2021年11月25日木曜日

吉村昭『炎の中の休暇』

在宅勤務をはじめて1年半以上になる。
月にいちどくらい出社して打合せをしたり、精算したりなどするが、毎日通勤しないのはストレスがなくていい。その反面、天気が悪かったりすると家から一歩も外に出ない日もある。青島幸雄じゃないけれど、「これじゃ身体にいいわきゃないよ」である。犬と散歩するほか、近隣のスーパーに買い物に行くほか、できるだけ歩くようにしている。
地図上でどのルートをどのくらいの速さで歩いたかを記録してくれるアプリがある。記録を残すことでモチベーションが保たれる。何キロくらいをどれくらいの速度で歩くのがいいのかはわからないが、大学で体育を専攻し、スポーツクラブに長年勤務している先輩に聞くと、1キロ10分台で歩くのがいいという。ふつうに歩くとだいたい11分台の後半から12分台である。10分台で歩くには速く歩くことを意識しないと歩けない。それにそんなに速く歩くと周囲の景色などほとんど目に入らず、散歩したのに歩いた気がしないのである。
はじめのうちは2キロ。そのうち3キロ。少しずつ距離をのばす。5キロ歩いてみる。時間にして1時間弱。このくらい歩くと歩いたなという実感が残る。さすがにキロ10分台で歩くのはたいへんであるが。これを隔日とまではいわないまでも、週に2回くらいこなせればいいのだけれど、なかなかそうはいかない。週1回がいいところである。
さて、スマホにインストールしたアプリであるが、1.6キロごとに途中経過をアナウンスしてくれる。中途半端なところで歩行距離、所要時間などが知らされる。メートル法をスタンダードとしていない国で開発されたツールなのだろう。
この本は、戦中戦後を舞台にした短編集である。
東京大空襲のあと、女性のもとに出かけていて安否がわからない父をさがしに主人公が江戸川沿いの集落を歩いて訪ねる話がある。見渡す限りの焼け野原。主人公の歩く速さは如何ばかりかと気になった。

2021年11月22日月曜日

山本周五郎『日日平安』

父が書いた作文を読んだことがある。
子どもの頃は、夏休みになると千葉県安房郡(現南房総市)白浜町にある父の実家で過ごした。祖父が迎えに来て、姉とふたりを連れて両国駅から列車に乗っていったのである。南房総の記憶はほとんど夏休みの記憶といっていい。
8月の旧盆以外だと父はよく正月に帰省していた。まぶしい陽光にさらされることのない冬の白浜町はどこか寂し気に見えた。その年も3が日を過ごしたあと父の運転するクルマで東京に向かう予定だった。帰りがけに父は一軒寄りたいところがあると言って、いつもと違う道を走る。
中村先生の家だった。
中村先生は、父の小学校時代の担任の先生である。すでに教職を辞していたとは思うが、老け込んでいるようすはなく、ひさしぶりに対面した父に酒をすすめる。この時点でこの日じゅうに家に帰ることはないのだと悟った。中村先生と父は何杯も酒を酌み交わし、昔話に興じたり、テレビを視たりしてその夜を過ごした。ちあきなおみの「喝采」や小柳ルミ子の「瀬戸の花嫁」がいくどか画面から流れ、その都度、いい曲だねと中村先生は言っていた。その記憶がたしかならば、その新年は1973年ということになる。
途中席を立った先生が古びた封筒を持って居間に戻ってきた。なかから取り出したのは父の作文だった。小学校の何年生のときだったか、組替えがあった。中村先生を慕っていた父は、担任の先生が代わることがいやで、祈るような気持ちで新学期を迎えた。組替えが発表され、担任は引き続き、中村先生であると知る。そのときのよろこびが記されていた。
人生というものは他人から見ればなんていうこともない事実の積み重ねである。山本周五郎のこの短編集は小さく心を揺さぶる。もういちど読みたい一冊である。
定年退職後、洋蘭の栽培を趣味としていた中村先生の自慢の温室を翌朝、案内してもらった。真冬なのに、そのなかは夏の陽光に満ち溢れていた。

