2024年3月27日水曜日

島田雅彦『散歩哲学──よく歩き、よく考える』

大相撲春場所は昔から「荒れる春場所」として知られている。古くは若浪が平幕優勝した(古すぎるだろう)。冬から春へ、季節の変わり目でもあるこの場所はコンディションづくりが難しいという。
今場所は横綱照ノ富士が不調、先場所綱取りに失敗した霧島も初日から連敗。4人の大関が揃って勝つ日がなかった。そんななか、新入幕で幕尻の尊富士が11連勝。先場所新入幕で優勝争いに絡んだ大の里と大関琴ノ若、豊昇龍が追う展開。新入幕の力士が優勝したのは1914年に遡るという。
14日目、大関経験者朝乃山戦で尊富士は右足を痛める。花道を車椅子で引きあげ、救急車で病院に運ばれた。思いがけないアクシデント。千秋楽の出場が危ぶまれた。本人も相当悩んだ末に土俵に上がる(この辺りはテレビ解説していた伊勢ヶ濱親方が伝える)。今場所好調の豪ノ山を押し倒して見事初優勝を飾った。
辛口解説でお馴染みの伊勢ヶ濱は大の里が敗れたあと、圧力の強さだけでなく、まわしをしっかり取って、自分の型をつくらないとこれから上位に通用しなくなると苦言を呈していた。僕には尊富士をはじめ、自らの弟子たちに立ちはだかるこの大物に送ったよきアドバイスに思えた。
先週だったか、昼間ラジオを聴いていたら、ゲストが島田雅彦で近著のことを話していた。
島田雅彦は学生時代に小説家としてデビューし、その作品は話題になった。残念ながら読んではいない。その後も芥川賞の候補となるような話題作を世に出したらしいがまったく読むことなく40年以上経つ。というわけで島田雅彦は僕にとってはじめましてであり、たとえば十条の斎藤酒場で偶然隣り合わせて、散歩について哲学的な考察を教えていただいた人というわけだ。
これまで下町を中心に町歩きの本は読んでいたけれど、この本は歩くことそのものがテーマになっている。東京や地方に加えて、ヴェネチアなども散策している。
なかなか大きな散歩論であった。

2024年3月23日土曜日

今尾恵介『消えた駅名 駅名改称の裏に隠された謎と秘密』

いちど付けられた駅名がそんなにころころと変えられるなんてこの本を読むまで知らなかった。生まれ育った地域にも消えた駅名があった。東急大井町線の戸越(現下神明)と蛇窪(現戸越公園)である(本書でも取り上げられている)。僕が生まれるずっと前のことだ。
最近の例だと東武スカイツリーライン(旧伊勢崎線)の業平橋だろうか。東京スカイツリー開業とともに「とうきょうスカイツリー」と改称された。古くは同線の玉ノ井が東向島に変わったが、リアルには知らない。地図と歴史を辿っていけば改称された駅はたくさんある。地図と地名の人、今尾恵介だからできた一冊だ。
なぜ駅が改称されたか。市区町村の合併によってとか、付近の施設がなくなった、あるいは新たな施設が生まれたなど理由はさまざまである。観光地やニュータウンの入口として乗客や住民を誘致するための改称もある。同一鉄道会社の路線で同じ駅名は付けられない(A駅からA駅への切符は混乱を来すからだ)。同じ駅名を避けて、武蔵Aとしていた駅がそもそものA駅が改称されたことで武蔵AからAに改称されたという例も多い。
駅は大人の事情によって名前を新しくしていった。その事情が読んでいて楽しい。駅は世につれ、といったところか。
最近は合成駅名とでもいうのか、ふたつの地名を併記する駅が増えている。JR埼京線の浮間舟渡、東京メトロ銀座線の溜池山王、都営地下鉄大江戸線の落合南長崎など。たしかに駅を堺に隣接するふたつの町がある場合、駅名をひとつにするのは今の世の中では難しい。だったら両方を付けてしまおうという考えは大人の事情対応として有効だ。昔は考えられなかった気遣いである。荻窪駅だって今新設されたならば荻窪天沼駅となったに違いない。
僕はこうした合成駅名を民主主義的駅名と呼んでいる。新しい駅名だけを見ると日本の民主主義は進展してきた。本来的な意味でいう民主主義は果たしてどうなんだろう。

