2022年4月26日火曜日

下坂厚 下坂佳子『記憶とつなぐ 若年性認知症と向き合う私たちのこと』

厚生労働省の動画に「希望の道」というシリーズがある。認知症の当時者を取材した動画である。
昨年アップロードされた動画で京都在住の下坂厚という人を知った。46歳のとき、若年性アルツハイマー型認知症と診断されたという。若年性というのは65歳未満で発症した際に用いられる。それにしても46歳というのは若すぎる。動画のなかで新しい仕事を起ち上げたばかりの下坂は目の前が真っ暗になったと診断当時をふりかえっている。
若年性認知症当事者としては仙台の丹野智文が知られている。丹野はさらに若い39歳のときアルツハイマー型認知症と診断された。勤務先の理解や家族の協力、そして本人の明るさと工夫によって認知症当事者であっても自分らしく前を向いている。講演活動などを通じて認知症の理解を訴えている。
下坂も丹野に出会い、認知症とともに生きる社会をつくる方向に自らの気持ちをシフトさせたひとりに違いない。丹野のような社交性や持ち前の明るさを持っているわけではないが、若い頃から好きだった写真撮影を通して、日々の気持ちを記録し、広く伝えている。
そういえば、今年も新たに認知症普及啓発の動画が何本かアップロードされていたが、それらの動画には本人のインタビューに加え、家族や支援者(パートナー)の声も収録されていた。パートナーは主に自治体や社会福祉協議会の担当者であったり、福祉施設のケアマネージャー、雇用主、親友などさまざまである。当事者と日々接している理解者の話には説得力があり、当事者ひとりのインタビューでは見えにくい部分にも光を差し込んでくれる。
この本は当事者下坂厚の声だけでなく、パートナーのまなざしも織りまぜられた構成になっている。下坂がパートナーに支えられる一方で、家庭や職場、そして社会を支えている姿が見てとれる。短い動画やネットの記事だけではわからない下坂厚を浮き彫りにしようという意思と意図が見てとれる。

2022年4月23日土曜日

太宰治『ヴィヨンの妻』

先月、三鷹を訪ねた。
太宰治ゆかりの跨線橋を渡って、国鉄武蔵野競技場線廃線跡を歩いたのである。三鷹駅と武蔵野競技場前駅を結ぶこの路線は、中島飛行機武蔵工場の引込線を利用して1951年に開業した。電化単線、全長3.2キロ。中央線の支線だった。
その年、武蔵野グリーンパーク野球場が終点武蔵野競技場前駅近くに完成した。当時、首都圏で開催されるプロ野球の試合のほとんどは後楽園球場を利用していた。明治神宮野野球場は進駐軍に接収されていたため、前年から2リーグ制がはじまったにもかかわらず、球場不足は否めなかったのである。そこで建設されたのが武蔵野グリーンパーク野球場だった。グリーンパークという名前はこのあたりを接収していた米軍がそう呼んでいたことによるらしい。
5万人を収容できる本格的な球場だったが、都心から離れていたことや突貫工事のため芝の育成が不十分だったこともあり、砂塵に悩まされるといった問題もあった。そしてその翌年には神宮球場の接収が解除され、都心に近い川崎球場、駒沢球場ができたことで武蔵野グリーンパーク野球場は51年にプロ野球16試合が行われただけで翌年には武蔵野競技場線も休止。野球場は56年に解体され、鉄道路線は59年に廃止された。
太宰の跨線橋を渡って駅の北側に出ると、線路があったと思われる曲線部が公園になっている。さらに進んで玉川上水を越えるぎんなん橋にはレールが埋め込まれている。かつての国鉄飯田町駅があった飯田橋アイガーデンテラスでも見たことがある。失われた鉄路のモニュメントが遺されるのはいいことだ。戦後間もない頃の野球少年の夢を乗せた電車が(あまりにも短い期間ではあったが)通り過ぎていったのだなどと思いながら野球場跡地まで歩いた。
新潮文庫『ヴィヨンの妻』を読む。昔読んだことはすっかり忘れている。太宰の、死と向き合う小説より、生を生きる活力ある小説が好きだ。

