと暑い地中海沿岸の夏だったのだが、その気候とおそらくは中世の昔に建てられたのであろう古い建造物、そして整備された鉄道網に圧倒された記憶が生々しく残っている。というわけで妄想の対象としてはなかなかレベルが高いなあと我ながら感心してもいるのだが。
とはいうもののふりかえってみると、たぶん高校時代には世界史をちゃんと履修しているとは思うのだが、フランスという国についてあまりに無知な自分がいる。相手を知り、己を知れば百戦危うからず。誇大妄想にも立ち向かうにはそんな姿勢がたいせつだ。己を知るのはさりとて困難ではあるし、一生かけても無理かもしれない。となれば、せめてフランスのことをよく知ろうと思って読んでみたのがこの本だ。
正直いうともっと教科書みたいな本でよかった。歴史年表をたどってその因果関係が述べられているような本で。まあ岩波とはいえ新書だからその辺は適当に浅い教養書を期待して読んだのが間違いだった。単なる史実を綴っているわけじゃない。歴史としてどう史実を解釈するかというちゃんとした歴史学の本なのだ。もちろん新書的な素軽さで古代から現代まで話は進んでいくのだが、細かいひとつひとつの史実より、時代を象徴的に彩る事件、出来事にポイントを絞り込んでその解釈をめぐる議論などが紹介される。本格派の歴史書なのだ。
妄想を満たす程度の軽い気持ちで歴史を学ぼうとする輩にしっかりフランス史を学べと警鐘を鳴らした一冊なのかもしれない。

2007年2月16日金曜日

西成良成『「超」フランス語入門』

東京都美術館で開催されているオルセー美術館展に行く。
オルセー美術館は歴史は古くないが、もともと駅舎だった建物が使われていて、それだけでも行ってみたい美術館のひとつである。つらつらと絵をながめては見たものの、本当は絵画が見たかったんではなくて、オルセー美術館に行きたかったんだということがあらためてわかった。

さて、パリに行くならフランス語くらい多少はわからなくちゃならないと思って手にとったのが西永良成著『「超」フランス語入門』。著者は長年大学あるいはNHKのテレビフランス語講座で教えてきた方で、入門クラスのフランス語ならお手のものといった感じだ。するするっと読みながら、基本的な文法事項がのどをすべりおりていく。もちろんちゃんと覚えないことには元も子もないのだが、とりあえず読むだけで勉強した雰囲気は味わえる。
後半、「シャンソンで身につけるフランス語」、「諺・名句で心に残すフランス語」といった章は知っている曲や小説家のところで読むスピードが落ちる。せっかくだから丁寧に読む。
まあそんなこんなでフランス語教育にたずさわった人だからこそできる読み手を俯瞰した見事な一冊にのせられてしまったということにしておこう。

2006年9月13日水曜日

湯本香樹実『西日の町』

母方の祖父は千倉町の実家に飾られた遺影でしか、顔を見たことがない。母が中学生の頃だから、おそらくは40代で他界している。
どこの家でもそうとはいえないが、母方の祖父母、きょうだいに関しては子どもたちに話して聞かせる機会が多いせいか、多少なりともイメージ構築がなされているものだ。
ぼくの祖父は漁師の町で数少ない陸者で大工だった。写真を見てもわかるのだが、なかなかの男前で、戦争に行っていた頃は軍服を颯爽と着、馬を乗りこなしていたという。
母ひとり子ひとりの家庭で育った主人公の「僕」と母親、そして祖父の物語が『西日の町』だ。北海道で農地を切りひらき、馬を駆り立て、勇猛果敢に生きた祖父が、息子とふたりで生きるために北九州まで流れ着いた娘のアパートに転がりこみ、やがて衰弱し、死んでいく。
以前読んだ『ポプラの秋』とはちょっと趣の異なる小説で、昭和40年代の、いわゆる高度成長期と呼ばれる時代の影の部分が妙になつかしく、無彩色の風景が脳裏いっぱいにひろがり、切なくなる。
こうした豊かさの光が注がれなかった貧しさ、古きよき時代の負の情景とそこに必死で生きる人の群れを当時の少年たちはちゃんと語り継いでいるのだろうか。

2006年8月19日土曜日

デイヴィッド・オグリヴィ『ある広告人の告白』

何を思ったか、突然甲子園で高校野球が観たくなった。会社を休んで早朝ののぞみに乗った。かれこれ40年近く野球を観ているが、甲子園は初めてだ。その巨大さ、暑さに圧倒されながら準々決勝の2試合を観た。
興奮覚めやらぬ帰りの車中でデイヴィッド・オグリヴィの『ある広告人の告白』を読んだ。これはもともと1964年に出版され、最近新版が出されたものの翻訳で広告の世界では古典といっていいのかもしれない。
デイヴィッド・オグルヴィはオグルヴィ&メイザーという広告会社を作ったコピーライター。アメリカの広告クリエイティブを支えてきただけあって、もの言いがシャープでストレートだ。もちろん、60年代のアメリカの広告界がどのような状況だったかをぼくは知る由もないが、成長するアメリカ消費社会とその中での生き残りをかけた広告人の強い姿勢を感じる。
広告会社の経営手法、クライアント獲得の秘訣からクライアントと広告会社とのあるべき関係構築にはじまって、成功する広告キャンペーンの作り方、コピー作成法、写真とイラストレーションではどちらが効果的か、さらには視聴者を動かすTVCM、自ら携わったクライアントから学んだ「食品」「観光地」「医薬品」キャンペーンのポイントと現代にも通ずる部分の多い広告クリエイティブの教科書といえる。
実をいうと広告の仕事に携わっているとはいうもの、日頃あまり広告の本は読まない。ましては古典(と決めつけてしまうのは失礼だが)には縁遠い生活をしている。オグルヴィに限らず、ドイル・デーン・バーンバックやレイモンド・ルビカムなど広告人の教養として読んでおかなきゃいけないんだろうなあ、ちゃんと。


