先日、知人に招かれて軽井沢を訪れた。東京駅で新幹線に乗り込むときと軽井沢駅に着いて降りたときとはあきらかに空気が変わっていた。昼近く、気温はおそらく30℃を超えていたかもしれないが、不快な暑さではない。多くの人が避暑にやってくるのもむべなるかなである。
翌日はやくも帰京するため駅まで送ってもらう。ところが駅前にクルマは入れないという。多くの警官が交通整理をしている。聞けば、上皇さま、上皇后さまがその日から一週間ほど軽井沢で静養するのだという。駅近くの交差点から歩いているとちょうど到着したようだ。物々しい警備のなか荷物のチェックを受け、お出迎えエリアに足を運んだ。上皇さまを拝見するのは何年か前の東京ドーム以来だ。都市対抗野球の決勝戦をネット裏の二階席で観戦しておられた。
その次の日だったか、上皇さまが大日向開拓地を訪問したことがニュースで伝えられた。大日向開拓地は戦後旧満州から帰国した人たちが切り拓いた地域である。上皇さまは平成天皇の時代から戦争で亡くなられた方々に対して継続的に慰霊を行ってきた。この開拓地を訪ねたのも戦中、戦後苦労された方々を思いやってのことだろう。
半藤一利は昭和5年生まれ。上皇さまより3歳年上になるが、ほぼ同時代を生きたと言って差し支えないだろう。長く雑誌編集者として活躍していた関係で本格的に執筆活動をはじめたのが1990年頃から。この本はその膨大な著作の中の「おいしい」ところだけを抜き出してまとめたものだ。400ページ以上の大作をじっくり読むのもいいが、テンポよく断片に接するのもまた楽しい。著者の断片のなかには東京大空襲の体験も語られている。火災から逃れ、中川に落ちたところを何者かによって船に引き上げられたという。上皇さまは東京大空襲の報をどこで聞き、どんな思いを持ったであろうか。
昭和20年。上皇さまは小学校6年生。半藤一利は中学3年生だった。
2025年8月29日金曜日
2025年8月23日土曜日
ゴジキ『データで読む甲子園の怪物たち』
全国高等学校野球選手権(夏の甲子園)は沖縄県代表の沖縄尚学が西東京代表日大三を決勝で破って初優勝した。
ここ何年か猛暑のせいもあり、高校野球は批判の矢面に立たされる。ひとつは炎天下での熱中症の懸念であったり、ひとりの投手が投球数100を超える負荷の大きさだったりする。五回終了時のグラウンド整備の時間を使ってクーリングタイムという休憩が設けられている。準々決勝、準決勝、決勝の間に休養日も設けられている。今年からはすべての試合ではないが、午前と夕方に試合を行う二部制が導入されている。改革が続いている。
甲子園では決着のつかない名勝負が数多くあった。古くは延長戦は決着するまで無制限だったが、1958年から18回までになった(翌日再試合)。2000年の選抜大会から15回までになり、13年には延長13回からタイブレーク制度が導入され、現在では延長10回からとなっている。タイブレークはタイブレークで批判もあるだろうが、アマチュア野球では普通に行われている制度だったのに高野連はずいぶん消極的だったように思える。MLBでも2020年から導入されている。
コールドゲームがないのも甲子園のローカルルールだ。たいていのアマチュア野球で5回10点差、7回7点差で勝敗を決する。もちろん決勝戦では採用されない。高野連としては各都道府県の決勝戦から先の全国大会だから導入しないというのだろうか。都府県大会を勝ち上がった地区大会では導入されているのに。
もうひとつシードがないのも甲子園ルールである。夏はともかく春はほぼ間違いなく選抜される秋の地区大会の優勝10チームはシードにした方がいい。組合せ抽選でいきなり地区大会優勝校同士の対戦がよくある。下手をすれば明治神宮大会の決勝戦の再戦が一回戦で組まれる可能性だってある。
この本の著者のことはよく知らないが、ネット記事を中心に資料を読みこんでいる人だなという印象である。
ここ何年か猛暑のせいもあり、高校野球は批判の矢面に立たされる。ひとつは炎天下での熱中症の懸念であったり、ひとりの投手が投球数100を超える負荷の大きさだったりする。五回終了時のグラウンド整備の時間を使ってクーリングタイムという休憩が設けられている。準々決勝、準決勝、決勝の間に休養日も設けられている。今年からはすべての試合ではないが、午前と夕方に試合を行う二部制が導入されている。改革が続いている。
