2025年1月30日木曜日

半藤一利『昭和史 1926-1945』

NHKでスペシャルドラマ「坂の上の雲」を再放送している。以前、まとめて三日くらいで見てしまったが、毎週見ていると次回が楽しみでしようがない。ゆっくり見ることで気づくことも多い。
旅順港の閉塞作戦が失敗し、広瀬武夫が戦死する。陸軍が旅順に総攻撃を仕掛ける。が、堅固な要塞はなかなか陥落しない。愚直に総攻撃を繰り返し、屍の山を築く乃木希典を司馬遼太郎はあまり評価していないようだが、それでも攻撃目標を203高地に切換え、激戦の末、旅順を落とす。次回予告を見るかぎり、来週はそんな話であろう。バルチック艦隊も出撃している。日本海海戦ももうすぐだ。
司馬遼太郎の『坂の上の雲』は近代日本の青春ドラマだ。背景にあるのは近代国家を一途にめざす無垢な心。国民は軍備拡大のための増税に堪えるように働き、前を向いた。一人ひとりが近代国家日本の主役となった。
戦後の講和については小村寿太郎が全権大使として交渉にあたった。吉村昭の『ポーツマスの旗』を読んでその艱難辛苦を知った。それでも日本は朝鮮半島と南満州鉄道の権益を得た。小村外交に批判も強かったが、ロシアという大国に勝利したこと自体が国民を力付けた。
近代国家としてしばらく日本は平和であった。時代は昭和になり、青春時代は終わりを告げる。以後、日本は軍部が台頭し、劣化を続ける。昭和のはじめの二十年は劣悪の時代だ。半藤一利によれば軍国日本を支えた主役は陸軍と新聞である。日露戦争の勝利によって多くの国民が日本は列強のひとつと勘違いしはじめた。煽った新聞もよくなかった。そして浅田次郎の小説によってファンになった張作霖(チャンヅオリン)が爆殺される事件が起きるのである。以後、盧溝橋事件、満州事変と暗雲が立ち込める。
続きは是非この本を読んでみてほしい。とにかくわかりやすく昭和が描かれている。戦前戦中戦後を生きた昭和の論客が後世に遺した揺るぎない名著である。

2025年1月25日土曜日

島崎藤村『新生』

2種類の本を読んでいる。今まで読んだことがなかった本と読んだことのある本と。読んでなかった本の方が圧倒的に多い。当然の話だ。最近は昔読んだ本を読みかえすことも増えている。読みかえすと言ってもすっかり忘れてしまっている本の方が多いので再読とは言い難い。新しい本はラジオ番組にゲスト出演した著者の声を聴いて、読んでみようと思うことが多い。
ある程度歳を重ねて、新たに読みたい本もそう多くはない。諦めている本もある。ただ、このくらい読んでおかなくちゃと思う本は少なからずある。去年読んだ大岡昇平『レイテ戦記』もそのうちの一冊だ。振りかえると読んでおけばよかったかなと思う作家も多い。谷崎潤一郎とか瀬戸内寂聴とか、たぶん読むことはないだろうが、マルセル・プルーストとか。他にもいっぱいいるはずだが、思い出せもしない。ほとんど読まなかった川端康成もここ何年かで少し読むようになった。三島由紀夫も学生時代には読んだが、今はさっぱり読まなくなった。
島崎藤村も読まない作家のひとりだったが、やっぱり日本に生まれたからには読んでおくべきかなと思い立ち、何年か前に『破戒』と『夜明け前』を読んだ。前者は被差別部落出身者が追い詰められていく苦悩の物語であり、後者は時代の移り変わりについていけなくなって精神を蝕まれる男の話。いずれもスケールが大きく、インパクトのある作品だ。ちょっとした狂気を感じとることができる。
主要2作品を読んだので島崎藤村はもういいかなと思っていたが、もう一冊読んでみることにした。この本も常軌を逸している。姪と関係を持ち、妊娠させてしまうのである。そして現実から逃避するように渡仏。兄に手紙でその事実を明かしたのは航海の途中の船の上からだった。もう狂気の沙汰としか思えない。しかも主人公は藤村自身であり、ほぼ事実であるというからさらに驚愕するではないか。
島崎藤村、恐るべき小説家だ。

