2020年6月21日日曜日

野呂邦暢『鳥たちの河口』

ラズベリーパイ(Raspberry Pi)というシングルボードコンピュータがある。
3年ほど前、秋葉原をうろうろした際、面白半分で購入した。
マイクロSDカードにOS(LinuxベースのRaspbian)をコピーして起ち上げるとインターネットに接続し、ブラウザ経由でメールもSNSも利用できる。追加のモジュールでデジタルカメラになったり、遠隔操作できるロボットのキットもある。
ずっと眠らせているのもいかがなものかと思い、在宅ワークの合間におそらくラズパイの使い途としてもっともポピュラーであると思われる音楽サーバーをつくってみる。VolumioというOSをインストールして、設定や操作は同じネットワークでつながっているPCやスマートフォンで行う。音楽は、CDからデータ化して(リッピングという)HDDなどの記憶メディアに保存する。デジタルの音源をアナログに変換する拡張ボードがあり、それを装着することでふつうのスピーカーで再生できる。ちょっとしたステレオになる。
昨年読んだ岡崎武の『上京する文學』で野呂邦暢を知る。芥川賞作家である。『一滴の夏』に続いて読んでみる。
舞台は長崎諫早である。野呂は「言葉の風景画家」とも称されているようであるが、目の前の情景を文章でみごとに浮かび上がらせる。まねのできない独自の世界を生み出す稀有な作家だ。
諫早湾の干拓事業やたびたび襲った周辺地域の洪水のことはくわしく知らない。長いこと水と生きてきた町がそこにあった。見知らぬ町を訪れた気持ちになる。
いつか諫早の河口の景色を見たとき、ああ、これが野呂邦暢の描いた風景だと思い出す日もあるだろう。
せっかくなので2TBの外付けHDDを買って、家にあるCDのほとんどをデータにした。100枚に満たない数でもそれなりに時間はかかったが、HDDの容量はほんのわずかである。現時点で1800曲。すべて聴くにも膨大な量になった。

2020年6月20日土曜日

獅子文六『バナナ』

主人公が家族で食事に出かける。神田三崎町の天ぷら屋だ。
「水道橋からそう遠くない裏町へ、車が曲がって行ったが、およそ美食に縁のない界隈に、戦後売り出した、テンプラ屋があった」
どこだろう。つい検索してみたくなる。
獅子文六の小説は彼が生まれた横浜が舞台となることがある。今回は神戸が登場する。
神戸には何度か足を運んだ。いずれも慌ただしい旅程で印象らしい印象は残っていない。新幹線で行って、プレゼンテーションして、中華街で定食を食べて帰ってきたこともあった。作者にとってもさほどなじみのある町とも思えないが、横浜生まれの獅子文六にとって親近感がわいたのではなかろうか。あるいは同じ国際貿易都市というカテゴリーで見てしまう先入観がそう思わせるのか。
国際結婚も獅子文六の作品にときどき見られる。『娘と私』は自伝的小説だから当然として、『箱根山』の乙夫も混血児だったし、『やっさもっさ』のシモンとバズーカお時。まだ読んでいないが『アンデルさんの記』のセシール・アンデルセンも英日のハーフだという。『評伝獅子文六 二つの昭和』には獅子文六と彫刻家イサムノグチのエピソードが書かれていて興味深い。
この本でちくま文庫から刊行されている獅子文六の作品はひととおり読み終えた。ここまで読んでくると作者の仕掛け方が少しわかってくる。わかってきたところで次に読む本がなくなる。よくあることだ。
ところで東南アジアではバナナの天ぷらが食されるという。食べたことはないし、あまり食べたいとも思わない。バナナ輸入を扱ったこの小説のなかで天ぷらがときおり登場する。バナナについて下調べをしているうちに作者はその存在を知ったのではあるまいか。そのせいで執筆中やたらと天ぷらを食べたくなったのではないか。余計な勘繰りをしてみる。
「今晩は、神田のテンプラ屋の天丼でいいよ。…」
ラストの主人公の台詞である。三崎町の天ぷら屋だろうか。やはり気になる。

