2011年3月29日火曜日

新潮社編『江戸東京物語山の手篇』


先週末、BSで映画『時代屋の女房』を観た。
この映画はぼくが生まれ育った品川区の大井町駅周辺でロケ撮影されており、1980年代はじめの大井町駅周辺の懐かしい風景が満載されている。
日本光学(現ニコン)のある西大井あたりから、JRの大井町に向かう光学通りを東に進んでいくと、大井町と大森、蒲田をつなぐ池上通りにぶつかる。その交差点の歩道橋下に時代屋はあった。三つ又商店街と呼ばれるその一帯が主たるロケ地で、さらに大井町駅東口につながる路地や東急大井町線の高架下に並んだ商店街などすでに失われた町がフィルムに残されている。
大坂志郎が店主を演じた今井クリーニング店は今の西大井駅に近い。貨物専用線だった品鶴線には横須賀線の車両が走っている。東海道線の混雑を緩和するため、1980年にとられた措置だ。映画の中ではかなりのスピードで走っている。当時、西大井駅はまだできていなかったのだ。
クリーニング店そばの踏切近くに公園があった。正式な名前ももう憶えていないし、当時みんなで呼んでいた“なんとか公園”という呼び名も失念している。ただぼくたちの小学校の区域ではない他所の公園でときどき遊ぶ、その緊張感だけが記憶に残っている。
『江戸東京物語山の手篇』を読む。
東京の山の手と下町の区分けは思いのほか難しい。実に複雑に入り組んでいる。仕分けするということはたいてい難しいのであるが。

2011年3月27日日曜日

新潮社編『江戸東京物語都心篇』


高校野球春季都大会はブロック予選がなくなり、秋の新人戦の再戦となった(参加校はなぜか47校で秋より1校少ない)。楽しみにしていた日大三対日大鶴ヶ丘もなくなった。
都高野連の発表によれば、この大会で夏のシード権を決めないそうだ。夏の東西選手権はシードなし。これもまた今から波乱含みである。
甲子園の選抜大会では日大三と明徳義塾が初戦でぶつかった。秋の地区大会を優勝している両校のハイレベルな試合だった(エラーも目立つには目立ったが)。走者を出しても、守り切る。打たれても、失点しても連打、連続得点を許さない。そういう試合だった。6対5という得点以上に緊張感があった。
『江戸東京物語』は最寄駅駅前のブックオフで見つけた。
新潮文庫では絶版にされたのだろうか、ホームページ上からも消え去っている。平成14年発行の文庫本がもうなくなっているなんて、ちょっとがっかりである。岩波文庫だと絶版になってもウェブ上では記録が残っているし、神田神保町には岩波の書籍を厚く取り扱っている古書店もある。“売らんかな”というより本をだいじにする姿勢が見え隠れしている。パンダも結構だが、新潮文庫も今以上に本のことを考えていただければと思うのである。
さて、このシリーズには都心篇、山の手篇、下町篇とあって、今回手に入れたのは都心篇と山の手篇。下町篇は捜索本名簿に記載して、後日さがすことにした。
紀尾井町は紀伊家、尾張家、井伊家の頭文字をとったとか、神田錦町は昔、一色さんの邸がふたつあって、あわせて錦となったとか。随所にふむふむがいっぱいであった。

2011年3月23日水曜日

芥川龍之介『蜘蛛の糸・杜子春』


一昨年の夏に岩波文庫版『蜘蛛の糸・杜子春・トロッコ他十七編』を読んだ。これは娘の本棚にあったものだ。
今回読んだ新潮文庫版『蜘蛛の糸・杜子春』には10編が収められていて、そのうち9編は岩波文庫版に含まれている。つまり、岩波文庫版の20編を読めば、新潮文庫版のほとんどを読んだことになる。にもかかわらず、新潮文庫版を古本屋で買ってきて読んだのは(厳密に言うと新潮社版が読みたいとぶつぶつ言ってたのを聞いていた娘がブックオフで105円だったからと買ってきてくれたのだが)、ひとえに「蜜柑」が読みたかったからである。
「蜜柑」程度の長さの短編なら図書館でもネットでも5分もあれば読めるというものだが、なんとなく自分で所有する本で読みたかった。そう思ってしまったんだから仕方ない。
もう20年以上前、とある男性かつらのCMでこんなのがあった。ローカル線の列車の中で車窓を開けようとしている若い女性。昔の列車の窓というのはなかなか開きにくかったものだ。力の入れ方にちょっとしたコツが要る。たまたま相席していた男性が代わりに開けてあげる。開いた車窓から車内に吹き込む風が男性の前髪を強くなびかせる。
車窓の外では幼い弟が旅立つ姉に手を振っている。「強いから、やさしくなれる」というナレーションが耳に残る。
このCMはぼくの師匠ともいえるUさんとMさんが考えた。当然のことながらMさんが思い浮かべた光景は芥川龍之介の「蜜柑」だった。
「ほんとはみかんを投げたかったんだよね」とその昔、Mさんが話してくれた。

