明石町の聖路加タワー最上階のお店で会社の新入社員歓迎会が行われた。新型コロナ感染拡大以降ほぼ全員の社員が集まる会食ははじめてである。コロナ以降入社して、いちどもこうした経験のないまま辞めていった社員もいる。
聖路加国際病院のことをたいていの人は「せいろか」と呼んでいる。僕もそのひとり。正しくは「せいるか」である。「せいろか」というと正露丸と語源が同じか近いのかとも思ってしまう。正露丸は昭和24年まで征露丸だった。勝鬨橋が近いからそんなふうに思ってしまうのかもしれない。というようなつまらないことを考えながら、明石町から西銀座まで歩いて地下鉄に乗って帰った。
大学に入っても一般教養で英語の授業を受けなければならず、億劫に思っていた。それでも小説や戯曲を読む授業をたまたま選んで、よかったと思うこともあった。テネシー・ウィリアムスの『ガラスの動物園』やアーサー・ミラーの『セールスマンの死』を読む授業もあった。難解だった。
二年生のとき選んだ英語の授業ではスタインベックの「赤い仔馬」を読んだ。ジョディ少年の物語だ。おそらくはスタインベックの自伝的な小説であろう。今でも西部の果てしない農園と牧場が続く景色と赤い仔馬を引く少年の姿が目に浮かぶ。それまで知らなかった作家、スタイベックを俄然好きになってしまった。
それからスタインベックの作品を積極的に読むようになる。最初に読んだのが『真珠』で民話的な物語。次に読んだのがこの『二十日鼠と人間』である。農場で雇用される男たちを見舞う悲劇とでもいおうか。大作『怒りの葡萄』に通じるテーマを感じる。大作といえば『エデンの東』もよかった。
スタインベックを起点として、ヘミングウェイ、フィッツジェラルド、フォークナーなども読むようになった。大学生の頃、スタインベックに出会わなければ、アメリカ文学の旅に出ることは、おそらくなかったのではないかと思う。
2023年9月30日土曜日
2023年9月26日火曜日
ジャン=ジャック・ルソー『エミール』
以前、通勤していた頃は行き帰りの電車のなかで本を読む習慣があったから、それほど多くはないけれど月に何冊か本を読むことができた。在宅になってからもなるべく本を読む時間を確保しようと思い、午前中であるとか就寝前とか本を読むようにしている。それにしても読書量は減っている。一日仕事に追われて、まったく読めない日だってある(というほど忙しい日はかなり少ないのだが)。歳相応に小さな字が見づらくなってきたせいもある。
今、ロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』を読んでいる。岩波文庫で4冊あるが、僕が読んだ1980年当時は8冊だった。翻訳も古いうえ、昔読んだことなんてこれっぽちもおぼえていないのでなかなか読みすすめない。
昔読んだ本をもういちど読みなおそうと思うようになってずいぶん経つ。夏目漱石や太宰治を読みかえしたりしてきた。そしてどういうわけか『ジャン・クリストフ』が読みたくなった。
というわけで最近新しい本を読んでいないので、このブログも開店休業状態である。まったく書かないというのもよくないと思い、「昔読んだ本」というラベルをつくって、思い出話を添えてみることにする。
ルソーの『エミール』は大学一年の終わり頃に読んでいる。
その昔、子どもは「小さな大人」だった。子どもは人間の発達過程で「子ども」という段階を経て、成長していく。そうした子ども時代を発見したのがルソーだといわれている。ルソーの少し前にイギリスのジョン・ロックという人も『教育論』を著している。ルソーにも多大な影響を与えた本だと思われるが、微妙に子ども観が異なる。
『エミール』はその後何度か読みなおしている。卒論のテーマにルソーを選んだからである。なぜルソーを選んだかというと、ルソーに関する著書や論文は多く、うまいこと継ぎ接ぎすれば卒論なんて簡単に書けてしまえそうに思えたからだ。
そんな姑息な学生時代を思い出させてくれる一冊である。
今、ロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』を読んでいる。岩波文庫で4冊あるが、僕が読んだ1980年当時は8冊だった。翻訳も古いうえ、昔読んだことなんてこれっぽちもおぼえていないのでなかなか読みすすめない。
昔読んだ本をもういちど読みなおそうと思うようになってずいぶん経つ。夏目漱石や太宰治を読みかえしたりしてきた。そしてどういうわけか『ジャン・クリストフ』が読みたくなった。
というわけで最近新しい本を読んでいないので、このブログも開店休業状態である。まったく書かないというのもよくないと思い、「昔読んだ本」というラベルをつくって、思い出話を添えてみることにする。
