2017年6月30日金曜日

山本周五郎『つゆのひぬまに』

日本には季節が四つあるが、野球には春夏秋と三つの季節がある。
これは個人的に季節分けをしているだけで世の定めでも自然の摂理でもなんでもない。3月から5月が春、6月から8月が夏、9月から11月が秋。
春。高校野球でいえば、甲子園球場で選抜大会が開催され、春季地区大会の予選がはじまる。大学野球の春季リーグ戦、社会人野球もJABA(日本野球連盟)主催の大会が各地でスタートする。もちろんプロ野球もだ。
高校野球の地区大会が終わり、都市対抗野球の代表が決まって春野球は終わる。
夏野球は大学選手権から。高校野球も選手権大会の予選がはじまる。7月になれば毎日のように甲子園をめざすチームが熱戦を繰りひろげ、社会人は東京ドームで日本一を競う。そして8月には甲子園。
大学選手権は35季ぶり東京六大学春季リーグ戦優勝の立教大が59年ぶり4度目の優勝を飾った。立教は長嶋茂雄がいた昭和32年と翌33年に連覇している。それ以来の優勝ということで決勝戦は多くのOBが神宮球場に集まったという。もちろん長嶋さんも。
主将の熊谷敬宥は仙台育英時代に上林誠知(ソフトバンク)らとともに明治神宮大会で日本一を経験しているが、長嶋茂雄の目の前でインタビューを受け、チームメートに胴上げされるなんて一生の宝物だろう。
山本周五郎の珠玉の短編集を読む。冒頭の「武家草鞋」からすばらしい。「おしゃべり物語」も「妹の縁談」もいい。なんといっても表題作「つゆのひぬま」がいい。この原作をベースに黒澤明が脚本化した「海は見ていた」はその後遺志を継いだ熊井啓が映画化した。遺作「まあだだよ」の後作品化された「海は見ていた」と「雨あがる」の二編は黒澤最晩年期の仕事である。「海は見ていた」はぜひ観てみたい。
6月ももう終わる。来月は都市対抗野球に高校野球選手権大会。大阪や西東京など有力校がそろった地方大会からも目がはなせない。
この夏はどんな野球にお目にかかれることか。

2017年6月27日火曜日

ウィリアム・サマセット・モーム『月と六ペンス』

2009年、国立近代美術館でゴーギャン展を観た。
「我々はどこから来たのか我々は何者か我々はどこへ行くのか」が日本ではじめて公開された。1897~98年に描かれたこの作品は世界的に高く評価されている。ボストン美術館まで出向かずに観ることができたのはラッキーだった。
ポール・ゴーギャン(ゴーガン)のタヒチでの日々は自伝的回想『ノアノア』に描かれている。
モームの『月と六ペンス』をはじめて読んだのはいつ頃だろうか。新潮文庫で読んだ記憶がある。装幀に特徴があったからだ。いつしか光文社の古典新訳文庫シリーズの一冊として上梓されていた。ゴーギャンをモデルにした小説だったことは憶えてはいたものの、あらためて読み直してみると人の記憶なんてこんなものかと思う。
ゴーギャン(もちろんチャールズ・ストリックランドのことだ)がこの世のものとは思えないくらい最低な人間として描かれている。突如として迸り出た主人公の天才、その深さ奥行を際立たせる演出かも知れないが、あんまりだ。モームが本当に描きたかったのは実はストリックランドと対比される凡庸な人びと(妻を寝とられた友人ストルーヴや突如裕福な生活が舞い込んできた夫人)だったのだろうか。
僕の記憶の中のストリックランドはある日才能にめざめ、タヒチにわたって開花した天才画家というストーリーでしかなかった(世界的に認められたのはその死後であるけれど)。おそらく年月とともに読んだ当時の記憶が薄れ、その後作品を観たり、別の本を読んでいくうちにいやな人ではなくなってしまった。『月と六ペンス』もゴーギャンの伝記的小説でしかなくなってしまった。
それでしばらくぶりに読み直してみたら「あれ、こんなひどい人間だったっけ」となってしまったわけだ。
そういえば昔タヒチを訪れたことがある。ゆるやかな時間が流れていた。
ゴーギャンの時代はマルセイユから2か月かかったという。
きっと心が洗われる旅だったにちがいない。