2020年6月13日土曜日

橋口幸生『言葉ダイエット』

人のことは言えないが、まわりくどい話し方をする人がいる。
つまり、こういうことですよね、と簡単に話せばいいものをつまりああだのこうだの物理的には不可能だけれど個人的にはきらいではないなどとよくわからないことを平気で延々と話す人がいる。人のことは言えないが。
以前同じCM制作会社に話の長い(というかくどい)プロデューサーがいた。ロケ撮影時に誰よりもはやくトランシーバーのバッテリーがなくなることで知られていた。
文章においても同様で、言いたいことを書いているのか相手のご機嫌を伺っているのか、なにをねらいにしているのか、わからないことをくどくどと平気で書く人がいる。くどいようだが、人のことは言えない。
くどい文章は、嫌いじゃない。新しい新曲とか、何卒どうかよろしくお願い申し上げます、などと言われたり、書かれたりすると、ああこの人は一生懸命伝えようとしているんだなと思う。日々そうやって、できないながらも、不器用ながらも必死でことばを紡いでいるのだなと思う。けして悪いことではない。
ただ、広告文案やスピード感を必要とされるビジネス文書の世界ではあまり好まれないようだ。そこで本書にあるようにできるだけ無駄を省いて、端的に伝わる文章を心がける必要がある。タイトルは言葉ダイエットとあるが、厳密にいえば、文章であるとか論点を整理して、ダイエットせよという主旨であり、言葉そのものをダイエットすることでもない。文章ダイエットではありきたり過ぎて、手にしてもらえないと著者は思ったのかもしれない。的確かどうかは別として、言葉ダイエットの方が興味をそそる(広告制作者は、こうした表現をエッジが立った言い方とか、キャッチーな表現などと言う)。
経験豊富なコピーライターによってポイントがよく整理されており、勉強になる。あまりくどくどと感想を述べるとこの本のよさも伝わりにくくなると思われるので、この辺でやめておく。

2020年6月10日水曜日

村上春樹『猫を棄てる 父親について語るとき』

横田滋さんが亡くなった。
北朝鮮の拉致被害者の象徴的な存在ともいえる横田めぐみさんの父親である。
誠に失礼なことを承知で書くが(そしてとても恥ずかしいことであるが)、僕はさほど拉致問題に対して深い関心を寄せていなかった。どうしてこんな事件が起こったのか、そんな北朝鮮の事情も、当時の時代背景も詳しく知ろうとも思わなかった。あまりにも一方的な国家的犯罪であり、情状酌量の余地はない。どのような思考回路と論理でもってしても、この拉致という犯罪を正当化するものはないだろう。
どちらかといえば僕は、生き別れた父と娘というイメージに深い悲しみと憤りをおぼえる。自分の娘が何者かによって拉致され、突然姿を消して40何年にわたって会うことができないというその状況に気が狂いそうになる。 つい自分ごと化してしまって、はなはだ感情論的な話にしてしまう。北朝鮮はそういう国家なのだとか、当時の共産主義国家は、などということはどうでもいい。
横田さんは何年にもわたって、まったく手がかりのない闇のなか、めぐみさんを捜しつづけた、寂しさや悲しさを乗り越えて。なによりも誰よりも強い父親だったのだ。
村上春樹がこれまで語ることのなかった父を語っている。雑誌に掲載された原稿がおそらく反響を呼んで出版にいたったものと思われる。著者の父と聞くと、南房総の千倉町で療養していた天吾の父親(NHKの集金人だった)を思い出す。『1Q84』のなかの挿話であり、現実の話ではない。
村上春樹は、自身が父として意識する部分がないので、息子と語られる父という関係はある意味、純化されている。語りべは無垢な少年のままである。そんな思いをもって、読みすすめた。
横田滋さんは、果たしてどんな父親像をめぐみさんの脳裏に刻んだだろうか。いつかめぐみさんがその思いを語る日が訪れることを切に願ってやまない。
強く、やさしく、立派な父親であったと彼女が語る日を。

2020年6月3日水曜日

橋口幸生『100万回シェアされるコピー』

緊急事態宣言が解除されたが、日々の報道では新たな感染者も増えている。で、相変わらず在宅勤務を続けている。特に対面で打ち合わせを必要とする作業もなく、iPadで絵を描いたり、PowerPointで絵コンテを組むなどほとんどの仕事がデスクワークだから支障はない。アイデアが浮かばないときは気晴らしに本を読んだり、音楽を聴いたりしている。傍から見たらさぼっているように見えるが、会社のデスクにいても同じような状況なら同じようなことをしている。
ずいぶん前からテレビコマーシャルの仕事よりもyoutubeで流す動画の仕事が増えている。どうしても15秒で表現しなければならないわけではないので、思いのほか自由に発想できる。もちろん制作予算もあってのことだから、何でもできるということでもない。予算にはまらないのでいいアイデアなんだけど、今回はナシだなあなどと言われるのが、やはりベテランと呼ばれるような歳になっているだけに避けたいところでもある。逆の見方をすれば、制作費のことまで気を遣ってたいしておもしろくもないアイデアばかり提案するつまらない大人になってしまったということだ。
テレビであれば、青汁だのコンドロイチンだの大きな声ではりさけべば、好意を持つかどうか、買うか買わないかは別にして一応広告の役割を果たすだろう。放映予算をつぎ込んでオンエアを増やせば、いい目立ち方かどうかは別にして印象にも残るだろう(どことは言わないけれど、よく見かける青汁のコマーシャルはもったいない。期待している購買層に有効な手法なのかもしれないが、あの“押し出し”の強さには辟易する)。
ウェブにだってなかば強制的に視聴させるやり方があるにはあるが、視たくない人に大量投下するというのは芸がない。そもそもウェブはそんなメディアではない。
やはり、だいじなのは“ことば”だと思う。いちばん安上がりで効果的である。そしていちばん難しい。