甲子園では決着のつかない名勝負が数多くあった。古くは延長戦は決着するまで無制限だったが、1958年から18回までになった(翌日再試合)。2000年の選抜大会から15回までになり、13年には延長13回からタイブレーク制度が導入され、現在では延長10回からとなっている。タイブレークはタイブレークで批判もあるだろうが、アマチュア野球では普通に行われている制度だったのに高野連はずいぶん消極的だったように思える。MLBでも2020年から導入されている。
コールドゲームがないのも甲子園のローカルルールだ。たいていのアマチュア野球で5回10点差、7回7点差で勝敗を決する。もちろん決勝戦では採用されない。高野連としては各都道府県の決勝戦から先の全国大会だから導入しないというのだろうか。都府県大会を勝ち上がった地区大会では導入されているのに。
もうひとつシードがないのも甲子園ルールである。夏はともかく春はほぼ間違いなく選抜される秋の地区大会の優勝10チームはシードにした方がいい。組合せ抽選でいきなり地区大会優勝校同士の対戦がよくある。下手をすれば明治神宮大会の決勝戦の再戦が一回戦で組まれる可能性だってある。
この本の著者のことはよく知らないが、ネット記事を中心に資料を読みこんでいる人だなという印象である。
2025年8月17日日曜日
半藤一利『遠い島ガダルカナル』
8月になると戦争関連の本を読もう気持ちになる。ましてや今年は昭和100年、戦後80年という節目の年だからその思いは強い。去年は8月になって大岡昇平『レイテ戦記』を読みはじめた。月内で読み終えることができず、結局11月までかけて読んだ。戦記を読むのはそう簡単ではないのである。
今年はガダルカナル島の戦いを読んでみた。
なぜ日本軍がジャングルに覆われたこの南の島に固執したのかは不勉強ゆえよくわからない。アメリカとオーストラリアを連合させず分断するための拠点だったのかもしれない。本書の題名ではないけれど本当に遠い遠い島である。地図で見ると南方の一大拠点であったラバウルとガダルカナル島は近そうに見えるが1000キロ離れている。零戦で往って帰ってくるのが精一杯の距離である。ガダルカナル島を占領するならどうしてもっと近くに基地を設けなかったのか。
考えてみれば昭和の戦争は不思議なことだらけだ。国家の存亡を賭けた日露戦争で勝利し、狂喜乱舞した日本はそこから多くを学ぼうとしなかった。少なくとも工業力の低さを何としてでも補わなければならなかった。より科学的で合理的な戦争を学ばねばならなかった。身に付けたのは皇軍不敗という根拠なき過剰なる自信といかなる事態をも突破できる強靭な精神力のみであった。太平洋戦争開戦前に大陸ではノモンハン事件が起きる。ソ連軍の圧倒的な火力を目の当たりにする。それでも日本陸軍は反省も学びもせず西欧諸国との武力格差を助長してきた。兵站すら学習していない。
もちろんこうした見方はこれら戦争を歴史として捉えているからのことであり、当時の日本人の大半は皇軍不敗を信じていたわけだし、作戦というものは絶えずうまく行くものとして立てられていたのである。昭和という時代はずいぶん遠くなってしまったが、その時代のいちばんの恐ろしさは無見識で無反省な精神性にあったのではないかと思っている。
今年はガダルカナル島の戦いを読んでみた。
なぜ日本軍がジャングルに覆われたこの南の島に固執したのかは不勉強ゆえよくわからない。アメリカとオーストラリアを連合させず分断するための拠点だったのかもしれない。本書の題名ではないけれど本当に遠い遠い島である。地図で見ると南方の一大拠点であったラバウルとガダルカナル島は近そうに見えるが1000キロ離れている。零戦で往って帰ってくるのが精一杯の距離である。ガダルカナル島を占領するならどうしてもっと近くに基地を設けなかったのか。
考えてみれば昭和の戦争は不思議なことだらけだ。国家の存亡を賭けた日露戦争で勝利し、狂喜乱舞した日本はそこから多くを学ぼうとしなかった。少なくとも工業力の低さを何としてでも補わなければならなかった。より科学的で合理的な戦争を学ばねばならなかった。身に付けたのは皇軍不敗という根拠なき過剰なる自信といかなる事態をも突破できる強靭な精神力のみであった。太平洋戦争開戦前に大陸ではノモンハン事件が起きる。ソ連軍の圧倒的な火力を目の当たりにする。それでも日本陸軍は反省も学びもせず西欧諸国との武力格差を助長してきた。兵站すら学習していない。
