小学生の頃、螺旋形の滑り台があった。公園の遊具としては大きなものでどこの公園にもあるというわけではなかった。学区域内の公園にはなかったと思う。
中央の支柱があり、螺旋状に金具が固定されている。その金具が滑り台本体を支えている。高さは3~4メートル。後ろに付いている梯子段で頂上に上り、ぐるぐる回りながら滑り降りる。
高学年になり、この滑り台で鬼ごっこをするのが流行った。4~5人で学区外の公園まで遠征する。ルールはない。滑り台を下から上に上ったり、梯子段を降りたり、梯子段から滑り台に移ることができる場所もあった。滑り台を支える金具を伝って移動することもできた。地上に降りることもできたが、その遊具を離れて遠くに逃げるのは反則だった。誰が考えたか知らないが、スリリングな遊びだった。
今、公園に危険な遊具はなくなっている。回転塔とか箱型ブランコなど。自治体の管理が優先されているからだ。それらに代わって複合遊具が主流になっている。
ロープを使って斜面を登り、櫓の上に行きなさい、できない子は横にある梯子段で登りましょう、上に着いたらすべり台で降りるか、吊り橋を渡って反対側の櫓に行きましょう、といった具合に子どもたちの遊びがマニュアル化されている。ルールが画一化されていて動きが少ない。ちょっと遊んだらすぐに飽きる。著者北村匡平はこれを「余白」の縮減した遊具と規定する。
たとえば斜面だけの遊具が紹介されている。斜面を上って滑り台にする。子どもは滑り台を逆から上るのが好きなのだ。滑り方も頭から滑り降りたり、転がりながらと多種多様な遊び方を子どもたちは発見し、挑戦する。その斜面には柵がない。多少の危険は伴うがそうしたことを通じて子どもたちは自らの限界を知り、危険を体得するという。
この本のテーマとなっている「利他」という概念はわかりにくい。わかりにくいが、読んでいると何となくわかってくる。不思議な一冊だ。
2024年12月31日火曜日
2024年12月25日水曜日
奥窪優木『転売ヤー 闇の経済学』
近衛文麿邸であった荻外荘が復元され、今月から一般公開されている。善福寺川の河岸段丘に建つ木造の邸宅。以前軽井沢で見た別荘はモダンな洋風建築だったが、荻外荘は日本家屋。大きなお屋敷といった感じだ。1940年7月に松岡洋右、吉田圭吾、東条英機と戦争路線の方針を決めたという荻窪会談が行われた部屋も復元されている。
格差社会と言われている。富裕層と貧困層が両極に分かれて、それぞれ前に進んでいる。
かつて寝台特急列車があった(今でもあるが)。時間を惜しむビジネスマンにとって飛行機より朝はやく目的地に到着できる交通手段として一世を風靡した。今となっては金銭的時間的な贅沢品と化している。三泊四日の寝台列車の旅は百万円を超える。それでも需要があるのだから吃驚する。
国産の高級ウイスキーもものすごく高額だ。お金を持っている人が少なからずいて、庶民には考えられないような消費を行う。信じ難い。富裕層に限らず、つましい生活を送りながらもここぞというところには惜しみなくお金を使う人がいると聞く。
転売ヤーという人たちがいることは何となく知っていた。この本を読むことで少し具体的にイメージすることができた。商売の基本は安く仕入れて高く売る。つまり利ざやをどう確保するかの世界だ。彼らの多くは定価で買う。バザーなどで仕入れる例もあるが、ゲーム機のPS5やTDRの限定グッズなどは需要と供給の関係で利ざやが生まれる。百貨店の外商から高級ウイスキーを仕入れて転売する。そんなことで生計を立てる輩もいる。
何だかなと思う。真面目に働いて、生活費を稼いで、みたいな図式はもはやなくなったのだろうか。転売は合法なのだろうか。転売で得た収入が課税されるとは思えない。
今、これからの日本を支える新たな産業の創出が議論されているというのに、日本は(中国も)転売立国になってしまっていいのか。転売そのものより、劣化した社会の方が心配だ。
格差社会と言われている。富裕層と貧困層が両極に分かれて、それぞれ前に進んでいる。
かつて寝台特急列車があった(今でもあるが)。時間を惜しむビジネスマンにとって飛行機より朝はやく目的地に到着できる交通手段として一世を風靡した。今となっては金銭的時間的な贅沢品と化している。三泊四日の寝台列車の旅は百万円を超える。それでも需要があるのだから吃驚する。
国産の高級ウイスキーもものすごく高額だ。お金を持っている人が少なからずいて、庶民には考えられないような消費を行う。信じ難い。富裕層に限らず、つましい生活を送りながらもここぞというところには惜しみなくお金を使う人がいると聞く。
転売ヤーという人たちがいることは何となく知っていた。この本を読むことで少し具体的にイメージすることができた。商売の基本は安く仕入れて高く売る。つまり利ざやをどう確保するかの世界だ。彼らの多くは定価で買う。バザーなどで仕入れる例もあるが、ゲーム機のPS5やTDRの限定グッズなどは需要と供給の関係で利ざやが生まれる。百貨店の外商から高級ウイスキーを仕入れて転売する。そんなことで生計を立てる輩もいる。
何だかなと思う。真面目に働いて、生活費を稼いで、みたいな図式はもはやなくなったのだろうか。転売は合法なのだろうか。転売で得た収入が課税されるとは思えない。
今、これからの日本を支える新たな産業の創出が議論されているというのに、日本は(中国も)転売立国になってしまっていいのか。転売そのものより、劣化した社会の方が心配だ。
2024年12月13日金曜日
鷹匠裕『聖火の熱源』
