2010年5月6日木曜日

スタンダール『赤と黒』

あっという間に大型連休は終わった。
こまごまとした仕事が多く、卓球にも読書にも身が入らない1週間だった。昨日はかつて卓球のやりすぎで腱鞘炎を起こし、さらには痔の手術でしばらく静養していた音楽プロデューサーのM君から近所の体育館で卓球をしませんかとお誘いを受けたのだが、残念ながら打ち合わせに出てしまうのでお断りせざるを得なかった。
年に一度、あるいは二度ほど、バカみたいに長い小説を読みたくなる。連休どきは長モノを読むにはちょうどいい。
『赤と黒』は読んだような気がする。
たぶん、30年ほど前に。ジュリヤン・ソレルという主人公の名は憶えている。が、これは読んでいようがいまいが『赤と黒』の主人公がジュリヤン・ソレルであることくらいはある程度の知識のある人なら知っている。だからその名前を憶えていることが読んだという証左にはならない。だが窓に梯子をかけて昇っていくシーンはなんとなく憶えている。結末はどうだったか、なんてぜんぜん憶えていない。
ならば読もうとぼくの中では評価の高い光文社の古典新訳シリーズを手に取った。はたして梯子を上るくだりはあった。読みすすめながら、以前読んだことをまったく思い出すこともなく読み終えた。ほんとうに昔読んだのだろうか。謎は深まるばかりである。
それはともかくとして終盤になってジュリヤンはそのキャラクターを変えるように思える。ずっとひ弱で陰湿な性格の彼が事件以降カラマーゾフの長男のような豪快な人柄になる。それがちょっと不思議だった。

2010年4月30日金曜日

ジュール・シュペルヴィエル『海に住む少女』

大型連休がはじまった。
今年も例年通り、特段することもなく、どこかの体育館が開いていれば卓球をやるし、することもなければ本を読んだりして過ごすつもりだ。連休明けにアイデアくださいと頼まれている仕事が何本かあり、おいおいそれも考えなくちゃとは思っている。
高校野球の春季大会は選抜大会に出場した帝京が初戦で、日大三が2戦目の三回戦で敗れる波乱(選抜出場校が早々と敗退するのはよくあることではある)があり、優勝は日大鶴ヶ丘、準優勝が修徳。これに推薦枠の日大三が関東大会に出場する。
この大会のベスト16が夏の大会のシードになるはずだから、東東京は修徳、関東一、成立、日大豊山、都総合工科、都城東の6校、西は日大鶴ヶ丘、早実、国学院久我山、日大三、日大二、八王子、都日野、東亜学園、桜美林、創価の10校がそれにあたる。なかでも昨秋の新人戦で本大会に出場できなかった修徳、桜美林、東亜は大健闘といえるだろう。

特に意識してフランス文学を読んでいるわけではないのだが、一冊読むとその近辺の作家を拾い読みしたりしてしまうものだ。
シュペルヴィエルは1884年生まれ。時代的にはコレットに近いのかもしれない。その前の世代がゾラたちだ。ただシュペルヴィエルはウルグアイ生まれのフランス人ということで(あるいはそんな半端な予備知識を持って読んでいるせいか)、一種独特な世界観を持った作家という印象を受けた。
なんとも不思議な短編集である。

2010年4月26日月曜日

宮本輝『蛍川・泥の河』

次女が学校でつくったというラジオをもらった。
そういえば長女も技術家庭科の時間にラジオをつくっていたっけ。ダイナモつきの電源なしで聴けるラジオ。
ぼく自身の経験を振り返ると中学生の頃はトランジスタ化(ぼくらはトランジスタを石と呼び、石化といっていた)がかなりすすんでいた。もう少し上の世代ではおそらく並三か並四と呼ばれた再生検波式の真空管(こちらはタマと呼んでいた)ラジオをつくっていたのであるまいか。
とはいうもののぼくたちが中学校でつくったのはインターホンのキットでラジオではなかった。
東京の都市部だったら高一(高周波一段増幅)ラジオとかレフレックスラジオ(検波された低周波出力をもういちど高周波入力に戻してゲインをかせぐ、いってみれば再生検波ラジオと基本は同じ)でじゅうぶん実用に耐えたけれど教材として全国一律に普及させるにはスーパーヘテロダインという、アンテナがキャッチした高周波を検波して低周波を取り出す前に中間周波にいちど変換して、感度や選択度を安定させる回路が必要なはず。今ならICだのLSIだのがあれば簡単にできるこの回路も当時は半田付けに緊張を要するトランジスタを6つ以上使うラジオは中学生はハードルが高かったと思う。それにできあがってもその性能を引き出すためには微妙な調整が必要だ。そんなこんなで高周波を取り扱わないインターホンを教材として選んだのだろう。
ぼくは多少半田付けの心得があったのであっという間にインターホンを組み上げてしまい、手持ち無沙汰にしていたら、8石スーパーラジオのキットが技術科準備室にひとつあって、技術科のM先生からじゃあこれでもつくっておけといわれた憶えがある。そのラジオも難なくできあがったのだが、IFTと呼ばれる中間周波トランスを調整する工具がなくて、結局つくりっぱなしでノイズの向こうにかすかにFENが聴こえたなとしか記憶がない。

宮本輝はぼくが受験勉強のさなかにデビューしたせいか、ある種の盲点になっていて読みそびれてしまった作家のひとりだ。『優駿』が話題になったときもぼくは競馬への関心が薄れていた頃だったし。
やっと一冊読み終えた。昭和を現代に残してくれる貴重な作家だ。

娘のラジオの箱の中につくり方の説明書が入っていた。が残念ながら回路図は載っていなかった。もちろん今さら見てもわからないけれど。

2010年4月24日土曜日

鹿島茂『パリの秘密』

ラジオフランス語講座をしばらくぶりに聴いてみた。
木曜なのに初級編を放送していた。あれっと思って調べてみたら、月~木が初級編、金が応用編と改編されていた。ついこのあいだまで初級は月~水、応用が木・金でさすがに週3日だと初級の人は物足りないだろうなとは思っていたのだが。
応用編は文学作品の断片を読んでいる。ヴォルテールの『カンディード』とかカミュの『異邦人』とか。朗読を聴いていてもよくわからないがちょっとした文学ガイドと思えばけっこう有意義だ。
この本はフランス文学研究者によるパリ探検記。
もともと新聞に連載されていた読み物ということでひとテーマごと短い文章にまとめられていて、物足りないといえば物足りない。しかもパリの街を歩いたこともないので実感もわかず。
とはいえ最近はグーグルで街歩きができるのでPCを前に散策しながら読んで見るとああ、なるほどと思える箇所が随所にあっておもしろい。それとパリを旅した人がよく写真入でブログにしてくれているが、そうしたものも案外役に立つ。
まあ、行って見てみるのがいちばんなんだけど。


2010年4月21日水曜日

アントワーヌ・ドゥ・サン=テグジュペリ『夜間飛行』

区の体育館の卓球でときどきお目にかかるNさんがラケットを新しくした。
それもペンホルダーからシェークハンドに大胆なチェンジだ。そういえばペンホルダーではバックハンドがぜんぜんできないと言っていた。新しいラケットを見せてもらったら、堅くて、重くて、弾むラケットでラバーも最近流行のハイテンション。バック側はそれでも柔らかいラバーだったけれど、正直初心者の域を出ることのないNさんに比較的高価なその組み合わせはいかがなものかと思った。自分で選択したのであれば、その大胆な発想に吃驚するし、お店の人の勧めであったとすれば、その店員の良識を疑う。少なくとも今までペンホルダーを振っていた人がはじめて手にするシェークのラケットではないだろう。

松岡正剛は氏のホームページ[千夜千冊]のなかでこの本について「こういうものを訳したら天下一品だった堀口大學の訳文も堪能できる」と述べているが、ぼくにはどうにも堀口訳は重たく感じるのだ。
みすず書房から出ている山崎庸一郎訳を手にしたことがないので比較をすることはできないのだが、格調が高く、長い文章をそのままに、倒置や挿入などもおそらくは原文に忠実に訳出しているあたりはたしかに素晴らしいとは思うのだ。しかしながら飛行する操縦士たちのスリルとかスピード感が感じられるかというとそれはどうなのだろう。
とはいえいっしょにおさめられている「南方郵便機」も含め、賞賛されるべき小説だと思う。