2017年6月20日火曜日

関川夏央『昭和が明るかった頃』

CM制作会社でアルバイトをはじめて何度目かの撮影現場ではじめて吉永小百合を見た。
ある飲料のお中元用のテレビコマーシャルだった。
映画やテレビ番組などさほど多く出演しておらず、テレビコマーシャルも4~5社と契約していたが、それ以上は出演しないというのが事務所の方針だったと聞いた。
全盛期の吉永小百合を知らない僕たちの世代にとって彼女は圧倒的なスターだった。もちろん全盛期を知る上の世代にとってもこれは同じことだろう。シズル撮影(僕たちはグラスに注ぐ飲料のカットを撮るためにグラスを磨いたり、氷を削ったりしていたのだ)の準備のかたわら、照明機材の隙間から遠く見る吉永小百合は光彩を放っていた。
吉永小百合は何を演じても吉永小百合である。体当たりの演技や汚れ役ができない。そんな批判も一方であったという。関川夏央は吉永小百合の全盛期は1962年春(浦山桐郎監督「キューポラのある街」)から64年秋(清水邦行監督「愛と死をみつめて」)と言い切る。それ以降一本もヒット作がないにもかかわらず神話的な存在でありえたのはその全盛期に団塊の世代とその上の男たちが清純派として冒しがたい空気をまとった吉永小百合像をつくってしまったからだという。
吉永小百合が日活のトップスターになった背景には石原裕次郎が61年スキーで大けがをしたこともある。
関川夏央は吉永小百合と石原裕次郎を対比させながら、戦後激流の時代を読みとる。吉永小百合に関しては当時の社会の変化や日活という環境、そして勤労少女たらざるを得なかった彼女の家庭環境、そして生真面目な性格がキャパシティの小さな女優として早熟な運命を課してしまったのかもしれない。
もちろん作者のめざしたところは娯楽映画の歴史や俳優論ではなく「ある時代の思潮と時代そのものの持つ手ざわり」(文庫版あとがき)である。
関川夏央が愛してやまない戦後昭和の第二期(昭和35年から15年)がそこにある。

2017年6月13日火曜日

安西水丸『神が創った楽園』

1992年9月から10月にかけてニューヨークに遊びに行った。
当時のメモにはセントラルパークの回転木馬(『キャッチャー・イン・ザ・ライ』に出てくるあの回転木馬だ)を見ること、安西水丸がニューヨーク滞在中住んでいた家をさがすこと、トイザらスでおもちゃを買うこと、TYMNETという中継サービスを利用してパソコン通信をすることといったささやかな目標が記されている。
安西水丸は1969年3月羽田空港を立ち、ハワイ経由のパンナム機で渡米した。はじめはハドソン川のほとり、リバーサイドドライブにあるアパートに住み、その後アッパーイーストの閑静なアパート(たしか83st.だったと思う)に引っ越している。
1990年、僕はタヒチを訪れている。新婚旅行でだ。
特にどうしても行きたい場所が思いつかなかった。当時は毎日忙しかったから、日常から逃避できる南の島がいいんじゃないかと思った。できればフランス語圏がいい。選択肢は狭まってきて、行き先はタヒチに決まった。予備知識はなにもなかった。パペーテからプロペラ機に乗り換え、海の上の空港に着き、船でボラボラ島へ。ポール・ゴーギャンやサマセット・モームの『月と六ペンス』を思い出したのは到着してしばらくたってからのこと。
安西水丸は2004年にタヒチ・ビバオア島を訪れている。
彼の訪ねた町や通ったバーなど、僕はいつも後を追いかけるように訪問していたが、めずらしいことにタヒチに関しては僕の方が先輩である。とはいえやはり絵を描く人だけあって、ゴーギャンの足跡を追っている。ぼんやり海をながめながらヒナノビールを飲んでばかりいた輩とはちょっとちがう。
そもそも僕は「何もしない」をしに行く旅だったのでパペーテとボラボラ島以外は訪ねていない。複製だらけのゴーギャン美術館に行った気もするが記憶にない。
ちなみに僕はニューヨークに行ったのにストロベリーフィールズを訪ねていない。

2017年6月12日月曜日

一坂太郎『幕末歴史散歩東京篇』

表記といえばやはり外来語の表記は難しい。
以前にも書いたけれど本来日本語ではない言葉を日本語に置き換えるわけだから誤差が生じるのは致し方ない。最近ツイッターやインスタグラムに投稿する際のハッシュタグで迷うことが多い。
たとえば#ラーメンと#らーめん。これはカタカナ表記するかひらがな表記するかだけの違いだからまあどちらでもよい。汁物のラーメンは日本で生まれた文化だかららーめんと書くのも一理ある。もちろん拉麺と表記することもあるだろう。漢字にしておくことで翻訳というワンクッションを避けるねらいもあろう。Babyと書いておけばベイビーでもベイビィでもベイベでもそのニュアンスは読み手にゆだねてしまえる。
焼売はどうだろう。これもシューマイかシュウマイで迷う。携帯電話をケイタイとするかケータイにするかに近い感触をおぼえる。シューマイはどうも軽薄な気がする(実にどうでもいいことであるが)。インスタグラムのハッシュタグで多数派は#シュウマイである。僕もカタカナで書くならシュウマイの方がいいと思っている。ただし、炒飯はチャアハンではなくてチャーハンだろうというご批判もあるだろう。それもよくわかる(わかったところでどうしようもないのだが)。
中公新書の『幕末歴史散歩東京篇』を読む。著者はもともと山口県の学芸員だったそうだ。仕事の合間や出張のついでに訪ね歩いたのだろう。膨大な史跡コレクションには感服する。
落語「居残り佐平治」、川島雄三監督の映画「幕末太陽傳」の舞台となった品川宿の土蔵相模の復刻模型が品川歴史館にあることを知る。東京到る処史跡ありだ。
ところで外来語ではないのだが、冷やし中華は冷し中華か、冷やし中華で悩むことがある。初夏の訪れを告げるいわゆる「はじめました」の貼り紙には冷し中華が多い気がしているが、インスタグラムのハッシュタグでは#冷やし中華の方が多数派である。
ほんとうにどうでもいいことではあるが。

