2010年11月28日日曜日

向田邦子『父の詫び状』

週末卓球を練習しに行くとき、かつての向田家の近くを通る。
向田邦子の家は荻窪駅から徒歩20分くらいの杉並区本天沼にあった。当時向田邦子は港区のマンション住まいだったから住んでいたのは向田家の人々ということになる。
荻窪とか阿佐ヶ谷あたりは作家が多く住んでいた地域で井伏鱒二、太宰治、青柳瑞穂などなど枚挙に暇なしってところだ。井伏鱒二の家はいまでも文学者然とした風貌で残っている。
先日杉並区立郷土資料館分室で『田河水泡の杉並時代』という展示を見た。
田河水泡は本名高見澤仲太郎というらしい。ペンネームの田河水泡はたがわすいほうと読むんじゃなくて、“たがわみずあわ”と読ませたかったそうだ。タガワミズアワ、転じてタカミザワ。創作する人はおもしろいことを考えるものだ。義兄が小林秀雄だったというのも知らなかった。世の中は知らなかったことに満ち満ちている。
向田家の人々を描いた『父の詫び状』は関川夏央にインスパイアされた一冊。昭和の家族像を綴った秀逸のエッセーである。語り手の向田邦子もさることながら、父母、きょうだいが幾度となく登場するなかでひときわ輝いているキャラクターは癇性の強さは父親譲りだと向田邦子も語っている父だろう。まさに寺内貫太郎のような人だ。
ぼくの父より年下で母より年上の向田邦子であるが、「おみおつけ」をはじめとしてボキャブラリーが昭和なのもうれしかった。
そしていつしかぼくは向田邦子が亡くなった歳を越えていた。





2010年11月24日水曜日

孫正義vs.佐々木俊尚『決闘ネット「光の道」革命』

音楽プロデューサーM君夫妻と卓球をした。
M君は中学高校と卓球部で鍛えたつわものであり、その奥さんもPTAなどの大会で華々しい成績をおさめている。先日飲みながら、久しぶりに打ちますかってことになって、昨日午後、荻窪のクニヒロ卓球で練習とゲームを行った。
ぼくのラケットは中国式ペンホルダーグリップで、ふだん練習している仲間たちもペンホルダーが多い。シェークハンドグリップの人もその中にいるにはいるが、まだまだ発展途上の人ばかりである。そういった点からするとシェークの上級者と練習できたのは大きな収穫だ。
ペンホルダーは一般にバックハンドが難しい。ラケットのフォア面を右利きの人ならば自分の左側にまわして打たなければならないからだ。その点シェークハンドはバック面にもラバーが貼ってあり、ラケットを裏返すだけでバック側の打球に対応できる。日頃、ペン相手に練習をしていると強打しにくい難しいボールは相手のバック側に返すことが多い。相手もつないでくることが多いのでチャンスボールの生まれる可能性が高くなる。ところが相手がシェークだとよほどコントロールよく返球しないと、振り抜きやすいバックハンドから痛打をくらう。ドライブに精度が求められるのだ。
孫正義の「光の道」構想がマスコミを賑わせている。天下国家日本の未来を憂い、熱いビジョンを語れる数少ない実業家だ。
この本はユーストリームなどで配信された5時間にわたる激論をまとめたもので読みごたえじゅうぶん。対決図式で興味を煽っているが、実は両者がそれぞれの主張を補完し合っていて、書物として言いたいことが明快だ。
ところでゲームは週5回の練習量をほこるM君夫人には完敗。今まで手も足も出なかったM君とは互角にわたりあえるようになった。日頃の練習の成果と認識し、今後も精進していきたい。

2010年11月21日日曜日

関川夏央『家族の昭和』

明治神宮野球大会が終わった。
野球が終わると秋も終わりだ。いよいよウィンタースポーツの季節がはじまる(とはいっても中国広州ではアジア競技大会で連日盛り上がっているが)。
明治神宮大会は高校の新チームによる最初の全国大会である。今年は東京の日大三が投打のかみ合った試合で優勝した。この大会に出場する10チームと地区予選で準優勝した10チームは間違いなく春の選抜に出場する。さらにこの大会の優勝校の地区からは“神宮枠”というもうひと枠が与えられる。都大会準決勝で日大三に大敗した都立昭和にも選抜のチャンスが生まれたということだ。
大学の部は斎藤、大石、福井のドラフト1位指名の3投手を擁する早稲田が初優勝。これが初というのが意外な感じがした。決勝の東海大戦は中盤逆転し、最少得点差を福井-大石-斎藤のリーグ戦では見られない豪華リレーで守りきった。それにしても打てない早稲田。来季からどう戦うのだろうか。土生、市丸、松本ら3年生と杉山、地引ら2年生は残るとして経験のない投手陣に不安が残る。春の主役は伊藤、竹内大らが残る慶應、野村、森田、難波ら投手王国となる明治、三嶋が加賀美の抜けた穴を埋めるであろう法政ではあるまいか。
関川夏央の読み解く昭和が好きだ。
この本では文芸作品(小説、随筆だけでなく映画、ドラマも含めて)をベースに昭和的家族の成り立ちから崩壊までをドラマティックに紡いでいる。戦後のいわゆる昭和的家族像はすで戦前、戦中に成立していた。ただ戦後という時代が戦前、戦中の否定から成り立っていたため見過ごされてきたというのだ。筆者以上の昭和の語り部はそう多くはいないだろう。

