2020年5月30日土曜日

獅子文六『大番』

加東大介は好きな俳優のひとりである。
黒澤明の「七人の侍」や「用心棒」では味のある脇役であり、成瀬己喜男の「浮雲」では生真面目で冴えない男を演じている。その加東が主役に抜擢されたのが千葉泰樹の「大番」である。株屋のギューちゃんこと赤羽丑之助の一代記はヒット作となって「続大番風雲編」「続々大番怒濤編」「大番完結編」と4本シリーズとなった。
戦前~戦後、兜町でのしあがった佐藤和三郎という男がこの小説のモデルであるという。佐藤は新潟県の出身であるが、ギューちゃんは獅子文六ゆかりの地である四国宇和島の貧農のせがれという設定で脚色されている。よく株でひと儲け、などと言うが、正直言って、株のことはよくわからない。獅子文六も千葉泰樹もあまり詳しくなかったと聞く。いまさら勉強してもたぶんひと儲けはできないだろうから、わからないままにしておく。
映画でヒットした「大番」は、その何年後かテレビドラマ化されたという。赤羽丑之助を演じたのは渥美清。残念ながら記憶にない。
ところで大番とはどういう意味なのだろう。辞書で調べると平安から鎌倉にかけて皇居や市中を警備した武士である(大番役の略)とか江戸幕府の職名で江戸城、大坂城、二条城の警備にあたった大番組の略であるとされている。原作者が『大番』と題したのだから、それはそれでいい。『大番』は『大番』であり、『てんやわんや』は『てんやわんや』だし、『青春怪談』は『青春怪談』である。株式相場の最前線で戦う男の物語という意味なのかとおぼろげに考えている。あるいは相場の用語として大番ということばがあるのかもしれない。これもまたわからないのでわからないままにしておく。
相場で当てるというのはきわめてギャンブル性が強い。一生を蕎麦屋の茹で釜の前で地道に努力するのとは違う。あっけなくひと財産をなし、あっけなく死んでいく。そんな単純きわまりない人生の大河小説というべき一冊だった。

2020年5月22日金曜日

ビートたけし『ラジオ北野』

消しゴムの最期を見たおぼえがない。
消しゴムは鉛筆で書かれた文字なり、数字なり、絵なり、図なりをその身を削って消して、自らの分身ともいえる消しかすとなって消耗していく。身近にあるものとしては、石鹸に近い。しかしながら身の細った石鹸はたいていの場合、真新しい石鹸と癒着合体されることでその使命を、存在が無となる瞬間までまっとうする。使い果たされんとしている消しゴムには他の消しゴムと接着する性質はなく、かといって消しゴムは自力で動くことはできず何ものかのはたらきかけがなければ、仕事ができないから、少なくとも手指で支えられなければ機能しない。その大きさ(というか小ささ)の限界値は学術的にはあきらかにされていないが、おおむね縦横1cm、厚さ5mmくらいではなかろうか(どうでもいいことではあるが)。そして小さく小さくなった消しゴムは、筋力が衰えるみたいに、その形を維持する力がなくなり、ぽろぽろと細かくくだけるようにちぎれて、やがて消しかすとともにごみ箱に移される。ずいぶん端折ってしまったが、消しゴムの最期とはこんなことではないだろうか。
これほどみごとになくなってしまう物体もめずらしい。醤油だって、マヨネーズだって容器に入っている。厳密に最後の一滴まで使い切ることは困難である。石鹸に近いと先述したが、タンスに入れる防虫剤とも似ている。こちらは成分が気化してなくなってしまう。包装材だけがむなしく取り残される。マジシャンが脱出に成功したみたいに。
この本は7年ほど前に単行本で読んだ。その後文庫化もされたようだ。
ビートたけしの雑誌の連載や対談はおもしろい。くだらないおもしろさだけでなく、ちゃんとわかっている発言をするからおもしろいのだ。もちろんくだらなくもある。どうしよもなくくだらない。ちゃんとわかっているのにくだらないから、おもしろいのだ。
つい、くだらないことをちゃんと考えてみたくなる。