2010年4月16日金曜日

安岡章太郎『僕の昭和史』

学校を出てから、1年、高校の先輩が経営するとんかつ屋や家庭教師のアルバイトをして、就職しないでいた。
今で言うフリーターといったところか。
邦楽のたしなみのあった姉の先輩(兄弟子ならぬ姉弟子)のご主人がCM制作会社の社長だということで働かせてもらうことになった。新宿御苑のほど近いマンションにその事務所はあった。今でもその界隈を歩くとなんとも言い尽くせぬ懐かしさに襲われる。
深夜買出しに出かけたスーパー丸正、当時から客の途絶えることのなかったラーメンのホープ軒。毎日のように昼食を食べた蕎麦屋の朝日屋。そして文象堂書店、文具の江本と今も変わらぬ店がまだいくらか残っている。
まあそのことはいずれあらためて。
ここのところ、ではないが、以前からずっとぼくの中でのブームは“昭和”である。
そんなわけで安岡章太郎のこの本はぜひとも読んでみたかった。
安岡章太郎は国語の教科書でおなじみの「サアカスの馬」の作者であり、実はぼくはこれ以外の作品を読んだことがない。ただこの優れた短編ひとつで著者が昭和を代表する劣等生であることはじゅうぶんうかがえる。
本書の中でもその劣等生ぶりはいかんなく発揮されている。とかく昭和は軍事エリートや経済エリートによる激変の時代と見られがちだが、実はその荒れ狂う嵐の時代のただ中で生きながらえつつ、冷静に時代を見つめていた落第生の視点があったのだ。

2010年4月10日土曜日

谷川俊太郎『ひとり暮らし』

その昔「クイズドレミファドン」という音楽クイズ番組があって、見所は最終ゲームであるイントロ当てクイズだった。
当時ぼくは中学生くらいだっただろうか。テレビを視ていて、イントロが流れるとすぱっと曲名が口から出てきた。
イントロ当てクイズは番組の進行とともにスーパーイントロ当て、スーパーウルトライントロ当てと流れるイントロの秒数がどんどん短くなっていく。それでもけっこうぼくは曲名を当てることができた。
隣で見ていた姉は(例のわたがし名人の姉だ)こんどいっしょに出ようという。私がボタンを押すからお前が答えろと。要はいつもどんくさい弟に代わって早押しをしてやるから、曲名はお前が当てろというわけだ。
そうだ、イントロ当ての話を書くつもりじゃなかった。
最近テレビで流行の曲がかかってもまったくわからなくなってきているのだが、それだけではない。おそらく20~30代に聴いたり、あるいはカラオケで歌ったこともあるかもしれないような曲の曲名がどうにも思い出せないことがある。人間の記憶装置というものは実にもろくはかないものだ。
ところが子どもの頃に聴いた曲は不思議とタイトルが出てくる。震源地の近くが震度が小さいのにちょっと遠いところだと大きい、あの感覚…。いかん。たとえが適切でない。
ここ2~3日、そんな不思議を考えていた。
結論的にいえば(といってもあくまでぼく個人の私見に過ぎないが)、記憶は耳によるところが大きい。
ぼくらは(ここで急に自信をなくして1人称複数にする)主としてラジオで音楽を聴いた。ラジオの音楽は必ずディスクジョッキーやアナウンサーが曲名、歌手名を紹介していた。その名前が曲に結びついた。だから音を聴いて曲名が浮かんでくる。
これがテレビだけで音楽を知る世代では曲名、歌手名は音もあるけれど視覚的にも伝えられる。目で見ることで耳は傾聴を断念する。結果記憶にとどまらない。
ぼくがものごころつく以前に、姉はヴィックスドロップやマーブルチョコレートやありとあらゆるCMソングを歌っていたという。そしておそらくその多くは記憶にとどまっているはずだ。CMの場合、映像より音楽やナレーションが心に残ることのほうが多い。
というのがぼくの考えた理論(というほどのものではないが)。

谷川俊太郎は詩人である。
これまでのぼくの半世紀にわたる人生の中で詩人の知り合いはいなかった。そういうこともあって、詩人・谷川俊太郎の日常を綴ったエッセーに少なからぬ興味を抱いた。でもさすがに詩人だけあって著者の文章のリズムに日ごろ馴染んでいないせいか、するするっと読みすすめることができない。正直言って緊張感をともなわずには読みすすめることが難しい。そんな印象。

そういえばカラオケで歌ったことのある曲は比較的記憶に残っている。それはたぶん身体的な活動つまり発声することと文字が結びついているからだろうと思う。



2010年4月7日水曜日

鶴野充茂『はずむ会話の7秒ルール』

生命保険におつきあいで入る時代ではとっくにない。
ぼくの場合、高校の先輩、同期がいる関係でひとつ(仮にMY生命とする)。それともうひとつ銀座でサラリーマンをしていた頃に入ったもの(こちらはN生命)とふたつ加入していた。
これはまあ今の時代、はなはだ無駄なことであって、保障を見直しした上でどちらかを解約しようと思った。当然、先輩後輩の間柄で解約するのはセルゲイ・ブブカが棒を使わないで6メートルのバーを越えるくらいに常識的に不可能なことなので、まあ当然の成り行きとしてN生命がターゲットとなる。しかもつい昨年、MY生命は新商品ということでまずまず納得できるプランを持ってきていて、更新したばかり。後追いで、しかも余分な保障に大金を支払うのはちょっと勘弁してほしいと思って、電話で解約しますから手続きをお願いしますと伝えた。それが先月中旬。
客商売というのはわかりやすいものだ。それはN生命などという日本で知らない人はまずいない大手においても同じこと。入るといえば、ものの5分で飛んでくるが、やめるとなると対応はすこぶる悪い。やれ書類の作成が遅れているだの、なんだので、気がつけばもう4月。
これは放置されているか、故意に無視されているかに違いないと思って、電話をかけると先月解約すると伝えた担当者は辞めたという。引き継いだ別の担当者に話をしてようやく解約請求書というペラ紙をポスト投函していった。
こんな紙切れ一枚に3週間もかかるのか?

7秒程度のシンプルな会話が話を前進させる秘訣なんだという。タイトルがまずまずの“つかみ”になっている本である。
話し方や情報の整理の仕方はひとそれぞれだが、基本はなにかと考えてみると誰もが同じことを言うと思う。そういった意味では、これといって印象に残ることもなかった。


2010年4月2日金曜日

まつしま明伸+幸樹『[超入門]5次元宇宙の探検ガイド&ナビゲーション』

選抜高校野球。
ぼくが以前けちをつけた日大三が決勝進出を決めた。
初戦の試合ぶりを見て、このチームにはツキがあると思った。こういってはなんだが比較的くみしやすい21世紀枠が初戦の相手で大勝。しかも2回戦の相手も21世紀枠、秋季中国大会を勝っておきながら甲子園で末代までの恥をさらした開星に勝った向陽。敦賀気比とは接線だったが、いずれの試合ものびのびプレーしている。ひろいものの甲子園のせいだろうか、とりわけ打線がリラックスしていて、振りがいい。
都の春季大会で東海大菅生と当たるであろう準決勝が今から楽しみである。
知人から、去年弟が出版した本なんですけど、と紹介された一冊。
こんな摩訶不思議な世界を追いかけている人たちがいるんだなあと不思議な印象を持った。今はコンピュータグラフィックスで自由自在にキャラクターがつくることができ、想像力に長けた若者たちは未知の領域へどんどん守備範囲を拡げているんだね。古くはポケモンなどがそうであったように技術の力が想像力を後押しすることで、アニメーションやSFを超えた新たなメディアがかたちづくられていく、そんなエネルギーを感じた。