2025年1月19日日曜日

新美南吉『ごんぎつね でんでんむしのかなしみ―新美南吉傑作選―』

昨年、65歳になり、定年退職を迎えた。
振りかえってみると僕たちが生まれ育った時代はプラスチックと半導体の時代だったのではないかと思えてくる。弁当箱もバケツもプラスチックになった。ペットボトルやレジ袋が普及した。今でこそ環境へ配慮しているが、使い捨てることに罪悪感をあまり感じない時代もあった。プラスチックは自然界で完全に分解されるまで長い年月を要する。適切に回収、廃棄されなかったプラスチックは海ごみと化す。
僕が気がついたとき、トランジスタラジオが普及していた。もう少し上の世代の人たちは真空管でラジオを組み立てていた。1970年代になるとトランジスタやダイオード、さらには回路を集積したICが電子回路の主役になった。真空管でラジオやアンプをつくるにはコイルやトランスなど流通量の少ない部品を探さなくてはならくなっていた。
半導体はさらに集積を重ね、コンピュータの心臓部になり、今や人工知能(AI)技術にも欠かせない。クルマも電気や水素で走る時代になったが、制御系統は半導体化されている。自動運転を支えているのはセンサーと半導体だ。たしかに便利な世の中が技術によってもたらされている。だが、果たしてそれでいいのか、人々は何か大切なものを失っているんじゃないだろうか。便利さという快楽に知らず知らず飲み込まれて気が付いていないだけじゃないだろうか。
以前読んだ『ルポ 誰が国語力を殺すのか』に「ごんぎつね」で葬式用の料理をつくる描写を「遺体を煮て殺菌消毒する」と読む小学生が多いことが指摘されていた。そんな話をラジオで聴いて、もういちど読んでみようと気持ちになった。
新美南吉は30年に満たない短い生涯のなかで心あたたまる物語を数多く遺してくれた。「花のき村と盗人たち」「おじいさんのランプ」「和太郎さんと牛」「最後の胡弓弾き」などなど。いずれもプラスチックや半導体がなかった時代のお話である。

2025年1月8日水曜日

村上春樹『パン屋再襲撃』

2025年を迎えた。ぼんやりしているうちにもう1週間が過ぎている。
今年は昭和100年にあたるという。とはいえ、昭和のはじまりは12月25日だったから、昭和元年は短く、すぐに昭和2年になった。昭和64年も短かった。
小学校3年の年、1968年は明治100年だった。記念切手も発行されたはず。おそらくそのせいで憶えているのかもしれない。その年、記念式典をはじめとして明治を振りかえる行事が多く行われたように今年は昭和を振りかえる1年になりそうだ。世の中はずいぶん前から昭和レトロブームになっている。昭和の娯楽、映画やテレビ、歌謡曲に注目が集まり、昭和の建築や風俗などにも関心が高まっているようだ。昭和のほぼ真ん中に生まれた僕は半分くらい昭和を堪能したことになる。
1986年に読んだ短編集を再読する。昭和61年だ。村上春樹の長編小説は何度か読み返してみることが多いけれど、短編集の再読はあまりしない。
内容もほぼ憶えていないから新鮮な気持ちで読むことができた。象の飼育係、妹の婚約者らが「渡辺昇」で家出した猫まで「ワタナベ・ノボル」だ(これは主人公の妻の兄の名前からとったという)。村上春樹はどんだけ渡辺昇が好きなんだろう。四十年近く前に読んだときはさほど気にならなかったのに。
渡辺昇という同姓同名の叔父がいた。母は7人きょうだいで姉が3人、兄がひとり、そして妹と弟がいた。その弟が渡辺昇なのである。2014年に他界している。7人もいたきょうだいも今や母ひとりになってしまった。
最後に収められている「ねじまき鳥と火曜日のおんなたち」は後の長編のためのスケッチなのだろう。村上春樹の場合、長編につながる短編小説が少なからずある。「蛍」と『ノルウェイの森』みたいな。
読み終えて、『ねじまき鳥クロニクル』をもう一度読んでみようかと思った。でもやめておく。寒さが続くなか、あの怖い長編を読むのはちょっとねと思うから。