2006年5月8日月曜日

鮎川久雄『40歳からのピアノ入門』

ラジオ講座のフランス語を聴いていて気がついたのだが、スキットの中に携帯電話でのやりとりがあったり、通貨の単位がユーロになっていたり、当たり前といえば当たり前なんだろうけど、時代は着実に変化している。もうひとつ気がついたのだが、この手の語学講座のスキットって台詞と台詞がきちんと整理されていて、つまり、かぶせてきたり、相手の発言を暴力的にさえぎったりしないところが平和でいい。実践的かどうかという判断は別にして。
連休中にこの本を読んだ。これがたとえばラジオ工作入門という本であれば、回路図があって、部品の調達から半田付けのコツまで書かれているのであろうが、なにぶんピアノだ。ピアノの弾き方なんかこれっぽっちも書いてなくて、まあ、言葉悪く言えば、著者のピアノ自慢ってところでしょうか。これとは別に出ている入門書の宣伝本なんですね、きっと。

2006年4月28日金曜日

藤原正彦『国家の品格』

著者の論が今注目されているのは、ややもすれば、誤解をまねかざるを得ない言葉の数々、その意味を問い直すことで、これまで多くの人々が見失ってきたものに光をあてたからだろう。
たとえば祖国愛。国益主義と誤認される愛国心という言葉は使わない。その見識が本書の太い骨格を支えている。さらにはわれわれが盲目的に信仰してきたであろう「近代合理精神」、「論理」、「自由」、「平等」、そして「民主主義」さえもものの見事に斬る。そして本当にたいせつなものは祖国にある、わが国の伝統、風土に根ざしているという。それがたとえば武士道だというわけだ。
君は日々、仕事に追われ、つきあいに追われ、自分を見失っていないか。君の心のふるさとにあるものを忘れてはいまいか。そういうことを語りかけてくれている本なんだなと思った。

2006年4月26日水曜日

清水義範『スラスラ書ける!ビジネス文書』

今月からラジオの語学講座を聴いている。毎年ではないけれど、この時期にはよく聴き始める。が、あまり長続きしない。せいぜい連休あたりで終わってしまうことが多い。5月号のテキストはたいてい使われないまま放置される。果たして今年はいつまで続くやら。
今年は今まで試したことのなかったことに挑戦している。それは2カ国語同時進行だ。フランス語とハングルにトライしている。特に根拠があるわけじゃない。ふたつ学んだほうが効率がいいとか、学習理論的に効果的だとかというわけではない。理由はひとつ。挫折するならまずどちらか。ああ、もうめんどくさいなあと思ってもまさかふたついっしょにあきらめるのは惜しいから、おそらくどちらかひとつは残すだろう、そうすることでどちらかは長続きするだろうという計算だ。われながら非常にせせこましい考え方だ。
清水義範の本はなんどかとりあげているが、今回読んだのはビジネス文書の作法。あまり清水義範とビジネス文書というものがイメージとしてつながらない。これはきっと何かあるのだろうと思い、手にとった。
本文は「週刊現代」に連載されていたものというから一応、ビジネス文書の指南書にはちがいはないのだが、読んでみると案の定、ただの指南書ではない。小うるさいテクニックを口を酸っぱくして熱く語ったり、読書に励めとか、訓練を積めと、センスを磨けみたいなことに頓着していない。むしろ昔の人たちより現代人のほうが文書を書く機会も読書する機会も豊富なのだから、もっとみんな文書を書くことでコミュニケーションしようぜ、みたいな著者ならではの軽妙な応援歌なのだ。
つくづく思うのだが、清水義範は本当に文章が好きな人だ。文章に愛情を持った人だ。著者の、随所に見られる文章に対するきちんとした思い、言うなれば文章愛、みたいなものがあるから、ただの文章作法の本とはひと味もふた味もちがうのだ。

2006年4月21日金曜日

重松清『卒業』

先日、国立科学博物館で開催されているナスカ展を見る。電車の中で見たポスターのキャッチコピー「世界で8番目の不思議」が気に入ったせいもある。
地上絵がどうして描かれたのかはいまだ謎であるが、宇宙人が描いたという説が21世紀になってもまことしやかに残されているのがなんとなくうれしい。
今日は朝から雨模様。昼ごろには嵐になって午後から晴れた。風は一日中強かった。
重松清の『卒業』を読む。映画「あおげば尊し」を観て、読みたいと思っていた本だ。タイトルから、あるいは映画を観た印象から学校ものかと思っていたが、実はそうではない。人の死(重松は人を「ひと」と開くのだけれども)を通じて、あるいは主人公の背負った過去の重荷からそれぞれが卒業していくという大きな、そして身近なテーマが設定されている。例によって泣けるシーンが多い。電車の中で読むにはちょっとかっこ悪いのだが、重松流の重量感あふれる一冊だった。



2006年4月11日火曜日

藤原てい『流れる星は生きている』

藤原正彦『祖国とは国語』の流れで読んだ一冊。
著者が満州から本土へ帰る終戦間際からの記述が本書だ。
よく学校の先生や会社の上司に満州生まれという人がいたが、本土に帰ったときの話をくわしく聞いたおぼえがあまりない。当の本人が小さかったせいかもしれないし、忘れてしまったのかもしれない。あるいは口にしたくないほどの経験だったのかもしれない。おそらく多くの日本人が貨物列車に乗せられ、恵まれていさえすれば牛車で、そうでなければ夜を徹して徒歩で山を越え、川を渡り、ようやくたどりついたプサンから帰還船で祖国日本に命からがら戻ったのだろう。
あるいはかつて聞いたことのあるこの苦難の道のりをこともあろうか僕自身が忘れ去っているのかもしれない。もしそうだとしたらこいつがいちばんよくない。この本を手にしたきっかけは歴史認識のためでもなく、興味本位でもなく、純粋に忘れてはいけないことの再認識である。
ぼくの義父はシベリアから帰還したという。孫であるぼくの子どもたちにとって戦後祖国の土を踏みしめた祖父の経験はたぶんいちばん身近な歴史体験なのではないかと思う。戦争を語り継いでいくためにぼくらができることはこういう本を読み伝えていくことしかないんじゃないだろうか。


