2022年8月26日金曜日

太宰治『グッド・バイ』

先月軽井沢を訪れたとき、横川駅まで行ってみた。
碓井峠越えで知られた横川も今は分断された信越本線の終着駅である。信越本線は他にも篠ノ井駅から長野駅、直江津駅から新潟駅の3つパートにわかれている。
横川駅前には碓井峠鉄道文化むらがある。もともとあった横川機関区(後に横川運転区)の敷地に機関車や電車など多くの車両が遺されている。横川で思い出されるのはアプト式。くわしい説明は避けるが歯車を力を借りて急勾配を登るシステムである。専用の電気機関車がつくられた。ED42という形式で施設内の車庫に保存されている。きちんとメンテナンスされているようでいざとなったら動かせるものと思われる。もうひとつ碓井峠の名物機関車といえばEF63。横川駅に到着した電車特急は2台のEF63に牽引されて峠を越えたのである。この機関車も動かせる状態で保存されている。事前に講習を受ければ、運転することもできるという。
そのほか、屋外には日本全国で活躍した機関車をはじめとした車両が展示されている。雨ざらしになって塗装が剥げかかっている。少しかなしい気持ちになる。とはいうもののこれだけの機関車が並んでいると鉄道の旅が今より時間がかかり、不便だったにもかかわらず、よろこびやかなしみやあらゆるものを乗せて運んでいた時代を思い出させる。僕が眺めているのは鉄道車両ではなく、過ぎ去っていった鉄道の黄金時代ではないかとさえ思えてくる。
太宰治を読みなおす旅を続けている。
太宰の作品はほとんど戦中に書かれている。新潮文庫の『グッド・バイ』には表題の遺作のほか、戦後に書かれたすぐれた短編が収められている。いよいよこれから太宰治の戦後がはじまるという期待感をもたせる作品集であるが、まるで平和な日本を生きるのが照れくさかったかのようにこのあと命を絶つ。
生きていたら「グッド・バイ」以上の作品が書けたかもしれない。書けなかったもかもしれない。

2022年8月21日日曜日

西武アキラ(絵)こざきゆう(文)矢野貴寿(企画・原案)『いえのなかのぼやき妖怪ずかん』

20年くらい前、外資の保険会社のテレビCMをつくっていた。
いつものCMプランナーが大阪から来たという若いコピーライターを紹介してくれた。彼の書いたナレーション原稿をもとに企画の打合せをし、いつしかその仕事は終わっていた。手頃な保険料、手厚い保障をタレントが一方的に語り、フリーダイヤルの番号に資料請求を促すCMだった。収録の現場で熱心にモニターを見入っていた(聴き入っていた)コピーライター氏を思い出す。
少し後で僕が主にテレビCMを担当していた製薬会社のラジオCM原稿を彼が書いていたことを知る。広告主の言いたいことを20秒にまとめさえすればいい。つくり手にとっておもしろくない仕事だ。若きコピーライター氏も会社員だし、こういう仕事もこなさなければならないのだろうなあと思っているうちに、彼が宣伝会議賞(というコピーライターの登竜門的な賞がある)を獲ったと聞く。やるなあ、と思っていたら、今度はTCC(東京コピーライターズクラブ)新人賞を受賞する。そして大阪へ帰って行った。そのわずかな東京勤務時代に僕はこの本の原案を担当した矢野貴寿と出会ったのである。
その後も僕は矢野貴寿の仕事に注目していた。電通のコピーライターとしては当然なのかもしれないが、とにかく勉強熱心なのである。人一倍努力家である彼の書くコピーはけっして奇抜なものではない。人をよく観察していて、ああこれってあるよねといった身近なシーンを見い出しては静かに語る。すぐれた目と耳を持っていることはそのコピーを見ればわかる。
この絵本もそうだ。妖怪は非科学的存在。見えないものの見える化された存在だ。心のなかで何となくもやもやしていた気持ちをさりげなく顕在化する。これって「気づき」をたいせつにする矢野貴寿のコピーライティングの作法だ。
矢野貴寿のなかには企業の課題を見出し、コミュニケーションをなめらかにする妖怪がきっと、棲んでいる。

