2018年2月19日月曜日

内田百閒『大貧帳』

なべさんを思い出した。
なべさんは美術デザイナーだった。映画やコマーシャルなどを撮影する際のセットをデザインする仕事である。先輩デザイナーの助手だったけれど低予算の仕事のときは主にキッチンまわりのデザインをひとりですることもあった。
彼のいいところは美術まわりだけでなく、制作の担当する仕事、商品をきれいに並べるとか、後片付けとかも手伝ってくれるところだ。よく働くなべさんは上の人にも下の人にも好かれた。
住んでいるところが僕の実家に近かった。休みの日に駅で待ち合わせて酒を飲みに行くこともあった。スタジオで撮影がはやく終わるとどこかで一杯やって帰りましょうよと声をかけてくれた。まあ、そこまではいいんだが、たいていの場合、なべさんはお金を持っていない。飲んで騒いで、さあ帰ろうとなると今手持ちがない、今度返すから貸してくれという。それでいて(家が近かったせいもあるが)タクシーで帰りましょうよなどという。割り勘の飲み代も払えないのにである。
あるときなべさんにいくらかお金を貸しているという話を当時の同僚に話したところ、俺はもっと貸しているという。先輩はもっと貸していた。総額にするとたいした金額になる。そのとき皆で話したのは貸した金が返ってくるかどうかではなく、なべさんはどうしてそんなにお金を持っていないのかということである。昔何週間かロケ撮影で家を空けているあいだに奥さんが生まれたばかりの子どもを連れてどこかへ行ってしまったことをそのときはじめて知った。きっと養育費だとか慰謝料で首が回らないのかも、なんて話をした。そこらへんはなべさんの人柄だろうと思う。
そうこうするうち、なべさんの上司がやってきて皆にお詫びしてお金を返してくれた。なべさんはよその制作会社の人たちからも借金していて、ついに発覚したのだという。
お金を借りたことはほとんどないが、借りるというのもたいへんなんだろうと思う。

2018年2月17日土曜日

内田百閒『ノラや』

犬を飼うようになって八年ほどになる。
飼っているといっても世話をしているのは家内で、自分で何かするわけではない。家内が家をあけるときに餌をあげたり、糞尿の始末をするくらいだが、いつ頃からか忘れたが休日に散歩に連れていくようになった。申し遅れたが、写真のように二匹いる。義妹の飼っている犬が子どもを産み、雄の二匹をいただいた。兄弟ということになるか。
それまで犬を飼ったことはいちどもなく、どういう生き物かまったく見当がつかなかったが、散歩に行くかと訊くと尻尾を振って(よろこんでいるらしい)玄関の方へ駆けていく。人間のことばがわかるのかと思ったがそうでもなく、最近では椅子から立ち上がってそろそろ散歩に連れて行ってやろうかと思っただけで尻尾を振って駆けていく。どうやらことばがわかるわけではないようである。もしかすると人の心が読めるのかもしれない。そう思うと迂闊なことは考えにくいので緊張を強いられる。
家内が言うにはいつも餌をやる時間になるとそろそろではないかと催促するようなしぐさをするという。娘を叱っているときなどはそっとハウスに戻って隠れるようにしている。
当然のことながら猫を飼ったことはないし、飼おうと思ったこともない。飼い主に話を聞くと猫もかしこいらしい。犬よりも断然かしこくてかわいいみたいなことを言うがそれは猫好きな人だからだろう。
百閒先生はどうやら犬は嫌いだったようだ。巻末平山三郎の解説に吉田茂との対談の様子が描かれているが、その中で犬はほえたり噛みついたり人間を敵視するという。犬好きには犬好きの、猫好きには猫好きのそれぞれの理屈があるのだろうから、ここでそんな議論はしない。
この本は猫が好きな人にはたまらないくらいかなしいお話だけれど、別に猫をかわいがる人じゃなくてもかなしい気持ちになる。自分が飼っている犬がある日どこかへ行ってしまったらと思うと泣けて泣けて仕方ない。