2006年4月6日木曜日

本間正人・松瀬理保『コーチング入門』

高校時代に所属していた運動部は伝統的に上下関係がきびしかった。ただそこには一本きちんと筋が通っていたし、先輩は恐いだけじゃなく、尊敬できる人たちだったから、ぼくたちもいずれは自分たちの先輩のような先輩になろうという思いもあった。

昨今のコーチング本を書店でパラパラめくりながら、部下を育てて、コンピテンシーを高めていくのってそんなたいへんな時代なのかよって思ってしまうのだ。個人の能力を高めるために、やる気を引き出すために、周囲の人たちは今こんな苦労をしているんだなと。
一般企業と体育会系学生組織とでは目的の質が異なるわけだし、その意識の共有度合いも当然異なる。世の中には仕事や人生に情熱も持てず、やる気も出ないまま一生を終える人間もいるだろう。そんなときに組織として生産性を高めていく手法がコーチングってことなんだろうね。もちろん人を育てたり、育てられたりすることで、業績が伸びたり、個人の能力が向上するのはいいことだ。心の中ではそんなもんがんがん鍛えて、ぼこぼこしごけばいいじゃないかとは思うものの…。
この本のキーワードは「傾聴」「質問」「承認」。いくつか目を通したコーチング本の中でもシンプルに整理されていて、とりあえずの一冊としてはベストだと思った。


2006年3月30日木曜日

松瀬学『清宮克幸・春口廣対論指導力』

ビジネス書売場ではコーチングと名のついた書籍がめっきり増えてきた。そろそろその手の本も読まなきゃなという年頃なんだけど、ビジネス書なるものを手にしたことがない。どんなグリップで握って、どんなフォームで読んでいいのやら。
その点、スポーツ指導者の話は入り口としてわかりやすい。と思って手に取ったのが、早稲田大学ラグビー部前監督と関東学院大学ラグビー部監督の両氏による対談をまとめたこの本だ。
関東学院の春口氏は教員であり、清宮氏はサントリーのビジネスマン。その対比もおもしろいのだが、春口氏がしゃべりすぎる。実は読者の多くは早稲田躍進の秘密を清宮氏の口から聞きたいはずなのに、なかなかしゃべってくれないこのもどかしさ。そのことに腹を立てる読者もいるだろうが、それはそれで演出だ。実は清宮メソッドのほとんどを春口氏が明かしている。そんな気がした。

2006年3月26日日曜日

藤原正彦『祖国とは国語』

藤原正彦の本が売れているらしい。『国家の品格』という新書が大ヒットだという。そんなこんなで名前を知ったのだが、この人はあの新田次郎のご子息なんだそうだ。ちょっとした文才のある数学者なんだとばかり思っていた。
数学者でありながら、国語教育の重要性を真摯に説くあたりに著者の懐の深さというか、見識の幅広さを感じるのであるが、この本の構成もまた実に巧みだなと思ってしまう。
祖国とは血でも国土でもなく、国語なのだ力強く訴えたかと思うと軽妙な文章で科学をめぐるエッセイを家族という舞台で展開する。そして最後は自らの生まれた“祖国”満州を訪ねる紀行文と実になかなか、なのである。


2006年3月25日土曜日

村上玄一『わかる・読ませる小さな文章』

荻上直子監督の『かもめ食堂』を観た。
フィンランドという土地にまったく予備知識がなかったせいか、とても新鮮な街に見えた。
予備知識といえば、この本の著者村上玄一という人を知らない。知らない人の本のことをとやかく書くのはいかがなものか。

>>本当の強さ(自信)とは「予備知識」をどれだけ蓄えているかということだ

などと書かれてあると多少なりとも作者のことを知らなければと思っていしまう。でもって、奥付を見る。

>>村上玄一(むらかみげんいち) 1949年6月、宮崎市
>>生まれ。日本大学芸術学部文芸学科卒。新聞社、出
>>版社を経て現職。おもな著書に…

えっ。現職ってなんだ?『わかる・読ませる小さな文章』なのにわからないじゃん。
と、まあ、ぼくもそれ以上調べたわけでもないんで、こちらの勉強不足、認識不足ってことで。

この本自体は文章を書く上でたいせつなことが丁寧に熱く書かれている。著者が文章力の向上にどれだけの熱意を込めているかは太目の明朝で本文が綴られていることからもじゅうぶん理解できる。
でも思うんだよね。文章のプロが文章作法について書くのって、そうとうつらいだろうなって。だって人の文章を添削している自分の文章だって誰かに真っ赤に添削される可能性だってあるわけだし。