2024年3月11日月曜日

北浦寛之『東京タワーとテレビ草創期の物語 ――映画黄金期に現れた伝説的ドラマ』

1953(昭和28)年にテレビ放送がはじまったが、草創期の映像は残されていない。コンテンツのほとんどが生放送だったからだ。録画して保存するなんて誰ひとりとして思いつかなかったのだろう。
CMはフリップを映すだけであり、海外から提供されたドラマや映画も流された。日本最古のテレビコマーシャルは精工舎の時報CMと言われているが、これも諸説あり、現存する最古のCMということらしい。他にも一番最初のCMはこれだという見解もあるようだが、如何せん実物が残っていないのである。
当時、NHKも日本テレビも独自の電波塔を持っていた。開局申請が増え、東京のテレビ局が共同で使える電波塔が企画された。東京タワーだ。主導したのは産経新聞の前田久吉。かくして1958(昭和33)年、東京タワーは完成した。
この本は東京タワー完成時に放映されたドラマにフォーカスしている。現在のTBSが制作した「マンモスタワー」である。近い将来斜陽産業となるであろう映画と今は未知数だがいずれ大きなメディアになるであろうテレビの世界。来たるべき映像産業の対立を描いている。当時、映画の観客動員数はピークを迎えていた。旧態依然とした映画会社の経営者たちはテレビ恐るるに足らずと豪語していた。ひとりの映画製作者が主人公。映画製作はもっと合理的にしなければならないと主張する。その役が誰もが認める映画スター森雅之だ。ちょっと興味を唆られる。
このドラマは完全な生放送ではなく、当時希少だったVTRも駆使されている。風景などは事前に収録されていたらしい。そんなこともあってか実はこのドラマは保存されている。全てではないかもしれないが、今でも横浜関内の放送ライブラリーという施設で視聴可能だ。放送ライブラリーはずいぶん前に訪ね、昔のCMやニュース、ドラマなどを視た記憶がある。
行ってみようかな、横浜まで。帰りに野毛で餃子とサンマーメンを食べたいし。

2024年3月3日日曜日

今尾恵介『ふらり珍地名の旅』

僕が生まれ育った町は品川区二葉である。若草の二葉が生い茂る地域であった。北隣にあるのは豊町。農業に適した肥沃な大地だった。というのは冗談で地名のいわれはない。
このあたりは荏原郡蛇窪村と呼ばれていた。蛇が多く生息する谷間の湿地帯だったのかもしれないし、近くを流れる立会川が護岸工事される以前は蛇行を繰り返し、蛇のようだったのかもしれない。
蛇窪村はその後、上蛇窪、下蛇窪となり、昭和7年、東京市荏原区に編入されるにあたり、上神明町、下神明町と改称される。商業地域や住宅地の開発を見据えて、蛇窪はないだろうと誰か言ったと思われる。さらに昭和16年、上下神明町を南北に分け、北側を豊町、南側を二葉町とした(二葉町は後に二葉となる)。こうして地名がいわれ(歴史や地形的な特徴、言い伝え)を持たない町が生まれた。自由が丘や光が丘のように。
蛇窪の南側にも小さな集落が多くあった。大井伊藤町、大井金子町、大井出石町、大井原町、大井山中町などなど。今は大井、西大井とひと括りにされているが、そのいくつかは小学校の名にとどめている。
今尾恵介の本はこれまで何冊か読んでいる。地名や駅名に関するものだ。いずれも興味深く読了した記憶がある。今尾恵介は地名会のさかなクンだ。勉強したいことを見つけられることはだいじだと思う。教科としての国語算数理科社会ではなく、学びたいものを自分で見つけること。ふりかえって自分の人生のなかで夢中になれるものはあまりなかった。あっても持続しないことばかりだった。いまさら嘆いても仕方ないのであるが。
珍地名といってもどこからが珍なのかは主観的なところだ。この本で知っていた珍地名は東京都江東区海辺と同じく目黒区油面。個人的には足立区の地名に興味がある。六月とか島根とか宮城とか。
実家の近くに東急大井町線の下神明、戸越公園という駅がある。昭和10年まで下神明駅は戸越駅、戸越公園駅は蛇窪駅だった。