2024年7月29日月曜日

笹山敬輔『笑いの正解 東京喜劇と伊東四朗』

毎週土曜日は文化放送の「伊東四郎 吉田照美 親父・熱愛(おやじパッション)」を聴いている。
驚かされるのは伊東四朗の記憶力だ。子どもの頃歌った歌や往年のヒット曲を口ずさんだり、共演した俳優との思い出話をはじめ、ありとあらゆることを記憶している。台詞を憶えるのが役者としての最低限の仕事と心得ていて、常日頃から記憶力を鍛錬しているともいう。円周率は1000桁まで諳んじていて、楽屋などで時間があれば呟いているそうだ。歴代の天皇、アメリカの州などもすいすいと口から出てくるらしい。
御歳87歳。来年は米寿を迎える。喜劇の世界はもちろん、現役で活躍する芸能人としても貴重な存在であるが、その脳内に演劇人としての膨大な経験やデータが蓄積されている。伊東四朗にインタビューして、東京喜劇の今昔を解き明かそうとした著者のねらいは正しかった。
伊東四朗は俳優としてじゅうぶん過ぎるほどのベテランであるが、伊東四朗といえば〇〇といった代表的なキャラクターはない。渥美清や森光子、高倉健のような代表作がない。人によってはベンジャミン伊東だ、おしんの父親だと思うかもしれないが、どうにも絞りきれない。もちろん主役の人ではない。いい脇といった役どころが多い。喪黒福造のように主役を張ったところで長くは続けない。ひとつの役にしがみつく野暮さがない。東京の喜劇人なのだ。
僕にとって伊東四朗はてんぷくトリオの伊東四朗だ。押し出しの強い三波伸介と戸塚睦夫の間でひっそりと存在感を示していた。著者の笹山敬輔は1970年代のてんぷくトリオもベンジャミン伊東も知らない。にもかかわらず、伊東の若き日を見事に描き出している。同じ著者の『ドリフターズとその時代』を以前読んだことがある。丁寧な取材をベースにテレビや演芸の、著者自身が体験できなかった歴史を解き明かす。
この本は先のラジオ番組で知った。難しそうな印象だったが、そんなことはなかった。

2024年7月23日火曜日

安西水丸『一フランの月』

安西水丸の書いた本のなかで断然好きなのが『手のひらのトークン』である。
電通を退社した安西は1970年にニューヨークに渡る。グラフィックデザインの仕事を見つけ、71年春までニューヨークで暮らした。安西水丸はまだ渡辺昇だった。『トークン』にはその一年の日々が描かれている。あとがきには90パーセント本当の話と記されている。妻を呼び寄せ、リバーサイドドライブに住み、後にアッパーイーストのアパートに引っ越した。休日には美術館を巡り、イーストリバー沿いの公園を散策した。そんな日々である。そして就労ビザを取得するために手を尽くしたものの翌年の春、ニューヨークを後にせざるを得なくなった。
帰国する際、安西はヨーロッパを周遊する。パリやアムステルダムに立ち寄り、書物でしか知らなかった西洋美術に接する。未完の小説『一フランの月』はこのヨーロッパの旅が舞台になっている。そうした意味ではこの本は『トークン』の続編といえる。
安西水丸はどんな思いから続きを書こうと思ったのだろう。すでに長い時間が経っている。未完とはいえ、実際に読んでみるとありのままの日々を描いた『トークン』にくらべると創作的な要素が多い。主人公の「ぼく」もニューヨーク時代の無垢な安西水丸=渡辺昇にくらべると少し大人になっているように思える。
帰国後、安西は縁あってエディトリアルデザイナーとして平凡社に勤務する。雑誌「太陽」の編集部で嵐山光三郎とコンビを組む。嵐山の伝手もあって、安西はイラストレーターの道を歩きはじめる。渡辺昇は安西水丸になった。
幼少の頃から絵を描く人を夢みていたニューヨーク時代の渡辺昇。ヨーロッパの旅を通じ、西洋美術に刺激され、(どちらかといえばぼんやりした憧れだったイラストレーターをめざそうと決意する。安西水丸はイラストレーターへの道に突き進むきっかけとなった日々をもういちど書き留めておこうと思ったのかもしれない。

