2026年4月20日月曜日

喜多川泰『運転者』

「運がいいとか悪いとか人は時々口にするけど」というのはさだまさし作詞・作曲・歌の「無縁坂」であるが、自身の運に関して真剣に考えたことはない。まあその時々で出会った不運について、「チェッついてねえなあ」くらいに思ったことはきっと何度もあるだろうけれど、たいがいのことはもう忘れている。思い返してみると僕の場合、運がよかった。こんな僕がよく高校に受かったなとか大学に受かったよなと思う。ギリギリのところで運に恵まれたとしかいいようがない。
うまくいかない日々を送っている主人公はある時、不思議なタクシー運転手に出会う。運転手はさまざまな場所に主人公を連れていき、「運」について考えさせる。いつも上機嫌でいること、運はいい、悪いではなく、貯めるもの、使うものである。努力は報われる。たとえその人が報われなくても貯めた運はいつか自分ないしは後の世代が使うことになる。俄かには信じられないが、これが著者の考える運の構造である。
たとえば僕が運を使ってきたのは、両親や祖父母による運の貯めこみ=誰かのために努力することを怠らなかったせいかもしれない。だとしたら僕の後の世代のために僕はどれほどの運を貯めこんできたのかちょっと自信が持てない。
運を貯めるという行為は利他的だと思う。最澄における忘我利他、空海の自利利他に通じるところがある。利他は己を忘れたところにあり、自他ともに利するのが利他である。そして利他的行為は報酬を求めることがない。利己になってしまうから。利他は何かに突き動かされるように沸き起こり、その時点でその行為が利他であるかはわからない。偶然に支配されているのだ。
運を貯める=利他という仮説が正しいかどうかはともかくとして、誰かのために何かを行うということ。そうすることで人は知らず知らずのうちに運を貯めこんでいく。果たして僕はどれくらい運を貯めこんでいるのだろう。皆目わからない。

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