2024年6月30日日曜日

村上春樹『蛍・納屋を焼く・その他の短編』

「めくらやなぎと眠る女」という短編小説が短編アニメーション映画になり、近く公開されるいう。監督はピエール・フォルデス。作曲家として、また画家としても活躍するアーティストであるらしい。題名はめくらやなぎであるが、いくつかの短編のエピソードが加えられており、東京を救うカエルくんも登場する。むしろ監督のオリジナルストーリーといえそうだ。
それはさておき、久しぶりに村上春樹の短編集を読む。装幀はイラストレーター安西水丸。今ではほとんどすべての装幀を社内で行っている新潮社であるが、この本が刊行された1984年はまだ外部のアートディレクターやイラストレーターなどが担当していた。新潮社の装幀室ができて、クレジットされるようになったのは1990年代になったからだと思う。それにしても1980年代の安西水丸は多忙をきわめていたのだろうか、手書き文字だけの実にあっさりとしたデザインだ(3年後に文庫化されたが、その表紙にはおそらくめくらやなぎをイメージした思われるイラストレーションがあしらわれている)。
それもさておき、この短編集にはいくつかの興味深い作品が収められている。後の『ノルウェイの森』につながる「蛍」やウィリアム・フォークナーの短編「バーン・バーニング」と同じタイトルを付けられた「納屋を焼く」、初期村上ワールドの源泉ともいえる像工場が登場する「踊る小人」などである。
「めくらやなぎと眠る女」は1990年代に書き直され、『レキシントンの幽霊』という短編集に収められた。そのときタイトルは「めくらやなぎと、眠る女」と改められている。またこの短編は2000年代に英訳され、海外でも多く読まれたらしい。映画化につながったのにはそのような背景があるのだろう。
「めくらやなぎと眠る女」と「めくらやなぎと、眠る女」はどう違うのだろう。今度『レキシントンの幽霊』を探し出して読み直してみようと思う。

2024年6月25日火曜日

講談社校閲部『間違えやすい日本語実例集』

用事があって旗の台を訪れる。
今の東急大井町線と池上線は別々の鉄道会社が経営していて、大井町線には東洗足という駅があり、池上線には旗が岡という駅があった。その後乗り換えできるように統合され、旗の台駅になった。実相寺昭雄『昭和鉄道少年』にそんなことが書いてあった。
旗の台は品川区民にはよく知られた地域である。区内で随一といっていい昭和大学病院が聳え立っているからである。池上線のホームとつながった改札から降りた乗客の多くは中原街道方面に歩く。おそらくは昭和大学病院に向かうのであろう。
旗の台駅から僕の実家までは2キロ弱。大井町線の隣駅荏原町を横に見ながら商店街をすすんでいく。第二京浜国道を渡ってさらに直進する。道は一直線である(三間通りと呼ばれている)。学区域が違うので友人や知人はいないが、昔から身近な地域だった。
広告制作の仕事をしてきてよかったと思うのは、いろんな業種の人たちと話ができたことだ。食品会社の人、製薬会社の人、金融関係の人、石油会社の人や官公庁の人たちなど枚挙にいとまがない。もちろん広告を通じてということだから、広告とあまり関係のない仕事には接することはなかった。たとえば医療関係者や学芸員、図書館司書など。
出版関係には友人が何人かいたが、裏方ともいえる校閲担当の人とは接点はなかった。どんな仕事なのか興味を持ったのは以前に読んだ牟田都子著『文にあたる』を読んだときだ。この本は校正や校閲を担当するものとしての心がまえみたいなことが語られている。今回読んだのは実際の校閲者が具体的にどんな事例に出会い、どう対処してきたかというきわめて実務的な現場のお話である。臨場感がある。
細々とブログを続けてきたが、僕の文章なんて小っ恥ずかしい赤字の宝庫なんだろうな。まったくもって汗をかく一冊だ。
さて、その日は旗の台で用事を済ませた後、実家まで歩いて、父に線香をあげる。父の誕生日も近かったから。