ルソーの『エミール』は大学一年の終わり頃に読んでいる。
その昔、子どもは「小さな大人」だった。子どもは人間の発達過程で「子ども」という段階を経て、成長していく。そうした子ども時代を発見したのがルソーだといわれている。ルソーの少し前にイギリスのジョン・ロックという人も『教育論』を著している。ルソーにも多大な影響を与えた本だと思われるが、微妙に子ども観が異なる。
『エミール』はその後何度か読みなおしている。卒論のテーマにルソーを選んだからである。なぜルソーを選んだかというと、ルソーに関する著書や論文は多く、うまいこと継ぎ接ぎすれば卒論なんて簡単に書けてしまえそうに思えたからだ。
そんな姑息な学生時代を思い出させてくれる一冊である。
2023年9月8日金曜日
北尾トロ・えのきどいちろう『愛と情熱の山田うどん』
3月のことである。
文化放送大竹まことゴールデンラジオを聴いていた。2時半頃ゲストとして登場したのがコラムニストのえのきどいちろう。この人の本は読んだことがないし、どういう人なのかもよく知らない。番組ではフリーライター北尾トロとの共著であるこの本が紹介された。
えのきども北尾も以前から山田うどんについて熱く語っており、著作もある。この文庫は以前出版された2冊の本を再編集したものだ。
山田うどんは豪族である。決して天下をめざしているわけではなく、地元周辺を中心に出店している。提供するメニューは工場で一括生産し、各店舗に配送される。しかしながら自由度は高く、店ごとで微妙に茹で具合など異なることもあるらしい。都心にも出店していたこともあるが、現在では大きな看板と広い駐車場を持ったロードサイド店に特化している。
残念ながら、僕は山田うどんに行ったことがない。いちばん近い店でも10キロ近く離れている。バス、電車、さらにバスを乗り継いで1時間くらいかかる。都心ではなく、郊外だからついでの用事もほとんどない。エックス(旧ツイッター)では路麺マニアの投稿をよく見る。頻繁に山田うどんに行く人がいて、写真だけはよく見ている。うどん、そば以外にもご飯もののメニューも多い。
一時期、路麺にはまったことがある。秋葉原や入谷、三ノ輪などの立ち食いそばを食べに行ったものである。それでも山田うどんに行きたいとは思わない。クルマのある生活をしていないせいもある。そんな僕が機会があったら行ってみたいなと思うようになった。ふたりの著者に軽く背中を押された感じ。要するにそんな本、山田うどん応援歌的な本だったのだ。
その日、大竹まことのレギュラーパートナー小島慶子はお休みでライターの武田砂鉄が代打パートナーとしてゲストえのきどを迎えた。えのきど、北尾の山田うどん本の編集を担当したのは当時河出書房新社の編集者武田砂鉄だった。
文化放送大竹まことゴールデンラジオを聴いていた。2時半頃ゲストとして登場したのがコラムニストのえのきどいちろう。この人の本は読んだことがないし、どういう人なのかもよく知らない。番組ではフリーライター北尾トロとの共著であるこの本が紹介された。
えのきども北尾も以前から山田うどんについて熱く語っており、著作もある。この文庫は以前出版された2冊の本を再編集したものだ。
山田うどんは豪族である。決して天下をめざしているわけではなく、地元周辺を中心に出店している。提供するメニューは工場で一括生産し、各店舗に配送される。しかしながら自由度は高く、店ごとで微妙に茹で具合など異なることもあるらしい。都心にも出店していたこともあるが、現在では大きな看板と広い駐車場を持ったロードサイド店に特化している。
残念ながら、僕は山田うどんに行ったことがない。いちばん近い店でも10キロ近く離れている。バス、電車、さらにバスを乗り継いで1時間くらいかかる。都心ではなく、郊外だからついでの用事もほとんどない。エックス(旧ツイッター)では路麺マニアの投稿をよく見る。頻繁に山田うどんに行く人がいて、写真だけはよく見ている。うどん、そば以外にもご飯もののメニューも多い。
一時期、路麺にはまったことがある。秋葉原や入谷、三ノ輪などの立ち食いそばを食べに行ったものである。それでも山田うどんに行きたいとは思わない。クルマのある生活をしていないせいもある。そんな僕が機会があったら行ってみたいなと思うようになった。ふたりの著者に軽く背中を押された感じ。要するにそんな本、山田うどん応援歌的な本だったのだ。
その日、大竹まことのレギュラーパートナー小島慶子はお休みでライターの武田砂鉄が代打パートナーとしてゲストえのきどを迎えた。えのきど、北尾の山田うどん本の編集を担当したのは当時河出書房新社の編集者武田砂鉄だった。
登録:
投稿 (Atom)