2019年1月30日水曜日

カート・ヴォネガット・ジュニア『スローターハウス5』

「あの日にかえりたい」という荒井由実の名曲がある。
「青春の うしろ姿を 人はみな 忘れてしまう あの頃の わたしに戻って あなたに 会いたい」という歌詞をおぼえておられる方も多いことと思う。青春のうしろ姿を忘れてしまうことはない。ただ不正確におぼえているだけだ。人間の記憶力というものはそんなものである。それに人は本当にあの頃に戻りたいと思うのだろうか。仮にこの歌の「わたし」があの日に戻れたとしても、結局泣きながら写真をちぎって、手のひらの上でもういちどつなげてみるだけなのではないか。もういちど同じ目に会うくらいなら、戻れたとしても戻らない方がいい。
とはいうものの長いことブログを続けていると書くこともなくなってくるので、昔話が多くなる。ついついあやふやな記憶をほじくりかえしては適当に再構築する。正確不正確はともかくとして、それはそれで楽しい。ちょっとした時間の旅でもあるのだ。
カート・ヴォネガット・ジュニアの『スローターハウス5』は、第二次世界大戦に従軍した検眼医ビリー・ピリグリムの時間旅行を描いた小説。ヴォネガットファンの多くがおすすめする名作のひとつである。1945年のドレスデン、架空の惑星トラルファマドール星、ニューヨーク、ニューシカゴ…。転々と時間を飛びまわる。
1945年2月、連合国軍によって行われたドレスデン無差別爆撃は東京大空襲を上まわる被害をもたらしたというが、戦後しばらくその状況は秘匿されていたという。当時捕虜としてドレスデン爆撃を経験したカート・ヴォネガットは貴重な証言者のひとりである。
この小説は「スティング」や「明日に向かって撃て」でおなじみのジョージ・ロイ・ヒルの手によって映画化もされている。まだ観ていないが、たぶん難解な映画になっているのではいだろうか。タイムスリップものはたいてい難しい。
今年は1980年代後半によく読んだカート・ヴォネガットを再読しようと思っている。

2019年1月28日月曜日

三浦しをん『まほろ駅前番外地』

はやいもので春の選抜高校野球大会の出場校が決まった。
予選なしの選抜という方法ではあるけれど、前年の秋に開催された全国10の地区大会での上位校が選ばれる。都道府県の代表を決める夏の大会とちがうところは優勝することが出場の条件ではないところ。地区の出場枠がひとつしかない北海道をのぞけば(今年は明治神宮大会優勝校の地区に与えられる神宮枠がひと枠が与えられる)、地区大会の決勝まで駒をすすめれば当確といえる。
選出にあたって議論されるのは、関東・東京、近畿、そして中国・四国。近畿は6枠なので4強はすんなり決まり、残り2校は準々決勝で敗退した4チームのなかから選ばれる。中国・四国もトータルで5枠なのでどちらかから3校が選ばれる。
毎年注目を集めるのが関東・東京(6枠)で関東4東京2のときもあれば、関東5東京1のときもある。関東大会8強の敗退校4校と東京準優勝校をはかりにかける。今回でいえば佐野日大、東海大甲府、前橋育英、横浜と東海大菅生。優勝した桐蔭に敗れた佐野日大と東海大菅生が最後の1枠を争うかと思っていたところ、なんと横浜が選ばれた。
関東大会の結果だけを見れば、「?」と思えるが、たしかに激戦の神奈川県予選で東海大相模、慶應義塾を降して、桐蔭に圧勝しているところも考慮すれば納得いく選考だったかもしれない。
甲子園での本大会では同地区同都道府県のチームがはやい段階で対戦しないよう組合せ抽選時に配慮されるという。それでいて明治神宮大会の決勝戦の再戦を初戦に組んだりもするのだが、桐蔭と横浜はぜひ一回戦で対戦して、どちらが神奈川の雄か決めてもらいたいものだ。
三浦しをんのまほろ駅前シリーズは映画やドラマになっているがまだ観たことがない。読み終わった直後は町田あたりを散策するのもおもしろかろうと思ったけれど、読後しばらくたって、すっかりそんなことも忘れてしまっている。
町田は案外遠いのだ。

