2019年5月31日金曜日

中野翠『この世は落語』

年寄りは年寄りらしく生きるべきだと考える。
先日も40代のCMプロデューサーに小津の映画ってやっぱりいいですかなどと訊かれる。そんな古い映画をたいして観てはいないけれど、鎌倉に住む以前の作品の方が僕は好きだな、深川とか本所あたりが舞台で、その方が小津安二郎らしさを感じるんだ、「風の中の牝鶏」なんか素晴らしいねなどと(それくらいしか観てないのに)答える。僕が生まれる10年以上前の映画だ。
どうしてそんなことを訊ねられるかを考えると僕がもう傍目にも年寄りだからだろう。年寄りは年寄りらしく生きなければならないと感じる。ところがこれまで歳をとることに真剣に向かい合って来なかった。どうせ歳をとるんなら囲碁でも将棋でもゴルフでも嗜んでおけばよかったと思う。
映画は昔のものを中心に観ている。新作映画を追いかけるのは疲れる。最近映画何観ました?なんて訊かれてもたいして観てないよとうやむやに答える。ジョーン・フォンテインの「旅愁」を観たよ、ありゃいいね、志ん朝の佃祭を思い出したね、なんて言っても場がしらけるだけである。それに古い映画はなつかしいのがいい(当たり前だ)。
実は落語も僕の年寄りプロジェクトの課題のひとつである。
先だっても山本一力の『落語小説集芝浜』を読んで、寝る前にYouTubeで落語を聴くようになったと書いたら、何人か友人から中野翠の『今夜も落語で眠りたい』(という名著があるらしい)をすすめられた。この本は図書館でも貸出中のことが多く、まだ読んでいないけれど電子書籍で同じ著者の別の本(つまり今回読んだ『この世は落語』ちくま文庫)が見つかった。『今夜も落語で』をすすめたひとりはどことはいわないがC書房という出版社にいる友人なのだが他社(文藝春秋)の本をすすめるあたり、なかなか粋だ。
古い映画と落語。あとはなんだろう。盆栽や庭いじり?クラシック音楽やジャズだろうか。歳をとるのもたいへんだ。

2019年5月29日水曜日

吉村昭『月下美人』

 JR中央線の飯田橋駅ホームが200メートルほど市ケ谷寄りに移されるという。
飯田橋駅はその昔水道橋寄りにあった飯田町という駅(貨物駅として1991年まであったというから驚きだ)とこんど移設されるあたりにあった牛込駅が統合されて、つまり真ん中をとってできたという。無理矢理(でもないだろうが)つくられた駅のせいか、線路のカーブしたあたりにホームがある。電車到着のたびに列車とホームの間が大きく空いているところがありますのでご注意くださいとアナウンスされる。とりわけ水道橋寄りでカーブが大きい。そこで少し市ケ谷寄りに移して、列車とホームの間の大きく空いているところをなんとかしようというのだろう。2020年のオリンピックまでの完成をめざしているという。
市ケ谷駅方面から濠端をしばらく歩くと牛込橋の下から新しいホームができているのがわかる。その昔牛込駅があったあたり。牛込駅は知らないが、こんな土手下からどうやって土手上に上がったのだろう。牛込駅は1894(明治27)年、市ケ谷駅は翌1895年に開業している。濠端、土手下という環境は似ているから、おそらくは似たような形状の駅だったのではないかと勝手に想像する。
想像ついで想像すると駅舎は極秘裏に建設され、外濠周辺は数知れぬ棕櫚で覆われたとか、駅舎建設中に水があふれて難工事だったとか、地熱が上がってダイナマイトが自然発火してしまったとか、隠された史実があったかもしれない。あるいは今回の移設工事に関しても神田川に流された工員が漂流者となってカムチャツカに流れ着いたかもしれない。そんなことはない。断じてない。絶対にないかと訊かれたら絶対にないとは言い切れないが、たぶんないだろう。
吉村昭のこの短編集はずいぶん以前に読んだもので、あまり憶えがない。そんなことではいけないと思うものの忘れてしまったことはどうしようもない。こんどあらためて再読することにする。