2006年3月20日月曜日

速水敏彦『他者を見下す若者たち』

仕事がひと段落したら、奥多摩でも散策してみようかと思っている。
青梅線で終点の奥多摩駅に出て、渓流沿いを歩く。吊り橋をいくつか渡って、奥多摩湖畔に出る。おそらくこのあたりにはうまい蕎麦屋があって、山菜料理などをつまみながら、蕎麦をすするのだろう。時間があれば大岳山くらいにチャレンジしてもいい。帰りには温泉にでも浸かってゆっくりしたいものだ。
てなことをシミュレーションしているこのごろ。時刻表をながめて、旅した気分になっていた子どもの頃のようだ。
で、本日読み終えたのは速水敏彦著『他者を見下す若者たち』。
惜しい気がする。とても惜しい気がする。いい着想なんだけど、研究紀要に載せる小論に近いようでいて、未完成だし、新書(実際、新書なんだが)で世に広く問うというスタンスにしては明快さに欠けるかな。
ひとつには「仮想的有能感」というキーワードが言い当ててはいるんだろうけど、世の中的なキーワードとしてはこなれていないことが挙げられる。もっとSPA的な共感、共有可能なワードはなかったのかと思うわけだ。教育心理学者という立ち位置が著者の発想とその展開を阻害したのかもしれない。また、著者によれば「仮想的有能感」の研究はまだ途上であるという。そのせいか「であろう」とか「思われる」が多用され、全体に文章の切れがよくない。それは真面目な教育心理学者である証とも受けとれるのだが、もっと思い切り、仮説を列挙した挑発的な「読み物」をめざしてもよかったんじゃないかとも思うのである。

2006年2月21日火曜日

重松清『きみの友だち』

去年観た内田けんじ監督の『運命じゃない人』でひとつの物語を主人公を入れ替えて描く手法に感心した。
角田光代の『空中庭園』も主人公が入れ替わる連作短編集だったのを思い出した。
この小説も主人公が替わる連作短編。主人公はそれぞれ作者から「きみ」と二人称で呼ばれる。本当の主役である「きみ」は「恵美」なんだけど、「恵美」の思い出の中のおぼろげな存在たちさえもが「きみ」と語りかけられることで脚光を浴び、生気を吹き込まれた存在になる。そして彼らを追って時間軸を飛びまわり、奥行きのあるドラマを形成していく。
と、まあそんなカタチの小説なんだけど、話が重い。いじめとか障害の話は苦手だ。先もある程度読める(いちばん最後の一篇が必要だったかどうかは別として)。
なのに泣けてしまうのだ。

2006年2月6日月曜日

よしもとばなな『王国その3ひみつの花園』

市川準監督の『あおげば尊し』を観た。小学校教諭のテリー伊藤がやはり教師だった父加藤武を看取る話。静かな人間描写の映像が続き、最後はどうなるのだろうと思っていたけど泣けてしまった。
ところで手もとのファイルの中に『王国その2痛み、失われたものの影、そして魔法』を読んだ形跡がない。読んだつもりになって、その3を読んでしまったのだろうか。読んだような気もするし、読んでいないような気もする。たしかに憶えているのは、ついこのあいだその3は読んだということだ。それだけでもよしとしよう。

2006年1月21日土曜日

竹内一郎『人は見た目が9割』

昔、上司にコミュニケーションの7割は声の大きさ、2割は雰囲気、内容は1割だと教わったことがある。「見た目」と呼ばれるノンバーバル・コミュニケーションの割合は以前から着目されていたのだろう。で、どちらかといえばかなり学術的な分析がなされた本だと思って手にとった。正直言ったところ。
実際読んでみると演劇、マンガ(著者の専門分野といえばそれまでだが)からの事例が多く、わかりやすいといえばわかりやすいし、物足りないといえば物足りない。なんでノンバーバルコミュニケーションの比率が大きいのよってところを知りたかったんだけど、それはもっと別の本を読みなさいってことでしょうか。

2006年1月16日月曜日

湯本香樹実『ポプラの秋』

何年か前に梨木香歩の『西の魔女が死んだ』を読み終えたあと、当時5年生か6年生だった長女にすすめたら、たいそう気に入ったようで以来、娘の書棚に梨木香歩が並ぶようになった。そのときのお返し(?)か、こんどは娘のおすすめ図書ということでこの『ポプラの秋』を読んだ。 ああ、よかったなあ。うちの娘はこんないい本を自分で選んできて読んでるんだなあとひとあんしん。おもしろくても人の気持ちをアンダーにする物語は正直好きではない。重たい小説も本当は好きじゃない。窓から見える木々や草が風にゆらいで、ところどころで太陽の光を反射させてきらきらしている、そんな風景みたいな話が好きだ。

2005年12月21日水曜日

鈴木隆祐『名門高校人脈』

名門高校っていうからてっきりぼくの出身校もあるかと思ったら、かすってもいなくてちょっとムッとした。まあそれはどうでもいいんだけど、けっこう人脈話に展開されているのか思ったら、そうでもなく、名門高校を全国からチョイスして、その出身者を羅列しているだけ。それぞれの学校の校風みたいなことも触れられてはいるけど、どちらかといえば通りいっぺんの学校案内程度。おまけに有名大学の進学状況なんか書いて紙面を埋めるお粗末さ。名門ってそういうことじゃあないんじゃないかなって思いました。

2005年12月1日木曜日

三浦展『下流社会』

有徴、無徴といった考え方がある。
記憶の中にあるのは言語学だか民俗学だか、ソシュールとかレヴィ=ストロースなんかに関する本を読んだとき知ったことだけど。つまり俳優は無徴だけど女優は有徴。お茶は無徴だけど紅茶は有徴といった具合に、そのものを表すのに余分な徴(しるし)があるかないかといういことかと思っている。
その点からすればおそらく「下流」は無徴だった。「上流階級(階層)」はあっても「下流階級(階層)」はなかった。その後、「中流」が有徴化され、中流意識なるものが生まれた。
いわゆる団塊世代に支えられて「中流」が肥大化するにつれ、その二世や次なる世代が消費社会の主役になっていく。そうして社会的格差は広がっていき、「下流社会」が有徴化されてきた。「下流」は単に所得が低いといことではなく、意欲が低いのだという視点も上流、中流の延長上に位置づけられた下流ではなく、新しい階層集団としての「下流」を際立たせている一因だろう。
社会科学は得意でないので、よく分析された本なのかどうかもよくわからないが、細かい表やグラフを添えてくれているとなんとなくよさげに思えて、妙に納得できてしまう。そう思ってしまうことが「下流」なのかもしれないが。