2019年1月25日金曜日

カート・ヴォネガット『タイムクエイク』

海の見える駅というサイトがある。
東京近郊では鶴見線の海芝浦駅が海沿いの駅として知られている。京浜工業地帯にプラットホームがぽっかり浮かんでいるような駅である。東京都内にもゆりかもめ(東京臨海新交通臨海線)の青海駅と市場前駅が紹介されている。海というより運河の延長のように見える。少しさびしい。
現時点で紹介されているのは152駅。四方を海に囲まれたこの国でそれしかないのかとも思うがまだまだ発掘途上なのかもしれない。駅のホームからは見えないけれど内房線の館山駅などは駅舎から北条海岸を眺めることができる。夕陽の照りかえしが美しい。
東京駅から東海道本線で1時間半ほど、小田原駅の次の次が根府川駅。この駅は相模湾をのぞむ崖の上に駅舎があり、少し下にプラットホームがある。さらに崖下に国道が走っている。海の見える駅としてはほぼ完璧といえる立地にある。
根府川駅といえば大正12年に列車転落事故があった。関東大震災による土石流が駅舎もホームも機関車も客車も海中に沈めてしまったのである。丹那トンネルの大工事を追った吉村昭の『闇を裂く道』でこの事故を知った。駅舎内や駅を出て北側の県道沿いには慰霊の碑や五輪塔などが建っている。おだやかに見える目の前の海に沈んでいる機関車や客車に思いを馳せる。
カート・ヴォネガットの作品は『ガラパゴスの箱舟』以降の新作は読んでいなかったので、遅ればせながら久々の新作ということになる。
タイムクエイクとは時空連続体に発生した異常で人間も事物も10年前に逆戻りし、人々はもういちど過去をくり返すというもの。そして10年後、突如「自由意思」で行動できるようになる。そのときとてつもない混乱が起きる。
だいたいこんな話なのだが、ぼーっと生きてきた僕のような読者にはカート・ヴォネガットはハードルが高い。そのユーモアに追いついていけないのである。
まだまだ修行が足りないなと思う。

2019年1月24日木曜日

橋本治『ちゃんと話すための敬語の本』

古い西部劇を観た。
ジョン・スタージェス監督「OK牧場の決斗」とジョージ・スティーヴンス監督「シェーン」の2本。NHKBSで放送されたものを録画した。同世代以上の多くの人がいちどは観ている映画すら観ていないものが多い。前向きに解釈すれば、まだまだ未知の映画がたくさんあるということだ。
西部劇のいいところはアメリカらしさにあふれているところだろう。馬を下りて、店のカウンターに立ち、ショットグラスに注がれたウイスキーを一気にあおる。実にアメリカ的な光景である。ちょっとしたいざこざが起きる。だが、大事には至らない。チンピラが絡む程度である。本当の事件はここからはじまる。
なんといってもアメリカ的な存在はヒーローだ。悪と対峙するヒーローという図式がアメリカ映画の真骨頂である。近年ではコンピュータグラフィックスなど映像技術のめまぐるしい進化によってより高度で複雑なエンターテインメント映画が増える一方だが、悪いやつ(ら)をやっつける正義の味方という関係性が何にもましてわかりやすいアメリカ映画の方程式だ。
1950年代、60年代の西部劇にはヒーロー映画の原型がある。ドキドキハラハラしながらも、最後は敵をやっつけてすっきりする。これがアメリカ映画だ、と胸をなでおろす。
ちくまプリマー新書のターゲットは高校生あたりか。興味深いテーマが多く、内容的にも平易でわかりやすい。読みやすいから読んでいるだけではなく、会社の若い人たち、特にふだんあまり活字に触れる機会が少ない者たちにもすすめやすいからという理由でときどき読む。今さら敬語でもないだろうけれど、こういう本も読んでおかなければいけない。歳をとるというのはめんどくさいことなのだ。
この本は敬語の本というより、人間関係の本とでも言おうか。人との距離を縮めたいのか、維持したいのかでことばは変わる。「敬語って何なんだろう」を考えさせる本である。