2024年7月18日木曜日

村上春樹『レキシントンの幽霊』

叔父は七月生まれ。というわけで東京のお盆の時期に墓参りをすることが多い。墓所は青山にあり、墓参りを終えるとカレーライスを食べる。叔父はカレーライスが好物だった。
南青山のギャラリースペースユイで安西水丸Green展が開催されている。墓に行く前に立ち寄る。以前はシルクスクリーンの作品だけだったが、最近はジークレーと呼ばれる新たなプリント方法があるようだ。絵画の世界もデジタルの波が押し寄せている。僕は色鮮やかなジークレーより少しマットで奥ゆかしいシルクスクリーンが好きなのだが。
『レキシントンの幽霊』を久しぶりに読む。
先日『蛍・納屋を焼く・その他の短編』を読んで、そのなかの「めくらやなぎと眠る女」のショートバージョンがこの短編集に収められていたことを思い出したのである(『レキシントンの幽霊』では「めくらやなぎと、眠る女」となっている)。それ以外にもミステリアスで興味深い作品が多い。作者自身があえてミステリアスにしたわけでもあるまい。短編小説の特性として、ストーリーの展開や描写は凝縮される。結果的に読者にとっての不思議さ、不可解さも色濃く印象に残る。仮に「氷男」や「トニー滝谷」が長編であったとしたら、その印象は緩やかに、時間をかけて読者に浸透していったのではないかと思う。
「トニー滝谷」は映画化された。公開は2005年前後だったか。滝谷役はイッセー尾形だった。妻役とアルバイト役の女性は宮沢りえが二役を演じた。どちらかといえば、村上春樹の映画化作品というより、市川準監督作品として観た。映画の細かい部分は憶えていない。機会があればもういちど観たい。
墓参りの後、神田神保町のエチオピアあたりでカレーライスを食べようと思ったが、お腹も空いてきたので青山のツインタワー地下のインドカレーの店に入った。辛口のキーマカレーと中辛の海老カレー。チェーン店なのだろうけれど、なかなかおいしいカレーだった。

2024年7月13日土曜日

三島邦彦『言葉からの自由』

三島邦彦の著書を読む。
これまで多くのコピーライターの本を読んできた。そのなかで谷山雅計『広告コピーってこう書くんだ読本!』(この本は最近増補新版が出ている)と小霜和也『ここらで広告コピーの本当の話をします。』の二冊が印象に残っている。
三島のこの著書は理路整然と系統立てた構成を持っているように見えない(もちろん徒然なるままに書かれた本が刊行されることは滅多にないのだが)。コピーについて、言葉について思いついたまま書き連ねていったような印象を受ける。
「書くことは思い出すことに似ている」という。人は文章を書くとき、自らの人生に積み重ねてきた記憶を掘り起こす(文章じゃなくたって、区役所の書類だって、氏名、住所、生年月日を思い出しながら書いている)。


「記憶の中に散乱する言葉を丁寧に拾い集めるようにしてコピーは書かれる」


的確な指摘である。
またコピーを書く上でつくった自分なりの原則を紹介している。


「12歳までの言葉で書くことだ」


コピー年鑑に掲載されているコピーを眺めて気づいたという。この世の美しいものも大切なものもすべて小学生までの漢字で表現できる。
さらにはスキーマにふれる。
スキーマとはひとつの言語の、それぞれの状況で瞬時に身体が反応するような、身体に埋め込まれた意味のシステムである。seeかlookか、hearかlistenが英語を母語とする人は頭で考えることなく無意識に使い分けている。違和感なく聴きとることができる。このようなスキーマは広告コピーにもあるのではないかと三島は言う。そして広告コピーのスキーマを身につけるにはコピーライターの書いた本を読んだり、養成講座などでプロのコピーライターの生の声を聴くことが必要だ。
本書はいつも身近に置いておいて、ときどき拾い読みするといい。コピーライターを目指す者はまず過去のコピー年鑑を頭の中に叩き込み、次のこの本を叩き込むべきだと思う。

