2020年4月30日木曜日

本橋信宏『60年代 郷愁の東京』

東京都のホームページに「東京アルバム」というコーナーがある。そのなかにある東京WEB写真館「東京・あの日・あの時~昭和20年代から現代へ~」がなんとも言えず懐かしい。
よく見ると昭和30年代の前半から後半にかけて、微妙に変化している。昭和35(1960)年までごみ収集車は大八車だった。自動車に切り替わったのはその翌年からだという。モータリゼーションが進んで、道路にクルマが溢れる写真もこのころから散見される。勝鬨橋が開閉していたのは昭和45(1970)年までであり、銀座から都電が消えたのが昭和42(1967)年。同じような昔の写真であっても、時代の変化は着実に刻まれている。
昭和34(1959)年にオリンピック東京招致が決まった。日本は戦後の一復興国から経済成長を是とした先進国へ舵を切った。東京を中心に各地で近代化という名の景観破壊がはじまった。川は高速道路となった。あるものは埋め立てられ、あるものは暗渠となった。数寄屋橋は名前だけの橋になった。日本橋は道路にふさがれた。近所の側溝も蓋をされた。
なくなってしまった60年代の風景で興味深いのは、個人的には四谷と赤坂見附の間、紀伊国坂にあった都電の喰違トンネルである。四谷を出発した都電3系統の電車は、迎賓館の前あたりから真田濠の専用軌道に入り、トンネルを抜け、弁慶濠に沿って坂を下る(この間は単線だったという)。赤坂見附の停留所が待っている。都電でいちばん素敵な風景だったと回想していたのは実相寺昭雄だったっけ。今では首都高速4号線が喰違トンネルのあったあたりを通過する。クルマで通ることもあるけれど、味気ないことこの上ない。
7年ほど前に読んだ60年代の東京描写。著者の本橋信宏はアダルトビデオメーカーで制作や広報に携わった人物だという。
60年代は、今の世の中ではほとんど見ることのできないおもしろい景色に満ち溢れていた。昭和の真ん中の時代だった。

2020年4月29日水曜日

岡崎武『上京する文學』

すっかり忘れていた。
昨年の10月だったか、はじめてヘリコプターに乗ったのだ。もちろん仕事で、である。東京の海ごみ(そのほとんどがプラごみ)を減らしましょうというキャンペーン動画で海ごみの主な流入口とされる河川を中心に撮影することになり、ともに企画制作を担当する新聞社のヘリコプターに同乗したのである。
羽田を離陸した後、高度規制の関係で多摩川をしばらく遡上して都内に入る。東海道新幹線が見えていたから、おそらく鵜の木から田園調布あたりかと思う。台場から新国立競技場、都庁周辺をまわって、赤羽の水門付近から、荒川を下る。被写体として荒川が選ばれたのは都内の大きな河川で広い河川敷を持っているからだ。そこにはポイ捨てされたプラごみも多い。隅田川は護岸されているし、東京都のキャンペーンなので対岸が他県の江戸川や多摩川だと、それでもかまわないのだが、少し気にかかる。
当日は晴れてはいたけれど、少しガスがかかったような天気で見通しがあまりよくない。一週間先延ばしすればスカッと晴れたのにと、それはもちろん後で思ったこと。
空から眺める東京は小さく感じた。渋滞のないせいもあるけれど、台場~新宿~赤羽~荒川河口があっという間なのである。東京は狭い。
「上京」という言葉にぴんとこないのは、上京した経験がないからだろう。上京者は上京前と上京後というふたつの人生と文化に出会っている。些細なことかもしれないが、この二面性は大きい(と上京経験のない僕は思う)。
本書は「文學」にまつわる上京者の状況を調べ上げている。必ずしも地方出身者に限らないところもおもしろい人選だ。野呂邦暢という名前をはじめて知る。著者が特に力を込めて語っている長崎県出身の(そして上京を経て、長崎を舞台に活躍した)小説家である。
さっそく読んでみた。
著者もそうだが、同世代では奥田英朗も上京者だ。先日読んだ『東京物語』はまさに上京物語だった。