2019年1月21日月曜日

三浦しをん『まほろ駅前多田便利軒』

大相撲を熱心に見ていたのは小学校の頃。北の富士と玉乃島が横綱になり(玉乃島は玉の海になった)、大鵬とあわせて横綱が3人になった。
大関は琴櫻、清國、大麒麟、前の山(時代考証はかなりいい加減だが、僕が大相撲ファンになったのはこんな時代だ)。新進気鋭の貴ノ花が大鵬を破り、引退に追いこんだ。今でも玉の海の急死と大鵬の引退は、僕の、私的大相撲史の二大ニュースである。
先にあげた4大関のうち、猛牛と異名をとった琴櫻だけが横綱に昇進した。後に佐渡ヶ嶽親方。秋田県出身の清國は見た目が端正な力士でいちばん贔屓にしていたのだが、優勝は一回。残念ながらその雄姿の記憶はない。前の山は(当時は知らなかったが)けがで泣かされた力士で大関としては短命だった。豪快な突っ張りの印象が残っている。いちばん強いと思っていた大麒麟は、大一番に弱く、結局一度も優勝していない。
横綱稀勢の里の引退はなんとも残念である。
出処進退は自ら決めるというのが第一人者のあるべき姿だが、稀勢の里は、果たしてそうだったか。身を引いたというより、引退を余儀なくされた感が強い。横綱審議委員会の激励勧告、マスコミの論調、日本相撲協会の立場。横綱になるまで15年もかかったのだ。大怪我を克服して復活するには10年かかるだろう。そう思っていた。手術するなり、静養するなり1年でも2年でも休場させてよかったんじゃないか。中途半端な回復具合で中途半端な土俵をつとめることを誰が望んでいたのだろう。稀勢の里だって納得いく形で相撲をとっていたわけではないだろう。
引退会見で「一片の悔いもない」と語ったそうだが、そんなはずはない。けがが治らない状態で相撲をとらされ、横綱としての責任をとらされ、悔いが残らない方がどうかしている。
三浦しをんのこの本をずいぶん前に読んだ。
おもしろかったが、その内容はもう忘れてしまった。というわけで今回は相撲の話にしてみた。

2019年1月17日木曜日

カート・ヴォネガット・ジュニア『猫のゆりかご』

今年の正月休みは長かったせいもあり、録りためた映画を観たりしてのんびり過ごした。暮れにiPadを購入して、絵の練習などもずいぶんした。何を言わんとしているかというと本を読まなかった正月の言い訳をしているのである。
昨年の忘年会でヴォネガットファンのUさんに会う。Uさんは原書でSFを読む筋金入りの読書家である。年明けはカート・ヴォネガットを読もうと決めた。
僕が主に早川書房の翻訳ものを読むようになったのは、1980年代のなかばくらい。書店で見かけた和田誠の装丁が気に入って読みはじめた。SF好きでも現代アメリカ文学にこれといって深い興味があるわけでもなかった。和田誠の装丁や表紙のイラストレーションはいつも僕に「この本おもしろいから」と呼びかけていた。
『猫のゆりかご』はおそらく再読になると思う。早川書房から出版されている小説は片っ端から読んでいた。1986年、当時の最新作だった『ガラパゴスの箱舟』の翻訳が出るやいちはやく読み、それを最後にヴォネガットは読んでいない。
と、思ったら1993年10月に『ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを』を読んでいる。7年ぶりに読んだと当時のメモが残っている。和田誠の装丁やイラストレーション、レタリングが好きで読むようになったことも記されている。
やれやれ。
猫のゆりかご=CAT'S CRADLEとはあやとりのこと。読んでいるとわかるのだが、和田誠はちゃんと表紙に描いている。著者のセンスが絵になっている。おそるべしである。
日本に原子爆弾が投下された日がこの物語の端緒。はるかかなた、遠くにあるSFの世界ではなく、するっと入りこめる。
1993年の『スラップスティック』以後、著者名であるカート・ヴォネガット・ジュニアの名からジュニアが消える。このことはつい最近ウィキペディアで知った。

あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願い申し上げます。