2018年2月14日水曜日

四方田犬彦編著『1968[1]文化』

1968年は今から50年前ということになる。
人類がはじめて100メートルを9秒台で走った年であり、誰ひとりとして月に降り立つ者もいなかった時代だ。ずいぶん昔のことのようにも思えるが、ついこのあいだという気もする。
今と同じように日本は平和だったが、よく考えてみると太平洋戦争の終結から20年ちょっとしか経っていない。フィリピンのジャングルには日本兵が生きていたし、まだまだ戦争の熱が冷めきっていない時代だった(それなのに冷戦の時代と言われていた)。
アメリカの若者はベトナム戦争に送り出されていた。ピーター・ポール&マリーは花をさがしていた(ヒットしたのはその数年前だけれど)。日本の若者たちは学生運動に勤しんでいた。あらゆる大学で闘争をくりかえしていた。阪神タイガースのジーン・バッキー投手と読売ジャイアンツのコーチ荒川博が甲子園球場で殴り合いを演じていた。
時代は熱かった。
60年代は否定の時代、70年代以降は肯定(否定性の否定)の時代と言われている。68年はありとあらゆる場所で反対運動が繰り広げられていた。安保闘争終結後、体制や既成概念を覆そうとするエネルギーに支えられた熱い季節が終わる。若者たちは岡林信康を歌わなくなり、結婚しようとか貧しい下宿屋からお風呂屋さんに行ったよねみたいな歌が流行りはじめる。さらに数年経って、村上春樹がデビューする。そう考えると60年代と70年代は20世紀と21世紀以上に世界が変わる。
1968〜72年。めまぐるしい変化の時代に数多くの才能があらわれては消えていった。あるいはその季節だからこそ開いた花もあったろう。忘れ去られていくものを書物というカタチで記憶にとどめる作業。それがこの本のテーマだ。
その頃、僕は小学校の高学年から中学生になりかけていた。うっすらとした記憶だけが残っている。大人になってふりかえってみるとものすごい時代に小学生をやっていたんだなと思う。

2018年2月13日火曜日

半藤一利『昭和と日本人 失敗の本質』

仕事場が平河町にあったころ、紀尾井町あたりで半藤一利さんを何度か見かけたことがある。
このブログでは面倒くさいので敬称を略しているのだが、なんどかお見かけしているのでどうも略しにくい。半藤さんと呼ぶことにする。
お昼に紀尾井町の交差点にあるつけ麺屋か蕎麦屋に行く道すがらであったと思う。仕事場を移ってしばらくつけ麺を食べていない。
もちろん通りすがりに見かけただけであり、相手は芸能人でもプロ野球選手でもないから、まわりががやがやすることもない。たまたま僕がテレビや雑誌で氏のお顔を拝見したことがあるからわかるまでで、挨拶するわけでもなく、ましてやサインを求めることもない。
長いこと週刊文春や月刊文藝春秋の編集長だったという。その関係もあって、紀尾井町あたりに出没するのだろう。文藝春秋といえば松井清人さんも編集長だった。松井さんは実家の近所の大きな家具屋のご長男で、地元のお祭りなどでときどきいらしている。もし麹町あたりでばったり会ったなら「松井さんには母がいつもたいへんお世話になっていて…」くらいの挨拶はしなければならないだろう。鈴木某という高校の同期生も文藝春秋の編集長だったらしいが、ずっと接点がなかったので以前名前を聞いたけれど忘れた。
半藤さんが歴史、とりわけ昭和史に造詣が深いことは知っている。数多くの著書を上梓されている。残念ながらこれまで読む機会に恵まれなかった(唯一読んだのは大相撲の本だった)。ネット書店でこの本を見かけ、紀尾井町を歩いていた氏を思い出して読んでみることにした。さまざまなパーツを買い集め、削ったり、接着したり、色をつけたりして昭和のジオラマをつくっている人のように思えた。あの人の中にはこんなにたくさんの史実が詰まっているのだなと思うともういちど麹町界隈でお目にかかりたいものである。
そのときにちゃんとお声がけできるようもっと昭和史を勉強しておきたいと思う。