2011年3月19日土曜日

レイモンド・チャンドラー『ロング・グッドバイ』


東北関東大震災の被災者の方々に心よりお見舞いを申し上げます。
宮城、岩手、福島、茨城をはじめとして被災地にはいまだじゅうぶんな支援が行き届いていないようである。また都心にいちばん近い被災地といえる浦安も液状化現象、断水に加えて、計画停電が実施されるなど不自由な暮らしを余儀なくされている。
たいへん卑近な話で申し訳ないが、区の体育館の開放も4月まで中止が決まり、週末のスポーツ難民もこれから増えていくかもしれない。またスポーツに限らず、多くのイベントが中止。卓球の東京選手権も取りやめになっている。ご近所のCちゃんがカデットで出場する予定だった。
先週の地震の際読んでいたのが『ロング・グッドバイ』でチャンドラーファン(というかフィリップ・マーロウファン)は身近に比較的多くいたが、はじめて読んでみた。ハヤカワ文庫はカート・ヴォネガット・ジュニアとかアーウィン・ショーくらいしか読んでいない。久しぶりである。
新潮社でもらったブックカバーをかけようとしたら微妙にサイズが合わない。少しだけ大きいのだ、ハヤカワ文庫は。大きな震災とは対称的な小さな発見。一週間かけてようやく読み終わった。
探偵という職業はきわめて英米的な職業で日本で暮らしている限り、そんなかっこいい職業にお目にかかることはない。フィリップ・マーロウはまさに探偵のイデアのような存在である。
それにしてもなかなか手の込んだ読み応えのある一冊だった。村上春樹がなんど読んでも読み飽きることがないというのもわかる気がする。

2011年3月13日日曜日

安西水丸『大衆食堂へ行こう』


たいへんな地震だった。
赤坂見附で鴨せいろを食べ、赤坂エクセル東急ホテル1階にあるコーヒーショップでぼくはレイモンド・チャンドラーを読んでいた。すぐにおさまるだろうとはじめは楽観していたが、次第に揺れが大きくなる。店員が誘導し、外に出された。地下鉄も止まったのだろう、赤坂見附駅からどっと人があふれ出ていた。しばらく地面も揺れていたし、信号機はもちろんビルも揺れていた。
仕事場はさほど遠くないので歩いて戻り、テレビを視た。
たいへんなことになっていた。
家族の安全は確認できたが、品川にある実家に電話がつながらない。心配なので赤坂から歩くことにした。乃木坂から、西麻布、広尾を通って、中原街道、第二京浜国道と道はわかっている、はずだった。夜の東京の街はこんなにも歩いてみんな帰宅するのかとびっくりするくらい人がいた。
一箇所道を間違えた。外苑西通りから中原街道に出たつもりが山手通りだった。逆行し、さらに道に迷った。およそ1時間のロス。精神状態がやはりまともじゃなかったんだろう。
歩きなれていると思っている道を間違えると精神的にショックが大きい。
安西水丸が大衆食堂めぐりをしたのが2000年から2005年にかけて。このなかの少なくない数の店が閉ざされている。そのことがちょっと哀しい。
3時間歩いて実家にたどり着いた。父はテレビをつけっ放しにしたまま寝ていた。