2010年3月29日月曜日

シドニー・ガブリエル・コレット『シェリ』

昨日、法事があって、特急新宿さざなみ号に乗って房総半島の千倉まで出かけた。
祖父の27回忌、祖母の13回忌を子どもたちが元気なうちにということで父の兄弟がほぼ勢ぞろいした。1928年生まれの父を筆頭に7人兄弟が全員元気でいるなんてなんとも長寿な家系だ。
祖母は家事全般が苦手な人であったそうだが、学校の勉強はよくできて、とりわけ作文が、当時は綴り方といったのだろうが、得意だったという。子どもたち(つまりは叔父叔母たち)の作文も幾度となく代筆していたという。ぼくは母方に建築設計師や元広告会社のアートディレクターがいて、その人たちの影響を大きく受けてきたと思っていたが、小学校時代よく先生に作文をほめられたりしたのは実はこの祖母の血なのかもしれない。
コレットは以前、『青い麦』というのを読んだ。
そのときは、これっといった感想は持たなかった。つまらない駄洒落を書いてしまった。
カポーティの『叶えられた祈り』にコレットがたしか登場していた。もうかなりの歳だったと思うが。それで読んでみたのかもしれない。
ゾラの『ナナ』もそうだが、どうも高級娼婦というのが当時どんな存在だったのだか、今ひとつぴんとこないのである。『罪と罰』のソーニャくらいだといそうな気がするのだが。まあ、この時代の本をあまり読んでないせいかもしれない。


2010年3月24日水曜日

池波正太郎『むかしの味』

母方の伯父が建築設計師だった。
家は赤坂の丹後町にあり、主に飲食店の設計をしていた。昭和初期に生まれた人の気質なのか、ふだん温和な人なのだが、短気をおこすともう取りつく島のない人だった。
子どもの頃、いとこたちと六本木の交差点に程近い、伯父の設計した中華料理店に行った。お店の人からすれば伯父は“先生”であり、ぼくたちも丁重にもてなされたのだが、その日はおそらく混んでいたのだろう、いつにもまして料理の出るのが遅かった。子どもたちはさぞお腹を空かしているのだろうと思っていた伯父は突然、「まだなのか!」と今の言葉でいう“キレた”状態になって、しまいには店を出るという。お店の人がなんども詫びを入れたが、そんなものには見向きもせず、ぼくたちはその店を出た。
ここまではよく思い出すのだが、実はそれから後のことをまったく憶えていない。別の店に行ったのか、あるいはやはり店を出るのをやめて(伯母さんかぼくの母が思いとどまらせて)、そこで鶏煮込みそばを食べたのか。伯父の剣幕におされて、記憶喪失になったかのようである。
池波正太郎の食べ物エッセー。
この手の本を読むとすぐに煉瓦亭とか新富鮨とかいっちゃう人がいるんだよね。そういう目的意識をもって「わざわざ食べに行く」という行為はあまり好きではない。なにかのついでにとか、近くまで来たのでたまたま思い出して立ち寄るというのがよい。この本は著者の思い出を食べ物に絡めているからおもしろいのであって、そこで紹介されているものを食べればよいというものでもあるまい。
自分にとっての名店にいかに自らの思い出をつなぎとめるかがだいじなわけでこの本はそういった指南書ではないかと思っている。
ぼくにとっての鶏煮込みそばは忘れらない“むかしの味”である。

2010年3月20日土曜日

筒井康隆『アホの壁』

スーパージェッターの時計以降はプレゼントというプレゼントははずれまくった。
当時いちばん欲しかったのはグリコアーモンドチョコレートで当たるおしゃべり九官鳥だろう。そもそもグリコアーモンドチョコレートでさえ高価なお菓子で滅多矢鱈と買ってはもらえない身分の子どもにそんなものが当たろうはずがない。明治チョコレートでもらえるゴリラも魅力的な景品だった。それと毎週少年誌で大々的にページを割かれる懸賞の数々。わが少年時代は懸賞的には不遇の時代だった。
大人になって少しは状況が変わる。
缶ビールに貼ってあるシールをはがして送る。案外当たるものなのだ、Tシャツとか。これまでの戦利品としては
サッカーのTシャツ4枚、同じくサッカーのビステ(プラクティスシャツっていうのかな)1着、JAPANのオリンピックウェア(ウォームアップシャツ)1着。あとはミネラルウォーターのキャンペーンでオリジナルの(adidas社製だが)トートバッグ。最近ではスポーツドリンクのポイントでゲットした北島康介と石川遼のイラストレーションがプリントされているスポーツタオル。
たいしたものが当たったわけではないけれど、子どもの頃よりかはましだ。
そうそう、スーパージェッターといえば筒井康隆も眉村卓、半村良、豊田有恒らと並んで脚本執筆陣に名を連ねている。今では“アホの壁”で話題の人であるが。
本書は筒井康隆流の人間論と銘打たれているが、抱腹絶倒というよりかはけっこうまともな内容だと思った。

2010年3月16日火曜日

江國香織『がらくた』

卓球の東京選手権が行われた。
ご近所の卓球ショップのコーチたちもこぞって参加し、そこそこに勝ち進んで応援に来た教え子の(といってもたぶんそれなりのお歳の方々ではあろうが…)大声援と喝采を浴びたという。
男子シングルスで前年優勝の丹羽孝希がベスト8目前で韓陽に破れ、8強は野邑、上田、坪口、徳増、塩野、町、張。中学生から社会人までバラエティに富んだメンバーだが、大学生はおそらく学生最後の試合であろう徳増のみ。早稲田の笠原はどうやら棄権したようだ。結果は張一博。これは順当といっていいだろう。
女子も平野が全日本のリベンジ。安定した強さで優勝した。
江國香織を読むのは久しぶり(たぶん)。微妙な色合いの折り紙をちぎってばらまいたような文章は相変わらずきれいだ。ストーリーとしては、まあ、もういいかなって感じかな。でも新刊の出るたび(文庫だけど)手にとらせる不思議な力を持った作家だ。

2010年3月11日木曜日

関川夏央『新潮文庫 20世紀の100冊』

子どもの頃、丸美屋のふりかけの袋のマークを切り取ってプレゼントに応募したところ、当時人気のテレビアニメーション「スーパージェッター」の時計が当たった。時計といってももちろんおもちゃで劇中主人公が流星号と呼ばれる専用の乗り物を呼んだり、コントロールするための腕時計型の通信端末のレプリカのようなものだ。この時計にはもうひとつ優れた機能があって(もちろんアニメーションの話だが)、主人公がピンチに陥ったとき、わずかな時間ではあるが時の進行を止めることができる。後に矢沢永吉でさえ渇望した時間を止めるという荒業をやってのけ、その間に自らは俊敏に動いて、窮地に陥った人を救ったり、爆破寸前の爆弾を無効にしたりと大活躍するのである。
が、当たったのはあくまでおもちゃである。もしそれが本物だったら、今頃ぼくはどんな大人になっていただろう。
ふりかけの袋を集めるように、ぼくは新潮文庫のカバーのはしっこを切って、台紙に貼り、最近パンダの人形やらブックカバーをもらった。それはくれるからもらうだけであって、必ずしも景品つきで本を買わせようという新潮社のやり方に賛同しているわけではない。
毎年各社で文庫100選的な打ち出し方をして青少年を中心に読書普及をはかるキャンペーンを展開しているが、新潮社のやり口は大人気ないとひそかに思っている。この本にしてもそうだ。
関川夏央が20世紀の100冊に対してコメントしているのだからおもしろくないわけがない。まさに最強のブックガイドといえる。そしてこれを販促の冊子ではなく新書として売るところに新潮社の最強の大人気なさが見てとれる。


2010年3月7日日曜日

江夏豊『左腕の誇り』

40年前に巨人ファンだった少年にとって、阪神戦ほどやきもきしたことはなかったはずだ。なにせ、村山、バッキー、江夏を打ち崩さなければ勝てないわけだから。
なかでも江夏は当時V9時代の初期の巨人にとって大きな障壁だった。まだ若手でありながら、ふてぶてしいマウンドさばき、度胸のよさ、うなる剛球。まさにセントラル・リーグ屈指の好投手だった。
当時の阪神はその後のバース、掛布、岡田といった重量級の猛虎打線とはほど遠く、遠井、カークランドら、たいして当てにならない中軸と藤田平、吉田義男ら小粒な野手が勝利に最低限必要な得点をあげて勝つストイックなチームだったという印象がある。まだまだ野球が数値化される以前の時代だ。
江夏豊の立ち位置は野球の歴史という年表的世界にはないように思う。その数奇な生い立ち、つくられたサウスポー(もともと右利きだった)、勝ち運にめぐまれなかった高校時代、そしてまさかのトレード劇など単なる一野球選手の生きざまをはるかに凌駕したドラマの数々がその野球人生にある。そしてぼくは江夏の数々のプレーを同時代に見てきた。今思うにこんなに幸せな野球ファン人生はない。
野球史に残る名投手をはるかに超えた“伝説の左腕”。それがぼくにとっての江夏豊なのである。