2005年10月20日木曜日

池内紀『森の紳士録』

先日、山梨にキャンプに行った。アウトドア好きの友人家族に誘われるままに、はじめてテントで眠った。オートキャンプ場を往復しただけだから、積極的に山歩き、森歩きをしたわけではないが、久しぶりに澄んだ空気にとっぷり触れた気分だ。少なくともテントででも寝ないと夜の森の雰囲気は味わえない。
ドイツ文学者である著者は引退後、山歩きをはじめたという。
もともと自然散策が好きだったのかもしれない。かなり精力的に歩きまわっている。また文学者であったせいだろう、イマジネーション豊かな視点で「森の紳士」たちを切りとっている。自らの見聞きしただけでなく、きちんと文献も散策して、その辺が単なる山歩き自慢の本を超えた仕上がりになっている。
もしかしたらこのまま一生出会うこともない動植物たちにしばし思いをめぐらせた。

2005年9月11日日曜日

佐野真『和田の130キロ台はなぜ打ちにくいか』

はじめて父親とプロ野球を観たのが小学校2年のとき。当時の神宮球場は外野席が芝生で寝転んで観戦する人も多かった。産経アトムズ対読売ジャイアンツの試合でもうほとんど記憶にない。唯一憶えているのはジャイアンツの森捕手がぼくらの座っていたライト側に大きなファールを打ったことくらい。
子どもの頃の娯楽はプロ野球と大相撲だったんだけど、とりわけ野球は好きだった。それは今も変わっていない。
もともとものごとのしくみとかルーツをたどるのが好きだったせいもあって、プロ野球から大学野球、高校野球と観戦対象もひろげてきた。
和田毅は東京六大学時代、神宮球場でなんどかその登板を見ている。さほど身体も大きくなく、特徴的なフォームでないにもかかわらず、相手打者のバットが空を切る。それが不思議だった。織田、三沢、藤井秀悟、鎌田と早稲田からプロ入りする投手は多かったが、体格的に劣る和田がこれほど活躍するとも思えなかったし、そもそも江川卓の六大学奪三振記録を塗り替えることさえ、意外でしかたなかった。
というわけでこの本は積年の不思議、疑問の数々を解明してくれたまさにタイムリーな一冊だ。構成もテレビ番組のスポーツドキュメントを見ているようで、小難しさはないし、それでいて専門的につっこんでいるところも見受けられる。居酒屋の野球談義には欠かせない一冊だろう。


2005年7月21日木曜日

角田光代『キッドナップ・ツアー』

テレビに角田光代が出演していた。それまで読んだことはなかったのだが、仕事場が荻窪にあると聞いて、急に親近感がわいてきた。で、何冊かまとめて読んでみることにしたわけだ。
『キッドナップ・ツアー』は中学生の長女が持っていた夏休みおすすめ図書みたいなパンフレットに取り上げられていたので、読んでみて、おもしろかったら娘に貸そうという効率的な観点もあって買ってみた。
夏休み、だらしなくて、情けない実の父親に誘拐される小5の娘が主人公。各地を転々と旅をする。
娘ハルが言い出せなかった言葉、口まで出かかってのみこんでしまった言葉、そうしたもどかしさが短いけれどだらだら続く誘拐旅行のいい味付けになっている。
うちの次女はいま4年生。5年生になったら、ハルみたいにしっかりしてくれるのだろうか。


2005年6月11日土曜日

山田真哉『さおだけ屋はなぜ潰れないのか?』

20年くらい前までは売れているから読むとか、そんなことはなかったんだけど読書に割ける時間が減ってきてるし小さい字は見にくいしでなるべく効率的に読書しようと思うようになっている。できるなら周りの人と共通した話題を持てる本も読まなくちゃってことで、これからは売れてるから読むでいいんじゃないかと。
著者の山田真哉は会計学が専門というが、けっして専門くさい本ではなく、むしろものごとの原理とかしくみとかわかりやすく解き明かしてくいれている。いわばラジオはどうして聞こえるの?飛行機はどうして飛ぶの?という疑問に明快に答えてくれるようですがすがしい気分になる。
「100人と薄っぺらい関係を築くのではなく、100人の人脈を持つひとりの人物と深くしっかりとした関係を築くべきなのだ」
というちょっとした余談も会計の枠を超えたいいアドバイスである。


2005年4月27日水曜日

川上弘美『古道具中野商店』

学生時代に通っていた喫茶店があった。最寄り駅から大学までは20分ほど歩くのだが、駅から少し遠くて、通学路から少しはずれたところにあったので、同じ大学に通う学生はほとんど来ていなかった。
遅めの午前の授業の前か、午後の授業の終わりに立ち寄っては、ひとしきり本を読んでは帰った。そう年配とはいえない夫婦で経営していた記憶があるが、常連だったとはいえ、会話を交わしたこともなく、ただコーヒーを飲んで、本を読んで帰る大人しい学生だったわけだ。特になにが楽しくてそこに佇んでいたのではない。ただその空間に身をおくと時間の流れが止まってしまうようで、そのことが心地よかったのだ。
外界から時間的にも空間的にも遮断された場が好きだ。別に世の中のことがきらいなわけじゃなくて、むしろ世の中の面倒なこと、こまごましたことに煩わされることは苦にならない。時間的空間的に遮断されていたって、身の回りのことや世の中のことはうごめいている。喫茶店でコーヒーを飲んでいたって、人の話は聞こえてくるし、レポートの提出日は迫ってくる。たぶん、そこは遮断されているんじゃなくて、遮断されたいと思うぼくのイマジネーションを刺激してくれる場所だっただけかもしれない。
中野商店で繰り広げられる日常は、あまりに日常すぎて、ぼくたちの生きている世界から遮断されているような錯覚に陥る。まさに不純物のないありきたりな日常だ。平凡な毎日もここまで徹底的だとその中に息づく人間関係の微妙な動きが鮮明に映し出されてくるように思う。
最近、ドラマや映画を観ていても過剰な演出や、突飛なシチュエーション、無意味な映像効果が氾濫している。久しぶりにデジタル合成のない実写だけの映画を観たような気がした。