2019年5月28日火曜日

平松洋子『食べる私』

今年は還暦を迎えるということらしく、まわりが騒がしい。
高校同期の仲間から突然連絡が入り、飲み会が催されたり、部活のOB会では記念品(といっても赤いポロシャツ)贈呈というセレモニーがあって、今年は壇上に上がらされる。ふつうの会社員なら定年退職だ。実際誕生月以降は給与を半減されて延長雇用となる友人も多い。もちろん本当のところはわからない。月給が半分になっちゃうんですよと言えと言われているだけでほんとは今まで以上にもらえるのかも知れない。収入のことなんか本人以外にわかるはずがない。
僕が30歳になる少し前まで定年は55歳が普通だったと記憶している。それが60歳になって、そのうち65歳になり、いずれ70歳になるだろうなどといわれていた。延長が制度化された企業も多く、実質65歳定年というのはほぼ実現されているといえるだろう。60歳ないしはその前の段階で会社に見切りをつけて、個人事業主となる人も多い。これまで長く培ってきたスキルや人脈を活かして独立しようという発想である。たしかに今まで一生懸命働いてきた人が急に仕事を辞めてしまうのは心と身体によくないだろう。
いずれにしても歳をとることをあまり根詰めて考えてもいい方向に道は開けていかないような気もしているので、なるようになるだろうくらいの気持ちでいる。
平松洋子の本といえば、本人がおいしいものを食べて語ってもらう、何々をどこどこでというシリーズをよく読んだ。シズル感のある文章が素敵な人だと思った。年齢も近く、背景に同じものを持った人だということも印象をよくしている。
この本は食をめぐる本格的な対話(対談、座談ではなく対話だとあとがきに綴られている)だ。さまざまな分野の方々と会って、食をめぐる話をくりひろげる。その守備範囲は広大で読みながら人によってはどこにフォーカスを合わせていいのか少し戸惑う。どちらかといえばもう少しお気楽な食べもの談義の方が好きだ。
つまらない話をしてしまった。

2019年5月21日火曜日

向田邦子『夜中の薔薇』

数独というパズルにときどきトライしている。
レベルの設定が何段階かあり、初級から中級はさほど難しくないけれど、上級となると何十分もかかることがあるし、エキスパートとなると手も足も出ない。じっとながめているだけで時が過ぎてゆく。
毎日新聞の夕刊に載っている。平日は初級だけれど土曜日は中級。少々手ごわいがやりがいもある。まったく関係のない話だが、平日の夕刊にくらべて土曜の夕刊は長閑な気分が味わえるから好きだ。
数独の本も出ている。電車のなかで鉛筆を片手に解いている人を見かける。相当好きなんだろう。そういう僕もこのあいだスマホに数独のアプリを入れた。これで寝る前とか電車の中で楽しめるようになった。手軽にできるようになったことは悪いことではない。ただ、紙と鉛筆で挑む数独と電子的な数独は少し違う。
アプリの場合、間違いに対して寛容じゃない。紙であれば仮に正答でなかったとしても、書き入れることは自由だ。最後の最後でつじつまが合わなくなってどこで間違えたかわからなくなる。そのときの失望感、無力感、やるせなさこそ数独のきびしさである。アプリでは誤った数字を入れると間違いですよとおしえてくれる。ありがたいといえばありがたいが、間違えに気がつかないまま最後の最後でほら間違ってたでしょみたいな意地の悪さがない。それでいいのかわるいのか、どちらとも言い難い。
もうひとつは論理に裏付けされていない適当な数字もアプリは受け容れてくれる。ここは2か5か、まだ確定できる裏付けのない段階でどちらかを入れればその正誤はわかってしまう。これもまた数独アプリの物足りないところである。ああ、ちくしょうと思いながら消しゴムでいったん全部消してやりなおす。これこそが数独の醍醐味であると信じてやまない。
6年くらい前に読み終えた向田邦子最後のエッセー。手袋の話がよく知られているが、忘れてしまった。あらためて読み直してみよう。

