2019年11月28日木曜日

和田誠『銀座界隈ドキドキの日々』(再読)

1980年代半ば。
銀座のイエナ(という書店があった)でカート・ヴォネガット・ジュニアの『スローターハウス5』という本に出会う。表紙のイラストレーションやレタリングが素敵だったので内容はともかく読んでみた。はじめて読むSF小説だった。
イラストレーター、装丁家の和田誠さんを強く意識したのはこのときからかもしれない。和田さんみたいな絵をいつか描きたいと思って、著書を読むようになった。描いた絵を見るより、書いた文章を読んだ方がためになりそうな気がしたからだ。
1993年、同じく銀座の教文館(たぶん今でもある)。新刊だったこの本が平積みされていた。多摩美術大学を卒業して、広告制作プロダクション、ライト・パブリシティに入社。以後10年にわたって過ごした銀座時代の記憶といっていい。学生時代からグラフィックデザイナーとして活躍していた和田誠の、社会に出てはじめて出会う人びとと経験が語られる。ドキドキの日々というタイトルはその心情を物語っている。
2017年11月。表参道のHBギャラリーで和田さんの個展が行われていた。神宮球場で昼間野球を観戦したあと、青山通りの裏道を歩いて行った。ひととおり絵を見て、振りかえるとギャラリーの真ん中に置かれたテーブルに和田さんが座っている。ジーンズに茶色のセーター、グレーのマフラーを巻いていた。セーターの色はCMYKでどう指定したらいいか難しそうな茶色だった。
はじめて見る実物の和田誠。ファンと思われる女性に話しかけられ、聞こえるような聞こえないような声で受け答えしている。せっかくだから僕も話しかけてみようと思ったけれど、汗が吹き出してきて、頭がぼおっとしはじめる。落ち着け、落ち着けと言い聞かせる。そのうちお客さんも増えてくる。汗びっしょりの僕はとりあえずその場を逃れるしかできなかった。喉がからからに乾いていた。
そんな僕の、ドキドキの一日。

ご冥福をお祈り申し上げます。

2019年11月23日土曜日

岸本佐和子『ひみつのしつもん』

神宮第二球場が取り壊される。主に高校野球の公式戦に使用されることが多かったため、高校球児の聖地などと新聞などに書かれていたが、実際はただのポンコツ野球場である。
人工芝はお隣、神宮球場のお古が敷かれているという。実際にグラウンドに立ってみたことはないけれど、観客席から見る限り、緑色のゴム製シートを貼ってあるだけに見える。そのグリーンもところどころ(というかかなり)剥げてしまって、黒いゴムの下地のようなものが見えている。一般に想像される芝というテクスチャーもほぼなくなっているのか、雨上がりの試合ではあっちですってんころりん、こっちですってんころりんと守備についた選手がすべって転ぶ。最近では雨が降った降らないにかかわらずすべっている選手を見かける。あんまりじゃないか。
さらにこの球場は狭い。日本の国土がそもそも狭いうえ、港区新宿区渋谷区に囲まれ、まさに都会の真ん中に位置しているのだから、狭いのは仕方ない。同じ広さのマンションが買えるかと言われたら、返事に窮する。夏の西東京大会などで使用される郊外の球場は地の利を活かしてか、それなりの広さがある。東東京の球場でも江戸川球場、大田スタジアムなどはまあまあ広い。金持であることと尊敬されることが違うように、球場は広さだけではないとは思うけれど、狭い球場は狭いだけでちょっと残念である。強いて言えば、観客席のシートとその間隔が少し広い。どうでもいいことかもしれないが、これは唯一、神宮第二球場が誇れる美点であろう。
岸本佐和子のエッセーは『なんらかの事情』『ねにもつタイプ』に続いて三冊目。もの忘れだとか子どもの頃の話なんか歳が近いせいかみしみしと沁みてくる。発想や着眼点のユニークさは翻訳家ならでは、という感じがする。あたたかいか寒いかは別にして、懐が深い。
こんなポンコツ野球場、とっとと壊してしまえばいいと思っているのに、なぜだろう、この寂しさは。