2010年3月5日金曜日

富澤一誠『あの素晴らしい曲をもう一度』

商いを営んでいた父親の影響のせいか、子どもの頃から“商業”的なものがあまり好きじゃなかった。
母方の、南房総は千倉町で生まれ育って死んでいった明治生まれの祖母も「商人(あきんど)は人をだまして金儲けをする」からきらいだとよく言っていた。世の中でいちばんいい職業は発明する人だというのが持論の人だった。
そんなわけで高校時代進路を決めるにあたっても商業的なものを極力排除してきたような気がする。経済とか政治とか法律だとかまったく興味がなかった。文学部か教育学部か選択肢はそれくらい。結果的には教育学部にすすんで西洋教育思想のようなものを専攻した。
著者の富澤一誠はJポップの歴史をふりかえるはじめての試みと謳っているが、古くは坂崎幸之助の『J-POPハイスクール』なる本も出ているのでまあこの手のフォーク史、ミュージック史はいろんな形で著されているのだろう。
とにかく音楽評論というのは難しいと思う。感じ方とか残り方が人それぞれだから。結局史実を忠実に語っていくしかないのだろう。坂崎のJ-POP史と本書の相違はアーティストと評論家との温度差なのかもしれない。
巻末の名曲ガイド50は“視聴率アップねらい”の巧妙な仕掛けだと思うが、ややもすると蛇足の感がある。
今は広告をつくることを生業としている。いつ頃から商業的なものに首をつっこむようになったのかまったくもって不思議である。


2010年3月1日月曜日

国広哲弥『新編日本語誤用・慣用小辞典』

区内の体育館での卓球。
おなじみ、スポーツアドバイザーのTさんも全日本出場経験のある凄腕なのだが、そのお孫さんのCちゃんもこれまたすごい。まだ小学6年生なのだが、都内の強豪校に進学することになったという。とにかく区内の大会で中学生相手で敵なし、一般の部でもベスト8という腕前。先日も体育館に行ったものの相手がいなくて素振りをしていたら、Tさんが今孫を呼んだから、相手してやってよという。とにかくスピードが段違い。丹羽孝希とフォア打ちをしているみたいだ(とかいって丹羽孝希と打ち合ったことはないのだが)。どこかのおじさんが「○○区の福原愛ちゃん」と呼んでいたが、サウスポーのCちゃんをつかまえて、愛ちゃんは失礼だろう。石川佳純のほうがたとえて適切であろう。
卓球も難しいが、日本語も難しい。この手の誤用をあつかった書籍のなんと多いことか。
それに最近では誤変換なるものもいい味をだしている。仕事場のMは“第1稿”とするところを“弟1稿”などと誤変換にしては手の込んだまねをする。
なにしろ抜き打ちの尿検査をしたら通常の10倍近い誤字脱字が見つかったくらいだ。本人は「この仕事好きだから…」などとわけのわからぬ言い訳をしていたが。このほかにも“ストップ”を“スットプ”、“しっかり”を“しっかり”、“オピニオン”を“オピニン”と想像を絶する才能の持ち主である。
さてCちゃん相手にしばしスマッシュ練習。もっと右脚にかけた体重を左脚に移動させてとか、もっと前に重心を移動させてとか、6年生から指導されるおれ。
ひと息ついて休むことになった。「だんだんうまくなってきた、はじめのころにくらべて打球が強くなった」だって。もうありがたいやら、情けないやら。
そのあとは、じいじとCちゃんに呼ばれているTさんと特訓。いつものスマッシュ練習に加えて、オール(なんでもありなりの試合形式の練習)までやってもうへとへとだ。
まあとにかくラケットを無心に振っている限り、浮世のごたごたは忘れられるし、下手は下手なりに楽しめる。さらにはこの次はこうしたい、という欲が出てくる。段階の世代からひと回りして、高度成長期に育ったぼくらにはこうした向上心という内発的な刺激が心地いい。


2010年2月27日土曜日

阿久悠『歌謡曲の時代』

冬季オリンピック。
あとわずかで閉幕であるが、回を重ねるごとに新奇な競技が増えていくようだ。複数で競争するアルペンスキーはスピードスケートのショートトラックよりも見ていて危険な感じがする。またいつのまにやら複合とか団体とかスプリントだとか種目内の細分化が進んでいるように思う。その昔ジャンプの団体戦が行われると聞いたとき、いっぺんに全員で飛ぶのか、そのときは横並びなのか縦並びなのかと疑問に思ったことがある。
これだけ競技が増えるのなら、いっそのこと野球とソフトボールも次期冬季大会で採用されればいいのにと思う。
さて。
“阿久悠”は一発で変換できなかった。
なかにし礼を読んだときも思ったのだが、阿久悠もぼくの今思っていることに近い存在だ。それはベクトルの方向が昭和を向いていること。
昭和から平成になって、“歌謡曲”がなくなった。時代を映す歌がなくなった。流行の歌は個人の主張でしかなくなったという。それはもう20年以上も前、“中心から周縁”、“ヨーロッパから非ヨーロッパ”、“大衆から分衆”へなどというキーワードで語られていた。もちろん難しい話をする気はない。ただ個人の嗜好としてぼくは昭和が好きなのだ。そういった意味では阿久悠の詩にぼくは幼少の頃からずっと寄り添ってきた。いわばぼくにとって昭和のわらべ歌のようなものだ。
阿久悠となかにし礼を比較するのは愚の骨頂だろう。シャンソンの訳詩から出発した都会派の詩人なかにしと広告ビジネスに身を投じ、人に届く言葉(コピー)を怜悧な刃物で切り分けてきた阿久悠とはそのよって立つ土壌が異なる。おそらく、あくまで私見でしかないが、なかにし礼に「ピンポンパン体操」はかけなかったと思うし、ピンクレディをはじめとするアイドルたちをプロデュースする視点で作詞はできなかったように思う。
広告クリエーティブの世界になぞらえるならば、なかにしはあくまで個的経験を中心に悠久の世界観を紡ぎだす秋山晶であり、阿久悠はどこまでもストイックに言葉を捜し続ける仲畑貴志ではあるまいか。
まあ、そんなことはどうでもいい。ぼくは“昭和”と“昭和を愛する人”が好きなのだ。

この本の中で取り上げられた阿久悠の作品はごく限られたものであるが、備忘録としてぼくの阿久悠ベスト10を記しておこう。

1.「時代おくれ」/作曲 森田公一/編曲 チト河内、福井峻
2.「乙女のワルツ」/作曲・編曲 三木たかし
3.「熱き心に」/作曲 大瀧泳一/編曲 大瀧泳一、前田憲男
4.「あの鐘を鳴らすのはあなた」/作曲・編曲 森田公一
5.「青春時代」/作曲・編曲 森田公一
6.「白いサンゴ礁」/作曲・編曲 村井邦彦
7.「ブルースカイブルー」/作曲・編曲 馬飼野康二
8.「さよならをいう気もない」/作曲 大野克夫/編曲 船山基紀
9.「素敵にシンデレラ・コンプレックス」/作曲 鈴木康博
10.「契り(ちぎり)」/作曲 五木ひろし/編曲 京建輔

昔はきっと、こんなじゃなかったけど歳をとってかえっていい曲を好きになれたと思う。


2010年2月21日日曜日

エミール・ゾラ『ナナ』

わたがしをつくるあの機械を“わたがし機”というそうだ。
だからなんなんだという感じだが、子どもの頃家の近くの文房具屋の前に10円か20円でわたがしがつくれる、まあいわゆるわたがし機があった。割り箸がおいてあって、お金を入れて各自ご自由におつくりくださいってわけだ。
ぼくは昔から不器用さにかけては群を抜いていたのでせいぜい片手でつかめるくらいの大きさにしかできない。それに比べると3歳上の姉は手先が器用というか、それ以前につまらないことに注ぎ込む集中力がすばらしく発達していて、縁日の夜店で売っているようなプロ顔負けのわたがしをつくってくるのだ。そのうちぼくがなけなしのこづかいをもってわたがしをつくりにいくと姉がついてきて手取り足取り指南するようになり、そうこうするうち手も足もとらずに割り箸をひったくってあの夜店で売っているまるまると肥えたわたがしをこしらえるのであった。
このあいだJR恵比寿駅から天現寺まで歩く途中でわたがし機を見つけて、そんなことを思い出した。
このブログの向かって右側に最近の10の書き込みがリストされている。
そこを眺めていたら最近海外の小説を全然読んでいないことに気づき、よりによってゾラの長編小説を読みはじめてしまった。
『ナナ』は平たくいうと『居酒屋』の続編といっていい作品。主人公ナナがジェルヴェーズの娘にあたるということでは続編であるが、ひたむきに生きながらも貧困と堕落に喘ぐ母親に対して、ナナは高級娼婦として奔放の限りを尽くす。この母娘の生きた時代背景を加味しながら、読み比べてみるのもおもしろそうだ。

