熱海富士という力士がいる。巨体を活かし、左上手を取ると強さを発揮する。勝って花道を引き上げるときはうれしさをかみ殺せないような表情を見せ、負けたときは悔しさを隠しきれない。その微妙な表情が見ていて楽しい。
熱海富士という四股名は元横綱旭富士の先代伊勢ヶ濱親方(現宮城野親方)が付けたという。先代は日馬富士、照ノ富士とふたりの横綱をはじめ多くの幕内力士を育てた。番付表を見ると伊勢ヶ濱部屋の力士のなんと多いことか。
立派な親方ではあるが、僕は思いのほか現役時代を知らない。ほぼ同世代であり、旭富士が横綱になった頃は僕も仕事に追われて相撲を見る機会が激減していた。横綱大関も多くいた。千代の富士、大乃国、北勝海がいて、旭富士は4人目の横綱だった。短命だった。横綱になって一度だけ優勝して引退した。
親方になってからも紆余曲折がありながら大きく見れば順風満帆の部屋経営だった。そのことはこの本を読むとよくわかる。旭富士は青森県木造町の出身。ただでさえ相撲の強い青森の一大中心地で生まれ育ったのだ。地域の至るところに土俵があり、少年たちは相撲を心身にしみ込ませて成長していった。稽古場で基本を重視する姿勢はまるで母語をマスターするように身に付いていたのだろう。
旭富士は近大に進むが、馴染めず中退する。しばらくは漁業に従事する。短い期間ではあったが、社会経験を得る。親方は入門してきた弟子たちが相撲界を去るにあたってその子らの力を活かせる職を探すという。こうしたことも旭富士自身の経験が生きているのではないだろうか。後援会から多くの支援を受ける。支援を受け、土俵で返す。この辺りの考え方も合理的だ。
大怪我で序二段まで落ちた照ノ富士を奮起させたのも旭富士、先代の伊勢ヶ濱だ。怪我と闘いながら少しずつ番付を上げ、ついには大関に返り咲く。そして横綱にまで上り詰める。親方としての「ことば」がドラマをつくったのである。
0 件のコメント:
コメントを投稿