2019年11月19日火曜日

保田武宏『志ん生の昭和』

NHK大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺~」で森山未來とビートたけしが古今亭志ん生を演じている。本来の主眼である東京オリンピックより、志ん生の半生がおもしろい。僕にとってこのドラマは、志ん生の物語だ。
「いだてん」といえば、大塚の足袋専門店播磨屋の店主役に、不祥事で降板したピエール瀧に代わって三宅弘城が抜擢されている。ある薬品会社のテレビコマーシャル制作の仕事で30年ほど前に会ったことがある。
バブル経済の時代。コンシューマーに名前の知られていない企業を中心にリクルートCMがさかんに制作され、放映された。僕が担当した薬品会社もBtoB(ビジネス・トゥ・ビジネス)という企業対企業のビジネスを展開する広告主だった。若い人たちに支持されるような広告を打ちたい。知名度を高めたい。当時そうしたオーダーは多かった。
ターゲットに近い年齢の出演者になにがしかおもしろいパフォーマンスをさせてみてはどうかという企画が決まり、オーデションを行った。そこにやってきたのが三宅弘城である。明るくはきはきした性格で小柄ではあったが、圧倒的に目立つ存在だった。なにか他の人にはまねのできないことをやって見せてくれないかと注文したところ、その場でバック転をしてみせた(オーデションはもちろん合格し、撮影本番の日もカメラの前で元気いっぱいにバック転を見せてくれた)。
著者は元新聞記者で演芸に造詣が深い。噺家としての志ん生の成長成熟を事実から迫る。好感の持てる一冊ではあるが、そのぶんドラマティックではない。結城昌治の創作を好むか、ノンフィクションとして仕上げられたこちらを好むかは読者の判断によるだろう。
三宅弘城は、それからしばらく忘れていたけれどそのうちときどきテレビドラマで見かけるようになった。若かりし頃、少し緊張しながらもバック転を決めてくれた三宅君を見るにつけ、たいへんなつかしく思うのである。

2019年11月15日金曜日

獅子文六『悦ちゃん』

古い本の奥付で見ると筑摩書房は、神田小川町にあったことがわかる。いつしか台東区蔵前に移転していた。以前、高校の友人T島としばらくぶりに会って名刺を交換するまで知らなかった。
浅草橋の問屋街は縁あって、幾度か訪ねたことがあるが、蔵前は知らない。子どもの頃は国技館があった。少年時代の大相撲の記憶のほとんどがこの地にあるというのに。
筑摩書房の社屋の一階を蔵前ちくま書店として書籍を販売する催しが先日あった。友人がいるからということもあるが、比較的筑摩書房の本は好きな方だ。梨木香歩の『ピスタチオ』や『水辺にて』など今でも娘の部屋の書棚に残っている。新書や文庫もよそと横並びのようなタイトルではなく、ユニークな品揃えだ。とりわけ文庫はホームランやあざやかなヒットより、小技を利かせた渋いニッチな作品が刊行されている。当たりはずれはもちろんあるものの、毎月の新刊情報が楽しみである(ついでに言うとちくまプリマー新書もいい)。
そんなこともあって蔵前ちくま書店を訪ねてみる。
店内の書架には文庫、新書、単行本が並ぶ。なかなかの眺めである。お客さんも多い。盛況だ。おもしろそうな本はないかさがしてみるが、これだけ多いとさがすのも面倒だ。しばらくしてT島が下りてくる。この書架はいつも通りの陳列だという。なあんだ。
話題になっている本は平積みされている。新刊本は入口付近にまとめて置かれている。新刊の単行本(岸本佐和子『ひみつのしつもん』と文庫の新刊(ナカムラクニオ『村上春樹にならう「おいしい文章」のための47のルール』)を購入する。他にも読みたい本はあるのだが、電子書籍化されているものも多く、荷物になるのでその日はここまで。
この小説は獅子文六最初の新聞連載小説だという。連載期間の1936~37年だから、実の娘が11~12歳。白百合学園に通っていた頃かもしれない。
ちくま文庫の獅子文六、読了したのは、これで9冊目だ。