2024年7月7日日曜日

大川豊『大川総裁の福祉論!』

8050問題が取り沙汰されている。
引きこもりなど問題を持った子どもが50歳になったとき、親は80歳。高齢になった両親はいつまで子どもの支援をしなければならないのだろうか。もし子どもに知的身体的その他の障がいがあったとしたら事態はますます深刻だ。
障がいを持つ子どもに対しては支援する制度が発達段階に応じて整備されているが、特別支援学校卒業後の就労支援はとりわけ重要だ。福祉的就労には就労継続支援A型と就労継続支援B型がある。一般社会への参加のため高度な訓練が必要なA型は企業の福祉枠に就き、雇用契約を結ぶ。当然、給与も支払われる。それに対しB型は雇用契約を結べない。あくまで自立のための訓練であり、給与ではなく工賃をもらう。工賃は作業内容にもよるが、月額1万数千円。これに障がい者年金を加えたところで彼らはどうやって生きていけばいいのか。
著者大川豊が取材した先の福祉施設や就労支援を行う企業、団体の人たちが口を揃えて言うのは障がい者をどうやって自立させるかである。より具体的に自立を促すのは社会参加=就労だろう。描いた絵をレンタルする。布を織って、それを加工してもらい商品化する。知的障がい者のなかには創造的な活動を得意とするものが多い。健常者にはできない発想や色づかいがあるという。
最後に登場するQUONチョコレートなどは画期的と言っていい。もともとはパン製造や印刷事業からスタートした経営者がショコラティエと知り合い、チョコレートの製造販売にシフトしていった。チョコレートはパンのような複雑な工程はなく、リスクも少ない。それでいて高価格。製造工程をいくつかに分け、単純な作業にして障がい者に担当させる。材料を切り刻んだり、石臼で茶葉を挽いたり、梱包用の箱をつくったり。一人ひとりの個性に合わせた仕事を見つける。できることをできる人に任せるのだ。
未来を明るく照らす仕事場がこの国にはまだある。

2024年7月4日木曜日

J.D.サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』

『ライ麦畑でつかまえて』を読む。1964年に刊行されている。僕が読んだのは白水Uブックスという新書サイズの文庫になってからだ。ジョン・アップダイクもカート・ヴォネガットも入口は白水Uブックスだった。
2003年に同じ白水社から村上春樹訳が出る。出版社が同じなのはおそらく契約の関係か。
それまで40年近く、ホールデン・コールフィールドの語りは野崎孝が担当していた。別に吹き替えの声優が代わったわけでもないけれど、僕は新たな気持ちで村上訳を読んだ。野崎訳とくらべてみようなんて気もなかった。村上春樹は小説をはじめ多く読んでいたから、違和感もなく、すんなり受けとめた。ホールデンが新しくなったわけでもなかったし。
村上訳も野崎訳も何度か繰り返し読んでいる。先日、村上訳を読み直して、野崎訳をもう一度読んでみたいと思った。ブルーのカバーはなくなっていたけれど『ライ麦畑』は書棚にあった。両者の訳文をくらべるのはたいして意味はないと思ったが、続けて読んでみるとそれぞれのホールデン像が微妙に異なることに気付く。
作家の兄を持ち、英作文を得意とするホールデンは未成熟な少年でありながら、語彙も豊かで文章も巧みなはずだ。父親は弁護士でアッパーイーストサイドの(高級そうな)アパートメントに住んでいる。どんなに心が破綻していても一定水準以上のインテリジェンスを彼に与えなければならない。村上訳にはそういった意図が感じられる。単なるクレージーボーイの独白に止めたくないという意思が。まるでホールデンの弁護人みたいに。題名の『キャッチャー・イン・ザ・ライ』もまんまといえばまんまだが、少し知的な感じがする。
野崎ホールデンと村上ホールデン。僕たちの世代でいえば、前者が圧倒的な多数派であるに違いない。将来はどうだろうか。この先新たな翻訳は生まれないだろう。そのうち村上訳がスタンダードになるかもしれない。
それはそれでいい。