2011年6月28日火曜日

井上ひさし『日本語教室』


味の素は非常によくできた調味料だと思う。
子どもの頃夏休みは南房総の町で過ごした。両親ともに実家が白浜、千倉、その辺りだった。
父方の祖父(といっても母方の祖父は母が中学生の頃他界しているので写真でしか見たことがない)は味の素が好きだった。漬物はもちろんのこと、味噌汁にも、煮物にも、焼き魚にも味の素をふって食べていた。下手をすれば西瓜にもかけただろう。ただ、僕と同様、西瓜を口にしなかった人なのでその場を目撃することはなかった。
築地市場場内の定食屋などでカウンターに味の素が置いてあるとうれしくなる。とんかつ屋のキャベツやごはんと同様、お好きなだけどうぞというオーラを発している。ついふり過ぎてしまう。海老一染之介が土瓶をまわし過ぎるように。
わが家にも味の素があるのだが、家族は皆味の素をふる習慣がない。おそらく買ったものではなく、誰かに(たとえばぼくの実家の母に)もらったものだろう。うちでは味の素を買ったことはない。ひと袋があまり減ることなく残っているのは僕ひとりが細々と使っているせいだ。具体的には休日の朝などに目玉焼きを焼いて、ご飯にのせ、混ぜて食べる。このとき醤油と味の素は必須調味料である。納豆に混ぜるときもある。それ以外にはまず使わない。わが家では味の素は貴重なのである。
味の素の話を引っ張りすぎた。
井上ひさしの『日本語教室』は氏の上智大学で行われた講演をまとめたもの。井上ひさしは上智のOBだったんだ。

2011年6月26日日曜日

レイモンド・チャンドラー『さよなら、愛しい人』


今日は午前中卓球練習して、善福寺川沿いを少し散策して帰った。
善福寺川は善福寺公園の池から流れ出て、神田川と合流し、さらに落合のあたりで妙正寺川と合流する。そして早稲田、飯田橋、御茶ノ水を経て、両国で隅田川につながる。妙正寺川にくらべると水量が豊富で、水も澄んだ印象であるが、それは水源となる善福寺池と妙正寺池とのスケールの違いか。また大きく蛇行して流れる杉並区の西田から和田にかけての緑地は歩いていてすがすがしい。
午後はレイモンド・チャンドラーの『さよなら、愛しい人』、村上春樹訳を一気に読み終えた。
村上春樹によれば、というかチャンドラーファンの大方の人がそうであるらしいが、『ロング・グッドバイ』、『大いなる眠り』とこの本がチャンドラーの代表作なのだそうだ。刊行されたのは1940年で『ロング・グッドバイ』をさかのぼること13年。読み慣れた読者にはフィリップ・マーロウがまだ若いということらしいが、まだ2冊しか読んでいないのでよくわからない。それにしてもマーロウというのはかっこいいやつだ。
善福寺川にかかるいくつかの橋のなかに相生橋という名を見つけた。相生橋というと佃島と越中島を結ぶ橋を思い出してしまうが、どうやら橋の名前としてはポピュラーな部類で日本全国津々浦々にあるようだ。
この小さな相生橋から笹舟を流すとやがて下町にかかる相生橋まで流れ着くのかと思うとちょっと不思議な感じがした。もちろん新川の辺りで勝鬨橋のほうに流されなければ、の話であるが。

2011年6月22日水曜日

博報堂ブランドデザイン『あなたイズム』


横浜にある放送ライブラリーに行ってきた。
関内駅からほど近い横浜情報文化センター内にある。横浜スタジアムの海側という位置か。
ここで来月18日まで「CM半世紀展--ACCCMフェスティバルの歩みと3人のクリエイター」が開催されている。これまでのACCCMフェスティバル入賞作品や杉山登志、三木鶏郎、堀井博次のCM作品を上映している。それを見に行ったわけだ。
放送ライブラリーにはこの催し以外にも常設展示として古い資生堂や桃屋のCMを見ることができる。とりわけ桃屋のライブラリーは圧巻である。本数の多いこともさることながら、特にアニメーション作品が懐かしく、色褪せてはいるけれどおもしろい。「男は度胸、女は愛嬌、おかずは桃屋の花らっきょう」など名コピーの数々が記憶の底なし沼を抉る。
関内から野毛小路まで歩いて萬里へ。サンマーメンと餃子で遅い昼食をとる。横浜に来たんだなとあらためて実感する。
博報堂ブランドデザインによるこの本は先の『「応援したくなる企業」の時代』とベースになる考え方は同じで、こちらのほうは組織の中でどう自分らしさを持ち続けるかという新種の自己啓発的内容にやや傾けている。もちろんイズムとは「個人の持ち味」と「組織のらしさ」から導かれるとされているから、組織論でもある。人材の開発・育成にあたる人にはもちろん、経営者的立場にある人まで幅広く、すぐれたヒントを与えてくれそうだ。
今日は梅雨の晴れ間で暑かった。萬里でビールを飲みたかったなあ。