2010年2月17日水曜日

森絵都『風に舞いあがるビニールシート』

以前ときどき顔を出していた南青山のバーが一昨年閉店し、それ以来外で飲む機会も減ってきたように思う。
先日そのバーのバーテンダーだったKさんから手紙をもらって、西麻布で新たにバーをはじめることになったと知らされた。開店に先立って、今まで懇意にしてきた人を招いてプレオープンをするという。
新しい店はもともとバーだったようで以前の南青山の店のように木のカウンターではなくてちょっと風情にかけるが、椅子席もあって、3,4人で来てもゆっくりできそうである。

仕事場で隣の席のI君のデスクに置かれていた一冊。
森絵都。
はじめて読んでみたが、仏像のことにしても若者の会話にしても、さらには難民問題にしてもよく調べている。好感の持てる作家のひとりだと思う。


2010年2月13日土曜日

内田百閒『第三阿房列車』

阿房列車の旅もいよいよ三冊目にたどり着いた。
今のところ続きがないので、読み進めるのが惜しい。

ここでぼくの阿房列車履歴をふりかえってみよう。
・1988年 北斗星に乗りたいと思っただけの北海道阿房列車
(上野~札幌~釧路~根室~帯広~札幌~上野)
・1989年 西高東低冬型の気圧配置の日に寝台列車で行く兼六園阿房列車
(上野~金沢~上野)
・1989年 こげ茶色の省線電車で行く鶴見線前線走破阿房列車
(鶴見~鶴見線各駅)
・年代不明 気動車に乗りたい!だけの八高線阿房列車
(高崎~八王子)
上記以外は青梅線、五日市線、御殿場線くらいで考えてみると純粋に列車に乗りに行くという経験がいかに少ないかがよくわかる。阿房列車は偉大だ。
で、このさき暇があったら走らせたいぼくの阿房列車は、房総半島縦断阿房列車(五井~大原)、身延線全線走破阿房列車(富士~甲府)。あと日帰りは困難だろうが飯田線で豊橋から辰野まで遡上してみたいとか、上野から仙台まで東北本線、水戸線、水郡線、磐越東線、常磐線で仙台まで行くとか、小山まで高崎から両毛線で行ってもいいし、さらに高崎までは八王子から八高線でというのもおもしろそうだ。
とにかくこうしてはいられない。時刻表を開こう。


2010年2月9日火曜日

池波正太郎『食卓の情景』

最寄り駅の近くに卓球ショップができて(もともと同じ区内にあったものが引っ越してきたのだが)、月木土の午前中に初級者向けに教室を開いている。店内には5台の卓球台があり、ラケットやラバーも売っている。こんな近所にこれだけの施設があるのに、行かないなんてもったいない。てなことでこないだの土曜日、はじめて参加してみた。2時間半で2000円。
30名ほどの参加者を5つのグループに分けて、5人のコーチがそれぞれテーマを設定して、指導してくれる。フォアのドライブ、バックのドライブ、ストップから攻撃、フォア・バックの切換し、ダブルスのサービス。ぼくが参加したその日はそんなメニューだった。基本は多球練習(次から次へと球出しをされ、それを打ち返す)で子どもの頃少しは卓球に親しんだとはいえ、こんな本格的な練習スタイルは初体験だったのでずいぶん緊張してしまった。足は動かないし、ミスは連発するし。ぼくの経験からすると卓球の練習というよりバレーボールのそれに近い。
それでもここのコーチの方々は皆一様に親切で短い時間内に適切なアドバイスをくれる。まずは金額に見合ったレッスンだったのではなかろうか。

美食家では決してないのだが、まあ生きてるうちはうまいものを食べたい。
最近ではインターネットでグルメ情報なるものがいやというほどあるけれど、うまいものの話は年寄りに訊くに限る。
池波正太郎の作品はひとつも読んだことはないのだが、なにかの本で神田まつやのカレー蕎麦を好んで食したという話を読んで悪い印象はない。
食べ物とはかくもたいせつなものなのである。

2010年2月6日土曜日

長嶋茂雄『野球は人生そのものだ』

日経新聞連載の「私の履歴書」はなかなか重厚でおもしろい企画だと思う。もちろん各新聞社でこうした連載は多いのだが、日経の場合、読み手をビジネスマンに絞っているせいか、他一般紙にない明快なおもしろさを感じる。
ぼくたちの世代、つまりものごころついたときから、ジャイアンツが常勝球団だった子どもたちにとってONは特別な存在だった。野球のプレイヤーを超越したスターだった。とりわけ地道な努力人である王貞治よりもエンターテインメントがあって、華がある長嶋茂雄は美空ひばり、石原裕次郎とともにぼくのなかでは三大昭和スターである。
20年ほど前に長嶋茂雄を起用するある不動産会社の広告コピーをまかされた。業界でもビッグで歴史もあるその企業の商品にぼくは「鍛え抜かれた先進の土地活用システム」というショルダーコピーを書いた。長嶋茂雄は天才肌では決してなく、努力の人だという意識があったのだろう。「鍛える」より「鍛え抜く」という言葉がすんなり出てきた。
思い返せば、昭和40年代に小学生としてプロ野球に熱中したぼくたちにとって、王貞治と長嶋茂雄は人気を二分する存在だった(それほどまでに王人気が高まりつつあった)。勝負強さで長嶋、数字的には王。
新聞販売店でもらった後楽園の外野席招待券でまず席が埋まるのはホームランを叩き込むであろう右翼スタンドだった。それだけ王の力は認められていた。40年代の長嶋はどちらかといえば選手として晩年を迎えつつあり、三割を打てない年もあった。それでも長嶋はぼくたち少年ファンに6度目の首位打者の姿を見せてくれた。苦しみながらもそんな素振を一切見せずにスターの座に君臨している長嶋は間違いなくスターだった。
本書で長嶋は自らの野球人生を振り返っている。猛練習の日々が多少誇張されているのではないかと思ったりもする。しかしながら昭和に生きたものなら誰もが夢中で何かに取り組むという所作を信じることができるのだ。
だからぼくにとって長嶋茂雄は自らを鍛え抜いた天才なのである。


2010年2月2日火曜日

川辺秀美『22歳からの国語力』

春の選抜高校野球の出場校が決まった。
たいてい秋の地区大会(新人戦)の優勝校ないしは上位校から選出されるのだが、各地区のレベルの見極めが難しいため、地区優勝校の10チーム以外の選抜は毎年たいへんだと思う。昨年の明治神宮大会では東海地区の大垣日大が優勝、関東地区の東海大相模が準優勝だった。目安として考えれば、この2地区はレベルが高いといえるだろう。当然ぼくは神奈川から2校、ないしは関東地区から5校が選ばれると思っていた。
ところが蓋を開けたら東京から2校、関東から4校。なんと都大会ベスト4どまりの日大三が選ばれていた。これは勝手な憶測だが、すでに東京は2枠ということで帝京、東海大菅生で決まっていたところ、諸事情で東海大菅生を出場させるわけにはいかなくなり、さりとて今から関東枠を増やすわけにも行かなくなり…。なんて台所事情があったのやも知れぬ。ぼくはだったら神奈川の桐蔭を出すべきじゃないかって思うけどね。
さて、本書。
まあ、これといって目新しいこともなく読み終わった一冊。実用書のレベルで教養書ではないかな。いまどきの22歳にはいいのかもしれないけど。