2020年5月14日木曜日

獅子文六『断髪女中』

新型コロナ感染の騒ぎで3月中頃から、不要不急の出社を避け、自宅で仕事をしている。
朝からずっと家にいると、2匹いる犬が休日と勘違いするのか、散歩に行こうと誘いに来る。たしかに天気が悪くない限り、休日には散歩に連れて行くのだ。しばらく寒かったので午後はやめに家を出る。そのことを知ってか知らずか、たとえば日曜日ならNHKの「のど自慢」が終わるころになるとそわそわと視界に入ってくる。
打ち合わせで出勤する以外は家にいるから、ここ1か月は毎日のことである。小型犬なので果てしなく歩くわけではない。だいたい1.5キロメートル前後の距離を30分ほどかけて歩く(最近スマートフォンにアプリを入れたのでどんなコースをどれくらいかけて歩いたかわかる)。そんなことでもない限り、自粛ブームのなか、身体がなまってしまう。もしかすると飼い主が飼い犬を連れて散歩に連れてってやってるのではなく、しかるべき時間になると「行こうぜ行こうぜ、オレたちが連れってやるからさ」とそわそわしながらまとわりついてくるのかもしれない。
獅子文六再発見を仕掛けた編者が編む短編集が3月に2冊刊行された。ひとつはモダンボーイ篇と副題の付いた『ロボッチイヌ』、そしてモダンガール篇である『断髪女中』である。獅子文六といえば長編大衆娯楽小説というイメージが強い。短編小説は新鮮に映る。昔の小説だから、といって侮ることはできない。獅子文六の小説はその時代の産物ではあるけれど、普遍的な主題と味わいを持っている(どうも獅子文六再発見ブームにまんまと乗せられてしまった感がなきにしもあらずであるが)。
次は何を読もうか。ちくま文庫の『バナナ』か小学館文庫の『大番』か。東宝映画でシリーズ化された娯楽大作『大番』がちくま文庫のラインナップに入っていないのはちょっと惜しい気がする。
そうこうするうちに午後になる。
振り向くと2匹の犬が尻尾を振ってこっちを見ている。

2020年5月7日木曜日

松岡正剛『日本文化の分析 「ジャパン・スタイル」を読み解く』

2009年から11年まで3年にわたってNHKで放映された「坂の上の雲」をもういちど見ている。厳密にいえばリアルタイムでは断片的にしか見ていないので、今回はじめて見るに等しい。
当時は司馬遼太郎を読む習慣がなかった。もちろん『坂の上の雲』という題名は知っていたが、いつ頃のどんな話だったか皆目見当がつかなかった。大学生の頃だったか、高校の先輩に絶対読めと言われていたが、読まないまま30年が過ぎていた。『竜馬がゆく』や『関ケ原』なら、だいたいの時代背景や登場人物が想像できる。『坂の上の雲』ではわからない。ヒントがなさすぎる。
NHKでオンエアされたドラマは、生涯で唯一、坂の上の雲に接する機会だったかもしれない。それなのに断片的にしか見なかったのは痛恨の極みであった。わずかに残された生命を削って執筆を続ける正岡子規の印象が残っている(というかその程度の印象しか残っていない)。
ふとしたきっかけで司馬遼太郎を読むようになり、幕末から明治へと時代をたどった。とりあえず設けた最終ゴールが『坂の上の雲』だった。2016年のことだ。
あらためてドラマを見ていると、この長編小説が重厚壮大なテーマを持っていたことに気づく。それは、はじめて世界の大きさを知った小さな島国が近代国家として産声をあげるとともに、一気に成長を遂げようとするエネルギーの提示である。近代日本の原点は、まさにここにある。
知の巨人松岡正剛。その新作を読む(というほど多くの著作を読んでいるわけではないが)。
日本文化とは何か、日本らしさとは何か、その特色は何か。さまざまな側面から日本文化の理解をはかる。その視点の数々は膨大な読書体験がベースにある著者ならではのものだ。
「歴史は言葉づかいの組み立てでできている」という。現在意味を変えて流通している言葉の起源が想像もつかないような別の言葉だったりする。そういったものの見方に吸い込まれていく思いだ。