2011年6月19日日曜日

博報堂ブランドデザイン『「応援したくなる企業」の時代』


博報堂で長いことクリエイティブに携わってきた先輩が先週亡くなられた。
先輩といっても歳は14も離れた高校のバレー部の先輩で、バレーボールを直接指導していただいたこともなければ、コピーライティングを教わったわけでもない。OB会で何度かご挨拶差し上げて、その後博報堂でお会いすると「どう?がんばってるかい」とやさしく声を掛けていただけるようになった。何年か前にはカンヌ国際広告祭でお会いしたこともあった。
ぼくのような若輩者にとって(さしてもう若くはないのだが)そんな些細なことがうれしかったのだ。
それにしても博報堂の人たちって上手いなと思う。
かつて高度成長期の終焉を大衆の時代から分衆の時代へという示唆を与えたが、分衆というネーミングは言い得て妙だった。
ここのところの企業コミュニケーションのあり方を見てみると商品やサービスの差別化をはかってもモノが売れない時代になっている。むしろそんな微差を広告表現で補うよりか、企業の理念なり哲学なりに賛同してもらってファンになってもらった方がよほどいい。
そういうことをこの本は上手いことまとめている。企業側からの発想でもなく、それを単純に裏返した消費者視点の発想でもなく、企業と生活者が共創していく時代だ、というわけだ。まさに情報伝達的に飽和した社会、すなわちテレビコマーシャルの全盛期から、Webを経てソーシャルメディアの全盛期を迎えるにあたって現状考えられる最適なコミュニケーションの考え方だろう。
お通夜は梅雨時らしい小雨模様の日だった。

2011年6月14日火曜日

川辺謙一『電車のしくみ』


豊島洋一郎にかれこれ10年以上会っていない。
豊島というのは高校の同級生でどこかの大学を出てから、筑摩書房に就職した。最後に会ったのは四ツ谷の焼鳥屋だった。豊島は川口に住んでいた。
先日テレビで浦山桐郎監督の「キューポラのある街」を観た。高校生の頃、豊島の家に泊まりに行ったことがあるが、キューポラなるものはもうなかった。
たまたまちくま新書を読んでいたので豊島のことを思い出した。
以前中公新書で『電車の運転』という本を読んだ。長年列車運転にたずさわった著者の質朴な語り口が印象的だった。今回読んだこの本は電車はどうして走るのか、どうやって止まるのかというきわめてプリミティブなテーマを懇切丁寧に説き明かしてくれている。著者は大学院で工学(化学系であるらしい)を専攻した。畑違いの分野であるが、あるいはだからこそかも知れないが、噛み砕いて噛み砕いて話をすすめていく。実物の電車の構造を解くにあたり、鉄道模型からはじめたり、モーターの話をするのに電磁誘導から説明してくれる。図解の図まで自ら描いたという。
たとえば「電気機関車は、動力を持たない客車や貨車を牽引するのが目的であるため、それ自身は人(乗客)や物を運ばない。これが電車と大きく異なる点だ」と電車と電気機関車の違いのためにひと段落割く。このくらいのことは誰にだってわかるだろうようなことをちゃんと書き添えるタイプの著者なのだ。これは読んでいて多少まだるっこしいとか、冗長だとか思うかもしれないが、こうした“モノを書く姿勢”は正しい。
スイッチング制御の話は個人的には勉強になった。
で、豊島、今なにしてる?

2011年6月11日土曜日

坂崎重盛『東京文芸散歩』


おっちゃんの話。つづき。
6年になって、修学旅行の班分けが学級会の議題になった。なんとなく仲のいい者どうしが集まって自然といくつかのグループができあがっていた。たしか僕はそのうちのひとつのリーダー的な役割を負わされていた。
自然発生的に班ができたとはいえ、あぶれて孤立する者もいる。おっちゃんもそのひとりになってしまった。その日、僕は気まずい雰囲気の学級会で担任のN先生に呼ばれ、なぜおっちゃんを仲間に入れないのかと訊ねられた。今となってははっきり憶えていないけれど、他のメンバーのうちの何人かがおっちゃんといっしょに行動すると足手まといになると言っていたからだ、というようなことを答えたと思う。
その瞬間だった。N先生の黒く、骨ばった平手が飛んできたのは。
痛みは感じなかった。ただただ恥ずかしくて、情けなくて、涙があふれた。
その後同じ中学校に通うことになったが、同じクラスになることはなく、次第におっちゃんとの距離はひろがってしまった。さすがに中学生ともなると、できることはできるだけ自分でするおっちゃんもなかなか付いていけなくなってきたこともある。おっちゃんの中学時代は孤独とたたかい続ける毎日だったに違いない。
卒業後、おっちゃんは職業訓練を行う施設のような、学校のようなところに進んだと記憶している。そしてときどき忘れかけたころ、僕のうちにふらっと遊びに来てくれた。そのとき何を話したのか、今ではまったく憶えていない。
おっちゃんと修学旅行でいっしょに行動したことはたぶん、僕のなかでかけがいのない思い出になっているはずだ。それまで知らなかったおっちゃんの、全身を切り刻まれたような手術の痕をお風呂で見たこともさることながら、誇り高く生きることをN先生に教わったような気がしたからだ。
おっちゃんは今、どこでなにをしているのだろう。
今回読んだのも東京町歩き本。文学の香り高い一冊であった。