2010年1月28日木曜日

なかにし礼『兄弟』

なかにし礼は以前は好きじゃなかったが、教育テレビのある番組以降好きになった。
この本は彼が作家デビューを果たした自伝的長編である。戦争体験を捨て切れずいつまでも世の中に浮遊しているだけの実兄と筆者の葛藤、義絶がリアルに描かれている。実際にテレビドラマ化されたせいもあって、ややもすればドラマのシナリオ的なストーリー展開ではあるけれども、作詩家として、ヒットメーカーとして名をなした作者の若さが垣間見える名作だと思う。
それにしてもあれだけの借金を返済したなかにし礼はやはりすごい才能の持主である。それだけ借金を重ねた兄の才覚、人格もそれに劣らずものすごい。この作品に描かれているのはどうしようもない兄を拒絶した弟の強さ、偉大さより、そんな兄を心の奥で許し続けてきた弟の愛なのではないか。そんな気がした。
かつて作者の住んでいた大井町や品川区豊町のあたりも最近ではすっかり様変わりした。大井町駅から西側に連なる商店街から東急大井町線の下神明駅に続くガード下の細い道も広い車道になって、以前多く見られた一杯飲み屋のような店も減った。ところどころに昭和の匂いのする木造住宅がなかにし礼の落し物のように点在するのみである。


2010年1月24日日曜日

内田樹『日本辺境論』

毎月第4土曜日は午前午後で区内の体育館をはしごする。たかが卓球と侮るなかれ。さすがに疲れる。
そういえば先週は日本選手権を観にいった。男子シングルスのベスト16までを生で観戦した。お目当ての選手は吉田海偉、韓陽などペンホルダーの選手たち。結果的には水谷圧勝の4連覇だったが、その水谷を破って少年時代、カデットという中学2年以下の大会でチャンピオンになった早稲田の笠原に今年は密かに期待していた。残念ながら5回戦で韓陽に破れ、ベスト32。スピードとテクニックでは学生ではトップレベルだと思うのだが。
さて、日本を論じた本は数多あるが、“辺境”とネーミングしたところにこの本の勝利がある。よく日本論としてキーワードとなる“島国”とも違うし、ヨーロッパ・非ヨーロッパを峻別する“中心と周縁”とも異なる。なんとも目新しい切り口である。著者も言っているように内容的に新しいことを述べているわけではないにもかかわらず。
うう、腰が痛い…。



2010年1月18日月曜日

大江健三郎『水死』

ときどき夢を見る。
昔から夢を見ることはあったが、たいていの夢は目が醒めるとすぐに忘れてしまうか、内容を表現できないことがほとんどだった。最近、夢が記憶に残っているのは同じような夢を何度も見ているせいでその蓄積を記憶しているのかもしれない。
旅に出る夢が多い。突然、出張を命じられてとか、思い立ってアメリカに行くことになり、スーツケースを下げて空港に行く。空港近くに遊園地があって、大きな観覧車がまわっている。空港に着くとスーツケースもろともダストシュートのようなトンネル内の斜面を滑らされ、気がつくと機内の人になっている。あるいはブルートレインでどこかに出かける用事ができる。どんな用事かはわからないけれど用事があるのだから“阿房”な旅ではない。乗るのはほとんどいつも3段式のB寝台の最上段で天井が迫っているぶんものすごく圧迫感がある。で、どこに着いたもわからぬうちに眠ってしまうか目が醒める。不思議なものだ。

大江健三郎は洪水の月夜にひとりボートを漕ぎ出して水死する父親の夢をよく見ていたそうだ。
『水死』は『万延元年のフットボール』や『洪水はわが魂に及び』などにつながる四国の谷が舞台。これまでの翻訳調の文体ではなく、短く平明な文章で語られているのが新鮮だった。
ぼくの母も大江健三郎とほぼ同じ世代で、ふたつの昭和を生きてきた。戦争の時代と復興・平和・繁栄の昭和と。かつて当たり前のようにいて、昭和という激動の時代を支えていた人たちも今となっては高齢化社会の主役として少数派になりつつあるのだなと思った。

2010年1月13日水曜日

内田百閒『第二阿房列車』

先月、ラバーを換えた。
卓球のラケットに貼るラバーのことである。
自覚はしているのだが、フォアハンドがぼくの場合、弱い(じゃあ、バックハンドは強いのかといえばそうではなく、ただ卓球の基本技術としてのフォア打ちがまだまだしっかりできていないということなのだが)。そのことを近所の酒屋のご主人にして全日本選手権にも出場したことのあるTさんに相談したら、できるだけ弾まないラケットとラバーでしっかり振り切る練習をすればいいと言われた。そこで先月から弾まないラバーを使っている。
弾まないラバーは卓球用品の分類でいうと“コントロール系ラバー”と呼ばれ、今世界のトップ選手が使っている“ハイテンションラバー”とかかつて一世風靡した“高弾性高摩擦ラバー”とは区別される地味な商品群である。たいていお店ですすめられるのは上級者ならハイテンション、初心者でも高弾性高摩擦で、店員のフレーズとしては「こっちの方が“のび”が違います」だの「ドライブがよくかかります」だのだったりする。
まあ、それでも弾まないラバーで練習した方がいいと言われたのだから、そんなよさげなラバーには見向きもせず、やや旧式とも思えるコントロール系にしたのである。
で、肝心のフォア打ちはどうなったかというと、ラバーが弾まなくなったのは打っていてわかるが、うまくなったかどうかまではわからない。たぶん、たいしてうまくなってはいないのだろう。

『第一阿房列車』がおもしろかったものだから、ついつい『第二阿房列車』にも乗ってしまった。
こんどはいずれもけっこうな長旅である。用事が無いわりにはたくさん飲んで、たまに温泉に浸かって、記録的な豪雨とニアミスするなど相変わらずのくそおやじぶりを発揮している。

>早からず遅からず、丁度いい工合に出て来ると云うのは中中六ずかしいが、
>遅過ぎて乗り遅れたら萬事休する。早過ぎて、居所がない方が安全である。
>しかしこう云う来方を、利口な人は余りしないと云う事を知っている。汽車に
>乗り遅れる方の側に、利口な人が多い。

と、まあなかなか真理をついていて、楽しい旅である。
ここまでいっしょに旅をするともう一冊付き合いたくなる。同乗者はヒマラヤ山系氏だけではない。


2010年1月8日金曜日

寺山修司『書を捨てよ、町へ出よう』

冬のスポーツといえば、サッカー、ラグビー、駅伝、もちろんスキー、スケートなどウィンタースポーツもそうだ。
以前、某名門大学ラグビー部のグランド近くに住んでいて、練習試合をよく観にいった。コートサイドで観るラグビーはどこまでも広く、逆サイドで行われているプレーがよくわからない。レフェリーのアクションだけが頼りである。もちろん目の前でのスクラムやタックル、ラックなどは迫力はじゅうぶんなのだが、トータルでいえば、ラグビーはテレビで観戦するのが“ちょうどいい”。

寺山修司はぼくたちの世代にはちょっと古い。
というか、ぼくたちが1960年代の青く熱い日本を知らないということだけなのだが。
著者は日本の日陰部分を掘り起こす天才である、というのが読後の第一印象。高度成長期とは裏を返せば、未成熟な社会ということ。そんな若き日の日本が生んだ強いコントラストの、その影の部分を思い切りのいい言葉で紡いでいる本だと思った。

それにしても東福岡は強かった。桐蔭も高校ラグビーとしてはかなり水準の高いチームと思うが、決定力の差はいかんともしがたかったようだ。


2010年1月4日月曜日

大江健三郎「空の怪物アグイー」

謹賀新年。

今日3日は区の体育館が無料開放されるということで午前中ラケットを振ってきた。年が変われば多少はましになるかとも思ったが、相変わらずのものは相変わらずだ。年が明けだけで上達するのなら、ご高齢の方々はもっと上手くなっているはずだ。
体育館全面に卓球台を配置して、クロスで4人で打ち合ったり、ダブルスのゲーム練習をしたりしていてもなお人が余るという盛況ぶりで、この体育館を見る限り、わが国はまだまだ卓球王国なのだと思う。
今年最初に読んだのは大江健三郎の比較的初期の短編。
先日買った『水死』という小説を読むにあたり、なにせ久しぶりの大江健三郎なので少し肩慣らしのつもりでなにか読もうと思っていたところ、娘が学校で使用している現代文のテキストに全文が取り上げられているということでわざわざ書棚の奥から新潮社版の全作品を引っ張り出すことなく(といってもたいした手間ではないのであるが)読むことができた。
へえ、こんな話だったっけ。30年以上前に読んだ本がいかに記憶にとどまっていないかがよくわかった。ところどころ村上春樹的な比喩を用いる人だったのだ、この作家は、とも思った。逆だ。村上春樹が大江健三郎的なのだ、順番としては。
最後の交通事故の場所は晴海通りと新大橋通りの交差点だろうか。場内の幸軒でラーメンが食べたくなった。茶碗カレーかシューマイ2個を添えて。