2020年4月28日火曜日

牧村健一郎『評伝 獅子文六』

新型コロナウイルスの騒ぎで、多くのイベントが中止や延期になっている。
大相撲春場所は無観客で開催、中央競馬も無観客で日程を消化している(競馬会の収入の柱は勝ち馬投票券なので大きな影響を受けないという)が、選抜高校野球は中止、東京六大学野球、プロ野球は延期、その他スポーツに限らず自粛の嵐が吹き荒れている。このような状況がはたしていつまで続くのか。
先日、全国高校総合体育大会(インターハイ)の中止も決定された。今夏の甲子園にも影響を及ぼすだろう。高校野球はすでに各地の春季大会が中止になっている。練習はおろか、新入部員の勧誘もできないわけだから、部活動とはいえ事態は深刻だ。
2月頃、珍しく仕事に追われ(それだけじゃないのだが)、3月になったら行こうと思っていた神奈川文学館の企画展・収蔵コレクション展18「没後50年 獅子分六展」も会期が短縮され、3月3日で終わってしまった。ひさしぶりに横浜に出かけ、餃子、焼売、サンマーメンでビールを飲もうと思っていた。残念である。
昨秋には、この催しのプレイベント的にラピュタ阿佐ヶ谷で「獅子文六ハイカラ日和」と題する古い映画の特集が組まれていた。12月にはシウマイの崎陽軒とタイアップしたちくま文庫『やっさもっさ』が発売され、話題になった。
大衆小説家として一世を風靡した獅子分六もいつの間やら人気が下火になり、忘れ去られそうになっていた。それでも獅子文六を評価する識者、読者による地道な再発見の努力が重ねられていた。筑摩書房による文庫化、映画の特集や「獅子分六展」もこうした流れのひとつ。そしてこの評伝も。
自粛ムードのなか、ステイホーム週間になってしまいそうなゴールデンウィーク(NHKは頑なにこの言葉を避け、大型連休と呼んでいるが)であるが、黄金週間という言葉を生んだ作家に(厳密には映画の原作者に)あらためて目を向けてみるのはけっして悪いことではあるまい。

2020年4月27日月曜日

野呂邦暢『一滴の夏』

今田孝嗣という同級生がいた。
小学校の頃、好き嫌いがあって給食を残す生徒がいたため、あるとき担任の教師が全部食べ終わらないと昼休みに遊んではいけないというルールをつくった。給食をとっとと食べてしまえば、いくらでも遊ぶことができる。多少苦手な食材があっても遊びたい子どもたちは鼻をつまんでのみこんでいた。先生の打ち出した改革案は奏功した。
だが、今田だけは別だった。
彼には友だちらしい友だちがいなかった。休み時間に誰かといっしょに遊ぶこともなく、会話することもなかった。好き嫌いがあったのかなかったのかもわからない。ただただ食が細く、給食はいつも残していた(パンは持って帰っていた)。身体も小さく、痩せていた。彼にとっては昼休みの遊び時間があろうがなかろうがたいしたことではなかったのかもしれない。
聞くところによると、今田は両親とではなく、お祖母さんと暮らしているということだった。年寄りに甘やかされて育ったのだろうと、当時子どもながらに思ったことがある。
どうでもいいような記憶がときどき呼びさまされる。彼のことを思い出したところで、会ってみたいとも思わないし、消息を知りたいとも思わない。しかしなぜだか気にはなるのである。不思議だ。
野呂邦暢。はじめて読む作家である。
湧水が水たまりをつくり、そのうちにくぼみを見つけては少しずつ流れ出して川を形づくっていくような、気になる文章を綴る。都会のシーンでは高度経済成長期の埃のにおいがし、故郷である長崎諫早の風景は地方都市の哀しげな空気を漂わせる。これまで読んだことのないタイプの小説家だ。
野呂は古書店を愛した作家としても知られているという。大田区山王の古書店主関口良雄が書いた『昔日の客』に登場する(残念ながらまだ読んでいない)。
どこか遠くに置き去りにしてしまった風景を思い出させる。
昼休みが終わって、5時間目の授業がはじまる。今田はひとり、給食を食べていた。