2011年6月7日火曜日

武藤康史編『林芙美子随筆集』


おっちゃんの話をしよう。
おっちゃんはたしか、小学校3年のとき、自転車で坂道を下り、車にはねられ、大けがをした。実家からわずか300メートルほどの場所で事故は起こった。当時としては大事件だったが、クラスも違い、面識もなかったのであまり印象には残っていなかった。事故以前のおっちゃんは勉強のよくできる秀才だったと後になって聞いた。
長い療養生活の後学校に戻ってきて、5~6年時、おっちゃんと僕は同じクラスになった。あいうえお順の出席番号が近かったせいもある。なんとなく声をかけたり、かけられたりするようになった。
おっちゃんは手足が若干不自由な上に、言葉も流暢にしゃべることができなかった。体育の授業や休み時間の遊びも原則「みそっかす」状態だった。それでも孤立することなく、なんとなく同級生として溶け込んでいた。できるかぎりのことは自分でするという姿勢を持っていた。
どういうわけか、僕はおっちゃんに好かれていたと思う。よくおっちゃんのうちに(それは当時よくあった手狭なアパートだったと記憶している)遊びに行った。おっちゃんのお母さんは働いていたと思うが、たまにうちにいて、いっしょに遊んでくれてありがとうみたいなことをなんどもなんども言っていたと思う。
わが子が大事故を起こし、ようやく一命をとりとめ、こうして普通に(とはいってもおっちゃんもご家族もかなり不自由な毎日だったと思うけれど)小学校に通い、友だちまで遊びに来てくれている。そんな母親のよろこびなど当時の僕は知る由もない。ただただ出されたジュースとケーキをむしゃむしゃほおばっていた。
今こうして、まがりなりにも人の親となってはじめて、彼女の気持ちが身にしみてわかる。
林芙美子は難しい言葉を駆使して文章を編むタイプの作家ではない。平易な、わかりやすい小説や随筆を書く。それでいて情熱的なところもあって、そのあたりが大衆受けするのだろうと思う。

2011年6月5日日曜日

野口冨士男編『荷風随筆集』


東京六大学野球春季リーグ戦は慶應の完全優勝に終わった。
以前も書いたかもしれないが、昨季江藤監督が就任して、慶應は精神的に強くなったような気がする。続くのは野村、森田、難波ら投手陣が充実している明治かと思われたが、エース小室と打線の好調に支えられた立教が優勝争いに絡んできた。小室は6勝をあげ、ベストナイン。昨年の3本柱が抜けた早稲田はあえなく5位。それでも新人の有原(広陵)が1勝をあげ、今後にかすかな期待を残した。それにしても慶應は投打に充実している。打線は集中打が素晴らしいし、竹内大、福谷、そして白村、田村ら投手陣は昨年までの斎藤、大石、福井を擁した早稲田を上回るのではないか。福谷の155キロのストレートは大石を凌駕しているといっても言い過ぎではないだろう。
毎日新聞にはいい散歩記事が多い。
かつては赤瀬川原平の“散歩の言い訳”、今では土曜夕刊川本三郎の“東京すみずみ歩き”、そして日曜版大竹昭子の“日和下駄とスニーカー”だ。そういえば「日和下駄」は読みたい読みたいと思っていながら、ついつい先送りしてきた。この連載スタートを機にようやく読んでみる。
岩波文庫の上下二巻の随筆集は下町散歩者、江戸愛好家としての荷風以外にも多面的に彼の思想をたどることができる。まだ読んでいないが、『断腸亭日乗』なども含めて、荷風の日常、普段着の荷風を知るには貴重な史料である。
荷風といえば過去偏重と読み取れるふしが多々見られるが、単に昔を美化するだけでもあるまい。いいものはいいと言っているわけであって、その辺を誤読するとせっかくの面白みが失せていくような気がしてならない。
そういえば永井荷風は慶應義塾の教授だったっけ。