もちろんこうした見方はこれら戦争を歴史として捉えているからのことであり、当時の日本人の大半は皇軍不敗を信じていたわけだし、作戦というものは絶えずうまく行くものとして立てられていたのである。昭和という時代はずいぶん遠くなってしまったが、その時代のいちばんの恐ろしさは無見識で無反省な精神性にあったのではないかと思っている。
2025年8月5日火曜日
古谷経衡『激戦地を歩く レイテ、マニラ、インパール 激戦の記憶』
大叔父がフィリピンで戦死している。戸籍には「昭和弍十年六月参十日フィリピンルソン島アリタオ東方十粁ビノンにて戦死」と記されている。ビノンというのはどんな地域なのか、大叔父はどのようにして戦死に至ったのか。
レイテ島の戦いが終わり、連合国軍はルソン島を攻める。レイテ戦に大きな戦力を費やした日本軍はあっという間にマニラ陥落を許す。以後、敗残兵は北へ北へと逃走する。当時の陸軍の用語でいえば転進である。北部のアパリに行けば、台湾からの援軍が期待できるとでも思ったのだろうか。5月末から6月初頭にフィリピン戦の終結が告げられている。その後しばらく抵抗したのかもしれない。小規模の夜襲、突撃はあったはず。米軍から援助を受けたゲリラに襲われたのか、夜襲突撃に駆り出されたのか、餓死したのか、マラリアに侵されたのか。大叔父戦死の真実はわからないままである。
もっとはやくに大叔父の戦死に興味を覚えるべきであった。生前の父から話を聞くことができたはずだ。不勉強であったが、家族のなかで大叔父の戦死を避けているような雰囲気もあったことも事実だ。大叔父は名前で呼ばれず、「兵隊さん」と呼ばれていた。兵隊さんの話をするのはどことなくタブーな雰囲気があったのだ。
古谷経衡をラジオで知ったことは以前書いた。いつも聴いている番組で10分程のコラムを担当している。この本はその番組で紹介されていた。精力的に現場に足を運ぶ。フィリピンにはもう何十回と訪ねている。現地を見ないで何を書けるというのか、というのがモットーである。インパールも訪ねている。共感できるスタンスだ。
先日、大叔父が戦死したルソン島のビノンという町を地図で見つけることができた。グーグルマップで見ると山間ののどかな集落だった。キリスト教国フィリピンらしい教会もあった。一度慰霊に訪ねてみたい気になった。今さら行ってみたところでどうにかなるわけでもないのだが。
レイテ島の戦いが終わり、連合国軍はルソン島を攻める。レイテ戦に大きな戦力を費やした日本軍はあっという間にマニラ陥落を許す。以後、敗残兵は北へ北へと逃走する。当時の陸軍の用語でいえば転進である。北部のアパリに行けば、台湾からの援軍が期待できるとでも思ったのだろうか。5月末から6月初頭にフィリピン戦の終結が告げられている。その後しばらく抵抗したのかもしれない。小規模の夜襲、突撃はあったはず。米軍から援助を受けたゲリラに襲われたのか、夜襲突撃に駆り出されたのか、餓死したのか、マラリアに侵されたのか。大叔父戦死の真実はわからないままである。
もっとはやくに大叔父の戦死に興味を覚えるべきであった。生前の父から話を聞くことができたはずだ。不勉強であったが、家族のなかで大叔父の戦死を避けているような雰囲気もあったことも事実だ。大叔父は名前で呼ばれず、「兵隊さん」と呼ばれていた。兵隊さんの話をするのはどことなくタブーな雰囲気があったのだ。
古谷経衡をラジオで知ったことは以前書いた。いつも聴いている番組で10分程のコラムを担当している。この本はその番組で紹介されていた。精力的に現場に足を運ぶ。フィリピンにはもう何十回と訪ねている。現地を見ないで何を書けるというのか、というのがモットーである。インパールも訪ねている。共感できるスタンスだ。
先日、大叔父が戦死したルソン島のビノンという町を地図で見つけることができた。グーグルマップで見ると山間ののどかな集落だった。キリスト教国フィリピンらしい教会もあった。一度慰霊に訪ねてみたい気になった。今さら行ってみたところでどうにかなるわけでもないのだが。
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