30年前のこと。
福井県のPR動画を制作した。県内の風景を織りまぜながら、海辺の道を歩く学校帰りの女子高生を撮った。海を見渡す小高い丘に一輪の水仙が咲いている。女子高生のひとりがその花を見つめる。だいたいそんな構成だった。ナレーションらしいナレーションはなく、「海鳴りに耳を澄ましているような水仙の花ひらくふるさと」という俵万智の歌がタイトルともに聞こえてくる。
俵万智は大阪出身だが、中学高校時代を福井で過ごしている。1995年頃は『サラダ記念日』のブームは去っていたが、現代歌人としての地位を築いていた。というわけで福井県に縁のある俵万智の歌をベースに動画の企画がなされたのである。撮影が終わり、編集をしていた時、どうせならナレーションも本人に読んでもらおうということになり、録音スタジオに呼ぶことにした。
こんな小柄な人なのに、言葉がたくさんつめこまれているのだなと思った。当時の状況はあまり憶えてはいないが、4~5テイクを録って30分ほどで終わったように思う。「水仙の花ひらくふるさと」の「ひらく」のイントネーションが気になったが、自作の歌をどう読むかは本人がいちばんよく知っているはず。あえてリテイクはしなかった。
俵万智の本は『サラダ記念日』を含めて読んだことがない。この本で30年ぶりの初対面を果たしたわけである。言葉をめぐる環境は当時とはずいぶん変わった。ざっくり言えば、紙に書かれる言葉以外の言葉が台頭してきた。いわゆるネットの言葉だ。当時から盛んだったメールや掲示板はメッセンジャーやSNSに変わった。それに伴い言葉も変化してきた。とりわけここ何年かは言葉は扇動したり、威嚇したり、対立と分断を生み出す役割を担ってきているように思える。無駄に先鋭化している。
いやいや、この見方は正しくない。言葉のせいではなく、思いを言葉に変える時の思いが間違っているのだ。すぐれた歌人はこの辺り、的確だ。

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