2022年4月15日金曜日

斎藤太郎『非クリエイターのためのクリエイティブ課題解決術』

クリエイティブディレクター(CD)という呼び名はいつ頃生まれたのだろう。
小さなCM制作会社から小さな広告会社に移籍したときのCDは博報堂から電通に移籍した方で昔話をよくしてくれた。その頃、仕事のほとんどが新聞広告や雑誌広告だったから、文案家と意匠家で原稿をつくっていた。彼らにディレクションし、最終チェックをするのはアートディレクター(AD)の仕事だった。古い広告の本をながめると広告表現をつくるリーダーはADだった。杉浦非水も山名文夫も新井静一郎も向秀男もその肩書はアートディレクターだった(と記憶している)。
ADたちはいちはやく東京アートディレクターズクラブという会を起こす。文案家たちがコピーライターの会をつくったのはそれから数年後である。広告表現のなかでビジュアルに加えてメッセージの重要性が認識されはじめた頃かと思われる。意匠家はグラフィックデザイナーと呼ばれるようになって、ADの仕事を支えた。
おそらくそのような戦後広告の黎明期にクリエイティブディレクターという概念はつくられたに違いない。
CDになるためには、グラフィックデザイナー、コピーライター、CMプランナーという修行的立ち位置で何百案ものラフアイデアを書いて、何百というだめ出しをもらってたどり着く必要があった。今でもそういったキャリアアップの仕方はあるが、企業のコミュニケーション構築における広告クリエイティブの比重が大きくなったのか、広告ビジネスを支えるリーダーがCDとしてまさしくディレクションするケースが増えている。
著者の斎藤太郎は電通の営業局出身。(おそらく)コピーやサムネイルを一枚たりとも書いた経験はないだろうが、営業担当として、あるいはメディア担当として広告主と日々対峙してきた経験を持つ。具体的な表現づくりは表現を専門とするCDとともに動く。
広告主と夢を共有し、情熱と強い責任感をもった人ではないかと思う。

2022年4月7日木曜日

太宰治『人間失格』

太宰治を読んでいたのは20歳代だったと思う。消え去った記憶を呼び起こすべく、少しずつ読みなおしている。
JR中央線三鷹駅の西側に朽ちかかった跨線橋がある。朽ち果てているのならともかく、朽ちかかっているというのは見た目にはわかりにくいが、ともかく安全上の観点から補強するか撤去しなければならないらしい。最近はレールの付け替えなどの大工事を深夜に行うこともあれば、土日に列車の運行を止めて作業することもある。鉄道の運行を止めて撤去するとなると大がかりである。どおりで撤去・解体が報道されて以降、具体的な日程は明らかにされていない。
この話がどうして新聞記事になったかというと、この跨線橋が太宰治のお気に入りの場所であったからだ。三鷹市は太宰治とゆかりのある跨線橋を改修して維持できないかと考えていたし、管轄するJR東日本は三鷹市に譲渡するという提案をしていたそうだ。話し合いやさまざまな試算が行われた結果が撤去・解体である。こういった点でも太宰治は面倒くさい人物である。
太宰はこの陸橋のどこが気に入ったのだろう。西側にある電車基地に向かって鉄路が広がっていくその風景を好んだのか、北口側に気に入った小料理屋でも、気前よく金を貸してくれる篤志家でもいたのか(太宰は線路の南側に住んでいたはず)。
先日、せっかくだからこの橋を渡ってみようと思い立ち、三鷹を訪ねた。以前写真で見たよりも所々に補強がなされていて、多少の地震くらいだったびくともしないのでないかと思われるが、古いことは古い。老朽化しているかどうかと訊かれたら僕だってノーと言えない日本人である。
そんなこともあって、『人間失格』を読んでみる。はじめて読んだときとまったく変わることなく、破滅的である。まあ、それはそれでいいのである、今の世の中は。だめなやつはだめなやつの人生があり、破滅的な生き方だってある。たいせつなのは多様性を認め合うことなのだ。

2022年4月3日日曜日

島崎藤村『夜明け前』

わが家の古い戸籍を見る。戸籍が整備されたのは明治のはじめの頃である。戸主は曾祖父で明治10年生まれとなっている。それ以前のものは残されていないが、曾祖父の母親が前戸主(高祖父)の妻として記載されている。生まれは天保5年10月10日とある。高祖母が天保であるとすると高祖父は文政年間あたりの生まれであろうか。まさに青山半蔵と同じ時代を生きたことになる。
今から150年前。旅は歩いて行くものだった。ほんの例外的に駕籠に乗ったり、馬に乗ったりしたものもいたにはいたが、圧倒的多数が徒歩で旅をした。移動速度に制限があるから、街道には宿場町が開け、栄えた。だいたいどこで昼を食べ、どこで泊まるかが計算されていた。のどかな時代といってしまえばそれまでだが、旅に出るというのはそれ相応の覚悟が必要だったのだ。
物語の舞台は中山道馬籠宿。名古屋、岐阜方面から木曽川を北東に遡上すると恵那、中津川を経て馬籠にたどり着く。その先に妻籠があり、さらに進むと関所のあった木曽福島。地名を鉄道路線と結びつけておぼえているせいか、塩尻で南東に方角を変えて東京をめざすといったイメージを持つが、実際の中山道は高崎や熊谷を経て板橋をめざす。いずれにしろ旅人たちは険阻な山道を歩いていった。
これまで読むことのなかったこの本は島崎藤村の代表作である。言ってみれば庶民から見た幕末維新か。木曾谷に設置された固定カメラからめまぐるしく揺れ動く時代をとらえた映像といっていい。黒船の動揺も旅人が日本中に伝えてまわった。勤王攘夷の風は天狗党によって木曽路にもたらされた。慶喜追討の命を受けた東山道軍も通り過ぎていった。街道は人が通りすぎるだけではなく、さまざまな情報の通り道だったことがわかる。
江戸から房州へは船が多く利用されていたという。房州で生まれ育ったわが高祖父も旅をした人であったろうか。江戸の繁華な町を歩いた人であったろうか。