2011年3月8日火曜日

江藤省三『KEIO革命』


そろそろ野球の季節だ。
東京都の高校野球春季大会も組み合わせが決まり、あとはブロック代表決定戦を待つばかり。昨秋の新人戦で都大会出場を果たせなかった早実、日大鶴ヶ丘、堀越、日大一あたりの強豪校がブロック予選から登場する。仮に日大鶴ヶ丘がブロック予選を突破するとトーナメント3回戦で早々と第一シードの日大三とぶつかる。昨年夏準決勝で対戦し、延長14回の死闘を演じた両校だ。
大学野球では東洋の藤岡、明治の野村、法政の三上、早稲田の土生らが最終学年を迎える。斎藤、大石、福井が卒業し、リーグ戦で勝ち星のある投手がいなくなった早稲田は苦戦を強いられるだろう。六大学は慶應、明治、法政の争いになるのではないだろうか。
江藤省三が監督になってから、俄然慶應野球部は強くなった気がする。
以前ここでも書いたと思う。バッターボックスに向かう選手にひと声かける姿を昨年の春秋のシーズンによく見かけたが、やはりプロ経験者として素晴らしい助言がそこにあると思われる。
この本はどちらかといえば単なる慶應バンザイ的な話と著者の野球人生を振り返ることに終始している。それでいてタイトルは“革命”などとおどろおどろしい。ただその内容云々はともかく、江藤省三が監督をして慶應野球部の黄金時代を築きさえすれば、それが結果として革命になる。
彼の力量を信じて、今年も東京六大学野球を見守りたいと思う。

2011年3月5日土曜日

池内紀『なぜかいい町一泊旅行』


大学時代、カフカの「万里の長城が築かれたとき」という短編を読んだ。
ひとり黙々と読んだわけではなく、一般教養の第二外国語の授業で読んだのである。それも4年生になって。
2年時から何を思ったのか、お茶の水のフランス語学校に通うようになって、大学のドイツ語の授業はすっかりさぼってしまったのである。再履修した3年時の授業はたいして興味が持てないまま、パス。4年になってようやくカフカを読む授業に出会った。これは今でも運がよかったと思っている。
「万里の長城が築かれたとき」というのはぼくが訳したもので(直訳だと「中国の壁が築かれたとき」とかそんな感じだった)、一般には「万里の長城」というタイトルで全集などにはおさめられている。当時訳したノートは不思議と紛失の憂き目にあうことなく、今もわが家の書棚に眠っている。いつか読みかえしてみようかと思っている。
さてそのカフカの翻訳者として、またドイツ文学者として名高い池内紀(白水社から出ているカフカ全集の「万里の長城」は氏の訳である)は旅人としても名手である。ところどころ、道案内が不親切なところがあるにしても、町の見方、視点の置き方がすぐれている。
また、この本では新書という限られたスペースでありながら、行ってみたいと思わせる適切な場所が選ばれていると思う。そのあたりの、読者を旅にいざなうぎりぎりいい町が紹介されているのがなんとも心憎い。
できることなら続編をぜひ期待したいものである。

2011年3月1日火曜日

岩井健太郎『予防接種は「効く」のか?』


マスメディアからソーシャルメディアへ。
広告コミュニケーションの主流が変わりつつある。イメージだけを大量生産、大量消費するマス媒体の広告出稿が後退し、ネット広告が大きく飛躍を遂げそうな予感がしている。
昨日、電通とFacebook社の提携がニュースとして流れた。大手広告会社は時流をいちはやくつかんで、アクションを起こす。原稿を送って、校正して、何日後かに掲載される広告や企画打合せから納品まで何週間も何カ月も要するテレビコマーシャルなど、つくっているうちに時代のほうが変化する。そんな時代も遠くない。
マスからソーシャルへと図式的にものごとを考えると、これからどうなるのか不安になる一方だ。どういう形態のコンテンツが有効なのか、その構築の方法は、などと考えはじめるともうどこからどう手をつけていいのかすらわからなくなる。
マスのコミュニケーションをどうしていくか、ソーシャルのコミュニケーションをどうしていくかというよりは、日々ソーシャルなものの考え方を習慣づけていくことがだいじなんじゃないか。少なくともそれだけはいえるような気がする。ものごとはシンプルに考えたほうがいい。
ワクチンの話などさほど興味もないのだが、ひょんなことから読んでみた。
予防接種がどうのこうの言う以前に、臨床医としての著者の基本フォームがいいと思った。医学は日々進歩しているから、断定的に物事は語れないというスタンス、複数の立場、主張がある場合、それぞれの立ち位置とアングルがあるという冷静なものの見方、好き嫌いではなく、現時点で正しいか正しくないかという大人のものの見方など、たいへん勉強させられた。
日ごろ興味のない分野であっても、こうして学べる点を見出せる良書と出会えるとちょっとうれしい。