2019年11月12日火曜日

結城昌治『志ん生一代』

今は亡き古今亭志ん朝師匠に会ったのは四半世紀以上昔のこと。
1993年11月、高級ふりかけ錦松梅のテレビコマーシャル撮影のときだ。志ん朝師匠が出演するCMは昔からあったのだが、それからずいぶん年月が経ち、師匠も風格が増してきたので新しく撮りなおすことになった。その絵コンテを描いて、クライアントに提案し、一連の手続きの後、調布のスタジオで撮影本番を迎えることになった。
師匠が座敷でくつろいでいると来客がある。「お客さんかい?何?錦松梅?」どうやら贈りものか手土産が錦松梅だったという話。「錦松梅って、あの錦松梅?あったかいご飯に最高の錦松梅?器もいい錦松梅?上がってもらいなさい上がってもらいなさい」とすっかり上機嫌に。ここで突如疑心がわく。「で、本当に錦松梅なんだろうな」ってさげ(たいしたさげではないが)。
当日演出のI田さんと控室で内容の確認を行う。I田さんは大学時代に落語研究会に所属し、中学生の頃から志ん朝師匠の大ファンだという。傍から見ても緊張しているのがわかる。師匠が言う。「ここんとこですがね、あったかいおまんまじゃだめですかね」と。言われてみれば、ごはんじゃちょっと冷めた感じだし、落語っぽくない。クライアントも同意してくれて「あったかいおまんまに最高の錦松梅」となった。
落語好きだった父は、若手でいいのは談志(立川談志)か志ん朝とよく言っていたっけ。父にとって新進気鋭の噺家も僕が出会った頃はもう貫禄十分、脂が乗り切っていた。面と向かって話をするには恐れ多いくらい輝いていた。そのわりに話しぶりはやさしく、人当たりも柔らかかった。
破天荒な人生を歩んだ古今亭志ん生も次男強次(後の志ん朝)が生まれ、志ん生を襲名したあたりから、芸に磨きがかかったように思われる。その後、慰問で満州に渡り、終戦を迎え、食うや食わずで帰国する。
最愛の次男強次が志ん生をがんばらせたのかもしれないなどと思う。

2019年11月9日土曜日

獅子文六『沙羅乙女』

今年は獅子文六没後50年ということらしいが、人類がはじめて月に降り立って50年というほどには世の中を騒がせているわけではない。それでも12月には横浜の神奈川文学館で「没後50年獅子文六展」が企画されているし、ラピュタ阿佐ヶ谷では9月から「獅子文六ハイカラ日和」と題して映画化された作品を特集して上映している。
獅子文六原作の映画では以前「てんやわんや」を観ている。どうして舞台が宇和島なのかその頃はわからなかったが、自伝的小説である『娘と私』を読むと戦後、住む家がなくなって宇和島に疎開したことがわかる。
ここのところ、筑摩書房で獅子文六作品を文庫で復活させている。昭和の人気作家をもういちど読み直してもらおうというその着眼点はおもしろい。そうでもなければおそらく読むことはなかったであろう作家である。
この作品は1938年に東京日日新聞に連載され、2年後には東宝映画制作で映画化されている。監督は佐藤武。同じころつくられた作品に「チョコレートと兵隊」という戦意高揚のための国策映画がある。2004年にアメリカで発見され、国立映画アーカイブに保存されている。日本人の文化や生活を知るためにアメリカが没収し、長いこと幻のフィルムと呼ばれていたそうだ。
映画「沙羅乙女」の原版ないしはプリントはどこかに保存されていて、どこかで上映されたのだろうか。1930年代に刊行され、映画化された『悦ちゃん』と『胡椒息子』は戦後、テレビドラマ化されている(『悦ちゃん』なんてついこのあいだのことだ)。『沙羅乙女』の映像復活はあるのか。
夢を追いかけるだけの父と夜学に通う弟を養うため、煙草屋の雇われ店主として生計を立てる娘・遠山町子。ふたりの若者が町子に求婚する。ひとりはエリート銀行マン、もう一方は故郷を離れ、菓子職人として独立することを夢見ている。
人間関係の狭間で揺れ動く町子の健気さがいい。映画で観てみたいものだ。

