2022年2月13日日曜日

松本清張『影の車』

床屋で店主と会話を楽しむ人をよく見かける。自分はそういうタイプではない。全体的に短くとか横も刈り上げてとか伝えたあとはほとんど目を瞑って、ときどき眠ってしまう。今の床屋は2~3年ほど通っているだろうか。おそらく自分より年下の床屋ははじめてだ。それまで通っていた近所の床屋が突然店じまいして路頭に迷っていた。ある週末、今通っている床屋の前を通りかかるとけっこう繁盛しているように見える。試しに入ってみた。以来通うようになった。若い店主夫婦とその母親(たぶん夫の母だ)の3人で切り盛りしていた。
ずいぶん混んでいる日があった。週末はたいてい複数の客が待っていたりする。ようやく番がまわってくる。いつものようにおおまかに曖昧に指示をして、目を瞑っていた。散髪が終わって、シャンプーと髭剃り。これは奥さんか母親が担当する。その間に店主は次の客の散髪にかかる。髭を剃っていたときだろうか、隣の客と店主の会話が聞こえる。どうやら店主の趣味はサーフィンであることがわかる。
「最近はもっぱら千葉ですよ」
「クルマで行くの?混むでしょ」
「土日じゃないからそうでもないですよ」
「やっぱり九十九里とか?」
「千倉です」
そうかこの店主は休日になると南房総の千倉までサーフィンをしに出かけるのか。ちょっと脳に刺激が与えられた。
先日、野村芳太郎監督の「影の車」という古い映画を観ていて、同じような感覚を味わった。主人公の浜島と小磯泰子は都心ベッドタウンの路線バスで再会する。以前ふたりの親交があったのは千葉県の千倉町であるということがそのセリフからわかる。そのときと同じ刺激を床屋で受けた。
松本清張の『影の車』は連作短編集。映画化されたのはそのなかの「潜在光景」と題される第一編である。その光景は映画でいうと千倉町の瀬戸という海岸だ。
こんど床屋に行った折には店主に話しかけてみよう。「千倉のどの辺ですか、よく行かれるのは?」と。

2022年2月9日水曜日

小林多喜二『蟹工船・党生活者』

電子ブックリーダーは長らくソニー製を使っていた。ページ送りのボタンが付いていて、ディスプレイをスワイプしなくてもいいところが気に入ったのである。たとえば防水バッグに入れて風呂で本を読むときに、これなら確実に操作できる(実際にお風呂で読んだのは数えるほどしかかなったが)。暗いところで画面を照らすLEDライトもオプション装備を付けているみたいでよかった。
かれこれ8年くらい使ってきたが、新機種はもう発売されず、だんだんと不便になってきた。ブックリーダーから書籍を購入するサイトにつなげなくなったり、別のデバイスで購入した本をダウンロードできなくなったり。液晶画面にシミのような黒ずみができたり。
というわけでKindleに変えた。ソニーのリーダーには吉村昭や司馬遼太郎、山本周五郎など読み返したい本が多く格納されている。まあ、読みたくなったら電源を入れることにしよう。
Kindleを購入して簡単な設定を終える。以前に購入した書籍があるようで小林多喜二のこの本はすでにライブラリに入っていた。せっかくなので読んでみた。
言論や行動の自由が今よりもっとなかった時代を知らない。本当にそんな時代があったのだろうか、信じられない、というよりイメージできないときもある。今は今で、自由がある。自由ではあるけれども、新しい考え方が次々に生まれてきて、逆に窮屈な時代になってきていると思う昭和平成世代も多くいると思われる。
さてKindleの端末(一世代前の第10世代)とソニーの電子ブックリーダーを比較すると、薄さ軽さでソニー製に分がある。8年使ってきたこともあって、やはり手になじんでいるのだろう。持った感じの厚みや重さ(仕様を見ると10グラムしか違わないのだが)が異なる。オプション的な機能(辞書機能など)にも少し違いがあるが、今のところ不便を感じていない。
まあ、そのうち慣れていくだろうとは思っているが。

