2005年2月10日木曜日

筒井康隆『残像に口紅を』

『残像に口紅を』は、虚構の中に構築された虚構ともいうべきストーリーで、時間とともに日本語の音が消えてゆく。消えてゆくとその音を含んだあらゆる存在が消えてゆく。はじめ「あ」が消える。すると「朝」がなくなる。
朝は「通常、太陽が昇りはじめ、中天ににかかるまでの時間」、「昼、夕方に続く一定の時間を表現することばで、四季を通じて爽やかさ、新鮮さを伴うたいへん好ましい時間」ということになる。
濁音、半濁音を含めた全部で66の音がなくなったところでこの物語は終わる。

タイトルの『残像に口紅を』は、主人公佐治勝夫の高校一年生の三女、絹子が「ぬ」の音の消失で消えてしまった次の一節からきている。

「高校一年だから化粧はしていなかった。ひと前で化粧したことは一度もなかった筈だ。少し色黒だったからか、化粧をして見違えるようになるのが照れ臭かったのか。そうだ。美しくなることを知っていたに違いないぞ。自分でこっそり化粧してみたことが一度もなかった筈はない。若い娘なんだものな。彼女の化粧した顔を一度見たかった。では意識野からまだ消えないうち、その残像に薄化粧を施し、唇に紅をさしてやろう。」

このときすでに世界からは「あ」と「ぱ」と「せ」と「ぬ」が消え去っている。
(1992.2.5)

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