2017年6月6日火曜日

関川夏央『昭和時代回想』

先日ある動画を編集していたときのこと。
何か気になるところはありますかと意見を求められたので、インタビューシーンのテロップ「良かった」は「よかった」の方がいいんじゃないかと言ってみた。ディレクター氏がここのインタビューではひらがなが続くのでここは漢字にしておきたいというのでじゃあそうすればと答えた。ひらがなが線路のようにどこまでも続こうが「良い」は「よい」もしくは「いい」であると個人的には思っている。もちろんこれはあくまで個人的な話なので他人様に強要することではない。
個人的な話を続けると「何々するとき」「なになにしたこと」は「する時」「した事」と表記しない。ひとつに文章が古くさく感じられるせいだが、もちろん個人的な話だ。
長いこと広告制作の仕事にたずさわっていると印刷媒体にくらべると映像媒体の制作者の方が漢字を使いたがる。テレビという限られたスペースで文字数を節約しようとの配慮だったかもしれない。僕が個人的にあまり漢字を多用しないのは漢字をあまり多用した文章を読む機会が極端に少ないからだ。
わざとらしい漢字表記もいかがなものかと思う。「おいしい」を「美味しい」と書くのはちょっと恥ずかしい。「はやり」を「流行り」とするのは何となく気が利いていると思う。
関川夏央がふりかえる昭和が好きだ。昭和をいとおしむ姿勢と視線が好きだ。
これまで読んできた筆者の本にはほとんど言及されていなかった彼自身の昭和も描かれている。僕が生まれ育った時代、その10年前に思いを馳せてみる。昭和は案外いいやつな顔をしてそこにたたずんでいる。
関川によれば戦後昭和は15年刻みでその相を変えているという。終戦から昭和35年までの混乱と復興の時代。35年から50年までの高度経済成長とその挫折の時代。さらに昭和の終焉とバブル景気の時代。非常にわかりやすい分類だ。
あっという間に過ぎ去っていった昭和。今にして思えばなんてもったいないことをしたか。

2017年6月2日金曜日

内田百閒『阿呆の鳥飼』

黒沼真由美というアーティストがいる。
学生時代は油画を専攻していた。大学院修了後テレビCMの制作会社で企画にたずさわりながら、どちらかといえば立体の造形に関心が移っていったようだ。正直に言ってひと目見ただけではよくわからないオブジェをつくっていた。
あるとき目黒寄生虫館を訪れた際、何か閃いたのだろう、レース編みでサナダムシを編み上げた。以後レース編みを駆使してミジンコやらセミやらクラゲなどをつくっている。
もともと生き物が好きだったのだろう。隻眼の猫を飼い、競馬中継を丹念に視聴し、セミの抜け殻を集めていた。疾駆する競走馬の筋肉の動きをスケッチしたりしていた。
普通の人には見えないものが見えている。それが芸術家の芸術家たる所以ともいえるが、そういった資質を彼女は持っていた。動きから構造が見えてくる。その逆もある。しくみから動きが見えてくる。もちろんそんなことは凡人には見えてこない。長いこと同じ職場で仕事をしていたが、幸か不幸かさして影響を受けることもなった。ただひとつ黒沼真由美の影響をあげるとすれば内田百閒を読みはじめたことかもしれない。
『阿房列車』を皮切りに内田百閒との旅がはじまった。
鉄道や列車はもともと好きだったので思いのほか苦も無くこのとっつきにくい先生と親しくなることができた。用もないのに列車に乗りに行くことが正当性のある行為であるということもおしえてもらった。百閒先生は黒澤明監督「まあだだよ」でかつての教え子たちに「せんせい!せんせい!」と呼ばれている。僕もおそらくそのなかのひとりだと思っている。そして先生は鉄道だけでなく、猫だけでなく、小鳥に関しても阿呆だとこの本におそわる。そういえば映画の中で先生は鳥かごをだいじそうに運んでいたっけ。
この本には小鳥に限らず、小動物を愛でる百閒先生の気持ちが随所に描かれている。思わず涙が浮かぶ。笑みがこぼれる。まるで黒沼真由美の毎日を見ているようである。