2021年11月14日日曜日

吉村昭『雪の花』

東京にはいくつか「いもあらいざか」と呼ばれる坂がある。芋洗坂とか一口坂と表記される。
「いもあらい」は、疱瘡(天然痘)にかかった患者が水で清めて神仏に祈願することだという。「いもあらいざか」付近には疱瘡神が祀られていたともされている。地名の起源などをたどる本にはだいたいそのようなことが書かれている。どうして一口坂を「いもあらいざか」と読むのか。疱瘡神が祀られていた社の地名が一口町だったなどという説もあるようだ。
疱瘡は恐ろしい伝染病だった。感染を防ぐ方法も治療方法もわからず、人びとはひたすら神仏にすがり、奇妙な伝承を信じた。疱瘡神は赤い色を苦手とするというのもそのひとつで、罹患した子どもの傍らには赤いものを置いたり、未患の子どもらには赤い下着や玩具、置物を与えたという。
天然痘は日本だけでなく、ヨーロッパでもアメリカ大陸でも大流行し、多くの生命を奪っている。それでも昔から頭のいい人がいたのだろう、天然痘に罹った患者の膿やかさぶたを未患者の体内に取り入れることで免疫をつくる予防法(種痘)が行われるようになった。紀元前1000年頃のインドでというから驚きである。種痘(人痘法)はイギリスやアメリカに伝えられたが、予防接種としてはまだリスクの高いものだった。
18世紀半ば、ジェンナーが登場する。天然痘に罹った牛(牛痘)の膿を接種することで天然痘は安全に予防できるようになった。ジェンナーの牛痘法は世界にひろまったが、日本に定着するまでは時間がかかった。ロシアに拉致された中川五郎治が松前で行った記録があるが、これは五郎治がその方法を秘匿したためひろまることはなかった。
越前福井藩の医師笠原良策らの尽力で種痘(牛痘法)はようやく一般に普及する。ジェンナーに遅れること半世紀。日本は疱瘡の脅威から逃れることができた。
いつしか「いもあらいざか」と聞いて、不思議な名前だと思うようになっていた。

2021年11月10日水曜日

吉田勝明『認知症が進まない話し方があった』

昨年から認知症当事者の方をインタビュー取材して、動画にまとめる仕事をしている。認知症と診断された方を患者とは呼ばない。当事者とか本人と呼ぶ。
認知症当事者である丹野智文は、著書のなかで症状があるけれども生き生きと暮らしている人を患者と呼ぶことで重い病気の人というイメージを与えることを懸念している。単に認知症と診断された人が当事者なのではなく、診断された本人が自分の意思で自由に行動したり、要求することが当たり前にできるのだということを社会に発信していく。そんな本人が「当事者」であると丹野はいう。
仕事で担当しているのは、企画と構成である。現場に赴いて直接問いかけることはない。それでも事前の打合せでお話をうかがうこともある。ウェブ会議で、ではあるけれど。
当事者の方に声をかけるのは緊張する。認知症に関して知識があるわけでもなく、身近な当事者を介護した経験ももちろんない。よく言われていることだが、認知症当事者とコミュニケーションするには本人目線がたいせつである。ついつい認知症でない人のスタンダードで話してはいないか、本人を混乱させるような高圧的で一方的な発話をしてはいないか。とにかく緊張する。
認知症は、認知機能が低下したり、損なわれる病である。これもよく言われることだが、認知機能が低下したからといって、脳のはたらきすべてが奪われているわけではない。相手の顔も名前もおぼえられない人でも、子どもの顔と名前すら思い出せない人でもやさしく微笑みかければ、微笑みかえしてくる。「私誰だかわかる?」などと声をかければ、試されていると感じ、不快に思う。人間はどんなに認知機能が低下しても、感情はずっとその人のままなのだ。
先日読んだ『ユマニチュード入門』に人間の尊厳を保つケア=ユマニチュードには4つの柱があり、それは「見る」「話す」「触れる」「立つ」であるという。とりわけ「話す」に特化したのが本書である。