2020年4月23日木曜日

吉村昭『大黒屋光太夫』

1997年に東京湾アクアラインが開通するまで、川崎・木更津間にカーフェリーが運航していた。父が南房総に帰省する際に利用していた関係で何度か乗船した記憶がある。1時間ほどの船の旅だったと思う。
東京湾を横断するフェリーとしては久里浜・金谷間の東京湾フェリーが健在で、数年ほど前だが館山まで所用で出かけた帰りに乗ってみた。40分ほどのアトラクションだった。
普通に陸上で生活していると船の乗る機会はほとんどない。船に乗りたくて、浅草を散策するのに日の出桟橋から水上バスに乗ったのもやはり数年前(このところ数年前のできごとがいつのできごとだったか正確に思い出せない)。
鉄道が発達する前、海にしろ川にしろ、船は重要な交通手段だった。滅多に乗らない船ではあるが、もしこのまま大しけになって難破したらどうなってしまうのだろうとか航行不能に陥って、流されるままに漂流を続けたらどうなっちゃうんだろうかと果てしなく広がる水平線を眺めながら想像する。
大黒屋光太夫は伊勢から江戸に向かう途中、駿河沖で暴風雨に会い、漂流を余儀なくされる。黒潮に流されること7か月、漂着したのはアリューシャン列島の小島だった。と、ここまででもたいした冒険譚なのだが、これはほんの序の口。
井上靖も同じ題材を小説にしている。『おろしや国酔夢譚』は佐藤純彌によって映画化された。鎖国下の日本人が酷烈な気候の見知らぬ国で生きていくことの難しさは想像を絶するものがある。どうせ漂着するなら南の島がいいなと個人的には思う。
それにしても18世紀江戸時代の漂流事件がこれほどまでに克明に描かれているのは、光太夫がはじめて出会う土地、人々、生活などを事細かに筆記していたからだという。矢立から筆を出して、なにがしか書きとめている姿は映画(光太夫役は緒形拳)でも再三登場する。
見知らぬ国に流れ着いたこともたいしたものだが、逐一メモをとっていたこともすごいことだ。

2020年4月21日火曜日

平山三郎『実歴阿房列車先生』

鉄道趣味はある時期、オタク(ヲタク)などと呼ばれることもあり、自ら公言するのは憚られていたように思う。列車の写真を撮影したり、時刻表を眺めていることは好きだったけれど、自分で自分を鉄道ファンだと認めたくないところはあった。まあ、こういうことも不勉強のなせる業であって、歴史を紐解いてみれば、鉄道をこよなく愛する人物がいかに多かったかがわかる。阿川弘之、実相寺昭雄、川本三郎、関川夏央…。
そのなかでも内田百閒は、鉄道趣味普及啓発の父と呼んでもいいくらい鉄道に関する文章を遺している。『阿房列車』と称される鉄道紀行は全15編。新潮文庫で第一から第三まで3巻のシリーズに収められている。その旅のほとんどが無目的。用事がなく、ただただ列車に乗るためだけの旅行である。今でいう「乗り鉄」かというとそればかりではなく、駅のホームにこれから乗車する列車が入線すると、機関車と連結された客車の一両一両を丹念に眺めてまわったというから装置としての鉄道についても深い興味を抱いていたに違いない。
不思議な人物が登場する。ヒマラヤ山系という。日本全国くまなく旅をした百閒先生に付き添って同乗した人物である。後で調べてみるとこの人は、国鉄の職員で戦後、機関誌『國鐵』の編集者として内田百閒と付き合い、長い旅のパートナーとなった平山三郎であることがわかる。この本の著者である。
素人的なイメージでいえば、作家と編集者の関係はある意味主従関係に近いものを感じている。言うことを聞かないわがままな作家先生をおだててなだめて、筆を進ませるのが編集者の仕事ではないかと思っている。あの手この手で締め切りまでに原稿を書かせようと躍起になる姿を想像する。ところが旅の中でヒマラヤ山系=平山三郎は、百閒先生の思い付きやわがままをするりとかわす。先生の思考回路や感情の機微を完全に掌握しているようだ。たよりになる同行者だったことだろう。

