2015年2月22日日曜日

大岡昇平『少年--ある自伝の試み』


三軒目の床屋は案外すんなり決まった。
実家を出てひとり暮らしをはじめた20代の終わり、住んでいるところからほど近いところに「小泉」という床屋はあった。前を通りかかると休みの日などはたいてい客が待っている。その町には床屋や美容室が多かったにもかかわらずだ。メンズサロンとか近未来的なおしゃれさのかけらもない古びた店がまえも気に入った。腕のよさそうなにおいがする。店主は赤ら顔の職人風の男だった。
小泉は僕がはじめて行った直後に改装されて、今風の洗髪台などが完備されたが、最初に行ったときは店の片隅にある流しまで歩いてシャンプーを落とした。そういう風情の店だった。「お客さんみたいに髪にくせがある人は短くした方がいいんですよ」といっては丹念に時間をかけて刈り込んでくれた。娘さんが修業中だったのか、店の手伝いをしていた。赤ら顔をさらに赤くした父親に、聞こえないような飲みこんだ声で怒鳴られているのを鏡越しに見ていた。
「お嬢さんが跡継いでくれるなんてうらやましいね」などと客に言われようものなら、また顔を赤らめて「こんなもんにまかせるほどもうろくしちゃいませんよ」などという。少しうれしそうでもある。そしてすぐに「チッ!何度言ったらわかるんだ、そこはそうじゃないっていつも言ってるだろ…」と聞こえないような声で娘を怒鳴る。
この本は大岡昇平の自伝『幼年』の続編にあたる。その舞台がほぼ渋谷だったのに対し、『少年』では学校のあった青山や従兄の住んでいた麻布市兵衛町あたりが中心になる。中学生になって行動半径がひろがっている。渋谷青山間で乗る市電も楽しそうに描かれている。
中学生ともなると記憶も鮮明なのではないかと思うが、案外そうでもないようだ。憶え間違いを何度も友人たちに正されている。人の記憶も思い出もはかないものだ。
何年かたって、僕はこの町を去った。それでもしばらくは電車に乗って、「小泉」に通っていた。店主は元気でいるだろうか。

2015年2月21日土曜日

伊藤真訳『現代語訳日本国憲法』

高校生になって髪を短くすることにした。
島倉千代子のように髪を短くして強く小指を噛んだりはしなかったが、部活動を続けるうえで頭髪は短い方が都合がよかったのだ。ところが中学校の3年間、僕は床屋なしの生活をしていたので、さてどこの床屋に行けばいいだろうと考えてしまった。何となく気持ちの上では小学校時代に通った「富士」に行くのも「なんだよ、ずいぶん御無沙汰しやがったじゃねえか」的な冷たい視線を浴びそうでいやだった。かといって新しい床屋を開拓するのもそれなりのエネルギーが必要だ。
結果的にいうとよく行く銭湯の道すがらにある「やひこ」という床屋に通うようになった。きっかけは思い出せない。誰かしらからいい評判を聞いたせいかもしれないし、風呂の行き帰りにのぞいてみた店内に悪い印象を持たなかったせいかもしれない。細面の長身の理容師が感じのいい人だったことは否めない。
僕は癖っ毛でいわゆる天然パーマである。普通の人のスポーツ刈り(今もそう言うのかどうかわからないが、昔は慎太郎刈りとも呼ばれていた)程度の長さでも髪が寝てしまうのであまり短髪のイメージにはならなかった。でも頭髪に癖があるというのは床屋さんに申し訳ない気持ちをいつも持ってしまうものである。そういうわけでいちど決めた床屋には通いつづける。「冨士」から「やひこ」へ。標高は低くなったが、毎度のように肩身を狭くして敷居を跨いだのであった。
憲法論議がさかんである。
護憲派は日本国憲法は世界に誇れる宝物のように言うし、改憲派は日本を安全な国家にする必要性を説く。また日本の憲法がGHQ主導でつくられた傀儡憲法であるという言い方もされる。いずれにせよ、護憲派も改憲派も、あるいは憲法に興味がないという人も日本国憲法の「そもそも」を知る必要があるんじゃないだろうか。
大学を出て、就職し、ひとり暮らしをはじめた20代の終わり頃まで僕は「やひこ」に通いつづけた。

