2024年7月23日火曜日

安西水丸『一フランの月』

安西水丸の書いた本のなかで断然好きなのが『手のひらのトークン』である。
電通を退社した安西は1970年にニューヨークに渡る。グラフィックデザインの仕事を見つけ、71年春までニューヨークで暮らした。安西水丸はまだ渡辺昇だった。『トークン』にはその一年の日々が描かれている。あとがきには90パーセント本当の話と記されている。妻を呼び寄せ、リバーサイドドライブに住み、後にアッパーイーストのアパートに引っ越した。休日には美術館を巡り、イーストリバー沿いの公園を散策した。そんな日々である。そして就労ビザを取得するために手を尽くしたものの翌年の春、ニューヨークを後にせざるを得なくなった。
帰国する際、安西はヨーロッパを周遊する。パリやアムステルダムに立ち寄り、書物でしか知らなかった西洋美術に接する。未完の小説『一フランの月』はこのヨーロッパの旅が舞台になっている。そうした意味ではこの本は『トークン』の続編といえる。
安西水丸はどんな思いから続きを書こうと思ったのだろう。すでに長い時間が経っている。未完とはいえ、実際に読んでみるとありのままの日々を描いた『トークン』にくらべると創作的な要素が多い。主人公の「ぼく」もニューヨーク時代の無垢な安西水丸=渡辺昇にくらべると少し大人になっているように思える。
帰国後、安西は縁あってエディトリアルデザイナーとして平凡社に勤務する。雑誌「太陽」の編集部で嵐山光三郎とコンビを組む。嵐山の伝手もあって、安西はイラストレーターの道を歩きはじめる。渡辺昇は安西水丸になった。
幼少の頃から絵を描く人を夢みていたニューヨーク時代の渡辺昇。ヨーロッパの旅を通じ、西洋美術に刺激され、(どちらかといえばぼんやりした憧れだったイラストレーターをめざそうと決意する。安西水丸はイラストレーターへの道に突き進むきっかけとなった日々をもういちど書き留めておこうと思ったのかもしれない。

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