2011年6月7日火曜日

武藤康史編『林芙美子随筆集』


おっちゃんの話をしよう。
おっちゃんはたしか、小学校3年のとき、自転車で坂道を下り、車にはねられ、大けがをした。実家からわずか300メートルほどの場所で事故は起こった。当時としては大事件だったが、クラスも違い、面識もなかったのであまり印象には残っていなかった。事故以前のおっちゃんは勉強のよくできる秀才だったと後になって聞いた。
長い療養生活の後学校に戻ってきて、5~6年時、おっちゃんと僕は同じクラスになった。あいうえお順の出席番号が近かったせいもある。なんとなく声をかけたり、かけられたりするようになった。
おっちゃんは手足が若干不自由な上に、言葉も流暢にしゃべることができなかった。体育の授業や休み時間の遊びも原則「みそっかす」状態だった。それでも孤立することなく、なんとなく同級生として溶け込んでいた。できるかぎりのことは自分でするという姿勢を持っていた。
どういうわけか、僕はおっちゃんに好かれていたと思う。よくおっちゃんのうちに(それは当時よくあった手狭なアパートだったと記憶している)遊びに行った。おっちゃんのお母さんは働いていたと思うが、たまにうちにいて、いっしょに遊んでくれてありがとうみたいなことをなんどもなんども言っていたと思う。
わが子が大事故を起こし、ようやく一命をとりとめ、こうして普通に(とはいってもおっちゃんもご家族もかなり不自由な毎日だったと思うけれど)小学校に通い、友だちまで遊びに来てくれている。そんな母親のよろこびなど当時の僕は知る由もない。ただただ出されたジュースとケーキをむしゃむしゃほおばっていた。
今こうして、まがりなりにも人の親となってはじめて、彼女の気持ちが身にしみてわかる。
林芙美子は難しい言葉を駆使して文章を編むタイプの作家ではない。平易な、わかりやすい小説や随筆を書く。それでいて情熱的なところもあって、そのあたりが大衆受けするのだろうと思う。

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