2009年11月27日金曜日

井伏鱒二『黒い雨』

早稲田大学野球部の新主将が斎藤祐樹だそうだ。
彼の同期にあれだけ優秀な野手がいるなか、投手を主将にするとははなはだ意外に思った。ぼくの予想では宇高か山田だった。松永は打撃でチームを引っぱる感じじゃないし、原は土生にポジションを奪われそうだし、早実時代の主将後藤も大学野球の主将の器にまでは育っていない気がする。斎藤の世代が入学してからも早稲田が強かったのは、ひとえに田中幸長、松本啓二郎ら先輩たちの力が大きい。この世代は一見強そうだが、ポジションや打順が固まっていなかったり、軸になる選手がいなかったりして、結局自慢の投手陣に負担をかけるかたちで斎藤にお鉢が回ってきたのだろう。上本、細山田、松本みたいなしっかりしたセンターラインが組めていない来年は相当苦戦するのではないかと思っている。
いい選手を育てるのは、いい選手を集めるより難しいということか。

30年以上前、大学を受験するために広島に行った。
3日目の試験を終え、大学のある東千田町から平和記念公園や県庁のある市の中心部を散策した。原爆ドームや市民球場のあたりを歩いて、大手町、八丁堀、京橋町など東京の地名のような町を抜けて広島駅にたどり着いた。途中、紙屋町の本屋で『試験に出る英単語』を買った。来るべき浪人生活にために。
井伏鱒二の『黒い雨』はいわゆる名著のひとつで、学校の推薦図書だったり、夏休みの課題図書としても定評があるが、なにがすごいって、淡々とストーリーが展開し、あたかもドキュメンタリーのような視点で閑間重松家族の終戦を描いているところだ。そこには戦争に対する、原爆に対する表面的な憤りや感情的な高ぶりが見られない。文章の奥のほうにじっとおさえこまれたように静かにくすぶっているのだろうが、あえてそのような描写を避けているかのようだ。怒り高ぶり、先の戦争に思いをめぐらす作業は読者に委ねている。すぐれた作品だと思う。
重松家族とともに千田町から古市までたどり着く間、ささやかながらぼくの広島散策の思い出が役に立った。帰京後受けた別の大学になんとか合格できたので、『出る単』はカバーをかけられたまま動態保存されている。



2009年11月20日金曜日

ジェームス・ジョイス『ダブリナーズ』

明治神宮野球大会が終わると今年も終わりという感じがする。
この大会は学生野球の一年のしめくくりではあるが、高校生にとっては新チーム最初の全国大会ということになる。今年は東海地区代表の大垣日大が関東地区代表の東海大相模を破って、まずは追われる立場に立った。
両校とも激戦地区を勝ち進んできただけにそれなりに力はあるだろうが、まだまだチームが若い。失点に結びつく失策が多い。来春、おそらく選抜大会に出場するだろうが、鍛え上げて勝ち上がってもらいたいものだ。
『ダブリナーズ』はその昔、『ダブリン市民』というタイトルだったが改題されたのだそうだ。
ダブリナーズのほうがなんかかっこいい。
ジョイスというと文学的にすぐれているにもかかわらず、それゆえに大衆的に陽の目を見ない作家のひとりだろう。ぼく自身、なんだかんだ読むのははじめて、である。先日柳瀬尚樹を読まなければ手に取る機会もなかったろう。ひとつひとつの物語がこじんまりとして、ささいな市民の日常であるけれど、そのひとつひとつがずいぶん奥深い感じがする短編集だ。
それにしても今日は寒い。

2009年11月14日土曜日

なかにし礼『不滅の歌謡曲』

ぼくは眼鏡をかけている。
朝、最寄りの駅に行くと、どこかの店員とおぼしき若者がティッシュを配っている。できればもらってください、いらなければ、少しだけ意思表示してください、すぐに引っ込めますから、というすばやい身のこなしで道行く人たちにティッシュを手渡す人たちだ。
このあいだ考えごとをしていて(あるいは何も考えていなかったのか、要は今となっては何も憶えていないのだが)不意打ちをくわされたかのようにティッシュを受け取ってしまった。ふだんはよほど風邪で鼻水がすごいということでもない限り手にはしないのだが。
そのまま地下鉄に乗って、ポケットにしまったティッシュを見たら、駅近くのコンタクトレンズの店のティッシュだった。
なんでぼくなんかにティッシュをくれたんだろう。不思議に思った。ぼくはどこからどう見ても眼鏡の人だし、眼鏡をかけていればコンタクトレンズは必要ない。なんでそんなことがわからないのだろう。阿呆か、あいつは。
そんな話を娘にしたら、だから配ったんだという。コンタクトレンズの人は見た目じゃわからないけど、眼鏡の人は目がよくないってひと目でわかる。そういう人はいつかコンタクトレンズにする可能性がまったくのゼロじゃない。
なるほど、そういうことだったのか。

8~9月、NHK教育テレビで放映していた「知る楽 探求この世界」という番組で取り上げられていたテーマのテキスト。
ぼくの中では、なかにし礼は阿久悠と並ぶ昭和歌謡のヒットメーカーだと思っている。どちらかといえば阿久悠は詩情豊かなスケール感があり、なかにし礼は洋楽的な洗練を持っているというのがぼくの印象だ。
で、この番組は昭和のヒット歌謡を支えてきたひとりの作詩家としての筆者が歌謡曲の歴史を振り返りながら、ヒット曲はなぜ生まれたのか、なぜいま生まれないのかという今日的なテーマと根源的に歌の持つ不思議な力を解き明かそうという試みである。
実をいうと、小さい頃、テレビで視るなかにし礼にぼくはあまりいい印象を持たなかった。怖そうな顔をして、挑発的で、生意気そうで、子どもながらに鼻持ちならないやつだと思っていた、たいへん失礼ではあるが。大人になってその印象はガラッと変わった。高校の先輩であると知ったせいもあるかもしれない。そしてこの番組、そしてこのテキストを通じて、心底リスペクトすべき偉大な才能であることをあらためて確信した。

2009年11月7日土曜日

柳瀬尚紀『日本語は天才である』

今月は月初めが日曜日なので、この土日に卓球の一般開放がない。そのぶん来週の第2土曜と第3日曜と二日続きになる。卓球のない週末はやることがなく、そういうときは読書もあまりすすまない。精神と身体はやはり緊密に結びついているのだろうか。
ただでさえ、仕事でごちゃごちゃしていて、読みすすめない日々が続いているのに。
柳瀬尚紀と聞くとエリカ・ジョングを思い出す。
が、エリカ・ジョングについては何も思い出せない。買うだけ買って読まなかったのかもしれない。
著者は英米文学の名作を数多く世に出した名うての名翻訳家。いままでそんなに意識したことはなかったけれど、翻訳という仕事は外国語に堪能なだけではだめで、日本語を熟知してければならないはずだ。そうした日本語のエキスパートが語る日本語論。
日本語はもともと外国語を受け容れ、ともに育ってきた言語であるせいか、とても柔軟で翻訳に適している。そのことを著者流の言い回しで、「日本語は天才」といっているわけだ。何が素晴らしいって、この言葉に対する謙虚さが素晴らしい。天才なのは、どう見たってジェームス・ジョイスらの翻訳で知られる著者であるのに、そんな素振りをこれっぽっちも見せることなく、日本語賛美に徹するスタンス。翻訳とは語学力だけではなく、諸外国の歴史や風土に通じているということだけでもない。さりとて日本語をたくみに駆使できる能力だけでもない。母語に対する客観的な視線と、謙虚に向き合う姿勢なのだ。