2020年4月16日木曜日

獅子文六『ロボッチイヌ』

最近めっきりラジオを聴かない。
といっても、ラジオに毎日耳を傾けていたのは、中学生や高校生の頃のことだ。当時おもしろい番組が多かったからではなく、年齢的環境的にラジオと親和性の高い時期だったからだろう。
10年以上前になるが、通勤時に聴いていた。都営地下鉄だとAMラジオが聴ける。朝のワイド番組を聴きながら通った。そのポケットラジオを枕元に置いておく。夜中に目が覚めたとき「ラジオ深夜便」を聴くこともあった。昔の歌手のヒット曲がイヤホンの向こうから聴こえた。
近頃は便利な世の中になって、パソコンやスマートフォンなどでネット配信のラジオ番組を聴くこともできる。ラジオがなくてもラジオを聴くことができるのだ。不思議な話だが、そういう時代になってしまった。
しかしながら、デジタル端末で聴くラジオ番組はどうも味気ない。そもそもラジオ放送は、電波に音声を合成(変調)して巨大なアンテナから発信される。ラジオ受信機はその電波をキャッチして、音声と合成された電波の中から音声だけを取り出す(検波とか復調などという)しくみを持っている。電波は1秒間に30万キロメートルの速さで飛んでいく。今、発信された音声をほぼ同時に聴くことができる。デジタルではそうはいかない。データはさまざまな記憶媒体や伝送装置を経由する。タイムラグが生じる。ためしにデジタル端末とふつうのラジオとで同時に同じ番組を聴いてみればわかる。
もちろんそんなことはどうでもいい話だ。身になる情報やおもしろいコンテンツが伝わりさえすればそれでいい。音声が変調されて、電波に乗って、ラジオがそれをキャッチして復調する。そんなことはどうでもいいのだが、デジタルは味気ない。なぜなんだろう。
獅子文六の短編集をはじめて読む。ラジオ放送をラジオ受信機で聴く感覚に近い。
ラジオでも最近はボタンを押すだけで選局(チューニング)できる機種がある。あれもちょっと味気ない。

2020年4月15日水曜日

吉村昭『深海の使者』

就学以前の記憶である。
横浜ドリームランドという遊園地があった。幼稚園の遠足で行った憶えがある。どんなアトラクション(もちろん当時はアトラクションなんて言葉は知らない)があったかほとんど記憶にない。唯一憶えているのは、潜水艦である。
潜水艦といっても本当に海中に潜るのではなく、潜水艦状の乗り物が滝の中に入り込んでいくとそこが海中になっているという代物。窓外に深海の様子を見ることができたと記憶している。
当時、週刊少年サンデーに『サブマリン707』という冒険漫画が連載されていた。漫画は月刊誌を一冊だけ許されていたが、週刊誌は立ち読みするくらいしか接する機会がなかった(少年マガジンも少年キングももう少し大きな子どもが読むものだった)。それでも当時、「潜水艦」という言葉は幼年の心を震わせる響きがあった。
潜水艦に関する本を読んだり、映画を観たこともあった。事故が起こり、酸素とともに意識が薄れていく。壮絶で静かな死が待っている。潜水艦内では死体が腐乱しないという。酸素がないので微生物も生きられないのだ。吉村昭の『総員起シ』だったか、そんなことが書かれていた。
太平洋戦争当時、日本はどうやってヨーロッパの枢軸国と連携をとっていたのか。
無線電信があっただろう程度にしか思っていなかったが、無線は暗号を使ったとしても傍受される。さらに発信した位置を特定されてしまう。飛行機はどうか。日ソ中立条約のため、日本の航空機はソビエト領空を飛ぶことができない。北回りの航路はまだ未知数。ソ連領土を迂回する南回りでは長距離過ぎる。船舶は南アジアやアフリカ沿岸などの制海権をイギリスに握られている。インド洋から大西洋に出るには南アフリカのケープタウン沿岸を回らなければならない。もちろんそこにはイギリスの海軍と空軍が待っている。
日本からドイツへ、ドイツから日本へ。潜水艦による長距離航行だけが残された道だった。