2010年11月18日木曜日

村松友視『時代屋の女房』

このあいだ免許の更新に都庁まで出向いたのだが、昔は鮫洲か府中でしか更新ができなかった時代に比べるとなんと便利になったものか。便利の裏側にはなにかが犠牲になっている。品川の大井町に生まれ育ったぼくにとっては鮫洲という街との接点を失ったのがなんとしても大きい。
鮫洲から南へ行くと立会川という京急の駅があり、大井競馬場の最寄り駅になっている。さらに南下すると鈴ヶ森の刑場跡がある。小学校の区内見学では品川火力発電所から鈴ヶ森というのは定番ルートだった。もっと南に行くと第一京浜国道が産業道路と分岐する。その扇の要には大森警察署があり、『レディジョーカー』でおなじみだ。「時代屋の女房」とともに収められている「泪橋」はこの立会川界隈が舞台となっている。
立会川から京浜東北線のガードをくぐり、池上通りを右折すると三叉(みつまた)商店街という、大井町では東急大井町線沿いに連なる権現町と並ぶ商店街があった。最近はとんと歩いていないので今はどうなっているのか。昔の町名でいうと倉田町だったと思う。
この小説に出てくるクリーニング屋の今井さんは横須賀線の踏切近くに店をかまえていたようだが、時代屋からはかなりの距離がある。横須賀線は以前貨物線で品鶴(ひんかく)線と呼ばれ、ぼくの通った小学校のどの教室からも眺めることができた。EH10という重量級の電気機関車が大量の貨物を引いて走っていた。踏切をわたると伊藤博文の公墓がある。さすがこれは昔のままだろう。
「時代屋の女房」も「泪橋」もアウトローになりきれなかった半端な男たちが主人公である。そういった意味ではリアルで哀しい物語である。
時代屋のあった場所は今は駐車場になっているらしい。

2010年11月14日日曜日

フョードル・ドストエフスキー『地下室の手記』

フォアハンドが苦手だった。
と書いてみると、バックハンドが得意なのか、これまで苦手だったフォアハンドを克服して今では得意なのかと誤解をまねく表現ではあるが、要は卓球の基本技術であるフォア打ちが弱かった、あるいは多少の改善のきざしはあるが、弱い。と、まあそういう意味である。卓球をなさらない方にはフォアが弱いといってもイメージしにくいかも知れない。野球でいうとキャッチボールが弱いとか、サッカーでいえばパスが下手、みたいなことかも知れない。
これは自覚症状もあり、また多くの人から指摘されていた課題であった。とはいえ、いちばんベースとなる技術だけにどう克服していけばいいのかが難しい課題でもあった。
夏の終わりから秋にかけて(といっても今年はしばらくずっと暑かったのでどこに線をひけばいいのかわかりにくいが)中級から上級クラスの方とスマッシュ練習に取り組んでみた。スマッシュ、ロビング、スマッシュ、ロビングとつながる限り相手コートに強いボールを叩き込むのだ。5分もやれば、汗びっしょり、大腿筋は痛くなるし、三角筋やら広背筋やらくわしいことは知らないがとにかく筋肉が痛くなる。そんな練習をなんどか繰り返しているうちにいつしか強い打球が打てるようになっていた。もちろんまだまだ不安定ではあるに違いないが、今までより格段といいボールが出るようになった。
また野球のティーバッティングのように目の前でボールをワンバウンドさせそれを強打する練習もやってみた。できるだけ強く、スイングは小さく速く、打球の方向を安定させるようにターゲット(ペットボトルなど)を置いて。そうこうするうちにフォアが強くなった。
案外頭で悩んでいるより、やってみたほうがはやい、ということがスポーツには往々にしてあるものだ。
さて、この本は自意識過剰の青年の独白である。哲学的というか病的というか、特に第一部は抽象的で難解。主人公の“俺”はどことなくサリンジャーの『ライ麦』の主人公みたいだと思った。ホールデン・コールフィールド、だっけ。
この作品には後に続く大作のプロトタイプ的なエピソードや登場人物が見てとれるという。それはなんとなくわかるような気がする。