2024年6月20日木曜日

J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』

「成熟」という言葉を辞書で引いてみると「穀物や果物などが十分熟すること」、「人の心や身体が十分に成長すること」とある。もともとは農作物に対して使われていた言葉がたとえとして人間に使われるようになったのかあるいはその逆なのかはわからないが、はじめに示されるのは「穀物や果物」である。
人は成熟していく。とりわけ大きく成熟を遂げるのは十代や二十代の少年期や青年期だろう。心や身体が十分に成長することによってさまざまな知識や技能を獲得し、経験を積んでいく。ただ六十年以上生きてみるともっと年齢を重ねても成熟することはある。たとえば五十歳を過ぎてから山登りや楽器の演奏をはじめた、なんて人たちだ。はじめのうちは慣れなかったり、身体が思うように動かなくてもある程度反復することでそれまでなかった能力を身に付けることは可能だ。もちろん若い頃にくらべれば時間はかかるだろうけれど。人はたえず未成熟と成熟の間に生きている存在なのかもしれない。
ラスト、フィービーが乗る回転木馬のシーンが好きでこの本をもう何度も読んでいる。
ホールデン・コールフィールドはクリスマス前のとある深夜にかつての英語の先生アントリーニに会いに行く。この教師はホールデンの破綻を熟知している。アントリーニはホールデンに「未成熟なるもののしるしとは、大義のために高貴なる死を求めることだ。その一方で、成熟したもののしるしとは、大義のために卑しく生きることを求めることだ」と書いた一枚のメモ書きを渡す。ライ麦畑のキャッチャーになりたいと成熟することを頑なに拒み続けるホールデンにアントリーニ先生は卑しく生きていく術を説いたのだ。
この作品の成功の後、ある事件をきっかけにサリンジャーは隠遁生活を送る。まるで大義のために高貴なる死を求めたかのように。ホールデン・コールフィールドはサリンジャーに乗りうつって、未成熟なまま生き続けたのかもしれない。

2024年6月16日日曜日

勝浦雅彦『ひと言でまとめる技術』

近い将来、広告の仕事からリタイアする。それでも広告の本はときどき読むようにしている。コピーやデザイン、映像、コミュニケーションに関するものである。
以前はすぐれたコピーはどうすれば書けるかみたいな内容を自らの経験を踏まえて語られる本が多かった。広告制作のプロフェッショナルがその分野の初心者や志望者に向けて書いていた。最近はコピーを書くためというより、コミュニケーション能力を向上させるための指南書といった趣の本が増えている(ような気がする)。プロのコピーライターが若いコピーライターに向けて、というよりもっと幅広く学生や若いビジネスマンに役立つスキルを提供している。
プレゼンテーションというと広告関係の仕事をしている人にとってはクライアントのコミュニケーション課題にどのような基本的な考え方(ストラテジー)を持って、どう具体的に解決をはかっていくか(表現)を提案する場である。絵コンテやカンプを提示して広告主の理解と納得を得ることが最終的なイメージである。これは広告業界のプレゼンテーションの一例に過ぎず、世の中のどんな業種であれ、依頼主の課題解決のための提案作業は存在する。これら世に数多いるプレゼンターはすぐれたプレゼンターではあるもののプレゼンテーションそのものを語る専門家ではない。もちろんスティーブ・ジョブズのようなクリエイティブな人間もいるにはいるが。
その点、広告クリエイティブを生業としてきた者は「わかりやすく伝える」プロフェッショナルでもある。
著者勝浦雅彦は広告会社の営業からキャリアをスタートさせた。その後クリエイティブの世界に身を投じ、幾多のプレゼンテーションを通して、言語化力、伝達力の重要性を学んできた。それらの経験をとりまとめて後世に遺しておくことは広告制作のプロフェッショナルが果たさなければならない社会貢献なのではないだろうか。
そんなことを思わせる一冊である。

2024年6月10日月曜日

村上春樹『1Q84』

人生のなかで村上春樹の作品に出会えたことは大きい。多くの読者がそうであるように村上ワールドに魅せられてきたひとりである。いちど読んだきりではもったいないと思い、長編小説は二度三度と読むようにしてきた。
『海辺のカフカ』を再読したあと、『1Q84』が刊行された。一気に読みほした。つい最近のことように思っていた。気がつくとこの本が出版されてから十数年が経つ。ついこのあいだ読んだ本、観た映画が十年以上前だったことはよくある。クォーツ時計の水晶に誰かが規格以上の電圧をかけたに違いない。
タイトルから伺い知れるようにジョージ・オーウェルの『1984』が着想にかかわっているようだ。残念ながらまだ読んでいない。
ふと思い立って二度目を読む。大筋は憶えてはいるものの、細部の記憶が欠落している。たとえば教団の起こりやリトル・ピープル、空気さなぎあたりは読み流したのだろう。もちろん完璧に流れを記憶していたら再読する意味はない。文章と自らの記憶を照合しながら読みすすめる。
この物語の中心人物ではないが、ふたりのプロフェッショナルが起伏を生み出している。興味深いキャラクターだ。幾多の苦難と経験を血肉に換えてきたセキュリティのプロであるタマルと高度な知性に裏打ちされた鋭利な勘を持つ元弁護士牛河である。慎重すぎるほど慎重に青豆を保護するタマル。そして青豆を追い詰める牛河。思わず固唾を呑んでしまう。そして牛河が見せた一瞬の隙をタマルは見逃さない。皮剥ぎポリスが乗り移ったかのようだ。
僕は『ねじまき鳥クロニクル』に匹敵するくらいの傑作であると思っているが、それでも出版以前に起こったカルト教団の事件や当時から多く報道されていたDV問題など具体的ではないにせよ、重い題材を扱っている。NHKの過剰な集金体制や「福助」頭なども含め編集者はずいぶん気を遣ったことだろう。
初読から十数年。読み手もそれなりに大人になっている。