2021年11月8日月曜日

吉村昭『蜜蜂乱舞』

はじめてこの本を読んだのは7年前。養蜂のことなど何も知らなかった。
養蜂には同じ場所でさまざまな花の蜜を採取する定置養蜂と花を探しもとめて日本全国旅を続ける移動養蜂がある。移動養蜂は莫大な労力とコストを必要とする。
特攻隊の基地があった鹿児島県鹿屋市。蜂屋の伊八郎は、毎年の菜の花の季節が終わると新たな花を求めて北へ向かう。巣箱は2台のトラックに載せ、採蜜に必要な道具のほか炊事用具、テントもライトバンに積みこむ。7ヶ月におよぶ旅のはじまりである。
蜜蜂は暑さにも寒さにも弱い。巣箱のなかに熱がこもることで死んでしまう。これは蒸殺と呼ばれ、移動中細心の注意が払われる。気温の下がった夜に移動をはじめ、風を通すために極力停車させない。そして夜明け前に蜂場に到着するよう配慮する。採蜜を続けながら、本州へ。長野、青森を経て、連絡船で北海道十勝へたどり着く。
蜜蜂たちの日々の動きを観察することも欠かせない。分蜂という新たな女王蜂の誕生があり、盗蜂といって自分の巣箱以外の蜜を盗む蜂もあらわれる。経験を積んだ鉢屋は次々に起こる事態を冷静に対処する。
花のある場所付近にスズメバチの巣がないかも確認する。見つかった場合はすみやかに処分する。秋になって食べ物を求めて羆があらわれる。蜂蜜を大好物とする羆は蜂だけでなく、人をも襲う。そのためにライトバンには猟銃も用意されている。いのちがけの仕事なのである。
吉村作品にはマグロを追いかけたり、ハブを生け捕りにする話もある。スケール感や恐怖感では蜜蜂の比ではないかもしれないが、この物語には蜜蜂を見つめるまなざしの深さと家族の秩序を常に考える愛情に満ちた伊八郎の生き方がしっかりつながっている。蒸殺で蜂を失った男、家族を捨て殺人を犯した仲間、轢き逃げで刑務所で暮らす長男の妻の兄。伊八郎一家と隣り合わせているこれらの挫折。こうした緊張感が彼ら家族の絆をいっそう深めている。

2021年11月5日金曜日

獅子文六『達磨町七番地』

かんだやぶそばに行った。たいへんひさしぶりに、である。
先月のことだが、昔お世話になった広告会社の方たちにお会いした。そのなかのひとりアートディレクターの松木さんは、8月に手術を受け、その後順調に回復された。蕎麦屋でも行きたいよねなどと話していたが、まだまだ新型コロナ感染者数は増える一方で緊急事態宣言が解除されるのを待っていたのである。
集まったのはクリエーティブディレクターでコピーライターだった内山田さんと山石橋さん。いずれも後期高齢者である。かんだやぶそばでなければいけない理由もなかった。まつやでも室町の砂場でもよかったが、僕が学生時代大晦日のみやげ売り場でアルバイトをしていたことがあり、そんな話をしていたら、かんだやぶそばいいよねってことになった。昼過ぎにお店の前で待ち合わせ。土曜日だったので少し行列ができていた。ビールとぬる燗を飲みながら、板わさ、焼きのり、合焼きなどの定番メニューをつまんで、せいろう蕎麦をたぐった。至福のひとときだった。
獅子文六がパリ遊学を終えて、帰国したのが1925年。戯曲や翻訳の仕事を続けていたが、やがて小説を執筆するようになる。36年には新聞連載された『悦ちゃん』が評判を呼ぶ。この本に収められている小説は36〜38年に新聞や雑誌に掲載された短編である。
軍部の力が増し、暗雲立ち込めている時代ではあったが、後に娯楽小説の大家となるその片鱗がすでに見えている。昭和初期、戦前の、ほんのわずかな幸せな時代が描かれている。パリ時代の経験をもとに書かれた表題作「達磨町七番地」のほか、南州、北州の友情物語「青空部隊」やデパートの店員を主人公にした「青春売場日記」など当時の社会や風俗を知る上でも楽しい作品集だ。
「青空部隊」は後に「青空の仲間」というタイトルで映画化されている。南州は三橋達也、北州は伊藤雄之助だったらしい。観てみたい映画がまた一本増えてしまった。