その昔「クイズドレミファドン」という音楽クイズ番組があって、見所は最終ゲームであるイントロ当てクイズだった。
当時ぼくは中学生くらいだっただろうか。テレビを視ていて、イントロが流れるとすぱっと曲名が口から出てきた。
イントロ当てクイズは番組の進行とともにスーパーイントロ当て、スーパーウルトライントロ当てと流れるイントロの秒数がどんどん短くなっていく。それでもけっこうぼくは曲名を当てることができた。
隣で見ていた姉は(例のわたがし名人の姉だ)こんどいっしょに出ようという。私がボタンを押すからお前が答えろと。要はいつもどんくさい弟に代わって早押しをしてやるから、曲名はお前が当てろというわけだ。
そうだ、イントロ当ての話を書くつもりじゃなかった。
最近テレビで流行の曲がかかってもまったくわからなくなってきているのだが、それだけではない。おそらく20~30代に聴いたり、あるいはカラオケで歌ったこともあるかもしれないような曲の曲名がどうにも思い出せないことがある。人間の記憶装置というものは実にもろくはかないものだ。
ところが子どもの頃に聴いた曲は不思議とタイトルが出てくる。震源地の近くが震度が小さいのにちょっと遠いところだと大きい、あの感覚…。いかん。たとえが適切でない。
ここ2~3日、そんな不思議を考えていた。
結論的にいえば(といってもあくまでぼく個人の私見に過ぎないが)、記憶は耳によるところが大きい。
ぼくらは(ここで急に自信をなくして1人称複数にする)主としてラジオで音楽を聴いた。ラジオの音楽は必ずディスクジョッキーやアナウンサーが曲名、歌手名を紹介していた。その名前が曲に結びついた。だから音を聴いて曲名が浮かんでくる。
これがテレビだけで音楽を知る世代では曲名、歌手名は音もあるけれど視覚的にも伝えられる。目で見ることで耳は傾聴を断念する。結果記憶にとどまらない。
ぼくがものごころつく以前に、姉はヴィックスドロップやマーブルチョコレートやありとあらゆるCMソングを歌っていたという。そしておそらくその多くは記憶にとどまっているはずだ。CMの場合、映像より音楽やナレーションが心に残ることのほうが多い。
というのがぼくの考えた理論(というほどのものではないが)。
谷川俊太郎は詩人である。
これまでのぼくの半世紀にわたる人生の中で詩人の知り合いはいなかった。そういうこともあって、詩人・谷川俊太郎の日常を綴ったエッセーに少なからぬ興味を抱いた。でもさすがに詩人だけあって著者の文章のリズムに日ごろ馴染んでいないせいか、するするっと読みすすめることができない。正直言って緊張感をともなわずには読みすすめることが難しい。そんな印象。
そういえばカラオケで歌ったことのある曲は比較的記憶に残っている。それはたぶん身体的な活動つまり発声することと文字が結びついているからだろうと思う。
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