日本人は惜敗を賞賛する。もちろん懸命に闘った敗者を称えることは悪いことではない。ただ手放しで称えることは如何なものか。
オリンピックの卓球。男子シングルス準々決勝では張本智和が中国の樊振東を最後逆転されたものの追い詰めた。女子団体のダブルスもあと一歩のところで逆転された。スポーツ報道は例によって健闘を称える。2月に行われた世界選手権団体では女子は先に王手をかけたが逆転負け。このときも日本と中国は実力が伯仲してきたなどと報道された。
スポーツ競技で本来目指すべきは勝利ではないのか。もちろん大きく見れば人間的に成長させるという視点も大切だろうが、大きな大会にのぞむにあたり、やはり目標が設定される。卓球でいえば、中国を倒して金メダルということになるだろう。それをオリンピックの度に、世界選手権の度に日本は苦杯を舐めてきた。目標が完遂できなかったからには反省があり、勝利するために強化すべきポイントを掲げ、そのために練習方法を改善する必要があるはずだ。当然相手選手の研究も。どこをどう強化すれば中国卓球に勝てるのか。報道が伝えるべきは、今終わった試合の敗者を称えるだけでなく、相手のどこを攻めればよかったのか、なぜそれができなかったのか、できるようになるにはどのような練習が必要なのか、ではないか。
卓球の大きな大会がある度に日本じゅうが盛り上がり、勝ち進むことで期待が高まり、最終決戦を迎える。ここで王者に悉く敗れる。こんなことをいつまで繰り返しているのだろう。
実況中継で解説者が言う。中国選手は中国製の回転のかかりやすいラバーを使っていると。ならば日本選手だって同じラバーを使えばいいじゃないか。大人の都合で日本選手は日本製のラバーを使わなくちゃいけないとするならば、まず正すべきは「大人の都合」だ。
川端康成の『親友』を読む。少女雑誌に連載されていたという。川端には思いのほかこうした作品が多い。
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