2005年4月10日日曜日

清水義範『大人のための文章教室』

清水義範は好きな作家のひとりだ。パスティーシュの名手とよくいわれるが、それは多くの文章に接しただけでなく、よく観察している結果として彼独自の世界が生み出されたからだろうと思う。
一方で清水義範は教員養成系大学で国語教育を専攻していた。教員の経験はないものの、日本語を教えるということに関しては何がしかのものを持っているはずだ。
というわけでこの本を手に取ってみた。一見実用書のように見える。読んだその日から役に立ちそうな体裁をしている。ところが読んでみてわかるのは彼の文章に対する観察力、洞察力だ。それもすぐれた文章にとどまらない。このことはこの本だけでは読み取れないが、彼は街に貼られたポスターや注意書き、家電製品の取扱説明書までこと細かに読んでいる。読んでいるというより、観察している。この本では子どもの作文を取り上げて言及しているが、もともと文章が好きなんだろうなって思ってしまう。身近な文章の書き方を指南する実用書のふりをして、作者の文章に対する日ごろの思いや信念が綴られているといってもいいかもしれない。
さらに実用書らしい演出がさえているのは、品格のある名文は文章力だけでは生まれないときちんと線引きしているあたりだ。まずやらなければいけないことはわかりやすく伝わりやすい文章を書くことだと。
文章読本と名のつく書物は硬軟数多あったが、さすがは清水義範だなあと思わせる「ちょうどいい感じ」がこの一冊にはある。

2005年4月1日金曜日

細谷巖『細谷巖のデザインロード69』

青山のバーで何度か細谷巖を見かけたことがある。アートディレクターというより、昔ながらの職人さんという風貌だ。人は見かけで…というが、どこからあのような広告デザインが生まれてくるのか、ずっと不思議だった。
いわゆる団塊の世代以前の人たちはアメリカのデザインをダイレクトに受け止めた世代だと思う。それ以後は日本の何者かによって媒介されたアメリカ文化しか知らないのではないだろうか。団塊世代のひとまわり下のぼくもそうだと思う。和田誠もそうだと思うが、アメリカの豊かさを見事に体現できるデザイナーが育ったのは、“戦後”を経験した世代だけなのだろう。
さて、和田誠と細谷巖は同じライトパブリティというデザイン会社で育ったふたりだが、デザインの根幹の部分はかなり近いと思う。しかしながら、そのキャラクターはずいぶん違うようだ。言葉は悪いが、器用で、あらゆる面で才能を発揮する和田誠に対して、細谷巖は不器用で、朴訥で、そのデザインワークに似合わず地味な人である。その細谷巖が語ったこの本は、まるで細谷さんそのもののように質朴で、飾りのない仕上がりになっている。多くのエピソードをおもしろ、おかしく挿入していく和田誠とは好対照だ。
残念ながら、ぼくは細谷巖と面識はなく、会話をかわしたこともない。それだけにこの本を通して語りかけてくれる細谷巖がどうしようもないくらいうれしいのだ。この感覚はおそらく70年代後半から80年代を通じて、細谷デザインにあこがれていた人たちに共通のものではないだろうか。
(2004.12.15)

2005年3月29日火曜日

梁石日『血と骨』

在日文学というものをさほど意識することはなかった。
この本を手に取ったのは崔洋一監督の映画を観たからであり、なぜ映画を観たかというと仕事で韓国に行ったことで、こちらにわたってきた韓国の人たちに興味を持ったからである。映画ではビートたけしが好演している。原作では巨漢の金俊平役を決して大きくない身体で演じているのだ。身体の大きさなんてどうでもいいことなのかもしれないが、ことこの小説に関する限り、身体は重要なモチーフである。身体というより、肉体というべきか。金俊平にとって生命は精神にみなぎることなく、肉体からあふれ出し、ほとばしるものである。そして戦中、戦後の日本人はもちろん、在日の人たちにとって何よりも必要だったものが、心ではなく、身体だったのだろう。
一方で金俊平にまったく欠如している精神性はその妻李英姫と子どもたちに垣間見ることができ、凶暴な身体性と対をなしている。その身体性はやがてお金という暴力に形を変え、金俊平をさらに凶暴な人間にする。やさしさやぬくもり、思いやりといった本来人間社会を支える柱が圧倒的な力、暴力、肉欲によって封じ込められる時代、いうなれば人間の原初は動物的なものであったと思わざるを得ない時代を梁石日は生き抜いてきたかもしれない。
そういった意味で在日文学は実は奥深く、闇と混沌に覆われている。だからこそ、人間とは何かという問いかけに鋭い視点を投げかけることができるのだろう。
ちなみに映画と原作は微妙に異なっている。シナリオの元になったのは、この本よりも作者の半生であると思われる。登場人物の名前や映画で扱われているエピソードはむしろ作者の回顧録である『修羅を生きる』に基づいている。これは崔洋一が映画に原作以上のリアリティを求めたかったからだろうとぼくは思っている。
(2004.11.17)