2019年5月14日火曜日

村上春樹『THE SCRAP 懐かしの一九八〇年代』

ちょっと頼まれて1980年代のことを調べている。
80年代といえば、年齢でいうと20代の頃である。少しばかり勤勉な大学生なら医者になってもおかしくないくらい長いこと大学にいて、ろくすっぽ就職もせず、そのうちにテレビコマーシャルの制作会社にアルバイトでもぐり込んだ楽しくも忌まわしき20代の頃である(親にさんざん迷惑をかけていたことを思うと胸が痛い)。とはいうものの、その後の30代、40代と後になればなるほど記憶は薄れていく。
その頃、世の中はどうだったか。宇宙からE.T.がやってきてエリオットの家に寄宿する。ニューヨークには幽霊がたくさんあらわれ、冴えない博士が退治に躍起になる。そしてカリフォルニア州ビルバレーの高校生マーフィーは親友の科学者ドクと30年前にタイムスリップする。
僕はといえばすでに高校生ではなく、大学生とは名ばかりでやることなすことうまくいかない80年代だった。週に何日か、中学生や高校生に勉強を教え(それだって僕が見る勉強なんてたかが知れている)、神田鍛冶町のとんかつ屋でポテトサラダをつくっていた80年代、世界は不思議で愉快なできごとに満ち溢れていた(映画の世界とはいえ)。
この本が刊行されたのが87年の2月。文藝春秋の『Sports Graphic Number』の連載をまとめたものだ。時期的には『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』を執筆していた頃か。アメリカから取り寄せた新聞や雑誌のなかからおもしろそうな、気になった記事やコラムを紹介している。ありがちな企画かもしれないが、村上春樹が紹介するところが他にはない魅力になっているのだろう。
後ろの見返しに「870509」と書かれている。最初に読んだ日付だ。しゃべれるかしゃべれないかはともかく、雑誌の短い記事を読めるくらい英語を勉強しておけばよかった。
なにをどう思おうと勝手だが、今となっては大概のことは後の祭りである。

2019年5月7日火曜日

村上春樹『騎士団長殺し』

平成から令和に変わり、ふたつの時代をまたぐように大きな連休があった。どこへ行くともなく10日間が過ぎていった。
水餃子を食べに出かけた。横浜中華街で簡単な食事をして、伊勢佐木町あたりにあったであろう中華の店を散策しながらさがしてみようと思った。
この時期はまだ完全な春にはならない日が多い。気象予報士なら上空に強い寒気が流れ込み、大気の状態が不安定なると言うところだろうが、一般人の立ち位置からすると要するにまだ冬の名残の残っている春なんだと無理矢理納得するしかない。お店を出たところで雲行きがあやしくなる。雨がぱらつき、やがて稲光とともにヒョウが降ってきた。
一時間ほど雨宿りしているうちに小やみになり、陽が差してきた。関内から伊勢佐木町、横浜橋あたりを歩く。以前からさがしていた中華料理店のあったあたり。その店は近くに移転したのち、取り壊されて更地になっていた。
中華一番本店。今のところ考えられる店はここだけだが、今となってはたしかめるすべがない。もしかしたらここではなかったかもしれない。ここだったかもしれない。さがしていた店は結局おぼろげな記憶のなかにおぼろげなままとどまるのだろう。
帰りは𠮷田町、野毛を歩いて桜木町に出る。暖かかった午前中とは比べ物にならないくらい肌寒い夜になった。
大型連休のあいだに読もうと思っていた村上春樹の新作(といってもすでに文庫化されている)を平成のうちに読み終えてしまった。休みがどことなく手持無沙汰なのはそのせいもある。
村上春樹の物語も少しずつ変化している。主人公は妻帯者で(『ねじまき鳥』もそうだったが)、今回はきょうだいが登場する。職業はあいかわらず社会から隔離されているのとロールプレイングゲームのようなストーリー展開は変わらないけれど。
というわけで連休はリヒャルト・シュトラウスやセロニアス・モンク、ブルース・スプリングスティーンを聴いて過ごすことにした。