2010年11月9日火曜日

須田和博『使ってもらえる広告』

先週、横浜の野毛で飲んだ。
昭和さがしの旅をテーマに東京下町をはじめ、散策しては酒を飲んでいるクリエーティブディレクターKさんとツイッター上で意気投合。横浜なら野毛だろうと話がまとまり、野毛ツアーが実施されたというわけだ。
一軒めは野毛といったらこの店といっていいであろう武蔵屋。運よく席を確保でき、お酒3杯限定でありながら、酢漬けのたまねぎ、おから、たら豆腐、納豆を堪能。酒飲みに生まれてよかったと思えるひとときだった。
二軒めは中華三陽。ここはチンチン麺と独自のキャッチフレーズ戦略で知られた店。実は萬里の餃子にも心引かれたところはあったのだが、Kさんがまだチャレンジしていないということでこちらを選択。餃子がうまかった。紹興酒もあっという間に空いた。
三軒めはいよいよ野毛の本丸、都橋商店街。地元で支社長をしている友人から教えてもらったスナック浜へ。ここでKさんの、いかにもものを書く人だなあと思わせる少年のような歌声を拝聴。そして4軒めは橋を渡って吉田町のスナック。もうこのあたりになると店の場所も名前も憶えていない。拙い韓国語であいさつをし、百歳酒(ペクセジュ)とマッコリを飲んで後ろ髪をひかれながら、終電せまる桜木町駅まで早足で歩いた、憶えているのはわずかにそこまでである。
広告が効かなくなっているとお嘆きの貴兄が多い中、新しい広告を模索する試みがそこかしこで行われている。とりわけ主戦場はネットの世界で、テレビCMさえおもしろければ、すべて牛耳れるってほど世の中は甘くなくなっている。
そんななかこの本は筆者の実践記である。須田和博は美大でグラフィックデザインを学んだだけでなく、さまざまなビジュアルと接してきたなかでコミュニケーションの基本をよく把握されている人だと思う。あるいは博報堂という、広告表現に真摯な姿勢を貫いている土壌が彼をそう育てたのかもしれない。
広告はメディアの似姿だという。新聞なら“読ませる”広告、テレビなら“楽しませる”広告。だったらwebは“役に立つ”広告でしょうという。なんともわかりやすい話ではないか。
久しぶりに隣に座っているCMディレクターのI君に“おまえも読んでみろよ”と手渡した一冊である。


2010年11月6日土曜日

馬場マコト『戦争と広告』

ITの技術革新というのかな。ここのところ携帯電話の進化がめざましく、なかなかついていけない。
先日ソフトバンクがアンドロイド2.2搭載のスマートフォンを発表した。つい先ごろAUが2.1搭載の新製品を発表したばかりなのに。記者発表時の映像を見ていると今ぼくが使っている1.6などかなり時代遅れな感じがする。
新しくなるものを追いかけていくのはなかなか疲れる。歳をとるとはそういった疲労の蓄積が顕在化することなのかとも思う。
新しいものばかりでなく時には古きをたずねるのもいい。そう思って昭和戦中時代の広告シーンに思いを馳せたこの本を手にとった。
新井静一郎さんが亡くなったのはたしか1990年。当時銀座の小さな広告会社にいたぼくは、上司でありコピーライターであったOさんから銀座の酒場で「惜しい人がいなくなっちゃったんだよ」と思い出話を聞かされた。ぼくと新井静一郎さんに接点があるとすれば、わずかにここだけ、Oさんから聞いたOさんの上司の思い出話だけである。
著者の立ち位置はクリエーティブディレクターであるが、小説なども書く表現の人である。徹底的にドキュメントにする方法もあっただろうし、一方でフィクション化することも可能だったと思う。馬場マコトはあえて忠実に昭和を追いかけた。それは彼の戦争に対する思いがそうさせたのだろうけれども、ぼくはこの史実を物語として、ドラマとして著者が描いたらどうなるだろうと考えた。著者の強い思いをもうひとつ下位の深層レイヤーに配置しなおすことで、昭和戦争広告史はさらにドラマティックな読みものに、うまいたとえが見つからないのけれど、嵐山光三郎の『口笛の歌が聴こえる』みたいな実話的フィクションに変貌したにちがいない。

2010年11月3日水曜日

NHK放送文化研究所日本語プロジェクト『国語力アップ400問』

東京六大学野球は早稲田、慶應が勝ち点、勝率で並び、優勝決定戦にもつれこんだ。決定戦は20年ぶり。早慶による決定戦は50年ぶりであるという。
そもそもここまで順調に勝ち点を積み上げてきた早稲田がなぜ慶應に連敗したのか。しかもドラフト1位指名された投手がそろいもそろって慶應打線に本塁打を打たれて、である。早稲田打線が打てないのは今季に限った話ではなく、1年時から出場経験がある今の4年生の守備位置、打順を不動にできなかったところに一因はあるのではないだろうか。
一方で慶應は江藤監督のベンチ内のインサイドワークが素晴らしい。ねらい球を絞り、思い切って振らせる。その結果が早慶戦の3本塁打だと思う。このままでは3日の決定戦も早稲田の看板投手陣は打ち崩されること必至だ。
ところで人間というのは放っておくと退化する生き物である。
日々少量の努力を積み重ねていかないとだめになってしまうのである。たとえば、今日はちょっとめんどくさいからビール飲むのやめとこうかな、なんてすぐ寝てしまったりすると、翌日がつらい。寅さんのようにつらい。
うーん。比喩が適切でないかもしれない。
要はたまには人間の、というか日本人の基本にたちかえることも時には必要なのではないかと思うのである。老齢になってもクラス会やら同期会をやるのもきっとこうした深い人間論が根底にあるためだろう。
そういった意味では自らの国語力をときどき試してみることはたいせつだ。