2019年11月6日水曜日

ロバート・ホワイティング『野茂英雄 日米の野球をどう変えたか』

名もない弱小野球チームに磨けば光るだろうが、磨かれる機会のないままプレーを続ける隠れた逸材があり、ひょんなことから覚醒し、つられてメンバーもレベルアップ、多少の艱難辛苦はありながら、ついには全国制覇を成し遂げる…。そんなお話は少年漫画の世界であって、実際にはほぼありえない。野球に限った話ではないが、大概のスポーツはその競技の世界(ある種のシステム、あるいはヒエラルキーのような世界)がちゃんとつくられていて、その内側で頭角をあらわし、評価されたものが次のステージへステップアップしていく。
野球でいえば、リトルリーグ、シニアリトルから甲子園常連の強豪校に進学するとか、中学生の大会で実績をつくって、といった進路がパターンとしては多い。たとえ甲子園に出場することができなくても大学に進学し、体育会で続けたり、社会人として、あるいはクラブチームで活躍の機会を得るということもある。現在プロ野球で活躍している選手のキャリアを紐解くとほとんどそれなりのステップを踏んでいる。次のステージにすすめるということはなにがしかの注目を集めるだけの選手であるということだ。
野茂英雄には輝かしい球歴はなかった。大阪府大会ではベスト16どまり。プロから誘いを受けたらしいが、社会人野球に進む。都市対抗野球に出場し、日本代表としてソウルオリンピックに出場、銀メダルを獲得する。一躍アマチュアナンバーワン投手としてドラフト1位指名を受け、近鉄バファローズに入団する。1989年のことである。
独特な投球フォームといい、そのキャリアといい、突然変異的に野球のヒエラルキーに飛び込んできた野茂英雄は、日本的精神論的献身的野球に無縁な存在であり、周囲に惑わされることのない孤高のエースだった。メジャーリーグに挑戦したことも野茂の野球人生においては至極当然のことだったのではないだろうか。もちろん野茂は何も答えてくれないだろうが。

2019年11月2日土曜日

三遊亭圓朝『塩原多助一代記』

母方の祖母は明治に生まれ、昭和59(1984)年に他界している。
母の実家は久五郎という屋号だった。僕たちは久五郎のおばあさんとか白間津のおばあさんと呼んでいた。白間津というのは千葉県七浦村(現南房総市千倉町)の集落で、白浜町と隣接している。
祖母の実家はもともと庄屋だったのだろうか、門構えのある立派な家だった。曾祖父は村長だった。村の小学校の終業式や卒業式には燕尾服を身につけて、来賓席に座っていたと母が言う。
祖母は長女でしっかり者ではたらき者だった。格式のある家で育ったせいもあるだろうが、家というものを重んじ、跡取りの長男をたいせつにしていた。戦後まもなく祖父が若くして亡くなった。そのせいもあるだろう。
夏休みは南房総で過ごし、伯父の息子きょうだいと姉と僕の4人で遊んだ。祖母の家の玄関には雑巾が置いてある。足を拭いて上がれという意味だ。いとこたちはお構いなしに上がる。姉と僕は足を拭く。座敷の畳に付いた足跡を祖母が見つける。怒られるのはいつも僕だった。姉は女の子だし、如才なく立ち回りがうまい。外孫で愚図で要領の悪い僕が恰好の餌食になる。
母が結婚するのに祖母が強く反対したという話を聞いている。祖母の風当たりが強かったのはそんなことも関係しているのかも知れないが、よくわからない。
『塩原多助一代記』は、昭和のはじめまで修身の教科書にあったという。久五郎のおばあさんがきっと好きだった話に違いない。
その後、祖母は東京に連れてこられて伯父の家で暮らしていた。受験が終わり、大学に受かった話をしに行く。おまえのおっかさんは勉強ができたし上の学校に行きたがってたけど、行かせられなかった、なんて話をする。母が高校に行きたかったという話は本人からなんども聞かされている。そして、それでおまえは何になるんだと訊ねられた。その頃は、何になるつもりもなかったのでうやむやな答しかできなかった。
その恥ずかしさだけが記憶に残っている。