2022年2月6日日曜日

島崎藤村『破戒』

新型コロナの新たな変異株であるオミクロン株が猛威をふるっている。
先週東京都では2万人を超える新規感染者を確認する日が複数あった。全国レベルでも過去最多が頻繁に更新されいる。オミクロン株は発症がはやいであるとか比較的軽症で済むなどいろいろ言われている。情報が飛びかってはいるが、本当のところはよくわからない。第5波と呼ばれていた昨年夏から秋にかけてのピークもどうして収束していったのかきちんとした説明を聞いたことがない。
以前にも書いたかもしれない。中学高校時代にほとんと本を読まなかった。今にして思えば、多感なこの時期に(今でも歳なりに多感なつもりではいるけれど)読書体験がなかったことはおそらくその後の人間形成に支障をきたしているのではないかと思うのだが、今のところ自覚症状はない。
島崎藤村がいつの時代の人なのか、作品はどんな傾向なのか。ほぼ知らない。『夜明け前』とを書いたことは知っている。内容は知らない。もう一冊、題名だけ知っている。それが『破戒』だ。著者名と作品名を結びつけて記憶しているだけだ。
士農工商穢多非人という言葉を知ったのは中学か高校の歴史の授業だったと思う。よくわからなかった。具体的にイメージができなかったのである。あるいはそういった可視化されない世界に対して臆病だったのかもしれない。イメージする勇気がなかったのかもしれない。
それにしてもよくできた小説である。
主人公丑松の先輩教師に風間敬之進がいる。士族の出である敬之進は丑松と気心が合う。穢多の丑松、旧士族でありながら没落の道をたどる敬之進。そして旧態依然たる教育界を牛耳る校長、郡視学、町議、そして代議士候補。丑松を敬愛する生徒省吾は敬之進の息子でその姉志保に丑松は心を寄せる。そして親友土屋銀之助。すべてのキャストが機能している素晴らしい作品である。希望の明かりを最後に灯す。
これまで読むことのなかった自分が恥ずかしい。

2022年2月4日金曜日

木下浩一『テレビから学んだ時代』

テレビはあまり視ないけれど、NHKやNHKBSで報道番組や映画、音楽などを視る。民間放送の番組ではテレビ朝日を視ることが比較的多い。路線バスで都内近郊をめぐる番組や刑事もののドラマ。以前必ず視ていた日曜日午後のクイズ番組がなくなってしまった。残念である。
テレビ朝日はその昔、NETと呼ばれていた。正式には日本教育テレビ。アナログの時代は10チャンネルだった。
教育テレビと名が付くものの、あまりNETの番組を視聴して勉強した記憶がない。「狼少年ケン」や「魔法使いサリー」などのアニメーションや「アップ・ダウン・クイズ」(のちにTBS系列になった)などのクイズ番組を記憶している。不思議な番組もあった。ヘリコプターでひたすら空撮するだけの短い番組「東京の空の下」や朝、国鉄の指定券などの販売状況を知らせる「みどりの窓口」など。
テレビがはじまったばかりの頃、テレビ局には一般局と商業教育局というふたつの免許が交付された(準教育局という区分もあったという)。教育局は放映する番組のうち、教育番組、教養番組を一定割合以上流さなければならなかったらしい。「教育」53%以上、「教養」30%以上といった具合に。教育に関しては必ずしも当初のねらいのように学校教育を主にする必要はなく、そもそも学習指導要領に準拠した教育番組が高い視聴率をとって、営業的に成果を上げられるか疑問視されていたこともあり、徐々に社会教育に立ち位置を変えていく。生徒児童ではなく、大人一般を対象にしたのだ。そうした流れのなかで、朝昼夜のワイドショーが生まれ、クイズ番組が量産された。
著者は朝日放送でテレビ番組制作にたずさわった後、メディア史、歴史社会学、ジャーナリズム論を専攻する大学講師である。ベースになっているのは京都大学大学院時代の博士論文というから、本格的な論考といえる。なつかしさだけではない、時代を見つめる視線を感じた。

2022年2月2日水曜日

太宰治『斜陽』

若い頃は寒さなんてへっちゃらだったのに、歳を重ねたせいか、冬の寒さにはめっぽう弱くなった。ましてや今年の冬は寒い。偏西風が西から東に吹いてくれればいいのに今年は蛇行しているので大陸から寒気が日本列島を包みこむように南下してくると気象予報士が解説していた。ただでさえ日々老化(あるいは劣化といっていいかもしれない)しているのに、こう毎日毎日寒くちゃたまったものではない(夏の暑さもだ)。
朝、目がさめる。何時かはその日によって異なる。だいたい6時とか7時とか。目がさめて暗いときもある。時計を見ると5時過ぎだったりする。目がさめて最初に思うのはトイレに行く必要があるかないかである。大丈夫と思えば、二度寝するし、必要ならトイレに行く。トイレに行くにはパジャマのままでは寒いから、ライトダウンを着るなどそれなりの準備が要る。用を済ませたら、洗面所で口をゆすぐ。そして二度寝態勢を整える。すぐに寝入ってしまうこともあるが、たいがいはいちど起きてしまうとなかなか難しい。こういうことが年寄りの特徴なのかもしれない。ラジオを聴いたり、読みかけの本を開いたりもする(厳密にいうと電子ブックリーダーなので電源をオンにする)。それでもなかなか深い眠りは訪れない。たまに10時近くまで寝入ってしまうこともあるが。
角田光代の読書案内的な本を以前読んだ。
角田は『斜陽』を十代の頃読んだそうだが、まったく感情移入できなかった、みたいなことを書いていた。歳を重ねて読みなおしてみてようやく理解できた、みたいなことも書いていた。
40年ぶりに読んでみた。世にいう名作だからといって、誰もが読むべき本なんて、ほんのわずかしかないんじゃないかな。太宰治で読むなら『津軽』と決めている。もう何度も読んで何度も泣いている。歳を重ねて読みなおしてみたい作品もあるだろうが、今の僕は没年の太宰より半世紀近く年上になってしまった。