9月も半ばを過ぎたというのに猛暑が続いている。さすがに朝晩は凌ぎやすくなったというものの湿度は高く、涼しさも生温い。暑さ寒さも彼岸までと昔の人は言ったものだが、もう少し夏が続きそうである。
近年の傾向として、春から急激に真夏になり、夏から短い秋を経て冬が訪れる。陽気のいい春と秋が極端に短く感じられる。日本という国家の将来も心配だが、日本の気候も同様に悩みの種である。
1980年頃から構造主義という学術思想のジャンルを耳にするようになる。僕がわからないなりに構造主義に関心を持ったのは82年に『野生の思考』を読んでからだ。どうしてその本を手にとったのか、当時のことはまったく憶えていない。テレビかラジオでその存在を知ったのだろうか。
それまで学んだことは西洋の思想であり、文学であり、科学であった。あくまで西洋文明が前提となっていた。非西洋であるアジア、アフリカ、南アメリカ、オセアニアに文明があるとは信じられていなかった。そうではない、非西洋にも西洋と同じものの考え方や風習、制度があるということを示してくれたのが構造主義だった(と、おそらくその程度の理解しか持っていなのだが)。
今の世の中は弱者に手厚い。女性や子ども、障がい者たち、近年では性的少数者にも光を当てている。こうした一面的なものの見方を克服してきた背景には構造主義的な考えがあるのではないだろうかとひとり勝手に思っている。
『野生の思考』以後、構造主義入門であるとか構造主義とは何かといったタイトルの本を何冊か読んでみた。深い理解は得られなかった。そんな流れでクロード・レヴィ=ストロースのもうひとつの大作『悲しき熱帯』に出会った。
これは文化人類学や構造主義の専門的な本ではなく、著者がブラジルを旅した紀行文である。気楽に読めて、未開文明に対する興味が自然に湧いてくる。レヴィ=ストロースの懐の深さが感じられる一冊である。
2024年9月20日金曜日
2024年9月10日火曜日
江國香織『読んでばっか』
たしか6月だったと思う。昼間聴いていたラジオ番組のゲストが江國香織で新作の自著を紹介していた。読書論あるいは読書日記的な本なのだろうと思い、興味を持った。区の図書館で予約する。
江國香織は30年ほど前によく読んだ作家のひとりだ。当時は川上弘美や角田光代の作品も好んで読んでいた。江國の綴る文章の美しさにはとりわけ魅せられたものだ。
8月の半ばを過ぎて、ようやく貸出の用意ができましたとメールをもらう。2ヶ月待った。やはり話題の本なのだ。
ところがどうだろう。目次を追っても、所々目を通してもあまり楽しくない。僕が読んだ本が少ないのである。読んだことのない本の感想などあまり読みたくはない。もちろん読みたく思わないのはこちらの都合で著者の圧倒的な読書の量と質についていけないのである。そうこうするうちに返却期日が近づいてきた。佐野洋子のところだけ読んで、返しにいった。
手にした本を必ず読んでいるわけではない。買ってはみたものの読まなかった(読めなかった?)本はいくらでもある。代表的なのはマーシャル・マクルーハンの『メディア論』だ。たぶん公私ともに忙しかった30代の頃だろう。広告に携わる者としてマクルーハンくらい読まなくちゃみたいな風潮が当時あった。あったかどうかはわからないが、自分自身のなかにそんな風潮があった。あったというより勝手につくっていた。読みはじめて数十頁で読めなくなる。しばらくそのまま放置する。1~2年経ってもういちど最初から読んでみる。やはり数十頁で読めなくなる。放置する。こんなこと何回か繰り返していた(何回かも覚えていない)。この本はたぶん書棚のどこかに眠っているはずだ。そろそろ最後のトライをしてみてもいいかも。
そもそもこのブログは本を読んで感じたこと考えたことを今の生活や思い出などと照らし合わせて好き勝手に綴っている。読まなかった本について何かを書くのははじめてのことだ。
江國香織は30年ほど前によく読んだ作家のひとりだ。当時は川上弘美や角田光代の作品も好んで読んでいた。江國の綴る文章の美しさにはとりわけ魅せられたものだ。
8月の半ばを過ぎて、ようやく貸出の用意ができましたとメールをもらう。2ヶ月待った。やはり話題の本なのだ。
ところがどうだろう。目次を追っても、所々目を通してもあまり楽しくない。僕が読んだ本が少ないのである。読んだことのない本の感想などあまり読みたくはない。もちろん読みたく思わないのはこちらの都合で著者の圧倒的な読書の量と質についていけないのである。そうこうするうちに返却期日が近づいてきた。佐野洋子のところだけ読んで、返しにいった。