2020年4月13日月曜日

間宮武美『僕たちの広告時代』

ずいぶん昔のことだが、『テレビCMの青春時代』という新書を読んだ。
著者の今井和也は、レナウンの宣伝部で「イエイエ」や「ワンサカ娘」を手掛けた方だったと記憶している。主に語られているのは、レナウンと資生堂のテレビコマーシャル。今は亡きふたりのCMディレクターにスポットをあてる。電通映画社(現電通クリエーティブX)の松尾真吾と日本天然色映画(現ニッテンアルティ)の杉山登志だ。この他にも当時、企画制作に携わった者たちが実名で登場する。
広告に限らず、どんな世界にも武勇伝や伝説が多々ある。NHKで放送されていた「プロジェクトX~挑戦者たち」が人気番組だったのも、高度経済成長を経験した日本人の多くが命がけの仕事にあこがれを持っていたからに違いない。トンネルを掘ったり、ダムをつくる方がたいへんな仕事ではあるだろうが、僕自身が広告制作の世界に生きてきたので、とりわけ昭和から平成はじめの「広告時代」に引き込まれてしまう。
広告の世界でいえば、電通という巨人がいて、博報堂がその後を追いかけている。著者は博報堂に中途入社して、サントリーやNTT、東芝などの営業担当として制作にかかわった方だ。一概には言えないけれど、博報堂のスタッフは電通という大きな壁をどう乗り越えるか、ジャイアントをどう倒すかといった強いメンタルを持っていたように思える。あるいは博報堂の制作局の人々と仕事をした僕自身の経験がそう思わせるだけかもしれないのだが。
テレビをはじめとしたマスメディア中心の時代が終わり、デジタルとの融合がすすめられている昨今、著者の遺した「広告時代」が将来の広告にとってどれほどのヒントになるかはわからない。ただ、そんな時代もあったのだという思いがこれからの人たちの心の片隅にあればうれしい。
本書の中で僕がリスペクトしているクリエイティブディレクターの若かりし時代を垣間見ることができた。それだけでもこの本を読んでよかった。

2020年4月9日木曜日

小霜和也『恐れながら社長マーケティングの本当の話をします。』

長いこと広告制作の仕事に携わってきたのでプレゼンテーションをする機会も多かった。
ありがちなことではあるが、プレゼンしてみて、はじめて広告主の本当のニーズがわかったりする。おもしろそうな企画案を携えて、けっこう自信たっぷりに提案したのに「うちの会社はこういうのあまり採用したことないんですよ」などと言われることもあった。書面にされたオリエンテーションシートやマーケティングセクションで精査された市場や消費者の動向などではわからないその企業独自の悩みがそのときはじめてわかったりする。それが案外理屈ではなかったりする。
広告主がずっと歩んできた道のりや成功体験、失敗事例は、企業風土となって拭いがたくその会社にしみついている。内部の人にはこうしたことが暗黙知として了解されているけれど、外の人間には理解しがたいものもある。
「こういうタイプのタレントさんは、うちでは使わないんです」
などと言われてもキョトンとするばかりである。
ときどき広告主の担当者と親密な関係を築いてきた営業担当がわけのわからないオーダーをする。課題となっている商品やサービスとはほとんど関係のない情報だったりする。制作担当としては当然無視する。不評に終わったプレゼンの帰り途、ようやくわけのわからなかったオーダーがわかってくる。そんな経験もした。
人それぞれに個性や主義主張があるように、企業もひとつひとつ独自の文化や生き方があり、企業活動の細部にまで行きわたっている。コミュニケーションの提案だからといってAだからB、BだからCといった論理だけでは解決できない課題は多い。
では企業の全人格を体現しているのは誰かといえば、それはやっぱり社長だろう、という仮説に基づいて、この本はビジネスを語っている。
森永製菓や森下仁丹など、昔からある商標やマークは社長自らかかわっていたという。社長がアートディレクター的な役割も果たしていた時代があったのだ。

