2013年10月11日金曜日

高橋輝次編著『誤植読本』


十数年ぶりに四谷の焼鳥屋に行った。
十数年前、高校時代の親友とそのカウンター席に座った、そしてとりとめのない話をした焼鳥屋だ。そのときでさえ十数年ぶりに会ったわけだから、気が利かない幹事が仕切るクラス会のようなものだ。
高校時代のクラブ活動の先輩や同期、後輩とは毎年顔を合わせている。親しい先輩とは新年会だの忘年会だの年に何度か会っている。奥歯の付け根あたりが痛み出すと毎週のように会いに行く先輩もいる。ところが部活以外となると自慢じゃないが友だちと呼べるような人がからっきしいなくなる。せいぜい同じ広告の仕事をしているとかじゃない限り、部活でいっしょだった同期以外に会うことはまずない。そういった意味では四谷の焼鳥屋のカウンターというのは貴重な存在だ。
最近ではFacebookでおたがい近況はなんとなくわかる。
俺はあいかわらず酔っぱらっていて、神宮で野球を観て、カメラをぶらさげて町歩きしている。やつは合気道だか、空手だかをやっていて(実は正確なところは知らなかったりするのだが)、休みの日には落語ばかり聞いて、野球は阪神戦しか観ない。
と、この程度のことはわかるので何も直に会って、皮だの、ねぎまだの、つくねだのをかじりながら酒を飲むこともないのである。
いつだったか本屋でこの本を見かけた。『誤植読本』、おもしろそうじゃないか。
中身は見なかった。立ち読みする時間がなかったのだ。なんとなくではあるが、こういうことはあいつが詳しいんじゃないかと思って、焼鳥屋で十数年に一度会う友にFacebookで訊いてみた、「この本、おもしろいか?」と。
誤植は奥が深い。それは四谷の焼鳥屋のカウンターで頬張る炭火の焼鳥にも似た深さがある。
こうしてとりとめのない夜はとりとめもなく更けていくのであった。

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