今年もよろしくお願いいたします。


2009年12月26日土曜日

齋藤孝『偏愛マップ』

高校の先輩が埼玉で歯科医をしている。
ずっと以前に猛烈な歯痛で駆け込んでからというもの、東武線に乗ってときどき治療に出かける。
先輩である先生はそのころようやくパソコンをいじるようになり、ひょんなことからぼくがパソコンに詳しい後輩だとレッテルを貼ってしまった。それからというものことあるごとに携帯電話が鳴る。エクセルで線を引くにはどうしたらいいのかとか、セルの中で改行するにはどうしたらいいのかとか。ワード、エクセルのヘルプをクリックするとぼくに電話がかかるように設定されてでもいるかのように。
実はぼくも仕事で使うアプリケーションはPhotoshopやIllustratorだったから、正直最初はとまどったのだが、パソコンの画面を見ながら先輩の質問に答えているうちにワードやエクセルの使い方がわかってきた。人に教えるというのはなかなか勉強になる。
先輩はどちらかというと自ら進んでで勉学に励むタイプではなかったと聞いている(聞かなくてもじゅうぶんわかる)。おそらく高校生時代から誰かに聞けばいいや的なお気楽スタイルを貫いていたのだろう。そのせいか、妙に質問が上手い。先輩のわからないことがよくわかるのだ。世の中には質問下手が多くいる。何を訊ねたいのかわからない人。その点先輩先生はなかなかの才能の持ち主である。

齋藤孝は教育学者であり、かつコミュニケーションの発明家である。
読書論あり、日本語論あり、思考法ありとその著作は多岐にわたるが、基本は身体論をベースにした教育方法論とでもいうべきか。
ぼくが学生時代(恥ずかしながら教育学部だった)にはこんな先生はどこを探してもいなくて、それだけでも今の学生さんたちは楽しいだろうと思ってしまう。もちろん同じようなテーマで教育学やコミュニケーション論に取り組んでいた先生もいたのだろうが、齋藤孝ほど明快な主張を展開できるものはいなかったのではないか。氏の優れた点はネーミングだったり、キャッチフレーズだったり、言葉を支配していることだと思う。
礎となる理論と言葉をあやつれる自在性があって、はじめて発明ができる。才能と汗だけではないと思う。

今年の本読みはこれでおしまい。
年末年始はあわただしいから読んでもあまり身にならない。ふだん読んでるものが身になっているかといえば、そうでもなく、たぶんあわただしいから読まないんじゃなくて、あわただしいから人は本を読むのではないかとも思う。
あわただしくないときは列車に乗って旅をするに限る。
では、よいお年を。

2009年12月21日月曜日

内田百閒『第一阿房列車』

この本も関川夏央の『汽車旅放浪記』に登場した一冊。
汽車旅ができないものだから、この手の本がすっと身体の中に入ってくる。今の精神状態の浸透圧に非常に合っているのだろう。
内田百閒は根強いファンに支えられている作家のひとりとは知っていたが、ぼく自身手に取ることはなかった。まさかこんな痛快なおじさんだとはつゆも知らなかった。
本書で紹介されている御殿場線はいつだったかぼくも興味があったので乗り潰しに行ったことがある。御殿場線はもともと複線化していた東海道本線が丹那トンネル開通にともないローカル線に格下げされ、単線化された路線でいまだに複線時代のトンネルの跡があったりして興味深い。SLの主役はぼくの好きなD52だった。
先週25日朝9時納品の仕事が決定。24日は遅くまで作業に追われそうだ。こんなことでは『第二阿房列車』も読んでしまいそうだ。


2009年12月18日金曜日

夏目漱石『三四郎』

今年も残りあとわずか。区内体育館の卓球の一般開放もあと2回。
今年は1月から週イチペースでラケットを振ることができた。3月にわき腹の肉離れにおそわれたが、それ以外は大きなけがもなく無事過ごせたことはなによりである。
最近ときどき上級者の方とフォア打ちをすることがある。ボールを当てるだけじゃだめで、打ち抜かなければいけないとよく指摘される。ただ相手に合わせて当てて返しているだけらしい。
なんとなく仕事と卓球は似ている、ぼくの場合。
関川夏央の『汽車旅放浪記』に触発されて、いまさらだけどまた夏目漱石を読んでみることにした。
漱石に限らず、日本の近代文学にあまり興味を持たないぼくであるが、漱石を読んでみると彼がすぐれたストーリーテラーであることがよくわかる。難しくなく深い文章技術がそのおもしろさをささえているのだろう。これは明治の青春小説だいわれるとなるほどと合点がいくし、どんな本かと問われたら誰もがそのようにこたえるだろう。それくらい現代人にも通じる共通感覚を内包する作品だ。


2009年12月13日日曜日

糸井重里編『いいまつがい』

子どもの頃は、湿疹がひどかったらしい。
「らしい」というのは記憶にない頃の話だからなのだが、とにかく赤ん坊のときはものすごい湿疹でいろんな薬を塗られていたという。母親は手が自由になると掻いてしまうからと寝巻きをシーツに縫いつけたりしたそうだ。が、敵もさるもの、不自由な手はそのままに首をまわしてシーツに顔をこすりつけていたという。われながらかしこい子どもだったんだなあ。
そんなわけで今でも千倉の親戚の年寄りたちは、おまえは小さい頃はデーモンチィチィ(湿疹=できものがいっぱいできた子どもという意味の方言であろう)でひどかったけどよくなったなあと会うたびにいう。半世紀もさかのぼる話をよくもよくも繰り返してくれる。
今でいうアトピーともちょっとちがっていたようで、話を聞くとカサカサというよりジクジクしていてまさに“湿疹”という語が適切な感じだったらしい。今はすっかりそんなものはできなくなって、強いていえば夏場にひざの裏とかひじの裏辺りにあせもができやすい。乳幼児期のなごりだと思っている。
この本が世に出たときは少し話題になったし、書店で立ち読みもして、思わず笑ってしまったものだ。でも、まさか今日まで生きながらえて新潮文庫の一冊になるとは思いもよらなかった。
立ち読みしかしていなかったし、文庫化されたと聞いたのでこれはきっとちゃんと読んでみる価値ありと踏んで先日購入一気に読破した。
やっぱりこういう本は立ち読みに限る。


2009年12月9日水曜日

関川夏央『汽車旅放浪記』

仕事に疲れると旅に出たくなる。
別段、温泉に浸かりたいとか、楽しみを見出す旅ではない。列車に乗れればそれでいい。
昨日仕事で名古屋に行く用事ができた。打ち合わせは夕方から。こんなチャンスは滅多にないと思って、時刻表をめくる。
東京駅発10時33分発の快速アクティー熱海行きに乗り、以後、沼津行き、島田行き、浜松行き、豊橋行き、大垣行きと乗り継げば名古屋着16時58分。こんな理想的な旅はない。
が、現実には昼前から別の打ち合わせを組まれて、あえなく計画は未遂に終わった。

以前『砂のように眠る』という作品を読んで、関川夏央という作家は本格派のノンフィクションライターだという印象を持った。
この本は鉄道マニアを自称する作者が自身の思い出をほどよい味付けにして、文学上描かれた鉄道旅行を追体験するといった内容だ。漱石あり、清張あり、主要幹線あり、ローカル線あり、市電あり、鉄道好き(時刻表好き)にはたまらない一冊。
単なる鉄道マニアと作者の異なるところは精密な調査と文学作品の読み込みがベースになっているところで、ここらへんがプロフェッショナルなんだなあと感心せざるを得ない。
関川夏央はやはり骨太の作家なのだ。