2005年3月27日日曜日

山本一力『ワシントンハイツの旋風』

山本一力という人は時代小説の作家らしい。一度テレビに出演しているとき、その風貌が時代小説だなあと思ったのだが、一方でその声がやわらかい低音でダンディな印象を受けた。
この本は彼の初めての現代小説だという。昭和30年代、中学生の主人公は高知から東京に出てくる。代々木上原界隈の新聞配達を高校卒業まで続け、その間当時代々木にあったワシントンハイツで英語を身につけ、後に旅行代理店に転職する。
ワシントンハイツというのは今のNHKや代々木公園一帯にあった米軍の住宅施設である。ぼくが物心ついたころにはすでになかったと思うし、代々木界隈はぼくにとって疎遠な土地であったこともあって、この本を読むまでは全く知らなかった。代々木公園はずっとずっと昔から、だだっ広い公園だと思っていた。
さて山本一力は時代小説の人だというが、なんとなく文章からもわかる気がしないでもない。文章が武骨な感じがするのだ。骨太でごつごつしてて、不器用そうな文章。さらっとなめらかで、スマートな描写があまりない。ざらざらしてでこぼこしている。そういう作風の人なのか、あるいは主人公の人生と、その背後に広がる昭和という時代を描くためにわざとそうしているのかはわからない。上手に噛み切れないするめを齧るように読みすすむことで昭和の味をじっくり味わう、そんな本だと思った。
それにしても昭和の中ごろは実に貧しかったと思う。急激に生活や文化が新しくなったことがいっそう貧しさを際立たせていた。ただぼくはそんな貧しい毎日の中で生まれ育ったことをとてもよかったと思っている。
(2004.2.8)

2005年3月23日水曜日

よしもとばなな『デッドエンドの思い出』

ツイードやフラノのジャケットに袖を通すときのあたたかくつつまれた感触が好きだ。
昔、高校入試で「夏と冬とではどちらが好きですか」という英作文の問題に「わたしは冬のほうが好きです」と思わず書いてしまった。天真爛漫な夏よりも寒さに緊張する冬のほうがなんとなく好きだ。江國香織も「冬のいいところの一つは窓がくもることだ」(『流しのしたの骨』)とか「冬は知恵と文明が要求される季節」(『神様のボート』)と書いている。
たいていの人がそうであるように、よしもとばななの小説にスリルや衝撃的なものを求めてはいない。入り江の波や静かな湖の水面を眺めるような時間を求めて読むのではないか。ぼくはそう思っている。そして、よしもとばななはどんよりと重くかすんで、それでいて甘い冬空を描くのがうまい。
読みすすむにつれて、特に「あったかくなんかない」で描かれている少年と少女の交流はどことなくトルーマン・カポーティを読んでいるような錯覚にとらわれるが、これはやはり気のせいだろう。
本人がいちばん好きな作品とあとがきに書かれているが、このせつなくてつらい短編の数々は彼女の人生の波立った部分を抽出したエキスのように思える。もちろんそれはせいぜい「さざなみ」程度のものであって、大方の読者を裏切るものではないだろう。いずれもせつなさ、つらさ、悲しい出来事からのリハビリが描かれている。ひとことでいえばリハビリ小説といってもよいだろう。人は不幸からのリハビリの中に幸せを見出すのかもしれない。
(2003.11.19)

2005年3月20日日曜日

柴田敏隆『カラスの早起き、スズメの寝坊』

体重が気になりはじめ、徒歩5分の西武線の駅で乗り降りするのをやめ、JRの荻窪駅まで歩くようにした。もちろん風雨の強い日は避けるし、早朝の仕事の際は近くの駅を利用している。
歩いてほぼ30分。これだけの時間があるとさすがに飽きる。でもって家並みを眺めたり、公園に寄ったり、それなりの暇つぶしをすることになる。野鳥観察はそんな日常のなかから生まれたぼくの数少ない趣味のひとつだ。野鳥といっても都内の公園や木立に見られる鳥だから、たかが知れている。スズメだのムクドリだのヒヨドリだの、いわゆる都市鳥の域を出ない。たまにハクセキレイやカワセミを見かけるとその珍しさに感嘆してしまう。時たま種類のわからない鳥を見かけると仕事場にある図鑑で確認する。こうして少しづつ野鳥の名前のレパートリーがひろがってくる。
趣味といってもその程度で、写真を撮ろうなどと考えたら、高額な超望遠レンズが必要になるだろうし、野山に出かけるとなるとそれはそれでめんどうだ。あくまで手近で簡便な娯楽にとどめている。とはいえ、眺めているだけでもなんなんで多少は知識や教養としてのバードウォッチングを身につけてもよかろうと思い、手にとったのがこの本だ。
著者は少年時代から鳥が好きだったらしい。筋金入りのバードウォッチャーというわけだ。野鳥の生態からなにからまったく無知な人間にとっては神様のような存在だ。しかもこの本、副題に「文化鳥類学のおもしろさ」とあり、いわゆる野鳥の専門書ではなく、野鳥の生態をおもしろおかしく(実際におもしろいかどうかは別として書き手の意図は伝わる)人間の文化や生活になぞらえて書かれているので気軽に読める。
ただね、著者が長年書き溜めたものが本になっていることと著者自身がご年配であるせいもあって、書かれている内容がずいぶん昔のことなんじゃないかなあって気がする。おそらくは20年近く前のことが書かれていると思うのだが、果たして文中の場所に行ったら、その鳥は本当に見られるんだろうか。まあ、そんなこと自分でたしかめればいいんだけどね。
(2003.11.13)