2020年4月2日木曜日

J.D.サリンジャー『フラニーとズーイ』

いろんな事情があって、しばらくブログの更新ができなかった。いろんな事情というのは、文字通りいろんな事情なのでこと細かに説明することはできない。
昨年末から年初にかけて、そしてその後もわずかではあるものの本は読んでいた。海外の小説を読むのはひさしぶりのことで、この本は20代の頃いちど読んだ記憶がある。『大工よ屋根の梁を高く上げよ/シーモア序章』とか『ライ麦畑でつかまえて』、『ナイン・ストーリーズ』あたりを新潮文庫でまとめて読んでいた頃のことだ。当時の翻訳は野崎孝。タイトル(邦題)は『フラニーとゾーイー』だった。宗教じみた小難しい内容だったくらいしか印象に残っていない。
昨年通りすがりに立ち寄った書店の文庫棚を眺めていたら、村上春樹訳があった(それまで村上訳があるとは知らなかった)。昔読んだ印象はほとんど忘れていたので手にとってみた。表紙が気に入った(『さよなら、愛しい人』と同じ装丁家か)。タイトルは『フラニーとズーイ』になっている。憶えていないわけだから、この際ゾーイーでもズーイでもどちらでもかまわない。訳者によってはズーイーだったりもする。『ライ麦畑』も村上春樹は『キャッチャー・イン・ザ・ライ』としている。翻訳書のタイトルなんかこの際どうでもいいい。
フラニーはグラース家の7人きょうだいの末娘、ズーイは5歳年上の兄で五男。上から順番に整理すると長男シーモア(拳銃自殺する)、次男バディ(作家、役割としてはサリンジャー)、長女ブーブー、三男四男は双子でウォルト(戦死する)とウェーカー。
僕の父も7人きょうだいだった。三男四女。母のきょうだいも同じく7人で、こちらは二男五女。グラース家とちょうど裏返しの構成だ(どうでもいい話ではあるが)。
でも正直言って、表紙のデザインをのぞけば、それくらいしか印象に残ることはなかったけれども、読んでいるうちに思い出してきた。宗教じみた小難しい話だったことを。

2020年4月1日水曜日

大場俊雄『早川雪洲-房総が生んだ国際俳優』

映画撮影の現場ことばで「セッシュ(あるいはセッシュー)する」という用語がある。
とりたてて専門用語というほどのことではないが、画面上高低のバランスがよくないとき、低い方に下駄を履かせて(実際には箱馬か平台にのせて)、構図を調整することをさす。
1900年代はじめ単身でアメリカに渡り、ハリウッドスターになった早川金太郎(雪洲)は女優たちにくらべて身長が低く(172センチといわれている)、ツーショットのシーンなどでは踏み台にのせなくてはならなかった。こうした撮影現場での工夫はそれまでも行われてきたが、早川雪洲によって言語化されたというわけだ。多少なりとも日本人に対する偏見があったかもしれない。
「セッシュする」はその後、人物だけではなく、撮影する被写体全般にも使われる。小道具や撮影用商品もしばしば「セッシュ」される。
1907(明治40)年、房総沖でアメリカの大型商船ダコタ号が座礁する。
白浜や乙浜、七浦など地元集落から漁船を出すなど、大勢の村人が救出にあたったという。そのとき、通訳として活躍したのが東京の海城学校(現海城高等学校)で海軍士官学校をめざして英語を学んだ雪洲であったと地元では語られていた(語っていたのは実は千葉県七浦村、現南房総市千倉町出身の母だったりする)。ところがそれは事実ではないらしい。調べてみると通訳にあたったのは雪洲の兄であった。ハリウッドに渡って大スターになった地元の英雄早川雪洲が伝説化して、いつしか語り継がれてしまったのかもしれない。
著者大場俊雄は、館山市出身。東京水産大学(現東京海洋大学)を卒業後、教職を経て、千葉県の水産試験場であわびの増殖の研究に従事していた。千倉町の漁業関係者に聞き取り調査をすすめているうちに伝説のスター早川雪洲の存在を知ったという。
研究者ならではの綿密かつ正確な調査が雪洲の正しい生涯を明らかにする。背筋の伸びたきちんとした著作である。