2015年2月18日水曜日

苅谷剛彦『知的複眼思考法』

最初の床屋は「富士」だったと思う。
実家から子どもの足でも2~3分の距離だった。もちろん子どもの頃の記憶だからまったく正確ではない。どのくらい子どもだったかというとおそらく母に連れられて、預けられて髪を刈られて、天花粉(ベビーパウダーとかおしゃれな呼び方ではなかったと思う)を塗りたくられて、帰りにお菓子をもらって帰った。そのくらいの子どもの頃だ。小学生の頃まではそこに通っていた。
中学生になって、床屋に行かなくなった。もちろん学校の規則はあったけれど、他の中学のように刈上げなければいけないとか細かいことは言われなかったせいもある。多少長めでも問題はなかった。ちょっと伸びると少しだけ剃刀で削ぐ程度にした。母の知合いで近所に元美容師がいて、母がその人の自宅でカットしてもらうついでに行って、切ってもらった。以後3年間、そういうわけで床屋には行かなかった。
姉の同級生で美容院の娘がいた。いちどその店でカットしてもらった。姉がカットしてもらうとき、やはりついでのように付いて行ったのだと思う。
短絡的な思考をする者がいる。若いものに多い。僕ももう若くはないが、ものの考え方は短絡的だなと思うことがしばしばある。
この本は「複眼的な思考」を促している。ものごとを一面的に見るのではなく、多面的にとらえる。空間的にも時間的にも。おそらく想定している読者は若い世代、とりわけ大学生あたりか。ああ、こうやって問題をとらえなおして、ひとつひとつ丁寧に解明していけばきちんとした意見になるのだなと読んでみてよくわかる。
ただ、自分が学生時代にこんなに懇切丁寧な本を熟読したかどうかはわからない。何を大人が偉そうに、と思ったかもしれない。何かするのに最適なタイミングというのが人生にはある。しかしながら自分自身でそれを見きわめるのは難しい。
そういえば冨士のお兄さんは三原綱木に似ていた。ジャッキー吉川とブルー・コメッツでギターを弾きながら踊っていた三原綱木に。もちろん当時の記憶だからまったくあてにならない。

2015年2月6日金曜日

吉村昭『事物はじまりの物語』

先日のつづき、塩浜のスタジオ三日めの話。
午後には仕事が片づいた。夕方までかかるかもしれないと思っていたので時間が空いた。その日は寄り道をしなかったので、帰りに道草を食うことにした。
木場から洲崎に向かう。
途中、成瀬巳喜男監督「稲妻」で高峰秀子がわたった新田橋を見る。当時は木橋だったが、今は赤く塗られた鉄の橋だ。空橋ではない。その下を大横川が流れている。
洲崎大門通りをまっすぐ進む。映画「洲崎パラダイス赤信号」で夢の島埋め立てのため砂利運搬トラックが何台も走っていく大きな通りだ。大門通りの突き当りには運河が残されている。橋をわたると住所はやはり塩浜で東京メトロ東西線の検車場があり、その向こうにJR東日本資材センターがある。かつての越中島貨物駅。小名木駅を経て、新小岩駅、金町駅方面に主にレールを供給しているそうだ。
塩浜から運河をひとつ越すと枝川(ここに架かるしおかぜ橋というのがなかなか気持ちいい)、もうひとつ越えると潮見、さらに越えると辰巳ともうどこまでが深川なのかわからない。このあたりは倉庫があって、できたばかりの公園や集合住宅、学校があって匂いとしては品川区の八潮とか大田区の平和島に近い(直線距離も近い)。辰巳は深川のさいはて(辰巳を深川と呼んでいいとすればの話だが)で、その先に今のところ地面はなく、東に新木場、西に東雲がひかえている。東雲といったらもうお台場だ。
吉村昭は作品も見事だけれど、そこにいたるまでの調査がすばらしいといつも思っている。丹念に資料と向き合い、多くの人に会い耳を傾けている。そして新たな発見に出会い、想像力という細い糸で紡いでいく。うらやましい仕事だと思う反面、自分にはとうていできまいというあきらめの気持ちにも包まれる。
ということで洲崎から東京メトロ有楽町線辰巳駅までずいぶんとたくさんの道草を食ってしまった。昼食がサンドイッチと軽かったのでちょうどよかった。

2015年2月5日木曜日

芝木好子『春の散歩』


江東区の塩浜にスタジオがある。
撮影から編集、録音までひととおりの設備をそろえているので使い勝手がよく、ときどき利用する。とはいうものの塩浜という地は交通の便がよくない。そのスタジオは東京メトロ有楽町線豊洲駅、同東西線門前仲町駅、木場駅、JR京葉線越中島駅と4駅利用可なのだが、どこから行っても10分以上歩く。歩くことは今のところ苦にならない。むしろ駅から遠いのをいいことに寄り道したり、帰りに道草を食うことを楽しんでいる感がある。
先日も三日続けてスタジオに入った。昼までに来ればいいということだったので、最初の日は新富町駅で降りて、佃大橋をわたり、佃島から石川島を散策。相生橋をわたって越中島に出た。ここからがいわゆる深川である。かつての東京商船大学(今は東京水産大学と統合して東京海洋大学というらしい)の構内をぶらぶら歩きながら浜園橋をわたればそこは塩浜だ。
翌日も午前中時間が空いたのでこんどは木場駅で降りたあと洲崎をまわった。洲崎という地名はもう残っていない。かつての洲崎遊郭のあった島は四方をほぼ埋め立てられて、東陽一丁目となっている。
洲崎は何年か前にも訪れたことがあるが、その頃まだあった特飲街の名残のような建物はもうなかった。川島雄三監督「洲崎パラダイス赤信号」に出てくる千草という飲み屋のあとを見、洲崎神社(映画では弁天様と呼ばれていた)をまわってスタジオに向かった。
洲崎に行って、以前読んだ芝木好子のエッセーを思い出した。
貝紫の話、四季折々の風景、旅の思い出などが軽妙につづられていた。
おそらく絶版になっているであろうこの文庫本を荻窪の古書店で見つけた。ラッキーだった。この古書店ではときどき芝木好子の文庫が見つかる。
芝木好子は浅草生まれだが、戦後はずっと高円寺に住んでいたという。そんな地の利もあったのかもしれない。
スタジオ三日めは朝早かったので寄り道はしなかった。