2005年3月18日金曜日

堀尾輝久『いま、教育基本法を読む』

堀尾輝久氏といえば、氏の博士論文でもある『現代教育の思想と構造』が知られている。教育学を志す人にはうってつけの一冊だろう。そのなかでは戦後教育の理念がどのように生まれてきたかを教育思想の歴史をたどりながら克明に描かれている。単なる反体制的読み物ではない。ややもすれば体制批判、権力批判に終わってしまう教育本とは土台が違うのである。
さて、この本はどうか。さすがにジョン・ロック、ジャン=ジャック・ルソーから解き明かされてはいない。どちらかといえば平易で説得力のある語り口である。官から民へ、構造改革が推し進められるなかで、教育にも市場原理、競争原理が取り入れられようとしている。人間の尊厳をないがしろにしたビジネスライクな教育産業の時代がやってきつつあるのではないかという危惧が本書の前提として書かれている。著者はそれに対し、戦後日本が(その思想の原点はそれ以前から見出されていたのだが)育んできた民主教育、権利としての教育という教育思想の原点に立ちかえって反論する。もちろん教育思想史に精通した著者であるから、それを知っている読者にとって、その説得力はかなりのものだ。
とはいえ、ぼくの感想は、まだこんなことを議論していたのかというのが正直いったところだ。教育を体制側から国民の側に、という当初の基本法の理念が時代とともにねじまげられていることはたしかなのだが、権利としての教育を論じる以前にもっと大切な議論があってもいいのではないかという気がするのだ。それがなんなのか、現時点ではさっぱりわからない。もしかすると壮大な人間論なのかもしれないし、政治家の語るような愛国心なのかもしれない。正直いって、足りないことはなんとなくわかるんだが、なにが足りないのかわからない。
(2003.11.5)

2005年3月15日火曜日

養老孟司『バカの壁』

巨人軍の長嶋茂雄前監督といえば、奇妙な采配でマスコミをにぎわせていた人だ。以前、あるスポーツ番組のゲストで批判的なインタビューを受けた長嶋は、われわれは現場、すなわちグランドで野球を見ている、それは放送席やスタンドで見るのとはわけがちがう、というように長嶋らしい反論をした。長嶋の独特なインスピレーションを疑問視し、いかにも正論的な野球理論を持って見るのもひとつの野球の見方だし、リアルな戦場に立って一球一球、ものすごい緊張感の中で戦う上での判断も野球の魅力のひとつだ。つまり世の中には絶対正しいものなんてない。
私は絶対正しい、と何の疑念もなく思うことにバカの壁があるというのが本書のおおまかな主旨だ。もちろんバカの壁があるということ自体、絶対的な真理ではない。人それぞれ立場立場で主義主張は異なる。それは当然のことだし、共通理解をどうすれば生み出せるかなんてことはこの本には書かれていない。私たちをとりまくさまざまな壁をとりはらう本ではなく、壁があることを意識しなさいという本である。
著者は解剖学を専門としているが、無意識、身体、共同体など現代思想のキーワードの分析、現代世界の宗教的対立、さらには日本の遅れた行政への批判まで実に広汎な視点から人間をとりあげている。その分内容的には浅く、物足りないところも多いが、それも新書を手にする人の立場をおもんばかってくれた著者の心意気なのかもしれない。
(2003.6.21)

2005年3月13日日曜日

江國香織『いつか記憶からこぼれおちるとしても』

娘が6年生になり、だれだれちゃんは受験するだの、なになにちゃんはどこそこを受けるんだの気の早い話がはじまっている。気の早いと思うのはぼくがのんびりしているせいかもしれないが、世の中って昔からそうだったんだろうか。普通の公立学校しか知らないぼくには私立の中学校、ましてや女子校なんてとてつもなく異国のはての概念だ。
女子校時代の友だち話はすでに『ホリーガーデン』という佳作があるが、この本は女子校のライブを複数の人物+αの視点から多面的に描いている。江国香織のストーリーは淡々としていて、リアルでいいんだけど、主人公の語り口にちょっと無理があるような気がしている。失礼な言い方をしちゃうとおばさんがセーラー服を着ているような感じ。『こうばしい日々』の男の子にも同じように感じた無理さだ。ライブ感を出そうとする演出だと思うんだけど少し残念。
ぼくが通った高校の近くにも女子校、それも名門と呼ばれる女子校がいくつかあった。そこでもこの本みたいな会話や人間関係が渦巻いているだろうか。
(2003.4.11)

2005年3月12日土曜日

よしもとばなな『ハゴロモ』

実を言うとぼくがいちばんうまいと思っているインスタントラーメンはサッポロ一番である。どれも同じように見え、同じような味のするなかでサッポロ一番だけがもっちりとした食感をもち、スープにからむ存在感のある麺なのだ。ちなみにそのなかでもみそ味が一番だと思っている。塩とみそのミックスというのはいまだ試したことがない。
こんなくだりがあった。

>>人の、意図しない優しさは、さりげない言葉の数々は、羽衣なのだと私は思った。いつのまにかふわっと包まれ、今まで自分をしばっていた重く苦しい重力からふいに解き放たれ、魂が宙に気持ちよく浮いている。<<

ここだけでもこの本を読んでよかったと思った。
本人があとがきで言っているようにこれといってストーリーのなかに大きなうねりはないけれども、淡々と流れる北国の川のようなすぐれた(というかぼく好みの)おとぎ話だ。
登場人物は相変わらずで、母親が若死にしていたり、父親が事故で亡くしてしまっていたりなのだが、おそらくよしもとばななのすぐれているところは人物の描き方より人間関係の描写が巧みなことなんじゃないかと思っている。だからちょっと複雑な家族だったとしても、それがまどろっこしくないのだろう。
とにかくすべてがさりげなく進んでいく。無理なく人と人が出会い、つながっていく。そして癒されていく。よしもと小説にはよく川が描かれるけどこれほどまで川の流れのようにやさしくさりげないストーリーはいままでなかったような気がする。
(2003.4.9)