8月頃、フェイスブックで著者自ら、新しい本が出るのでよろしくみたいなポストがあり、さっそく購入した。すぐに読みはじめたかったのだが『レイテ戦記』を読むのに手間取っていたこともあり、なかなか頁を開くことができないでいた。
鷹匠裕の作品は『帝王の誤算』『ハヤブサの血統』に次いで3作目になる。
著者は大手広告会社の制作局に在籍していた。その頃何度か仕事をしている。彼はディレクター的な立ち位置で僕らは具体的なCMの企画を描いて持ち寄った。鷹匠は(すでにそんな年齢でもなかったのだろう)絵コンテを描いたり、コピーを書いたりすることはなかった。彼の表現に接することがなかったので後に小説を書いたと聞いて、どんな文章を書く人なのだろうと興味を覚えた。
清水義範の長編に『イマジン』という小説がある。パスティーシュの名手として知られた清水のSF作品なのだが、奇想天外な結末に驚いた記憶がある。鷹匠裕の新作はそれに匹敵するくらい奇想天外だ。誰がこんなことを考えるんだと思っているうちにストーリーはどんどん展開していく。気がつくと読み終わっている。
この作品は前々回の2020東京五輪に対する痛烈な批判になっている。広告会社が主導する商業的なイベントからアスリートのための本来の姿のオリンピックを取り戻す戦いの物語である。理想の五輪をめざす主人公らの組織はややもすれば青臭いところがある。さまざまな抵抗を受けながらも理想を形にしていく上でITやソーシャルネットワークをフル活用する。ちょっとした近未来小説でもある。その辺りは奇想天外では決してなく、おそらくは2028ロス五輪では現実のものとなるのではないかと期待できる技術だと思う。
巨大で複雑なオリンピックのしくみや裏側はもちろんのこと、最新のテクノロジーに至るまで鷹匠は丁寧に取材を重ねたに違いない。結果として地に足の着いた夢物語を結実させた。渾身の一冊であるといえよう。
鷹匠裕の作品は『帝王の誤算』『ハヤブサの血統』に次いで3作目になる。
著者は大手広告会社の制作局に在籍していた。その頃何度か仕事をしている。彼はディレクター的な立ち位置で僕らは具体的なCMの企画を描いて持ち寄った。鷹匠は(すでにそんな年齢でもなかったのだろう)絵コンテを描いたり、コピーを書いたりすることはなかった。彼の表現に接することがなかったので後に小説を書いたと聞いて、どんな文章を書く人なのだろうと興味を覚えた。
清水義範の長編に『イマジン』という小説がある。パスティーシュの名手として知られた清水のSF作品なのだが、奇想天外な結末に驚いた記憶がある。鷹匠裕の新作はそれに匹敵するくらい奇想天外だ。誰がこんなことを考えるんだと思っているうちにストーリーはどんどん展開していく。気がつくと読み終わっている。
この作品は前々回の2020東京五輪に対する痛烈な批判になっている。広告会社が主導する商業的なイベントからアスリートのための本来の姿のオリンピックを取り戻す戦いの物語である。理想の五輪をめざす主人公らの組織はややもすれば青臭いところがある。さまざまな抵抗を受けながらも理想を形にしていく上でITやソーシャルネットワークをフル活用する。ちょっとした近未来小説でもある。その辺りは奇想天外では決してなく、おそらくは2028ロス五輪では現実のものとなるのではないかと期待できる技術だと思う。
巨大で複雑なオリンピックのしくみや裏側はもちろんのこと、最新のテクノロジーに至るまで鷹匠は丁寧に取材を重ねたに違いない。結果として地に足の着いた夢物語を結実させた。渾身の一冊であるといえよう。
2024年12月4日水曜日
将基面貴巳『従順さのどこがいけないのか』
大田黒公園は音楽評論家大田黒元雄の住まいを整備して公園にしたものだ。近くには角川庭園(角川書店を創立した角川源義の自邸)やまもなく公開される荻外荘(近衛文麿邸)もある。杉並の、ちょっとした文教地区である。とりわけ大田黒公園はこの時期、紅葉をライトアップする。寒くなるなか、来訪者も多い。園内にある池に映る紅葉が素晴らしい。
杉並区今川の観泉寺にも行ってみた。観泉寺は曹洞宗の寺である。区の広報誌に紹介されていたこともあり、訪れている人も少なくない。銀杏の黄色が鮮やかだった。
それでも東京の紅葉は力強さに欠けるように思う。ひ弱な感じがしてならない。そもそも紅葉は12月じゃないだろうし。これも地球温暖化のひとつかもしれない。東京という地理的条件もあるだろう。どうも目に鮮やかな紅葉とは必ずしも言いがたいところがある。贅沢といえば贅沢なのかもしれないが。
将基面貴巳(しょうぎめんたかしと読むらしい)の『従順さのどこがいけないのか』を読む。ちくまプリマー新書には中高生向けに編まれた教養体系という色合いを感じる。とはいえ、若年層向けだからといって軽く見てはいけない。以前読んだ菅野仁著『友だち幻想』などはこの新書のなかでも屈指の名著であると記憶している。本書もそれとに勝るとも劣らない一冊である。
何も考えを持たずに従順であること、服従することに対して著者は警鐘を鳴らす。歴史から、哲学から具体的な引用をする。文学や映画作品もそこに含まれる。読書経験も映画経験も乏しい僕ではあるが、読んだこともない見たこともない事例の数々に興味がそそられる。著者のこだわりなのか、編集者のリードがそうさせるのかはわからないけれど、巧みに青少年を世の中に導いていく。
少子化だとか人口減少が取り沙汰される今の社会であるが、こういった本が上梓されることに少しだけほっとしている。
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