2022年8月15日月曜日

太宰治『惜別』

8月もあっという間に半ばに差しかかり、甲子園もいよいよ三回戦。
先日、友人の四日市俊介が早朝の東海道新幹線に乗って観戦に行ったという。3年前、すなわち新型コロナ感染拡大以前にはよく野球の試合を観に行ったが、最近はとんとご無沙汰である。調べてみると最後に観た試合は2019年の明治神宮野球大会。高校の部準決勝、中京大中京対天理である。翌年春の都大会はまだ感染拡大防止のためのルールづくりが決められていなかったので観戦することはできたのだが、私的に都合がつかないまま、緊急事態宣言が発出されたのである。
さて、今夏の甲子園。注目は当然、大阪桐蔭である。昨秋近畿大会(大阪府予選も含めて)優勝、明治神宮大会優勝そして今春の選抜大会も優勝。春季近畿大会は決勝で智辨和歌山に敗れたものの、ここまで公式戦の負けはこれだけ。このまま夏を征すれば、1998年松坂大輔がいた横浜以来の秋春夏連覇となる(ちなみに横浜は春季関東大会も優勝していて、公式戦無敗だった)。
「巨人の星」と「あしたのジョー」は少年時代の愛読漫画だった。原作は梶原一騎、高森朝雄(これは同一人物である)で作画は川崎のぼる、ちばてつやだった。ここのところ暇があると太宰治ばかりを読んでいる。先日『お伽草子』を読みなおしてみて、太宰という小説家はある意味、劇画家ではないかと思った。もちろん自分のオリジナル作品も多く書いているが、原作を与えられて自分なりに解釈を加え、脚色することで俄然おもしろい作品にしてしまうすぐれた能力を持っている。自身の原作だとどうしても身のまわりの日常や思い出にとどまってしまう。それはそれでおもしろいのではあるけれど、原作に対して作画することで彼の語り部としての才能が遺憾なく発揮される。
「右大臣実朝」をはじめて読んだ。なかなかの力作である。やはり劇画家として書いた「走れメロス」が今だに読み継がれているのがわかる気もする。

2022年8月7日日曜日

太宰治『お伽草子』

先月、軽井沢にオープンしたカフェ・ギャラリー軽井沢はなれ山クラブ
第一回の展示を終え、7月24日から第二回ケン・ドーン展が開催されている。ケン・ドーンといえば1989年からマガジンハウスの雑誌「Hanako」の表紙イラストレーション(ロゴデザインも)を10年に渡って描き続けたオーストラリアのアーティストである。当時20~30代だった者たちにはたいへんなつかしい。
初日に軽井沢まで出向いてケン・ドーンのまばゆいばかりのイラストレーションを観た。真夏のシドニー湾に陽光がふりそそいでいる。ちょうどHanako時代の作品であろうか、30年前のにおいがする。軽井沢の小さなギャラリーがこれほどまでにシドニーの夏色に染められているなんて外からは想像もできないだろう。
展示作品はシルクスクリーンで刷られたものでおそらくそう多くは残っていないはずだ。訊いてみると原画も残されているかもわからない。もしかするとケン・ドーン最後の90年代になるのではないだろうか。
ケン・ドーンは1940年生まれ。今年で82歳になる。まだまだ元気で創作活動を続けているという。90年頃、彼はセイコー電子工業(現セイコーインスツル)という日本企業のテレビコマーシャルに出演している(セイコー電子工業はかつて第二精工舎と呼ばれ、亀戸に大きな工場を持っていたと記憶している)。オーストラリアに撮影に行ったスタッフの話を聞いたことがある。もともとケン・ドーンは世界的に著名な広告会社のアートディレクターだったこともあり、制作者の意図やねらいをすぐに理解してくれて、撮影はなごやかな雰囲気に包まれ、いたって順調だったという。
太宰はこの短編集を防空壕のなかで書いたという。すぐれた語り部としての太宰にうってつけの仕事だったに違いない。
ケン・ドーンと太宰治。ほぼ接点はないが、ここまで書いてしまったので、このままアップするとしよう。

2022年8月3日水曜日

延江浩『松本隆 言葉の教室』

まだ学生だった1981年にはディンギーなどという言葉は知らなかった。
大瀧詠一が歌ってヒットした「君は天然色」という楽曲を聴いていると、「渚を滑るディンギーで」という一節が登場する。渚を滑るディンギーとは何ぞやと思ったものである。ほどなくして当時のナンバーワンアイドル歌手である松田聖子が新曲「白いパラソル」で「風を切るディンギーでさらってもいいのよ」と歌い出した。ディンギーとは何なのか。その頃は特段その意味を知ることが重要とも思えなかったのでほったらかしにしておいた。渚を滑って、風を切るディンギーの何たるかを知らないからと言って大瀧詠一や松田聖子の歌を聴くうえで差し障りはなかったのである。
この2曲。作詞はともに松本隆。
以前『阿久悠と松本隆』という本を読んだ。歌謡曲(流行歌、JPOPなどと呼び方はさまざまであるが)の代表的なつくり手に光を当てながら、ヒット曲の系譜が語られる。時代の渇きを歌にしてきた阿久と時代に寄り添うことのなかった松本隆が対照的に描かれている。
作品のなかでディンギーを軽快に操る松本隆は東京青山生まれ。東京に生まれ育ったものとしては(そうイメージしてしまうのも偏見かもしれないが)、青山生まれで青南小学校から慶應中等部に進んだと聞けば、どんな環境で育ったかたいてい想像がつく。裕福に育ったのだなと思う。裕福なんて言葉を使うと貧乏人のやっかみのように聞こえていやなのだが、松本は物質的に恵まれた生活をしていただけでなく、後に作詞家として大成するだけの素養を少年時代の読書によって育み、バンド活動においても細野晴臣、大瀧詠一ら才能豊かなメンバーと出会うだけのすぐれた資質を育んできたように思える。松本隆のよさのひとつは、何かに没頭できること、没頭できることを見い出す力があったことなのではないか。
あれから何年か経って、ようやくディンギーが小型のヨットと知った。