手にした本を必ず読んでいるわけではない。買ってはみたものの読まなかった(読めなかった?)本はいくらでもある。代表的なのはマーシャル・マクルーハンの『メディア論』だ。たぶん公私ともに忙しかった30代の頃だろう。広告に携わる者としてマクルーハンくらい読まなくちゃみたいな風潮が当時あった。あったかどうかはわからないが、自分自身のなかにそんな風潮があった。あったというより勝手につくっていた。読みはじめて数十頁で読めなくなる。しばらくそのまま放置する。1~2年経ってもういちど最初から読んでみる。やはり数十頁で読めなくなる。放置する。こんなこと何回か繰り返していた(何回かも覚えていない)。この本はたぶん書棚のどこかに眠っているはずだ。そろそろ最後のトライをしてみてもいいかも。
そもそもこのブログは本を読んで感じたこと考えたことを今の生活や思い出などと照らし合わせて好き勝手に綴っている。読まなかった本について何かを書くのははじめてのことだ。
2024年9月1日日曜日
ジャン=ジャック・ルソー『新エロイーズ』
8月はあっという間に過ぎ去っていった(今年の8月に限ったことではないけれど)。
別段、何かしていたわけでもない。この暑さのなか迂闊に外出はしないよう気をつけていた。母が入院していた病院に支払いに行った。南房総に墓参りに行った。図書館まで予約した本を借りに行き、返却に行った。母が退院するので手続きに行った。郵便局と銀行を何度か往復した。少し仕事もした。それくらい。後はオリンピックを見て、高校野球を見て、MLBを見て、じっとして動かない台風10号を見て、要するにテレビを視ているいるうちに8月が終わってしまったのだ。
それにしても今年の甲子園は接戦が多く、ジャイアントキリングが何試合かあってずいぶん楽しめた。霞ヶ浦、小松大谷、大社が印象に残る。来月以降もとっとと過ぎ去ってはやいとこ甲子園がはじまらないかとさえ思う。
ジャン=ジャック・ルソーの『新エロイーズ』を読んだのは大学3年生のときだ。卒業論文はルソーについて書こうと朧気ながら考えていて、すでに何度か読んでいた『エミール』以外の作品を読んでおこうと思ったのかもしれない。
ルソーというと『学問芸術論』『人間不平等起源論』『社会契約論』などやや小難しい著作もあるが、『新エロイーズ』は書簡体の恋愛小説である。高貴な女性と貧しい男性との恋はスタンダールの『赤と黒』を思い出させるが、当時の読書記録によるとスタンダールを読んだ直後に『新エロイーズ』を読んでいる。立て続けに読んだので印象がごっちゃになっている。
ルソーの本をもう一度読んでみるならこの本だろうと思う。手もとに岩波文庫が4冊ある。しかしながら頁をめくった途端にその字の小ささに気が遠くなるのである。当時の僕にはこれくらいの大きさの文字が苦も無く読めたのだ。
21歳の8月は今よりもっと時間がゆっくり流れていたに違いない。暇で暇でたいしてすることもなかったという点は今も昔も変わらないとして。
別段、何かしていたわけでもない。この暑さのなか迂闊に外出はしないよう気をつけていた。母が入院していた病院に支払いに行った。南房総に墓参りに行った。図書館まで予約した本を借りに行き、返却に行った。母が退院するので手続きに行った。郵便局と銀行を何度か往復した。少し仕事もした。それくらい。後はオリンピックを見て、高校野球を見て、MLBを見て、じっとして動かない台風10号を見て、要するにテレビを視ているいるうちに8月が終わってしまったのだ。
それにしても今年の甲子園は接戦が多く、ジャイアントキリングが何試合かあってずいぶん楽しめた。霞ヶ浦、小松大谷、大社が印象に残る。来月以降もとっとと過ぎ去ってはやいとこ甲子園がはじまらないかとさえ思う。
ジャン=ジャック・ルソーの『新エロイーズ』を読んだのは大学3年生のときだ。卒業論文はルソーについて書こうと朧気ながら考えていて、すでに何度か読んでいた『エミール』以外の作品を読んでおこうと思ったのかもしれない。
ルソーというと『学問芸術論』『人間不平等起源論』『社会契約論』などやや小難しい著作もあるが、『新エロイーズ』は書簡体の恋愛小説である。高貴な女性と貧しい男性との恋はスタンダールの『赤と黒』を思い出させるが、当時の読書記録によるとスタンダールを読んだ直後に『新エロイーズ』を読んでいる。立て続けに読んだので印象がごっちゃになっている。
ルソーの本をもう一度読んでみるならこの本だろうと思う。手もとに岩波文庫が4冊ある。しかしながら頁をめくった途端にその字の小ささに気が遠くなるのである。当時の僕にはこれくらいの大きさの文字が苦も無く読めたのだ。
21歳の8月は今よりもっと時間がゆっくり流れていたに違いない。暇で暇でたいしてすることもなかったという点は今も昔も変わらないとして。
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