結局、名古屋はのぞみで往復した。時間や利便性を金で買うほど貧しい旅はないと思う。


2009年12月3日木曜日

津原泰水『ブラバン』

なんだかんだ言っているうちに12月だ。
先行き不安のままスタートした2009年がもう最後の直線を迎えている。なんだかんだ言って、それなりに仕事も忙しかったし、やはり一年というのはなんだかんだ言っても過ぎていく。
先週、もともと腰痛持ちの家内が激痛に襲われて、寝込んでしまい、家事やらなにやらいつもまかせっきりのぼくも子どもたちもちょっとあたふたした。いつもうちのことなどこれっぽっちもしない下の娘が夕食の支度を手伝ったり、洗いものなんぞしてくれたようで、こっちのほうが驚かされた。
さいわい、痛みはひいて、なんとかふつうの生活に戻ったが、子どもたちも怠惰な日常に戻ってしまった。
ここのところ、“広島もの”が多い気がするが、偶然だ。
この本は高校時代の吹奏楽の仲間たちが25年後もういちど演奏をしようと再会する話。ありがちな話だが、青春をふりかえる物語にはずれはない。ただ帯にプリントされていたようには感動はしなかった。


2009年11月27日金曜日

井伏鱒二『黒い雨』

早稲田大学野球部の新主将が斎藤祐樹だそうだ。
彼の同期にあれだけ優秀な野手がいるなか、投手を主将にするとははなはだ意外に思った。ぼくの予想では宇高か山田だった。松永は打撃でチームを引っぱる感じじゃないし、原は土生にポジションを奪われそうだし、早実時代の主将後藤も大学野球の主将の器にまでは育っていない気がする。斎藤の世代が入学してからも早稲田が強かったのは、ひとえに田中幸長、松本啓二郎ら先輩たちの力が大きい。この世代は一見強そうだが、ポジションや打順が固まっていなかったり、軸になる選手がいなかったりして、結局自慢の投手陣に負担をかけるかたちで斎藤にお鉢が回ってきたのだろう。上本、細山田、松本みたいなしっかりしたセンターラインが組めていない来年は相当苦戦するのではないかと思っている。
いい選手を育てるのは、いい選手を集めるより難しいということか。

30年以上前、大学を受験するために広島に行った。
3日目の試験を終え、大学のある東千田町から平和記念公園や県庁のある市の中心部を散策した。原爆ドームや市民球場のあたりを歩いて、大手町、八丁堀、京橋町など東京の地名のような町を抜けて広島駅にたどり着いた。途中、紙屋町の本屋で『試験に出る英単語』を買った。来るべき浪人生活にために。
井伏鱒二の『黒い雨』はいわゆる名著のひとつで、学校の推薦図書だったり、夏休みの課題図書としても定評があるが、なにがすごいって、淡々とストーリーが展開し、あたかもドキュメンタリーのような視点で閑間重松家族の終戦を描いているところだ。そこには戦争に対する、原爆に対する表面的な憤りや感情的な高ぶりが見られない。文章の奥のほうにじっとおさえこまれたように静かにくすぶっているのだろうが、あえてそのような描写を避けているかのようだ。怒り高ぶり、先の戦争に思いをめぐらす作業は読者に委ねている。すぐれた作品だと思う。
重松家族とともに千田町から古市までたどり着く間、ささやかながらぼくの広島散策の思い出が役に立った。帰京後受けた別の大学になんとか合格できたので、『出る単』はカバーをかけられたまま動態保存されている。



2009年11月20日金曜日

ジェームス・ジョイス『ダブリナーズ』

明治神宮野球大会が終わると今年も終わりという感じがする。
この大会は学生野球の一年のしめくくりではあるが、高校生にとっては新チーム最初の全国大会ということになる。今年は東海地区代表の大垣日大が関東地区代表の東海大相模を破って、まずは追われる立場に立った。
両校とも激戦地区を勝ち進んできただけにそれなりに力はあるだろうが、まだまだチームが若い。失点に結びつく失策が多い。来春、おそらく選抜大会に出場するだろうが、鍛え上げて勝ち上がってもらいたいものだ。
『ダブリナーズ』はその昔、『ダブリン市民』というタイトルだったが改題されたのだそうだ。
ダブリナーズのほうがなんかかっこいい。
ジョイスというと文学的にすぐれているにもかかわらず、それゆえに大衆的に陽の目を見ない作家のひとりだろう。ぼく自身、なんだかんだ読むのははじめて、である。先日柳瀬尚樹を読まなければ手に取る機会もなかったろう。ひとつひとつの物語がこじんまりとして、ささいな市民の日常であるけれど、そのひとつひとつがずいぶん奥深い感じがする短編集だ。
それにしても今日は寒い。

2009年11月14日土曜日

なかにし礼『不滅の歌謡曲』

ぼくは眼鏡をかけている。
朝、最寄りの駅に行くと、どこかの店員とおぼしき若者がティッシュを配っている。できればもらってください、いらなければ、少しだけ意思表示してください、すぐに引っ込めますから、というすばやい身のこなしで道行く人たちにティッシュを手渡す人たちだ。
このあいだ考えごとをしていて(あるいは何も考えていなかったのか、要は今となっては何も憶えていないのだが)不意打ちをくわされたかのようにティッシュを受け取ってしまった。ふだんはよほど風邪で鼻水がすごいということでもない限り手にはしないのだが。
そのまま地下鉄に乗って、ポケットにしまったティッシュを見たら、駅近くのコンタクトレンズの店のティッシュだった。
なんでぼくなんかにティッシュをくれたんだろう。不思議に思った。ぼくはどこからどう見ても眼鏡の人だし、眼鏡をかけていればコンタクトレンズは必要ない。なんでそんなことがわからないのだろう。阿呆か、あいつは。
そんな話を娘にしたら、だから配ったんだという。コンタクトレンズの人は見た目じゃわからないけど、眼鏡の人は目がよくないってひと目でわかる。そういう人はいつかコンタクトレンズにする可能性がまったくのゼロじゃない。
なるほど、そういうことだったのか。

8~9月、NHK教育テレビで放映していた「知る楽 探求この世界」という番組で取り上げられていたテーマのテキスト。
ぼくの中では、なかにし礼は阿久悠と並ぶ昭和歌謡のヒットメーカーだと思っている。どちらかといえば阿久悠は詩情豊かなスケール感があり、なかにし礼は洋楽的な洗練を持っているというのがぼくの印象だ。
で、この番組は昭和のヒット歌謡を支えてきたひとりの作詩家としての筆者が歌謡曲の歴史を振り返りながら、ヒット曲はなぜ生まれたのか、なぜいま生まれないのかという今日的なテーマと根源的に歌の持つ不思議な力を解き明かそうという試みである。
実をいうと、小さい頃、テレビで視るなかにし礼にぼくはあまりいい印象を持たなかった。怖そうな顔をして、挑発的で、生意気そうで、子どもながらに鼻持ちならないやつだと思っていた、たいへん失礼ではあるが。大人になってその印象はガラッと変わった。高校の先輩であると知ったせいもあるかもしれない。そしてこの番組、そしてこのテキストを通じて、心底リスペクトすべき偉大な才能であることをあらためて確信した。

2009年11月7日土曜日

柳瀬尚紀『日本語は天才である』

今月は月初めが日曜日なので、この土日に卓球の一般開放がない。そのぶん来週の第2土曜と第3日曜と二日続きになる。卓球のない週末はやることがなく、そういうときは読書もあまりすすまない。精神と身体はやはり緊密に結びついているのだろうか。
ただでさえ、仕事でごちゃごちゃしていて、読みすすめない日々が続いているのに。
柳瀬尚紀と聞くとエリカ・ジョングを思い出す。
が、エリカ・ジョングについては何も思い出せない。買うだけ買って読まなかったのかもしれない。
著者は英米文学の名作を数多く世に出した名うての名翻訳家。いままでそんなに意識したことはなかったけれど、翻訳という仕事は外国語に堪能なだけではだめで、日本語を熟知してければならないはずだ。そうした日本語のエキスパートが語る日本語論。
日本語はもともと外国語を受け容れ、ともに育ってきた言語であるせいか、とても柔軟で翻訳に適している。そのことを著者流の言い回しで、「日本語は天才」といっているわけだ。何が素晴らしいって、この言葉に対する謙虚さが素晴らしい。天才なのは、どう見たってジェームス・ジョイスらの翻訳で知られる著者であるのに、そんな素振りをこれっぽっちも見せることなく、日本語賛美に徹するスタンス。翻訳とは語学力だけではなく、諸外国の歴史や風土に通じているということだけでもない。さりとて日本語をたくみに駆使できる能力だけでもない。母語に対する客観的な視線と、謙虚に向き合う姿勢なのだ。